橋下徹氏は、1994年3月に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業した。私はその2年後の1996年4 月、早大に着任した。この年から、橋下氏も勉強したであろう10号館109教室で、400人近い政経学部の学生たちに、一般教育の「法学A/B」を講義している。在外研究(1999年3月~2000年3月)の1年間を除き、15年間担当したことになる。講義後、議論を吹っ掛けてくる元気な学生もいて、なかなか楽しい(最近はおとなしくなったが)。教養の法学のため、私の専門の憲法だけでなく、「法と道徳」「法の解釈」という法学概論の基本問題から、「犯罪と刑罰」「消費者の権利」といった問題まで取り上げている。
毎回、この講義の冒頭10分間は、その週に起きた「法的な事件」を、新聞を使って解説している。学生には必ず新聞を読み、「私ならこの事件」というものを1つ持参するように指示している。そのなかで教育基本条例をはじめ、橋下氏が打ち出す施策についても何度か紹介し、憲法あるいは関連法律に照らしてその問題点を指摘してきた。そうした立場からすると、2月9日に出された「労使関係に関する職員のアンケート調査について(依頼)」(総務人第439-1号・平成24年2月9日)には仰天せざるを得なかった。PDFファイルで全文をリンクするのでお読みいただきたい。
市長自署入りの「アンケート調査について」という前文を見ると、「紙での回答は受け付けません」として「庁内ポータル」の利用を求めている。これで誰が回答していないか、一目瞭然となる。しかも、「このアンケート調査は、任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。正確な回答がなされない場合には処分の対象になりえます」とまで書いている。処分まで振りかざし、強制力をもって回答を求めていることからも、これは「アンケート」という名称にそぐわない。
調査内容は22項目ある。例えば、Q6は「組合活動に参加したことがありますか」として、活動内容、誘った人、誘われた場所・時間帯まで詳細に聞いている。これでは組合員が組合にとどまることに恐怖を覚え、組合脱退を促進することにつながる可能性もある。組合活動に対する間接的介入であり、不当労働行為となるおそれがある(労働組合法7条)。処分付きの業務命令で、組合活動への参加に圧力をかけるとすれば、憲法28条の団結権そのものが危うくなる。
地方公務員の政治的行為については地方公務員法36条による制限があり、憲法学上の周知の議論がある。政治活動の自由が公務員について制約されるとしても、幹部職と下級職とは同じ規制ではない。後者について、過度の規制は違憲の疑いが指摘されてきた。この「アンケート」には、政治活動を行う可能性のある人を炙りだそうとする姿勢が見え隠れしている。
Q7は「特定の政治家を応援する活動(求めに応じて、知り合いの住所等を知らせたり、街頭演説を聞いたりする活動も含む)に参加したことがありますか」というもの。明らかに政治活動の中身に踏み込んで聞いており、しかも処分付きの業務命令で聞くのは、明らかに憲法19条の思想・良心の自由の侵害となる。ここでも活動内容や誘った人の明記が求められているので、政治活動全般に対する強い萎縮効果を生ぜしめるだろう。
Q8「職場の関係者から、特定の政治家に投票するように要請されたことはありますか」。Q9は「紹介カード」(特定の選挙候補者陣営への提供を目的として、知人・親戚などの情報を提供するためのカード)について、配布した人や場所などを詳細に聞いている。そして、「Q6、7、8、9について無記名での情報提供をいただける方に関しましては、以下の通報窓口にお願いいたします」として、野村修也弁護士の事務所の電話・ファックス・メールアドレスが指示されている。これは、職場のなかに密告を奨励し、疑心暗鬼を生む最悪の手法と言えよう。
そもそも、Q12「職場において選挙のことが話題になったことがありますか」と、職場における一般的な会話まで、処分付きの業務命令で回答させる感覚を疑う。
私は、「紹介カード」など、特定の候補者を支持して行う活動全般について問題がないと言っているわけではない。むしろそういった行為には、憲法的見地から批判的な考えをもっている。しかし、これも同じ憲法的見地から、橋下市長のように、それを力でねじ伏せようというやり方は認められない。
橋下氏はいま、一個人としてではなく、強大な人事権、許認可権等をもつ政令指定都市の市長として存在しているのである。彼は、いま、大阪市職員の思想・信条の自由に踏み込むという、乗り越えてはならない一線を超えてしまった。橋下氏は弁護士でもある。弁護士法1条には、「弁護士は、基本的人権を擁護…することを使命とする」とあるが、橋下氏にこの条文への自覚はないのだろうか。
ごく普通に憲法や法律を学んだ学生からすれば、橋下氏の主張をそのまま肯定するのは困難だろう。学生たちにとって、これは「突っ込み所満載」の凄まじい「教材」である。
春休み中なので、直接講義で触れる機会がないため、学生たちにはメールで意見を聞いてみた。まったくの自由参加で、任意ということでお願いした。
この問題に限らず、橋下氏の言動に対するメディアの批判は驚くほどに鈍いので、学生たちには、メディアでなく、自分の頭だけを使い、このアンケートの問題点を検討するように言った。すぐに何通かのメールが戻ってきた。
下記は、橋下氏が卒業してから16年後に入学した、2年の女子学生の意見である。私は、2月17日午後5時10分にメールを送ったが、18日午前1時48分に彼女からの返信が届いた。夕方、私のメールを読んで、すぐに家族と議論。深夜にこのメールを書いたものと思われる。下記の一文は短時間でまとめたもので、内容的に未熟さが残るものの、素直な気持ちで「橋下アンケート」に対する問題点を指摘しているので、紹介しておきたい。
大阪市のアンケートについての意見
はじめに、アンケートの趣旨等の書かれた文書から、もう違和感を持たざるを得ませんでした。このアンケート作成者は、市の職員の政治活動・組合活動を全般的かつ広範に、そして自己の中で前提的に「違法・不適切」なものとしていることは明らかです。
まず、市の職員の組合活動についての私のおおまかな考えを述べさせていただきますと、私は「団結権」に関しては異論なく認められるものと思っております。そもそも、難しいことを考える以前に、団結権を認めないことができるのか、と思えてしまうほど、団結権は憲法が保障する国民の当然の権利であると思います。なぜならば、団結している段階では、他者に迷惑をかけるものではないからです。他者にも迷惑をかけない個人の思想・交友関係を規制する根拠など一体どこにあるでしょうか。確かに、単なる友情などの交友関係ではなく、組合的な団結権を認めることは、その後に団体行動などが行われる可能性はあります。しかし、そのような「可能性」なる曖昧なものによって「予防的」に規制するなど絶対に行ってはならないと思います。予防的な規制を許してしまうことの恐ろしさは、歴史が物語っています。とにもかくにも、団結権が誰にでも(もちろん公務員にも)認められていることは、自明なものであるといえると思います。また、団体交渉権についても、団結権の当然の結果として認められるべきと思いますが、団体行動権(ストライキ権)については、公務員の場合、ある程度の制約はやむを得ないと思います。でも、団結権すら否定するような状況が生まれているため、ここでは論ずる段階ではないと思うので、今回は述べません。次に公務員の個人的政治活動について。私個人の意見としてはなるべく認められるべきだと思いますが、組織的に投票や支持が行われることは、良いこととは思えません。あくまで政治活動や政治活動への支援は自主性に基づいて、個々人によって行われるべきものと考えるからです。しかし、確かに組織的な政治扇動のようなものには違和感を持ちますが、それは公務員だけでなく、民間の会社員等にも言えることであって、公務員だけが特別に規制されるべき内容のものではないと思います。したがって、組織的政治活動の強制への規制ならまだしも、公務員の個人の政治的活動に関しては、このように調査することの必要性も感じられませんし、不必要な調査による萎縮効果のほうが危ぶまれるため、行うべきものではないと考えます。
このアンケートの細部を見る前に、直観的な印象を語らせていただきますと、はじめに想起されましたのは「ナチス」です。このアンケートには恐ろしい部分が多すぎますが、その中でも最も恐ろしいと私が思う点は、「同僚からの告発を促す」です。仲間内からの告発はナチスでも行われたことであり、大変恐ろしいものであることは、ナチスの歴史が語っていると思います。
具体的にアンケート内容を見ていくと、まず組合に関しての活動の把握を市が行おうとしていることがわかります。どのように組織され、活動しているかを具体的に調べています。特に活動を開始したとき(組合に参加したとき)を重点的に調べているように感じました。これは、今後の参加者を予防的に制限するために調べているのでしょう。はじめから参加させないことが最も組合というものの存在を根絶やしにできるとの考えからだと思います。
政治活動に関しては、いわゆる「パワーハラスメント」のような上司・組織からの押し付けがないかを重点的に調べているように思います。確かにこの点について、パワーハラスメントのようなものが行われている事実があれば、それはやめるべき行為でありますが、このアンケートの調査はそのようなパワーハラスメントをやめさせる意図よりは、個人の活動を萎縮させる意図の方が大きくなってしまっている気がいたします。また、私はこのアンケート用紙を読ませていただくまで、「紹介カード」なるものの存在も知らず、公務員の組織内部における政治活動の支援等があることにつき、ほとんど無知でした。そのため、少ない前提知識の中にありますので、この政治活動に関してはまず、自らの無知を改善していくことを今後の目標としたいと思います。今後、「紹介カード」の存在の実態等を調べたうえで、考え続けていきたい問題と思います。全般として、最も大きな問題な点は、このような調査がおこなわれることによって、職員のみなさんが、「組合に入ることは悪いこと」との印象を持ってしまうことにあると思います。なぜ悪いことなのか等の深い考えを持たずに「なんとなくいけないことなんだ」との考えを職員の方々に与え、職員の方々は組合にはいること、政治活動をすること、を自主的に諦めてしまうと思います。この「自主的な諦め」こそ、このアンケートの意図するものではないでしょうか。今ある既存の組織・運営を制限させるもののようにみせているこのアンケートは、実はもっと予防的効果を意図したものと思います。既存の組織への制約へは、日弁連等が行ってくれているように一定の反対活動なども可能でありますが、「自主的に」諦めてしまった職員への規制は反対運動等を起こしづらくしています。なぜならば、形式上は「自主的」にやめているからであります。しかし、これは本当に「自主的」なのでしょうか。おかしな日本語かと思いますが、私は「自主的に諦めさせられている」とあえて表現したいです。本人も気づかないように思想をコントロールする最も恐ろしい規制方法であると思います。「自主的」に見せかけて、本当は「諦めさせられて」いるのだと思います。
橋下市長の活動は連日メディアも報道しておりますが、橋下市長の支持率の高さのせいか、具体的な内容を語ると言うよりは、そのパフォーマンス性を私たちに知らせるにとどまるものばかりと思います。特にテレビの報道はひどいです。ただ「橋下市長主宰の政治の勉強会に3000人もの応募があった」など橋下人気をあおりたてるような報道のみが目立ちます。また具体的内容は報道せずに「船中八策」などと耳障りの言いフレーズだけを強調し、橋下市長の先導性を誇張する報道もありました。本当に昨今のメディア、特にテレビの報道方法には疑問をもたざるを得ません。新聞等では、きちんと語られている場合もありますが、読者の新聞離れも進んでいるのが現状であります。みな、テレビの10秒で伝えられたワンフレーズだけ、インターネットにでたNEWsのトピック(題名)だけを見て、NEWsの情報を得たと思いこむ風潮があるように思います。こんな浅くしか知らないのに、知っていると思いこんでしまうのであれば、知らない方がまだましかもしれない、とすら感じてしまいます。かくいう私も現代を生きる若者で、気をつけなければならないと思います。今回のアンケートに関しても無知な部分が露呈しましたので、より一層情報収集につとめます。
私はこの間の橋下市長の活動に関して、新聞の切り抜きを集め続けております。君が代斉唱を強制する教育基本条例は言うまでもなく、昨今では、「教育目標」に関する橋下氏の過激な意見にも目を向けており、今後の動向を気にしているところであります(例:朝日新聞1月31日付等)。
また、橋下氏の活動全般を知るうえで非常によかったと思いましたものは、朝日新聞2月12日付11面「オピニオン」におけるインタビュー記事で、これはある意味で大変興味深いものでした。
正直な意見を申せば、橋下氏の活動には、幾度となく疑問を感じております。しかし、すぐに批判するという精神を持つよりは、いまだ若輩者の私は、疑問を持った点に関して、深く掘り下げて知識を集めることを先にしたいと思います。それにより、公平な視点を得たうえで、その後に批判的な視点をもっていきたいものであります。と、冷静に考えたいと思うものの、正直、情報収集をしている間に怒りなどがあふれてきてしまうのは私の性でしょうか。
大変稚拙な文章をお読みいただき、ありがとうございました。急いで作成したため、論理的飛躍、誤字(極力気を付けましたが)があると思います。これからも情報収集につとめ、友人・家族等とも意見交換を試みてみます。実際、我が家では先生からいただいたアンケート資料を全員で読み、意見交換をいたしました。それでは失礼します。
上記の意見は、1年生で憲法を一通り勉強して、これから憲法を専門的に勉強しようという段階の学生のため、「アンケート」のもつすべての論点に触れているわけではない。憲法専門の大学院生などからのメールには、憲法19条、28条から公務員法上のさまざまな問題に至るまで指摘したものがあるが、ここではあえて、一般市民の感覚に近い感想を紹介した。橋下氏には、こうした率直な疑問に耳を傾けてほしいと思う。
なお、2月17日、大阪市特別顧問の野村修也弁護士は、回収したアンケートの開封や集計作業の一時凍結を指示した。野村氏は、大阪市労働組合連合会(市労連)が、大阪府労働委員会に「不当労働行為にあたる」として救済申し立てをしたことから、「法定の手続きが開始された以上、推移を見守るのが穏当」と述べ、再開の時期は「未定」としている。橋下市長は「何ら問題ないと思っているが、野村氏に判断を委ねている」と述べた(『朝日新聞』2012年2月18日付)。弁護士であり、法科大学院教授でもある野村氏は、アンケート項目の設計段階から問題を感じなかったのだろうか。