学校被災――東日本大震災から1年 2012年3月12日

「あれから何年」という言い回しは、巨大で鮮烈な集団的体験の後に、そのことを想起させるための枕詞として使われる。8月のお盆の時期には、死者を思い、その出来事を想起するために、「あれから○年」の特集記事・番組が3日おきに続く。「8.6」(ヒロシマ)、「8.9」(ナガサキ)、「8.12」(1985年から「JAL123便事件」)、そして「8.15」(「終戦記念日」)である。近年、2つの「1.17」(1991年湾岸戦争1995年阪神・淡路大震災)と「9.11」が加わった。そして昨年から、「3.11」が圧倒的な意味をもってきた。分担執筆した『3.11と憲法』(森英樹、白藤博行、愛敬浩二編著、日本評論社)のタイトルが示すように、「3.11」はすでに固有名詞化している。この言葉は、この国の「ゼロ年」(そこから年をカウントとする)になっていくだろう。

その「3.11」から11カ月目にあたる2月11日、仙台市で講演した。翌日、主催者のご好意で、東松島市から石巻市、仙南地域(名取市など)の被災現場を案内していただいた。全体のコーディネートは宮城県白石高校教諭の豊永敏久さんが担当した。豊永さんの車で仙台市から東松島市に向かい、石垣好春さん(石巻市立北村小学校)と伊藤慶さん(山下中学校)と合流。伊藤さんの車で東松山市大曲浜地区へ。津波の爪痕が痛々しく、漁船が住宅の横に乗り上げたまま放置されている

東松島市は、航空自衛隊第4航空団などが置かれる「基地の街」である。石垣さんは助手席から基地を指さしながら、「あまり報道されませんが、ここには隠れた大被害があります」と語りはじめた。「3.11」当日、この基地のF-2支援戦闘機18機など航空機計28機すべてが水没した。F-2が高額なことは有名で(1機120億とも言われる)、被害総額は航空機だけで2300億円を超える、と石垣さん。曲芸飛行で知られる「ブルーインパルス」(第11飛行隊)は、たまたまイベントで福岡の基地に行っており無事だったという。

「あれから1年」。今回の取材では、学校の先生方に、学校被災の状況について直接、現場で説明していただくことに主眼を置いた。車内では、石垣さんから宮城県の教育をめぐるさまざまな問題について詳細なレクチャーを受けた。宮城県の個別の問題状況については何も知らないに等しかったので、大変勉強になった。子ども、教師、保護者、教育委員会とそれらの具体的関係性が、学校被災での明暗を分けていた。

そうこうするうちに石巻市立門脇小学校に着いた。昨年4月に来たとき校庭は瓦礫に埋め尽くされていたが、今は一面何もない。焼け焦げた校舎だけが残っている。先に親に引き渡した7人を除き、この時学校にいた児童230人は、校庭から墓地脇を抜ける階段を使って背後の日和山に全員無事避難した。日頃の避難訓練は津波を想定しており、日和山に逃げることを鉄則としていたという。

次に車は大川小学校に向かう。それまで熱く語っておられた石垣さんが急に寡黙になった。新北上大橋をわたり釜谷地区に入る。瓦礫も撤去され、一面の荒れ地に見える。車はコンクリートがむきだしになった建物の前でとまった。「大川小学校です」。思わず息をのむ。「東日本大震災で最も悲惨な学校」としてメディアで繰り返し扱われてきた。「全校生徒の7割が死亡・行方不明」という新聞見出しを何度見たことか。108人の児童のうち74人が、教職員13人のうちの10人が死亡・行方不明となっている。

門柱のところには祭壇が設けられている。何台かの車が停車し、児童の家族らしき人たちが7人降りてきて、花を手向け、手を合わせている。祭壇横のお地蔵さん「子まもり」は防寒具をつけ、何とも愛らしいのだが、その分悲しみの深さが伝わってくる。

「なぜ大川小だけ、あれほどの犠牲が出たのか」。これが父母らのやりきれない思いである。大川小に関する検証記事は多い。例えば、震災半年の時点で『朝日新聞』は、「なぜ山に逃げなかった 大川小学校の悲劇」というカラー入りの特集記事を出した(2011年9月10日付)。「山に逃げていたら…」。他紙やテレビの特集番組のポイントもほとんどここに絞られる。『朝日新聞』宮城全県版の連載「人災 大川小説明会」(2012年1月25~31日付)は、石巻市教育委員会と父母らとの質疑応答を軸に構成されており、そこからさままざな問題点が浮かび上がってくる。父母らが最もこだわったのは、「なぜ校庭に50分近くとどまっていたのか」という点である。

小雪の舞う寒風のなか、校庭の一角にたたずみ、校舎を俯瞰しながらずっと考えていた。校庭奥のコンクリートの壁状のものに子どもたちが描いた絵がある(冒頭の写真)。「平成13年度卒業制作」。「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない…」という宮沢賢治の言葉もそこにあるそのすぐ裏手は山になっている。かなりの高さまで木が変色しており、どれだけの津波が襲ったのかがわかる。「アメニモマケズ」が胸に迫る。

地震発生は14時46分。児童と教師たちはずっと校庭にいた。「山に登れ」という者、「山は滑るから危ない」という者、決断がつかないまま時間だけが過ぎていった。児童の列の前で教師たちは「円になって話し合っていた」という。「先生、山に逃げた方がいいと思います」という6年生の児童に対して、教師は「私にもわからない」。児童は「先生なのに、なんでわからない」と「食ってかかった」(5年生児童)。15時30分、河北総合支所の広報車が「松原を津波が越えてきました。高台へ避難してください」と叫びながら学校近くを通過した。同30分過ぎ、一教師が、「三角地帯に逃げるから、走らず列を作っていきましょう」と声をかけ、移動が始まった。5年生が県道にあがった15時36分、左前方から津波が襲ってきた(『朝日新聞』宮城県版の検証記事参照)。

「もし自分がそこにいたら何ができただろう…」。山ではなく、なぜ「三角地帯」に向かったのか。実際に行ってみた。新川上大橋のたもとの交差点である。隅に花やお菓子が手向けられている。なぜこれが避難場所かと思うほどの場所で、決して広くない。実際、津波に一瞬にしてのまれてしまった。校門から「西に百数十メートル」とされているが、震災前は家屋があったからもう少し遠く感じたのだろうが、いまは目の前に見える。ここに児童を向かわせる判断をなぜしたのだろうか。その場にいた教師11人のうち10人が死亡しているので、判断過程を知ることはむずかしい。ただ、市教委と父母らとの質疑応答を記録した『朝日』宮城全県版の記事に気になる表現があった。
   「15時~15時15分ころ。迎えに来た保護者は、男性教諭が『津波6メートル』、1分後に『津波10メートル』と話すのを聞き、その後、輪になって、先生たちが話し合いをしていたのを見ている」と。大川小は河口から4 キロに位置し、海抜は約1メートルだから、6メートル以上の津波という情報からは「高台避難」しか選択肢はないことになる。それでも、彼らをして山に向かわせなかった理由は何か。

石垣さんの指摘では、校舎の構造と立地にも問題があるという。石垣さんに譲っていただいた『ふるさと石巻の記憶――空撮 3.11 その前・その後』(三陸河北新報社、2011年)というカラーグラビア本。見開き2頁を使い、市内地区ごとに「その前」と「その後」の航空写真を並べている。どこがどう破壊されたかが手にとるようにわかる。その20頁(新北上大橋周辺〔上流側〕。撮影時点が少し古い)を見ると、旧大川小学校の校舎が写っている。ごく普通の木造校舎で道路と川の方を向いて建ち、その前に校庭がある。ところが、22頁(〔下流側〕)を見ると、新校舎が写っていて、道路と川に背を向けるようなアーチ型をしている。校庭からは道路も川も見えない。石垣さんによると、さる建築家の設計で、モダンなつくりが評判になったのだが、屋上がなく、カーブしている廊下等、現場の教員には使い勝手はよくなかったそうである。震災前の航空写真を見ると、校庭は孤立した空間になっているのがわかる。もし旧校舎のような構造だったら、道路上の車や人々の動き、川の異変に気づいたことだろう。なまじモダンな構造にしたことが災いしたようである。

立地の問題で言うと、津波でなくとも、新北上川が洪水になった時、海抜1メートルの地では安全が確保されにくいという問題があった。最近の歴史研究によると、貞観津波(869年)や慶長津波(1611年)際には、今回と同様、平野部が水没していることが明らかになっている。大川小学校の立地そのものに問題があったという指摘は重要である(後掲・数見隆生編著参照)。

また、マニュアルの問題もある。大川小の防災マニュアルには、避難先として「近隣の空き地・公園等」とあるだけで、具体的な場所の指示はなかった。メディアが一致して問題にするのは、このマニュアルの不備である。そしてもう一つ、「教職員の危機意識の低さ」。これは父母らとのやりとりを通じて市教委も認めた点である。
   保護者は「人災」と認めさせるために食い下がった。結局、市教委は「未曾有の自然災害という点では天災とも考えられるし、学校管理下の大きな被災としては人災という部分も考えられる」と答弁した。

検証記事は「危機意識の低さ」一般で終わっているが、石垣さんはさらにその背後にある事情を教えてくれた。
   宮城県では、近年、教職員の人事異動がかなり強行に行われるようになり、県教育委員会の方針で、新規採用教員の約3割が石巻市に赴任する。新採の大半が仙台市勤務を希望するので、3年から5年で石巻から転勤していく。管理職も同様で、教頭から校長になった新人校長が最初に赴任するのが大川小学校などの「僻地校」なのだという。つまり、石巻は宮城県のなかの「地方勤務」ということになる。新人が多く、地元のことを十分に知らない教師集団。校長も家族の事情で「3.11」当日、学校を不在にしていた。

また、県教委による「研修づけ」も相当なもので、東京と大阪と並んで、実は宮城県は教員管理が厳しい県であることを知った。相対的に新任教員が多く、また教員管理が厳しい。マニュアル通りに大過なく仕事をこなすという「空気」が生まれたとしても不思議はない。「山に逃げよう」という声に対して、「途中で滑って怪我でもしたら…」という声が出てきて的確な行動をとれなかった背景には、そのような事情があるのではないか。

近年の学校社会では、教師集団の自主性、自律性は見る影もない。職員会議に決定権はなく、教員は校長の指揮監督を受ける存在になってきた。それが、子どもたちの命がかかる決定的場面において、すべてマイナスに働いたのではないか。その意味で、大川小の悲劇は、「構造的人災」と言えるだろう。
   私の子ども時代、どこの学校にも、校長や管理職なんか屁とも思わぬ「古兵」のような教師がいた。そんな教師が、「山に逃げる以外にない!」と大声で一喝し、「怪我でもしたら…」との声に、「命より大事なものはない!」と言い切っていたら、と思う。  

石垣さんにはこの学校に、高校生の時からの親友がいた。58歳のベテラン教師だった。「山へ逃げるべきだ」と主張したのがこの方だったのかどうかはわからない。また、同行した伊藤さんは私に、「ずっと気が重くて、この場所に近づけませんでした。でも、今日、先生を案内して震災後、初めてここにきました」と語った。彼にとっても、新任時代、教育実践上の悩みなどをいつもていねいに聞いてもらっていた先輩教師だった。私は黙って頭を下げた。

海沿いに車は進み、大川小の対岸にある吉浜小学校に着いた。学校は3階建て。教師と児童は屋上にあがり無事だった。反対側にある北上総合支所は津波で完全に破壊されている。2階建てにもかかわらず、ここが避難場所に指定されていた。避難した周辺住民と職員57人中54人が命を落とした。親に引き渡したあとで、親とともにこの役所に来て亡くなった児童が7人もいた。学校にいれば助かったケースである。

さらに雄勝地区に向かう。雄勝湾のかなり奥まったところにあるが、その奥の奥まで津波は押し寄せた。深く入り組んだ雄勝湾でパワーが増幅して、ここまで遡上したものと思われる。雄勝公民館の屋上にはバスがのったままである(注:2012年3月10日午前10時、このバスは1年ぶりに地上に降ろされた)。震災11カ月後にして、まだこんな風景があった。少なくともこの地区は復興どころか、復旧さえしていない。

雄勝小学校は屋上まで津波が押し寄せた。しかし、裏山の高台に避難し、途中で帰宅した児童1人を除き、全員が無事だった。雄勝中学校では、いったん避難所に指定された住民センターまで逃げたが、「ここも危ない」という教師の判断で、さらに上の方まで逃げて無事だった。その判断は正しかった。前述の『ふるさと石巻の記憶』の雄勝地区を見ると、湾から奥まったところにある雄勝中学校が被災して、その奥の奥まで津波が押し寄せていることがわかる。住民センターに留まったお年寄りは亡くなったという。

石垣さんと伊藤さんと別れて、再び豊永さんの車に乗り換え、仙南の名取市へ向かう。名取市役所前で、高校教員を定年退職された高橋美恵子さんと落ち合う。高橋さんの車で閖上(ゆりあげ)地区に向かう。ここは昨年8月、早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団がボランティア活動をした学校である。そのこともあって、直接訪れてみたかったのである。当時の幹事長(インスペクター)小野洋奈さんが、閖上中学校体育館で撮影した灯籠流しに使う灯籠は、拙著『東日本大震災と憲法』の表紙にも使っている

閖上小学校の校庭で、ここに住む高橋さんに当時の写真を見せてもらった。校舎のどこまで水が来たかがよくわかる。ここは当日欠席の児童以外は全員助かった。この地域は防災無線が機能しなかったが、一人の職員が持っていた携帯用ラジオで情報を知り、全員が3階に避難することができた。保護者が続々と迎えにきたが、決して引き渡さず、一緒に校舎の上にあげたという。この「引き渡し」をしないという教師の決断が生死を分けた。
   体育館には、家族のアルバムやランドセル、位牌などびっしり並べられている。高橋さんもここで偶然家族の位牌を発見したという。家族のかけがえのない品々。これだけのものが引き取られていない。それだけの人が亡くなったということである。

東北3県で命を落とした子どもたち(小中高校)は計617人。宮城県が430人と7割を占める。たくさんの後悔の声がある。「あのとき、ああしていれば」と。未来ある子どもたちの命を救えなかったことへの大人の後悔と責任。子どもの命をどうやって守るのか。これは現在の課題でありつづけている。

仙台から戻ってから入手した書物に、数見隆生編著『子どもの命は守られたのか――東日本大震災と学校防災の教訓』(かもがわ出版、2011年)がある。学校の立地条件、避難対策・避難訓練、情報収集と避難決断、保護者引き渡しの問題、市町村行政と住民との日常的連携等々、多角的な角度から東日本大震災における学校被災について分析している。参照されたい。

帰宅後すぐに石垣さんからメールがきた。その結びには、「皆さんの心温まる支援で、私たちもやっと心が上向きになってきました。亡くなった多くの友人、教え子のためにも、今伝え続けていかなければと決意を新たにしているところです。生き残った者の責務だと思っております」とあった。

今回の直言で使用した写真には、案内をお願いした豊永さんのものも含まれている。お礼申し上げたい。

 
《付記》先月27日で直言連続更新が800回になった。前回と前々回のテーマの性質上、このことには言及しなかった。今回は802回目だが、「あれから1年」の節目なので付記で触れておきたい。この直言は1997年1月から始めて15年になる。500回連続更新について書いたのは、安倍晋三内閣の時だった。1000回を目指し、歩みを続けたい。ちなみに1000回目は、私が63歳の誕生日を迎える頃(2016年4月)を予定している。

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