昨日、3月25日は学部の卒業式だった。ゼミ1期生に「おくる言葉」を書いて、卒業式の前々日に在外研究(ドイツ)に出発した。ちょうど13年がたって、昨日、ゼミ14期生(2008年入学)を送った。その2日前、ゼミの追い出しコンパをやったが、そこでゼミ生は、「追いコンができる幸せ」をしみじみと語った。
昨年、東日本大震災による余震や交通網の混乱、「計画停電」のなか、大学は卒業式を中止した。卒業関連の集まりは極力自粛するようにという大学の指示だったが、私はゼミの追い出しコンパを3月24日に実施した。しかし、貸し切ったイタリア料理店に全員は揃わなかった。放射能のおそれから、西日本の実家から上京させてもらえなかったり、自宅のある地域が計画停電のため、帰り道が暗くて危ないからと親に反対され、涙ながらに参加を見送った女子学生もいた。福島の実家が地震で倒壊した、女川町の親戚の家が津波で流された。必死の思いで会場にかけつけたゼミ生のなかにも、被災者がいた。そんな何ともいえない雰囲気のなか、追い出しコンパを運営した14期生が、昨日巣立っていった。この1年の重みを改めて感じた。
ところで、この14期のゼミ長は1年導入演習も水島ゼミなので、学生生活の大半を私と過ごしたことになる。その割に、私とは違ったものの見方をする、飄々とした人物で、だから長く続いたのだろうとも思う。他方、2年生まで私の講義をまったくとらずに、3年からゼミに飛び込んでくる学生もいる。各期それぞれ15人前後のゼミ生は、それぞれ個性的である。大学4年間というのは長いようで短い。それは卒業するときにみな実感することである。たかが4年、されど4年である。
そこで思い出したのだが、2011年に卒業した13期副ゼミ長が現役のとき、こんなメールをくれたことがある。「…これは初めて申し上げますが、この時期になると思い出すのが、入試の試験監督が実は水島先生だったことです。他の大学や学部の試験監督の方は事務的な態度で仕事をされていましたが、先生は、注意事項を伝達する際、たまごっちが試験中に鳴ったら…とか、携帯が鳴っただけで答案不合格になる学部もあるよとか言って、緊張をほぐして下さったことを覚えています。ありがとうございました。2007年2月の7号館418教室での法学部入試のそういう縁を勝手に感じたのも、水島ゼミに応募した理由の一つなんです。…今学期は、ちょうどあの教室で講義を受けていまして、とても懐かしいです。当時よりも教室が小さく感じられるのを不思議に思っています」。
教員は試験監督をやった教室について覚えていないが、受験生は決して忘れない。「教室が小さく感じられる」というのは、本人が4年間でいろいろな意味で成長したということだろう。一般入試の場合、われわれ教員が試験監督をやるが、受験生のなかには、いずれ教えることになる人たちが確実に含まれているから、大変な仕事だが、決して苦にはならない。これが大学入試センター試験の殺伐とした風景との違いである(なお、この点について、拙稿「『消費者サービス』と『博士多売』の世界――わが体験的大学論」『現代思想』2012年4月号・特集「教育のリアル――競争・格差・就活」参照)。
3・4年専門ゼミ(今は正式には「主専攻法学演習」というが、ここでは専門ゼミと呼ぶ)というのは、私自身の学生時代の体験からも、大学4年間で最も勉強をしたという実感が残る。その意味で、大学生活の白眉と言える。講義と違って、教員とともに、自分で勉強するという色合いが強い。私のゼミは「憲法るるぶ」(み〔見・診・観〕る、調べる、学ぶ)を実践する場である。
そこで、私の専門ゼミの入口(採用)から出口(卒ゼミ)までを紹介してみよう。
まず、採用の仕方は一貫している。ゼミ応募者(2年生)には、私とゼミ生(3年)へのレポートをそれぞれ書いてもらう。ゼミ生に向けたレポートのテーマは、私には相談しないでゼミ生自身で考えて出題する。私は自分が出した課題のレポートだけを読み、15位まで順位をつける。他方、ゼミ生も2年応募者のレポートをゼミ3年生全員で読んで、順位をつける。そして、研究室で、3年生の新ゼミ生採用委員4 人と一緒に採用人事をやる。私も合格、ゼミ生も合格としたものは採用となる。ともに15位以下の場合は不採用となる。いずれかが違った評価をした場合には、合議となる。私のレポートの出来が悪いのに、学生のレポートは充実しているという場合、検討の上で採用ということもある。その逆もある。ゼミ生採用は担当教授の専権事項であるが、私のゼミの場合、学生の関与は諮問的ではなく、実質的である。そうやって、「水島信者」のようなタイプの学生を私が採用とした場合でも、ゼミ生が評価できないとして落としたこともある。そうやって、ゼミ生との合議で個性的な人物を新ゼミ生として採用してきた。そのあたりは、「セミナーリウム(苗床)物語」に詳しく書いてある。
採用された2年生(4月から3年生)は、2月中旬の新ゼミ生歓迎コンパに参加して3年生(4月から4年生)と顔合わせをする。そして、2月下旬に、早大セミナーハウス(伊豆川奈)で1泊の合宿をする。4月から始まる本ゼミと同じ報告・討論の形をとる。3年生はすぐに4年生になるので、取材を踏まえた本格的な報告を準備し、新ゼミ生にプレゼンする。卒業する4年生は参加しない。3年生はそこで初めて、4年生の先輩なしで自分たちだけで報告するというので、刺激になるようだ。夜の懇親会で親交を深め、新学期スタートに備える。
4月からゼミが始まる。取り上げるテーマは多様かつ多彩である。私は一切指示しない。すべて学生たちが発表班を組織して決める。どの報告にも事前の周到な取材が不可欠となる。必要に応じて地方に行って取材をする。今年の2月合宿での報告テーマは、「議員定数の不均衡」問題だったが、「1票の価値が最も重い」とされる島根県に取材にいって、地方から見た定数不均衡問題を考えるというものだった。判例・学説はもちろん、山陰中央新報論説委員などに取材して、もし投票価値の平等を徹底して貫くと、島根と鳥取は合併区になって、過疎地域の「民意の反映」が歪む面があるという指摘などを引き出してきた。
このように、水島ゼミはどんな問題を扱うときでも、ちょっと変わった視点やアングルを貫く。これはゼミのホームページで確認してほしい。例えば、裁判員制度の発足にあたって、1年ゼミでも扱い、3・4年専門ゼミでも扱った。早稲田祭で、高校生とその父母たちを対象に、模擬ゼミも行った。その時、ゼミ生たちは、参加した高校生に「辞退事由クイズ」というのをやって、どのような場合に裁判員が辞退できるかということを質問していた。その前年のオープンキャンパスでは、「死刑は残虐な刑罰か」というテーマで模擬ゼミを行った。この時は300人教室で立ち見が出た。
フィールドワークも、報告のための取材も1年ゼミからやっているが、専門ゼミではそれが班ごとに徹底して行われる。実際の「現場」を訪れ、そこで関係者から話を聞くことの大切さをゼミ生は体感している。テーマや問題、「事件」との出会いである。一回性の出会いもあった。 2001年9月、ゼミ4、5期の長崎合宿でのこと。一つの班が長崎平和研究所の鎌田定夫所長に取材したが、それからまもなく、鎌田所長は亡くなる。そこでのゼミ生との交流について、10年前に書いたことがある。「出会いの最大瞬間風速」という言葉を思いついたのはその時である。
前期の授業が終わり、夏休みになると、ゼミ最大のイベント、夏合宿となる。これは取材合宿で、班ごとにテーマを決め、現地で徹底的に取材する。学生の取材には、私はほとんど同行しない。講演をしたり、自分のための取材をしたりする。一人で映画を観たこともある。そのかわり、朝と夜は忙しい。各班の班長から前日の取材活動の報告を受け、その日の取材についてアドバイスを送る。まさに携帯メールで「指導」しているわけである。
沖縄合宿は1998年から隔年ごとに欠かさず行い、今年8月で8回目となる。ゼミ合宿中に台風が上陸したこともある。現地である班が専門家を招いて討論会を開催したこともある。「『語り部の話は退屈だった』か」という、当時としてはかなり論争的な問題だった。
長崎でも台風下の合宿をやった。ホテルに閉じ込められながら、深夜2時まで12時間も密度の濃い議論した。今となってはいい思い出である。
北海道合宿は3回やっている。2007年は「食の安全」問題にこだわり、まるで「農業ゼミ」のような企画を早稲田祭でやった班もある。ゼミの日々の取材活動やゼミ合宿の痕跡はネット上に残っている。検索をかけると、昔の水島ゼミ合宿報告書のミスにこだわったサイトまである。
8月の合宿を経て、後期の途中で3年生中心の執行部ができる。ここから「代替わり」の空気になっていく。4年生には重要な課題、ゼミ論集がある。彼らは、生まれて初めて「論文」というものを書く。資料を読み込み、文章にしていく。かなり大変なことである。私は、彼らが書いたゼミ論文集に「序」を寄せてきた。在外研究中のドイツ・ボンからメールで送ったものもある。「25にして学に志す」という『論語』の私的な読み替えも書いた。
毎年正月の4日。2カ月後に卒業する4年生を八ヶ岳南麓の私の仕事場に招いて、「おでんパーティー」をやっている。2007年の9期生から始めたので、今年で6回目になった。前の晩からおでん鍋を6つ、じっくり煮込んでおく。今年は遠路はるばる14期生がやってきた。そのあと、冬の「信玄棒道」を全員で歩く。途中で雪が降ってきた。
なお、水島ゼミと検索すると「おでん」が出てくる。これは6年前、9期生が、「缶詰おでん憲章」を起草したことによる。当時、『朝日新聞』(東京本社版)や『千葉日報』などで報道された。『早稲田ウィークリー』にも「缶詰おでん憲章」として紹介された。これもまた、私とゼミ生といろいろな方々との出会いの産物である。
ゼミ生との距離のとり方はなかなかむずかしい。指揮者とオーケストラの関係に似ていると書いたこともある。ゼミは、多彩な個性が一つの曲を演奏するオーケストラであり、教員は指揮者である。信頼を寄せるが、べったりせず、適度な距離感をとる。それを教祖と教師の違いで示すとこうなる。信者は教祖のいうことを信じるのに対して、学生は教師のいうことを参考にして、ときに批判して育っていく。教祖は弟子に乗り越えることを許さないが、教師は弟子に乗り越えられることを喜びとする。
ゼミの同期は15人前後だが、みんな個性的である。かなりの曲者も少なくない。おそらくゼミに入らなければ絶対に口もきかない、あるいはお互いに嫌いなタイプというのもいろいろと集まってくる。個性的というのはそういうことで、いろいろな要素が化学反応をおこして、新しいものができる。ゼミではみんな、自分は口下手である、人の前に立てない、積極性に欠けるなど、各人各様のコンプレックスをもっている。
私のゼミのモットーは、(1)懐疑的な好奇心、(2)貪欲な探究心、(3)健全なコンプレックスである。(3)では「健全な」がミソである。自分の弱点を知り、他人に対して自分が劣っていると思う気持ちを確認する。それまで抽象的に自分はダメだと思っていた人が、自分の弱点を具体的に認識せざるを得なくなる。すると、どうやったらその弱点を克服できるか。あるいは弱点と思っていたのが、ゼミの活動のなかで認められ、むしろ強みであると認識できたとか、コンプレックスはむしろ、発展の契機に転化しうる。
なお、コンプレックスというのは、人間が単純でないという証である。悩む自分に正直に向き合うことである。悩むなかで進歩も生まれる。こういう健全なコンプレックスこそ、発展の女神である。
10期生の1人が卒業の際、こういうメールをくれた。「…ゼミ生は不器用で優しい人ばかりでした。だから、誰もが必死に傷つきながらも『社会』を直視している。そんな泥臭いながらも尊い空間で仲間と過ごせた時間は生涯忘れません」。
こうして、私のゼミからこの13年間で、私がつかんでいる範囲だけでも、地方議員2人、 大学・高校教員4人、法曹(判事、検事、弁護士)16人、中央省庁16人、地方上級14人、新聞・テレビ・出版31人、民間企業(商社、銀行、メーカー等)90人以上、NGO、NPO、JA、JR、UR、JICA、JRA、農業経営等々、実にさまざまな分野に進出している。鉄、マグネシム、マンガン、亜鉛など、微量ながら健康のために必要な栄養をミネラルというが、わがゼミは、社会のさまざまな分野に必要なこだわりの人材を補給する「ミネラル・ウォーター」ゼミだと思っている。そこから巣立ったゼミ生たちは、さまざまな分野でそれぞれの役割を果たしている。
毎年12月第1週の土曜日。水島ゼミOB・OG会が開催される。ある時期から「水島会」と呼ぶようになった。「水島と会う」と、私を肴にして飲むという「水島で会う」の2つの意味をこめている。さまざまなところで活躍しているOB・OGたちに会うと、私も元気になる。2005年に病気で倒れたあと、「復活宣言」をしたのもこの会だった。
就職難や震災という荒れ地のなかでも、それぞれの種を自分たちの力で育てていった個性あふれる14期生を送り、「苗床の管理人」として、来月12日、15、16期生の初回ゼミを迎える。