一 国の議会の補欠選挙がこれほどまでに注目されたことがかつてあっただろうか。 先週の4月1日はミャンマー議会の補欠選挙の投票日だった。2010年総選挙後に議員辞職するなどした45議席分(地方議会2 を含む)が空席になっていた。連邦議会は国民院(定数440)と民族院(同224)からなり、補選の対象となったのは43議席、全体の7%にすぎない。投票結果は、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が43議席を獲得。与党・連邦団結発展党(USDP)は1議席しか取れなかった。残り1議席は少数民族政党のほぼ指定席である。NLDの文字通りの圧勝だった。
だが、これは小さな一歩である。この国は、1962年の軍事クーデター以来、長らく軍事政権の独裁が続いてきた。1989年6月18日、軍事政権は国名を「ビルマ」から「ミャンマー」に変更した(本「直言」でも当面「ミャンマー」を使うことにする)。国民の権利は系統的に侵害され、政治活動は厳しく制限された。民主化運動の指導者スー・チー氏は約15年間、自宅軟禁を強いられた。国際社会はこの国に対して、経済制裁などさまざまな制裁措置を実施してきた。この間、内外の民主化要求に対して、軍事政権は一定の譲歩を行った。2011年に「民政移管」が行われた。政治犯が釈放され、スー・チー氏の軟禁も解除された。この1年あまり、経済面での「改革」が急速に進み、日本を含む各国は、ミャンマーの資源と市場への関心を異様に高めている。軍事政権は「民主化」と引き換えに制裁を解除させ、経済援助を受けやすくして、経済発展をはかるという目論見のようである。今回の補欠選挙は、制裁解除や援助を引き出す象徴的意味合いをもっていた。だが、結果は軍事政権の完敗。1年前とは雰囲気はまったく変わった。いま総選挙をやれば、「政権交代」が起きるかもしれないという勢いである。だが、その見方は楽観的に過ぎるだろう。今回の選挙はあくまでも補欠選挙である。総選挙までの期間、軍事政権の巻き返しの可能性もあり得る。その際、ネックになっているのが、2008年憲法である。
『朝日新聞』2012年4月3日付社説「民主化さらに加速を」は、補欠選挙の結果について、「民主化の歯車がひとつ回ったと評価できる」としながらも、その限界について次のように書く。「民主化を阻む最大の壁は、軍政が制定した憲法だ。議員の4分の1を軍人と定め、改正を阻止できる仕組みにしてある。こんな軍の絶対的優位を保障した憲法を改めて初めて、国際社会から民主国家と認められる」と。 そこで今回は、ミャンマー2008年憲法について診ておくことにしよう。
2009年6月、大教室の「憲法」の講義を終えたとき、1人の男子学生が演壇のところにやってきた。それがA君だった。当時法学部2年生。ミャンマーのタゥンジー大学法学部を卒業し、上級弁護士資格をもつ。しかし、ミャンマーの法学部の法律専門科目には憲法と国際法がない(! )。 だから、早大法学部の憲法の講義を特別の関心をもって受講しているのだという。彼は1年前の2008年に制定されたミャンマー憲法をビルマ語原文で持参していた。私は制定されたばかりのこの憲法について、レポートにまとめるように促した。彼はすぐに原稿の形にまとめてきた(2009年6月20日付レポート)。読みおわると、私はこれを多くの人に知ってもらおうと考えた。そのことを『法学セミナー』の上村真勝編集長に話すと、掲載を快諾してくれた。早速、原稿を論文化する作業に入った。
水島研究室の院生とともに、大学院の私の授業を1コマ使って、原稿を細かく検討した(2009年11月13日)。院生たちは微妙な表現の違いや「てにをは」にもこだわって推敲してくれた。そうしてこの論文は『法学セミナー』2010年2月号に掲載された(→ここから読めます)。
当時、軍事政権は自国内で市民や学生を逮捕・投獄するだけでなく、海外の留学生に対しても大使館などを通じて監視を強めていた。そうした状況のなか、軍政批判の論文を公表することは、A君に危険が及ぶおそれがあった。そこで、同君が執筆したことについて、院生にも決して口外しないように伝えた。『法セミ』掲載にあたっては編集部に配慮をお願いし、「法曹資格所有者ビルマ人」という形で匿名にした。そうする背景を説明する「掲載にあたって」(編集部)という一文も冒頭につけた。
A君は3年生になり、水島ゼミに参加してきた。2011年12月1日、「ミャンマー憲法班」を組織。同君とチームを組んだゼミ生がこの憲法について報告、討論を3時間かけて行った。ゼミ生には、『法セミ』論文の筆者の本名を明かし、そのことを決して他言しないよう強く求めた。後に発表班の女子学生の一人は、「報告の準備段階から、グーグー君〔彼の愛称〕のことが心配で、この発表はすごく緊張しました」と語っている。
『法セミ』に公表されてから2年が経過した。A君はこの3月、ミャンマー憲法班を組織したゼミ14期生の多くとともに、法学部を卒業した。そして4月から、四大法律事務所(ローファーム)の一つに就職し、ミャンマー上級弁護士として活動している。同時に、大学院にも進学して、修士論文をまとめるべく研究を始めている。
この間、ミャンマーをめぐる状況は大きく変わった。批判的な言論を弾圧することは、各国が制裁解除に向かっているなかで得策ではない。そう軍事政権が考えれば、ある程度の表現の自由は許容限度内になるだろう。私はA君と何度も話し合った結果、この時期、このタイミングで、『法セミ』論文の筆者がA君であることを明らかにすることにした。読者には、『朝日新聞』社説がいう「民主化を阻む最大の壁」についての関心と理解を深めてもらいたいと思う。軍隊がここまで政治に関与して不幸をもたらす体験をしたビルマ国民は、もう軍政はいらない、軍隊もいらないという強い平和への意志をもつかもしれない。その時、ミャンマーの新憲法は「平和憲法」になるかもしれない、とA君は夢を語っていた。いつか必ず、A君も参加して、ミャンマー平和憲法が誕生するときを待ちたいと思う。
以下、2009年12月にまとめた「ミャンマー2008年新憲法について」である。注を巻末にもっていく以外の変更は加えていない(『法セミ』には、重要用語についてビルマ語も付記されているが、「直言」ではカットした)。転載を了承いただいた『法セミ』編集部にお礼申しあげたい。
法曹資格所有者ビルマ人
K・S・W・A
はじめに
「ミャンマー」という国名は現在広く普及しているが、軍事政権の一方的な改称によるもので承認しがたい、ということから改称前の国名「ビルマ」が使われることもある。最近では「ミャンマー(ビルマ)」と併記される傾向にあるが、個人的には軍事政権を認めないという意味で、本稿では、国名をビルマと呼びたい。
ビルマは、1947年9月に採択されたビルマ連邦憲法下、1948年1月にビルマ連邦としてイギリスからの完全独立を達成した。その後、1962年9月に発生した国軍のクーデター以降、国軍が結成したビルマ社会主義計画党を中心とした一党制による「ビルマ式社会主義」体制が続いた。1974年1月に採択されたビルマ連邦社会主義共和国憲法により、「ビルマ連邦社会主義共和国」が成立した。1988年8月、ビルマの民主化運動が発生したが、国軍は、クーデターにより全権を掌握し、議会を解散するとともに、1974年憲法を停止した。国軍は、「国家法秩序回復評議会」を設置し、軍政を開始した。また、1997年11月15日に「国家平和発展協議会」に改組された。
協議会は、2003年8月30日、次の7項目から成る政治プログラムに関する政策を発表した。
(1) 1996年以来開かれていない国民会議を再開する。
(2) 国民会議が無事に再開された後、規律のある真の民主主義の実現に必要な手続きを段
階的に実施する。
(3) 国民会議(注1)によって定められた詳細な基本原則に基づいて、新憲法草案を作成する。
(4) 国民投票によって憲法を採択する。
(5) 新憲法に基づいて、自由で公正な「国民議会」選挙を行う。
(6) 新憲法に基づいて、議員が列席する国民議会を開催する。
(7) 国民議会で選出された国家指導者、および、国民議会によって設立される中央政府機
関が、近代的で先進的な民主主義国家を建設する(注2)。
この中の(1)から(4)までの4段階を実施することによって2008年5月10日に1988年から現在まで20年間ほど停止状態であった憲法を新しく創設するため、大型サイクロンで死者約8万5000人が発生したことにもかかわらず、軍政は国民投票を実施した。ビルマ国民のことを依然として無視していた軍政は最終的に2008年5月29日にミャンマー連邦共和国の憲法草案が国民投票で承認されたと発表した(注3)。新憲法は15章457条で構成されている。この、ビルマを発展させ、民主主義を与えると豪語された新憲法の中で、特に問題であり、疑問と私が考える条文をいくつか取り上げたい。なお、ビルマ軍政が出版した新憲法のビルマ語版(注4)と英語版(注5)とでは、やや異なるところがあるため、本稿ではビルマ語版に基づいて述べていくことにしたい。ビルマ語版は、英語版より命令調である。
国軍の国政介入及び権限維持
ビルマは独立から現在まで100%の軍事政権だったが、この新憲法に基づいて大統領制をとるようになった。国内にいるビルマ人の法律家や知識人らは、その要因として、軍政に対する諸外国からの非難や制裁を避けるためであることを挙げる。その一方、政権交代しても国軍が国家権力を保持するようにうまく構成されている。具体的には,以下の通りである。
第1章6条では連邦の方針として、6項目掲げられ、その中の(f)項では「国軍が国家の国民政治の指導的役割に参画することを常に目的とする」と規定されている。この条文は大統領制なっても軍事政権ではないかと疑問がある。多くの国では軍隊が政治、経済、外交などに大きく干渉していることはない。この条文は、明らかに軍の政治干渉となりうる。
さらに、20条では「(a) 国軍は、強力な、有能な、及び近代的な唯一の愛国的な国防勢力である。(b) 国軍は、軍事に関するすべてを単独で処理し解決する権利(注7)を有する。(c) 国軍最高司令官は、すべての武装勢力の最高司令官である。(d) 国軍は、国家の治安及び防衛に関して、すべての国民を参加させる権利を有する。(e) 国軍は、連邦の分裂をさせず、民族の結束の崩壊をさせず、及び主権を永久に守る主たる責任を負う。(f) 国軍は、憲法を保護する主たる責任を負う」と規定されている。この条項では「唯一の国軍」と表明し、国内少数民族の武装組織に政府軍への編入を求めた。実際、編入に抵抗したカレン族の武装組織は軍政の策略で同じカレン族のキリスト教徒(KNU)と仏教徒(DKBA)とで戦いとなりこの軍政の策略は成功した。おかげで約15万人の難民がタイや中国に流入している状態である(注8)。さらに、全ての国民に対して国軍に参加することを求めている条項である、第8章386条では、「国民は法律の規定に従い、軍事訓練及び国防のため徴兵義務を負う」と規定されている。
連邦議会における軍人議員議席
14条では「連邦議会、管区議会及び州議会は、この憲法で定めた人数に従い、国軍最高司令官が指名する議員としての国軍の軍人を含む」。17条(b)項で「連邦、管区及び州、連邦領、自治(注9)及び地区の行政には、防衛、治安、国境管理及びその他の責務を担うため、国軍最高司令官が指名する国軍の軍人が含まれる」と規定されている。
連邦議会は第4章74条によると国民院と民族院の2つの院で構成されている。両院の各議席の最大25%に、国軍最高司令官が指名した国軍の軍人が含まれる。109条で国民院の最大議員数は440名で構成され、同条の(b)項では「国軍最高司令官が法律に従って指名する110名以下の人民院議員として国軍の軍人を含む」と規定されている。また、141条によれば、民族院の議員数は224名で構成し、同条の(b)項で国軍最高司令官が指名する議員としての国軍の軍人議員は56名となる。各院において、国軍最高司令官が指名する軍人議員の議席が保障されている。連邦議会だけではなく、管区議会・州議会においても、同様に最大25%の議席が保障され、軍の権限維持を担保している。
ここで注目すべきは、国民院と民族院の構成について、軍人議員の最大数(25%)は規定されているものの、その他の議員の「最低数」が規定されていないことである。極端な場合には、国民院の構成が、何らかの事情のため、軍人議員110人・その他の議員0人であるということも認められ、他方、同様に、民族院の構成も、軍人議員が56名・その他の議員が0名となってしまうことさえ、許されてしまうことになる。例えば民族院について考えると、非ビルマ人である多民族の権利や、教育、文化及び言語の自由などを保障する条文はこの新憲法に規定されていない。さらに、13民族団体が上述の権利について民族の平和や発展に関する19項目の提案を拒否されたため、この憲法に不満を持っている(注10)。そのため多くの民族指導者は上述の権利が制限されるのではないかと考え、議会に参加するか否かは確定していない。この状況で民族代表議員がもし議会に参加しなければ、軍人議員が多数を占める可能性が高い。
また、第12章の436条では憲法改正のために、両院の総議員の75%以上の賛成が必要と規定されているが、25%の議席を確保する軍人議員が反対すれば、憲法改正は初めから不可能という矛盾がある。
複数政党制
複数政党制について第7条では「連邦は、真の規律ある複数政党制民主主義体制を実施する」と規定されている。しかし、軍政が主導して1993年9月15日に結成された「連邦連帯発展協会」しか実質的に機能していない。アウン・サン・スー・チーが先導した「国民民主連盟・NLD」の議員に軍政が経済制裁などを行っていることも明らかである(注11)。
第10章404条から409条までに政党の活動及び禁止について規定した。404条(a)項で、「政党は連邦の分裂をさせず、国民の結束の崩壊をさせず、主権の保全の目標がなくてはならない」。同条(b)項では国家の忠誠を敬う。405条で「真の規律ある複数政党制民主主義体制の実施」等が規定されている。
例えば、「連邦連帯発展協会」が政党となった場合には、各議会における公選議員の中の一定数が国軍支持派となりうる。憲法では複数政党制民主主義体制と規定されているが、これでは一党独裁となんら変わりないだろう。
大統領
第3章60条によると大統領は大統領選出協会が選出することになる。大統領選出協会は①連邦議会の国民院団、②連邦議会の民族院団、③国軍司令官が指名した連邦議会両院の軍人議員団で構成される。それぞれの団から副大統領が選出され、大統領選出協会によって、その3人の中から大統領及び副大統領が選出される。
大統領資格要件について59条で7つの要件が規定され、その中では、以下の2つに疑問があるように思われる。すなわち59条(d)項では「国家事項である政治的、行政的、経済的及び軍事的等の見識を持たなければならない」と規定されており、ここでは「軍事」についても「見識」が要求されていることに注意が払われなければならない。というのも,この見識(注12)という語には,体験や知識を相当程度に有しているという意味があるからである。それゆえ,連邦議会の3団体の中、国軍司令官が指名した連邦議会両院の軍人議員団以外、軍事の見識を持つ者はいない。ビルマ国内の法律関係者は、大統領及び副大統領は軍人議員がなるしかないと解釈している。
大統領および副大統領の資格要件を定める59条(f)項では「自身、両親の一方、配偶者、又は嫡出子の1人若しくはその配偶者のいずれも、外国勢力に対して忠誠を誓う義務を負う者、又は外国勢力の支配下の者、又はする者であってはならない」と規定されている。これにより、英国人の故・マイケル・アリスと結婚したアウン・サン・スー・チーさんは、大統領に立候補することが事実上不可能となる。なお、この59条(f) 項と同様の条件が国会議員となる資格などにも課されており、政治参加を排除する仕掛けは徹底している。
国軍司令官
第5章の199条によれば、大統領は国家元首となる。他方、201条において、「国防治安評議会」が構成され、そこでは副大統領等とともに構成員である大統領が、国防治安評議会の指揮を執る。1.大統領2.副大統領3.副大統領4.人民院議長5.民族院議長6.国軍司令官7.副国軍司令官8.国防大臣9.外務大臣10.内務大臣11.国境地域大臣によって構成されている。
この「国防治安評議会」の役割は、以下の通りである。すなわち、第11章「非常事態に関する規定」の411条、412条によれば、いずれの各地域における国民に対する危険が発生した場合や連邦の分裂・国民の結束の崩壊・主権の喪失の危険性が発生した場合に、「国防治安評議会」議員である国軍最高司令官、国軍副司令官、国防大臣及び内務大臣との調整によって、非常事態を宣言することができる。また、413条(b)項によれば非常事態宣言に際し、大統領は国軍司令官に連邦の立法権、行政権及び司法権を委譲することができる。すなわち、全権限を委譲することができるということになる。419条で権限を委譲された国軍司令官は連邦の立法権、行政権及び司法権を有すると再認されている。最も問題のある条項は418条(b)である。そこでは、大統領が国軍司令官に対して全権限を委譲した場合、同時に大統領及び副大統領を除き、当該の憲法に基づいて両議院の議員や自治区域などに与えた権限が停止されるのである。ある論者によれば、「この規定は将来的な国軍によるクーデターを事前に憲法上承認するためのものである」(注13)。
また、第7章「国軍」では国軍最高司令官の任命及び「国防治安評議会」の権限を含め、以下のような規定が置かれた。①国軍は、すべての国内的及び対外的な危機に対して連邦の防衛を主導する。②国軍は、国防治安評議会の承認により、連邦の治安及び国防において、国民全体の参加を管理する権限を有する。③国軍最高司令官は、「国防治安評議会」の提案及び承認により、大統領が任命する。④軍事裁判の判決において、国軍最高司令官の決定が確定決定となる。このように、大統領よりも国軍司令官のほうが優越し、国軍司令官は国家の重大な権限を有している。これでは、大統領は建前上の存在に過ぎなくなってしまう。「国軍の意に沿わない大統領は排除される」(注14)のである
むすびにかえて
この憲法のもつ問題性のほんの一端しか指摘できなかったが、「ミャンマー新憲法」なるものが、軍政に対する諸外国の非難・制裁を避けるために作られた「軍政の軍政による軍政のための憲法」であることはご理解いただけたのではないだろうか。ビルマの国民が、この憲法に心から賛同したということは考えられない。あるビルマの弁護士によれば、この憲法を読んだことのある国民、内容を理解している国民は少ないと筆者に語った。
この憲法に基づいて2010年に行われる総選挙について、米国と東南アジア諸国連合による首脳会議の共同声明「恒久的な平和と繁栄のための強いパートナーシップ」では、「自由、公正かつ包括的で透明性を持った方法で実施されるべきで信用性が担保される選挙を実施する状況づくりをミャンマー政府に求める」(注15)とされている。だが、かりにそのような方法で総選挙が実施されたとしても、このような矛盾と疑義に満ちた憲法の下では、ビルマの民主主義に未来はないだろう。
日本の地で、私は日本国憲法を学んだ。その視点から、このミャンマー共和国新憲法を検討してみた。この憲法は、日本のような立憲主義に根ざしておらず、真の意味での憲法ではない。言うなれば反憲法的憲法、「まやかし」の憲法である。その意味では、「外見的立憲主義」ですらない。そのようなビルマの実情を日本のみなさんに是非とも知っていただきたい。その一念から本稿を執筆した。ビルマの民主化を祈り、結語とする。
( 『法学セミナー』662号〔2010年2月〕42-45頁より転載)
《付記》文中写真のワッペンは、ミャンマー国軍の肩章である(2010年3月現在のもの)。左上から軍事大学、ビルマ・タイ国境警備隊(左肩)、同(右肩)、下左から海軍、空軍、陸軍である。
《付記2》2021年2月1日、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。スーチー国家顧問をはじめ、大統領や閣僚らが身柄拘束されている。10年前の「直言」で実名を出した弁護士について、再び、匿名にすることにした。文中では「A君」となる。文章がやや不自然になるが、彼を守るためにやむを得ない。