雑談(93)音楽よもや話(18)テレビと音楽 2012年4月16日

2月と3月に岩手、宮城、福島で講演したが、どこでもホテルでテレビをつけると盛んに「アナログ放送終了」の宣伝をしていた。そしてこの3月31日、東日本大震災の被災3県でもアナログ放送が終了し、地上デジタル化された。8カ月前の昨年7月24日を思い出した。同じことが東北の被災地でも行われていたのだろう。

地デジになって、何が変わっただろうか。私について言えば、試聴時間がかなり減ったことだろう。番組の放映時間に見なくなったのである。「選択肢が増えることはいいことだ」という風潮のなか、確かにチャンネル数は増えた。だが、どこを回しても、同じような番組をやっている。その結果、1週間の番組表を確認して、必要なものだけを録画し、それを後で(時には倍速で)見るようになった。民放だけではない。NHKの番組もじっくり味わうものが減ってしまった。結果的に、私のテレビとの付き合い方は薄くなった。

 それでも、2ヵ月に1本くらいの割合で、じっくり見る良質な番組がまだNHK スペシャルなどにはある。「小さき人々の記録―ロシア」は「直言」でも紹介したが、昨年12月、BSプレミアムでその拡大版が11年ぶりに放送された。「3.11」を体験した後だけに、作品のすばらしさを改めて実感した。歴史に残る名作の一つと言ってよいだろう。

テレビドラマについても、私なりに見てきたつもりである民放では「北の国から」のような重厚長大なドラマもかつてはあった。最終回の放送から今年で10年が経過した。早いものである。 NHKの「朝ドラ」もよく見た時期があり、「直言」でも書いたが(「ゲゲゲのゲーテ」)、最近では距離をとっている。NHK・民放を問わず、地デジ化の後、業界内の妙な競争が進み、安手の脚本で、特定のタレントのキャラに過度に依存した作品も少なくない。また、このところの民放の「ゴールデンタイム」はいずこも、お笑い芸人や「その他大勢タレント」を雛壇にすえて、そのじゃれあいの合間に災害や海外の事件、警察の広報用映像などをはさんだ「経費削減番組」が横行している。最近の音楽番組も、ニュース番組も、途中の解説やコメント、つぶやきのようなおしゃべりが多い。実に多い。そこで思い出したが、20年前、ラジオ番組でご一緒した小倉智昭さんが、「視聴率ではなく、『視聴質』が大事ですね」と言い切ったことがある。その後、テレビの仕事が増えておられるようだが、いまもその考えに変わりはないのだろうか。

さて、NHKの長寿番組がまた一つ終了した。58年続いた「新聞を読んで」のことはすでに書いたが、それと同時に、教育テレビ(ETV)の「芸術劇場」も終了となっていた。そして、今年3月、ついに「N響アワー」が打ち切りになったのである。放送開始から32年。また良質の番組が消えた。

そんなとき、『朝日新聞』の「記者有論」欄に興味深い一文を見つけた。吉田純子記者(文化くらし報道部)による「N響アワー終了 音楽と出会えますか?」である(同紙2012年4月3日付)。年末「クラシック回顧」をここ数カ年にわたり毎回執筆し、また、「朝比奈隆、なお存在感」(2008年8月8月付夕刊Be)などをはじめ、この12年間に朝日の音楽関係記事を多数執筆している、音楽報道分野の信頼できる記者である。

 吉田記者はまず、日曜午後9時以降の「週末ゴールデンタイム」から、上質の芸術中継番組が相次いで撤退することを「何とも残念だ」としながら、自らの学校時代の体験を語る。出身地の和歌山市には本格的コンサートホールもプロの楽団もなかった。「N響アワー」や「芸術劇場」と出会い、「オーケストラの描き出す多彩な音色とホロビッツ〔ピアニストの巨匠〕の超絶技巧に打ちのめされ、毎週録画した。ほれ込んだ曲は、学校の音楽室にテープを持ち込んでレコードからダビングした。あの日なくして今、こうして音楽の記事を書いている自分はいない」と。NHK が芸術関係の番組をBS放送に集め、早朝や深夜の時間帯に流すという方針をとっていることについて吉田記者は、「番組表を調べてわざわざチャンネルを合わせるのは、すでにそのジャンルに関心のある固定ファンに限られるだろう。そうなると、子どもたちが芸術の世界と偶然出会う機会が閉ざされてしまう」という。まったく同感である。

子どもにとって、日曜の大河ドラマのあと、教育テレビにチャンネルを回した瞬間、今まで聴いたことのない音楽が流れてきた。思わず聴いてしまった、ということも起こりうる。「N響アワー」の枠(日曜午後9時)というのは、小学校高学年以上が偶然音楽と触れ合うことのできるギリギリの時間帯だったのではないか。それがなくなる痛手は大きい。4月からの新番組「ららら♪クラシック」。NHKにとって、この番組改編は「クラシックの『敷居を低く』」が狙いだったというが、おしゃべりが増えた分、オーケストラによる全曲演奏はなくなった。2回目(「天才モーツァルトの素顔」)まで見たが、1時間のうち、曲のさわり(せいぜい1楽章)を4パターン流すだけで、あとは「おしゃべり系」だった。それなりに工夫はされているが、N響アワーのような充実感はない。クラシックは「敷居が高い」、のではない。触れ合う機会が少ないだけだ。どんな人でも、ある曲、ある演奏との運命的な出会いというものがあるはずだ。それを演出する可能性のある良質な番組が一つ消えてしまった。

吉田記者はNHK交響楽団の「公共性」についても踏み込む。曰く。「地域間の文化格差をなくし、すべての人に平等に、良質の文化との出会いのきっかけをつくる。年間14億円の受信料によって運営されているN響の存在意義も、まさにその公共性にあるはずだ」と。なるほど。「N響アワー」は日本全国、どこにいても、日曜夜9時という時間帯にN響の演奏を聴くことができる。その貴重な空間を、「敷居」の高低を理由にして奪ってしまったNHK経営陣の見識が問われよう。

音楽に限らず、芸術は偶然の出会いが大きい。クラシック音楽が嫌いだった私は、中学2年のとき、父親が入院している時にたまたま届いたシベリウスの第4交響曲とブルックナーの第9交響曲のレコードをかけて、その場に立ち尽くして聴いたのを鮮明に覚えている45年前の偶然的出会い以来、クラシック音楽は私の生活の一部になった最近でも、たまたまつけたFM放送で、夜まで終日、「朝比奈隆三昧」をしてしまったことがある。BSプレミアムの世界はまだまだ敷居が高い。普通の家庭で、「偶然」、クラシックに触れる機会をもたらしうるのは、教育テレビの日曜夜9時の「N響アワー」だったのである。吉田記者の言葉にはいちいち共感するが、彼女のいう「放送が生み出す『出会いの力』が、今こそ必要だ。…NHKには再考の余地はないのだろうか」という結びの言葉を支持したいと思う。

NHK経営委員会の委員になった同僚が、NHKのホームページで、「NHKは社会にとって最も重要な公共空間(コモンズ)であり、この空間に何が描かれるかにより、社会のあり方も左右される。日本の社会が成熟市民社会へと構造転換を遂げる、そのためにNHKの果たす役割は決定的と思う」と、実に立派なことを言っている。近いうちに大学で会った際、「N響アワーの公共性」について質問してみようと思っている。

《追記》NHK経営委員に就任した同僚に「N響アワー」の復活を説くと、まったく同感ということだった。「ららら」批判でも意見が一致した。もちろん経営サイドの意見がストレートに番組制作に反映することはないが、いずれ何らかの形で改善がなされることを期待したい。(2012年7月2日)

トップページへ。