淡雪で人を罪に問えるか 2012年4月23日

月は大きな事件が次々に起きている。いずれも「直言」1回分はかけて論じたいものばかりだが、新学期が始まり、原稿を書く時間とパワーが残念ながら確保できない。そこで、検察の問題について少しだけ書くことにする。ただ、先週火曜日(17日)、米国での石原慎太郎東京都知事の発言「尖閣諸島を東京都が買い取る」が物議をかもしているので、これについて一言しておきたい。時期とタイミング、さらに米ヘリテージ財団(保守系シンクタンク)での講演というあたりが、いかにも石原氏らしい。

この国では、「人の死」をめぐる大切な法律が政局絡みで改正されたり刑事手続や刑事政策上の仕組みが、ワイドショー的勢いで厳罰化方向に改変させられたりと、国民の権利に関わる重要な仕組みが短期間のうちに、一気に決められてきた。私はこうした傾向を憂える立場から、尖閣諸島をめぐる問題についても、政局的思惑が微妙に交錯するなかで進められることに危惧を覚える。とはいっても、『毎日新聞』4月18日社説(「都が出るのは筋違い」)のように、都の「独自外交」は「自治体ののりを越える」もので「国家の体をなさなくなる」というような批判の仕方には違和感をもつ。

憲法上内閣の権限である外交処理権(憲法73条2号)を損なわない範囲で、自治体が対外交渉権(「自治体外交」権)を分有することは、憲法学的にも根拠があることである。米軍首脳と直接交渉した村長の話(山内徳信・水島朝穂『沖縄読谷村の挑戦』岩波書店)や、岩国基地をめぐる住民投票などもあり、安全保障問題について「のりを越えない」という形で、自治体の関与と可能性をことさら狭めるのは妥当ではないだろう。ただ、そのことは石原氏の発言を丸ごと正当化することを意味しない。なお、尖閣諸島の問題をめぐっては、直言「尖閣切手とビデオ」で書いた。特に漁船衝突事件では、「政治と検察」の問題が鋭く問われたことは記憶に新しい。それについては、直言「次席検事の『眉間の皺』――検察と政治(その2)」をお読み頂ければ幸いである

「検察と政治」というテーマでは、「郵便料金不正事件」において、担当検事による証拠の改ざんが行われたことは記憶に生々しい。これは直言「『さぬきうどんを捏ねる』――検察と政治(その1)」で触れたが、これとの関連で、今週の木曜(26日)、東京地裁において、小沢一郎民主党元代表に対する判決が言い渡される(政治資金規正法違反事件)。東京第5検察審査会による「起訴議決」に基づくものだが、その判断の決め手となった捜査報告書について、担当検事による虚偽記載の疑いが指摘されている。この事件における検察の動きには不自然なところが多い。それは判決にも当然影響するだろう。なお、直言「検察審査会と『国民目線』」も参照されたい。

 さて、検察の問題と言えば、木嶋佳苗被告に死刑の判決が言い渡された「首都圏連続不審死事件」の論告において、検察官は異例の表現(例え)を用いた。

 『読売新聞』4月15日付社説は、検察の論告求刑公判における例え話を「違和感がある」と指摘した。すなわち、「寝る前に星空が見えたが、夜が明けて一面雪化粧であれば、雪が降るのを見ていなくても、夜中に降ったことがわかる」。練炭自殺に見せかけて3人の男性を殺害したとされるが、それを裏づける直接証拠がないなかで、検察はたくさんの間接証拠を積み重ねて被告人の犯行であるとした。社説は、「想像力で判断してもらいたい、と述べているかのようにも受け取れる」と厳しい。加えて、『読売』同日付1面コラム「編集手帳」もこの例え話を取り上げ、「想像力で殺人を認定するわけにはいくまい。『雪冤』という言葉が浮かぶ。自らの無罪を晴らす、の意味。冤罪を生まぬことが刑事裁判の鉄則である」と結ぶ。翌16日の『東京新聞』1面コラム「筆洗」もこの例え話を引き、「状況証拠だけで有罪にできると伝えたかったとしても、文学的な表現は、証拠構造の弱さを逆に浮き彫りにしたか。検察は自らの立証責任にもっと謙虚になるべきだった」と書いた。

 自然現象を、人間が行った事象に置き換えることは不適切である。2010年に出た最高裁の判例の、「状況証拠によって認められる事実の中に、被告が犯人でなければ合理的に説明できないものがあることを要する」という観点から、もっと丁寧に認定すべきではなかったか。2010年の鹿児島裁判員裁判で鹿児島地裁は、この最高裁判例の手法を使って、被告人に無罪の判決を言い渡している(「死刑か無罪か――鹿児島裁判員裁判」)。しかし、今回のさいたま地裁判決は、木嶋被告について死刑という結論を導くべく、「被告人が犯人であると優に認められる」と強く断定した。

 検察が文学的表現を使うなら、こういうのはどうだろうか。「淡雪(あわゆき)のつもるつもりや砂の上」(久保田万太郎)。春の雪は降ってもすぐ消えてしまう。「泡雪」や「沫雪」ともいう。季語や季節を語るならいいが、被告人の犯行を論証すべき場面で「雪」の話はあまりにも「淡い」のではないか。

 なお、論告求刑公判において検察は、上記の文学的表現のあとに、次のように続けた。「誰かがトラックで雪をばらまいた可能性もあるが、そんなことをする必要はない。健全な社会常識に照らして、合理的かどうかを判断してほしい」と。『産経新聞』4月15日付社説はこの「健全な社会常識」を導く検察の物言いをポジティヴに評価している。『読売』社説(編集手帳)のトーンとは大分異なる。「健全な社会常識」という過度に広範で抽象的な物言いは、こと死刑が問われる事件においては慎むべきではないか。

 NHKスペシャル「木嶋被告 100日裁判」(4月15日夜9時)は興味深かった。実際に裁判員を経験した6人の市民に木嶋被告事件を傍聴してもらった上で、関係する資料も読んでもらう。元裁判官が司会をして、模擬評議を行うという趣向である。

 裁判員には守秘事務があって、実際の評議は窺い知ることはできない。しかし、裁判員経験者たちは真剣にこの事件と向き合っていた。検察が提示した証拠についても鋭い指摘が飛び交う。例えば、練炭を実際に模擬評議に持ち込み、それを手でつかんでみる。車内で練炭自殺していたとされる男性の手は黒くなっていなかったから、木嶋被告が持ち込んだと検察は断定するのだが、模擬評議で元裁判員たちは、被害者が手を拭いた可能性も捨てきれないという結論に傾く。実際、被害者の遺体の手の写真が法廷に提出されたが、その手から練炭の成分が検出されたかどうかについて、鑑定証拠は存在しなかった。その点を元裁判員たちは疑問視していた。

他にも模擬評議で重要なやりとりがあったが、私が一番衝撃を受けたのは、いざ投票という段になって、元裁判員の主婦が泣きだしたことである。模擬評議とはいえ、人一人の命に関わることについて決められない、と。結局、投票は行われなかった。もし、この模擬評議で投票をしていたら、死刑の結論が出ただろうか。番組の流れを見る限り、死刑判決にはならなかったのではないかと推測される。それくらい際どいケースだった。

 先週木曜(19日)、死刑判決確定後32年も経過した袴田事件の袴田巌氏について、同氏の血液だとされた血痕がDNA 鑑定の結果、別人のものと判明した。袴田死刑囚は76歳。一刻も早い再審開始が求められる所以である。

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