憲法施行65周年の日は、香川県高松市で講演した。ドイツに滞在した1988年、91年、99年と、大学を移った直後の1990年、96年の計5回を除けば、毎年5月3日は日本のどこかで講演していたことになる。直近では、東日本大震災直後に福岡県大牟田市、2010年が静岡市、2009年は広島県福山市だった。この高松講演により、北海道から沖縄まで47都道府県すべてで講演したことになる。個人的には節目となる日だった。
思えば、初めて憲法記念日に講演したのは、1986年の釧路市だった。札幌から国鉄の特急「おおぞら7号」で向かった。中曾根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を声高に唱え、国鉄の分割民営化を進めていた頃のことである。講演の翌年4月1日、国鉄は解体され、JRが発足した。あれから26年。民営化と規制緩和は小泉純一郎内閣を経由して劇的に進んだ。「戦後政治の総決算」も、中曾根氏のタイムテーブルによれば、最終の憲法改正の段階に入っている。
自民党は、この4月28日のサンフランシスコ講和条約発効60周年に合わせて「憲法改正草案」を発表した(27日総務会了承)。『産経新聞』は早速「国防軍の保持明記」という見出しで伝え(28日付)、全国紙では唯一、「妥当な『国の在り様』提起」という社説まで出して歓迎した(29日付)。
1994年と2000年、2004年の3度にわたり自ら「読売改憲試案」を出して改憲にご執心の『読売新聞』(渡辺恒雄会長・主筆)は、4月28日付政治面解説で比較的大きく取り上げ、「保守的な価値観を前面に押し出した」と特徴づけている(なお、後に5月3日付社説で評価)。この点、『朝日新聞』は、「改憲案 にじむ党内配慮」として、「保守層へアピールはしているが、何かを具体的に変えたいのではなさそうだ。現憲法の最大の問題点である『強すぎる参院』に触れない理由が身内への配慮なら、形ばかりの修正との印象を持たれるだろうと」という長谷部恭男氏(東京大学)のコメントを紹介している(4月28日付)。野党になって3度目の憲法記念日に向けて、「党是としての改憲」を強調することで、保守回帰の独自色を出そうとしたものと見られる。
2005年、小泉内閣当時の自民党「新憲法草案」については何度かこの「直言」でも触れた。当時は憲法改正案ではなく「新憲法草案」といっていた。そこで私は、直言「どこが新憲法なのか」を出して、その問題点を次のように指摘した。(1)短縮された無味乾燥な前文、(2)9条1項を残し、「自衛軍」の保持と「軍事裁判所」の設置を定めたこと、(3)人権条項の思いつき的追加(犯罪被害者の「権利」、知的財産権、国の環境保全の責務〔個人の環境権ではない!〕等々)、(4)憲法改正手続の緩和(発議要件を総議員の3分の2から過半数へ)、定足数を採決時に限って総議員の3分の1としたこと(現行は、総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない)など、安易な手続規定の緩和、である。「新憲法草案」という形で力みすぎた7年前に比べ、今回は「憲法改正草案」とタイトルこそ控えめだが、中身は2005年よりも国家主義的で、筋の悪い保守性が前面に出ている。1週間前に公表されたばかりで、また突っ込み所満載のため、網羅的に、また体系的に問題点を指摘する時間的余裕がない。そこで、条文の順番に即して、気づいた論点のみ一気に並べていく。読みにくいかもしれないが、ご容赦いただきたいと思う。
まず、前文である。「天皇を戴(いただ)く国家」「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」「自由と規律」「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承」等々、2005年の草案と比べて、伝統重視、国家主義的な色合いを一段と強めている。2005年では「象徴天皇制は、これを維持する」と受け身の姿勢だったものが、「天皇を戴く国家」という強い表現をとるなど、保守回帰の傾きは今回の方がずっと濃厚である。
1条で天皇を「元首」にするとともに、国旗・国歌(3条)や元号(4条)に憲法上の根拠を与えている。他方、国民に対して、国旗・国歌の尊重義務を新たに課している(3条2項)。天皇の行為についても、現行憲法4条にある「天皇は、この憲法が定める国事に関する行為のみを行ひ」から「のみ」を削除し、「式典への出席その他の公的な行為を行う」という形で、実態の方に規範を合わせている。「のみ」の限定をとり、「その他」を入れることで、天皇の「ご公務」を拡大している。国会での天皇の「お言葉」など、従来、憲法学で解釈が分かれていた問題はこれですべて「解消」というわけだろう。
何よりも、この自民党「憲法改正草案」の目玉は9条の2だろう。7年前の「新憲法草案」が「自衛軍」としていたものを「国防軍」と、より本音に近い表現にしている。21世紀になって各国とも「国防軍」の任務を相対化するなか、この段階になって「国防軍」というのはアナクロニズムも甚だしいので、「国防軍」といっても「国土防衛軍」の意味ではなく、地球規模で日本の国益(市場、資源、それとのアクセス)を「防衛」するという意味の「国益防衛軍」、略して「国防軍」ということなのだろう。「国際的に協調して行われる活動」とは国連の活動に限定されず、イラク戦争のような米国の戦争も含む。「国益防衛軍」たることは、9条の3で「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」としていることとも符合する。石油や天然ガスなどの資源確保は、伝統的な「国土防衛」よりも機能的任務だからである。もっとも、2月28日に公表された自民党「憲法改正原案」9条の3では、「国は、主権と独立を守るため、領土、領海および領空を保全し、その資源を確保し、環境を保全しなければならない」となっていた(『産経新聞』3月4日付)。私は、4月2日の「直言」で、「『主権と独立を守る』国家任務のなかに、環境の保全が入っていることは何とも奇妙」と、その「混乱の極み」を批判しておいた。さすがに「環境の保全」を9条に入れるのはおかしいというまっとうな指摘が党内からあがったのだろう。この下りは削除された。他方、今回新たに、「国民と協力して」を加えることで、対外的な軍事行動に国民を動員する根拠が創出されたことは見逃せない。なお、「公の秩序維持活動」、特に「国民の生命若しくは自由を守るための活動」という形で、治安出動に限定されない、対内出動の多様な可能性を広げている点も要注意である。
この「憲法改正草案」では、もう気分は「国防軍」というわけで、軍刑法から軍法会議(ここでは「国防軍審判所」)、軍機保護法まで普通の軍隊がもつ全属性を具備することができる(9条の2第4、5項)。66条2項が内閣総理大臣と国務大臣が「文民でなければならない」と定めるのを、「現役の軍人であってはならない」に堂々と改めている。これで、文民規定をめぐる解釈にも決着をつくというわけだろう。
人権条項への手の入れ方も、保守的・国家主義的な観点から周到かつ執拗である。
現行憲法が基本的人権の意義を人権総論の11条と、第10章(最高法規)の97条で重ねて確認しているのを、97条を削除するとともに、「現在及び将来の国民に与へられる」という文言まで削除している。
加えて、12条の「自由と権利」についての「公共の福祉」のかかり方を、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」という制約的文言のオンパレードによって、自由・権利の価値と効果を減殺している。「公共の福祉」とは何かについて判例はさまざまに分岐するが、「公益及び公の秩序」という文言に変更するだけで、人権制約は格段に容易となり、「常に」人権が劣位することになる。
今回の草案で特に露骨なのは13条である。「すべて国民は、個人として尊重される」という現行憲法の核心的条文が、「全て国民は、人として尊重される」という陳腐な表現に改変されている。普遍的な「人間主義」や「個人主義」を嫌う復古的保守の臭気が漂うが、問題はそれにとどまらない。憲法学では、「個人の尊厳」「人間の尊厳」「ヒトの尊厳」の尊重という3つの区別と連関が自覚されつつあるが、ここで「人」に改めてしまうと、その区別も吹き飛び、直ちに次のような問題を生ずる。
第1に、利己主義でない個人主義を打ち消し、多様な考えをもった一人ひとりを重視した「個人」の意味を薄めてしまう。第2に、共同体の特定の価値観を帯びた「人間」の意味が、後段の「公益及び公の秩序」の強調と連動しつつ強まってくるおそれがある。第3に、生物学的な「ヒト」の意味が、2000年の「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」1条にいう「人の尊厳」を想起させるような混在の仕方をしていることである。なお、この問題提起については、藤井康博「動物保護のドイツ憲法改正(基本法20a条)前後の裁判例――『個人』『人間』『ヒト』の尊厳への問題提起 2」(『早稲田法学会誌』60巻1号〔2009年〕475頁)参照。
次に、14条の「法の下の平等」の差別列挙事由にある、人種、信条、性別、社会的身分または門地の5つに、「障害の有無」を新たに付け加えたことである。この点はどう評価すべきだろうか。英国の障害者差別禁止法理に詳しい杉山有沙氏(早大院社学研究科)によれば、単なる「障害」ならまだしも、ここで「障害の有無」としたことには疑問がある。障害には、(1)障害者が本人で負う不利(身体的、知的、精神的機能障害による障害)と、(2)社会的責任で生じる不利(社会から生ずる障害)の二種類があるが、国家が差別禁止の脈絡で緩和・解消を求められるのは(2)の場面に限定される。(1)については社会福祉による支援の問題となる。それゆえ、「憲法改正草案」の「障害の有無」という表現は、この両者の区別を曖昧にするものであり、しかも、14条にいう「人種」や「信条」などの差別列挙事由とは次元を異にし、同列に並べるのは妥当ではないということになる。
外国人の参政権については、これを国と地方のすべての段階で排除すべく、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする15条1項を、「主権を有する国民の権利」と書き換え、同3項の「成年者による普通選挙」も「日本国籍を有する成年者による普通選挙」に変更するとともに、地方自治体の住民による首長・議員の直接選挙の規定(93条2項)まで、「地方自治体の住民であって日本国籍を有する者が直接選挙する」と改めている。外国人の地方参政権を憲法レヴェルで完全に遮断する狙いが見て取れよう。
政教分離原則(20条)の相対化を定着させる意図も明確である。「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」として、国と地方公共団体の宗教的活動の制限を緩和しようとしている。最高裁の津地鎮祭訴訟判決以来の「目的・効果基準」も、かかる改正が行われるならば不要となるだろう。
「憲法改正草案」では権利の相対化も著しく、特に憲法21条の表現の自由については、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」については禁止される。政府批判や「公」のベールに包まれた問題の批判や暴露もあるだろうが、憲法に「公益」「公の秩序」が入れられれば、政府の恣意的解釈の余地は広がり、表現の自由はますますやせ細ったものになっていくだろう。
「公共の福祉」概念をもともと含む憲法の2カ条について、まず22条の「居住、移転、職業選択の自由」については「公共の福祉」を削除する一方、29条の財産権制限については、「公共の福祉」の代わりに「公益及び公の秩序」を入れた。「公共の福祉」と異なり、「公益」「公秩序」と言えば解釈の余地はなく、制限側にとってハードルは著しく低くなる。
憲法24条の家族のありようについても、婚姻の成立が「両性の合意のみ」を条件としていたのに、「のみ」を削除する一方、「家族は、互いに助け合わなければならない」という形で、国家が家族の内部のありように介入する余地を認めている。
国の環境保全の責務(25条の2)は、すでに法律にも規定されている緩い責務規定のコピペとも言える意味のないものになっている。加えて、自民党「新憲法草案」にはなかった「国民と協力して」の一文を挿入することにより、国家の責務がさらに相対化されている。
国家の介入のチャンネルを拡大する機能を果たすのは、在外国民の保護の規定である(25条の3)。在外国民の保護は昔から外務省の仕事である(外務省設置法4条9号)。外国の「緊急事態」の際の邦人保護を憲法に書き込む必要はない。
犯罪被害者の「人権」という規定(25条の4)も入った。「新憲法草案」の方では犯罪被害者の「権利」としていたのに、今回は「犯罪被害者の人権」というミスリードをしている。そもそも憲法の刑事手続上の人権は「加害者の人権」ではない。刑事手続上の人権は、強力な国家権力から個人を守るために存在するのであって、たまたま犯罪の疑いをかけられたすべての個人が対象となる。そこに「被害者の人権」という言葉が入ることは、この仕組みに混乱をもたらす。被害者の権利は、関連法律を充実させて、しっかり保障していくことが大切なのである。
拷問と残虐刑の禁止(36条)については、「絶対にこれを禁ずる」から、単なる「禁止する」に後退させている。テロや人質事件に際して、やむを得ず拷問も行うことを想定していると言えよう。
憲法28条は、団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)のいわゆる労働3権を保障しているが、今回の改憲草案は、第2項を新たにおこして、「公務員については、…法律の定めるところにより、前項に規定する権利(団結権など労働3権)の全部又は一部を制限することができる」としている。これは、公務員の労働3権について、「全部制限」を含む状況に置くことを意味する。
憲法56条の改正点は7年前の「新憲法草案」も同様だった。その際、「改正」の志の低さを問題にしておいた。現行憲法56条1項では、「両議院は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければ、議事を開き議決をすることができない」となっている。「新憲法草案」も今回の「憲法改正草案」も、「両議院の議決は、各々その総議員の3分の1以上の出席がなければすることができない」に変えている。議決の段階で3分の1が揃っていればよいわけで、審議の途中は3分の1を切ってもよいという提案である。会議中にコーヒーを飲みに出かけたり、国会内の美容室に滞在したりする議員の「現実」に合わせて憲法を改めるという愚行である。国会の劣化の憲法条文化とでも言えようか。
政党条項(64条の2)、内閣総理大臣が欠けた場合の対応(70条2項)、衆院解散権の明確化(54条1項)、内閣総理大臣の国防軍統括権(72条3項)、地方自治体における住民負担の明確化(92条2項)など、論ずるべき論点は多々あるが、ここでは立ち入らない。なお、財政の「健全性」について、憲法事項として規定化するのは疑問である(83条2項)。
9条の2に続く、もう一つの目玉は、緊急事態規定である(98、99条)。緊急事態における国・自治体のありようについて定めるべきところ、国民の義務までここに書き込んである。すなわち、国民は、国・自治体等の指示に従わなければならない(99条3項)。この問題については、参議院憲法調査会における参考人質疑(2003年7月16日)でも論じたのでここでは省略する。
憲法改正については、「新憲法草案」同様、憲法改正の発議は、両議院の総議員の「3分の2」から「過半数」に下げられている(100条)。この問題についてもすでに論じたので省きたい。
立憲主義の観点からその変更が見え見えで、かつ激しいのは、憲法尊重擁護義務である。「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と、トップに「国民」を持ってきた。権力に対する憲法尊重擁護義務から、国民に対する憲法忠誠義務への重点の移行である。権力担当者に対する義務づけの程度も「擁護」が削られ、半減している。
以上、駆け足で自民党の「日本国憲法改正草案」を眺めてきた。扱うべき論点も多岐にわたるが、内容はあまり検討の食欲のわかない、民主党が擦り寄ってくるようなブリリアントな中身も伴わない、党内保守派の意向を組んだ先祖返り的な代物と言えよう。
憲法記念日を前にした5月1日、超党派の国会議員でつくる「新憲法制定議員同盟」が新憲法推進大会を開いた。そこで、「災害からの復興についても現憲法は重大な欠陥を有している」という大会決議を採択した。これを他紙よりも大きく報じた『産経新聞』5月2日付は、「災害復興『憲法に欠陥』」という見出しを付けた。何でもかんでも憲法のせいにする悪い癖である。憲法が悪いのではなく、憲法の理念を具体化できない政治の無策にこそ問題なのである。
なお、この「大会」では、会長の中曾根康弘元首相(94歳)が「あの世でいい憲法ができるのを待っている」と挨拶したという(『産経』同)。その中曾根氏は51年前、「首相公選」を制度化した「高度民主主義民定憲法草案」(1961年1月)を、一衆院議員として世に問うた。「首相公選」は小泉純一郎元首相が検討会を立ち上げ、すぐに飽きてしまったが、いま再び、橋下徹大阪市長がこれを前面に押し出そうとしている。「首相を国民が直接選ぶ」という言い方は、一般の方には魅力的に響くかもしれない。だが、そこにはたくさんの論点、危険な落とし穴が含まれている(詳しくは、直言「首相公選論の落とし穴」と拙稿「『信頼は専制の親である』」〔『新聞研究』1998年11月号〕参照)。中曾根-小泉-橋下と、親子三代のような年齢の政治家たちがこだわってきた「首相公選」が、憲法改正問題との絡みで浮上しそうな雲行きである。これは憲法9条改正よりもやっかいな相手になるかもしれない。
《付記》冒頭の写真は、2005年5月28日、韓国・漢陽大学で開催された韓国公法学会で、「日本における改憲の動向」と題して講演したときのものである。ソウル大学校法科大学(2004年6月8日)、延世大学(同6月10日)でも講演した。