総選挙から1カ月もたたないというのに、この国の経済や社会を歪んだものにした古い政治が、何の反省も総括もないまま、当時の「懲りない面々」(特に麻生太郎氏、竹中平蔵氏)と共に蘇り、ハイテンションで驀進している。新年2度目の「直言」では、残念ながらそうした問題を取り上げる時間的余裕がない。昨年5月、学会繁忙期の穴埋め原稿として「第1交響曲を聴く」をアップしたが、年明けの今回も、ストックしてある「第9交響曲を聴く」をアップする。前回と同様、趣味の世界の「埋め草」であることをご了承いただきたい。
9月26日、講演で沖縄に向かう全日空機のなかで、機内誌『翼の王国』2012年9月号をパラパラめくっていると、11チャンネル「クラシカル・ウェーブ」特集が「ザ・ラストシンフォニー」だった。昔からほとんど使わないできた座席のヘッドフォンを頭に装着してみた。途端に流れてきたのが、何とブルックナーの交響曲第9番ニ短調の第3楽章だった。思わずにっこりしてしまった。気分よく聴いていると、すぐにパーソナリティのおしゃべりに変わった。なぜじっくり聴かせてくれないのだろう、と思いつつ、再び『翼の王国』を見ると次のような番組構成になっていた。
*ブルックナー:交響曲第9番ニ短調補筆完成版から第3楽章:アダージョ(遅く、荘重に)〈抜粋〉、第4楽章:フィナーレ(神秘的に、速くなく)〈抜粋〉。演奏:サイモン・ラトル指揮ベルリンフィル。
*ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」から第2楽章:モルト・ヴィヴァーチェ〈抜粋〉。ルドルフ・ケンペ指揮ミュンヘンフィル。
*チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」から第2楽章:アレグロ・コン・グラツィア。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリンフィル。
*シューベルト:交響曲第9番ハ長調D.944「ザ・グレイト」から第4楽章:フィナーレ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)。クラウス・テンシュテット指揮ベルリンフィル。
抜粋が多いが、通狙いは最初のブルックナー。しかも「第4楽章」を伴う。これは珍しい。実はこのラトル指揮ベルリンフィルの演奏のCD(EMI Classics 2012)は、これが発売されたときに購入していた。ただ、ラトルの演奏が私の好みからはやや距離があったので、一度聴いただけでライブラリーにしまいこんでいた。でも、雲海を眺めながら改めて聴いてみると、また違った味わいだった。これについては後に述べる。
9月の全日空の機内番組は「さまざまな第9を聴く」という趣向ではなく、作曲家が死ぬ前の「ラストシンフォニー」がテーマだった。ラストと言えば、ブラームスとシューマンが「第4」、メンデルスゾーンは「第5」、シベリウスなら「第7」というように。ちなみに、ショスタコーヴィッチは「第15」である。
ラストが「第9」の作曲家となると、やはり「ダイク」というだけで誰もが知っているベートーヴェンということになろう。彼以降のすべての作曲家は、「第9」をラストにすることを敬遠した節がある。マーラーには一楽章だけの「第10」があるし、ブルックナーも「第0番」などがあるから、すべてカウントすれば「第9」は9曲目の交響曲という意味ではない。シューベルトも「第9」がラストだが、これを「第7」にカウントする仕方もある。ドヴォルザークのラストは「第9」としてよりも、「新世界」として有名である。ちなみに、ベートーヴェン以前のハイドンの第9番ハ長調やモーツァルトの第9番ハ長調は、ここでは触れない(第1番について書いた「直言」参照)。
さて、本題のブルックナー「第9」であるが、これは第3楽章アダージョで静かに終わるのを通例とする。シューベルトと同様の言い方をすれば、第4楽章を欠いた「未完成交響曲」ということになろう。
46年前、中学2年生の夏、生まれて初めて自発的に聴いたクラシック音楽が、ブルックナーの「第9」だった(ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏)。それ以来、この「第9」は第3楽章で静かに、かつ厳かに終結するのが頭に染みついている。
スコア(総譜)で第3楽章を見ると、とりわけ155小節(練習番号L)からの4小節、弦5部が強奏で入る、“breit”(幅広く)の指示のある箇所は、息を呑む美しさだ。コーダに入る231小節目、練習番号Xから始まる13小節も至福の時である。ホルンや金管(トランペットを除く)が弱音で5小節にわたり、F♯の音を吹き続け、弦5部がピチカートで、休止を入れつつ3音続けて全曲が終わる。音がすべて消え、長い沈黙のあと、指揮者が静かに振り返る。嵐のような拍手。これがブルックナー「第9」の理想的な終わり方と私は考えてきた。実際の演奏会でもそうだった。
思い出せるものだけでも、ロブロ・フォン・マタチッチ、ギュンター・ヴァント、朝比奈隆、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー、ヴォルフガング・サヴァリッシュなどの指揮で生演奏を聴いてきた。すべて第3楽章で静かに終わった。
もっとも、「テ・デウム」という独唱・合唱付きの宗教曲を第4楽章の位置にもってくるやり方もある。ベートーヴェンの「ダイク」と同じ番号なので、第4楽章に独唱・合唱が入れると集客力もいい。ブルックナー自身が「テ・デウム」とのカップリングをほのめかしたとも言われているが(ウィーン大学での講義で)、あまりにベートーヴェンを意識しすぎた組み合わせであり、彼の真意がどこにあったのかは疑問である。しかも、「テ・デウム」はハ長調なので、ニ短調の交響曲の終楽章としては調性が異なり、座り心地もよくない。「テ・デウム」付きの「4楽章仕立て」の生演奏をこれまでにも何度か聴いたが、違和感が拭えなかった。「テ・デウム」自体はとてもすばらしい曲なので、第9番と切り離して演奏した方が作品に忠実なのではないか、と私は思う。
では、ブルックナー「第9」の第4楽章フィナーレを復元・補筆したものはどうか。作曲者自身が残したスケッチなどを手がかりに、音楽学者たちが復元・補筆を試みたさまざまなヴァージョンが存在する。「キャラガン版」、「サマーレ・マッツーカ版」、「サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカ版」(頭文字をとってSPCM版という)等々。学者たちの名前を冠したものが多い。「SPCM版2012年改訂版」の場合、トータル653小節のうち、ブルックナーの自筆譜が440小節で、オリジナルスケッチから117小節を復元し、さらに学者らが独自に補筆したのは96小節という(後出のラトル/ ベルリンフィルのCD解説書より)。もしこれが本当なら、7割近くはブルックナー自身の手になるものと言えるだろう。
クルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団の交響曲選集(カメラータ・トウキョウ20CM-381~9)に収録されている第9番には第4楽章が付いており、「SPCM1992年版」による演奏とされている。これは一度聴いただけで、あまりに違和感があったため、その後まったく聴かないできた。この直言を書くために再び聴いてみたが、当初の違和感や疑問を克服するには至らなかった。
全日空の機内で聴いたサイモン・ラトル指揮ベルリンフィルの演奏は、「SPCM2012年改訂版」を使っている。「補筆完成版」と銘打つ。機内で聴いて以来自宅や仕事場、車のなかで何度も聴いた。次第に、アイヒホルンのそれにはない勢いと説得力を感じるようになった。激しい第1主題の提示も印象的だった。コラールの部分はブルックナーらしく和声的にとても美しい。コーダの少し手前のところで、第1楽章の第1主題や第2楽章のスケルツォのモティーフ、そして第3楽章のアダージョ主題、そして第4楽章に出てきた主題を並行して走らせる部分があるが、これで終結に向かうと、何となく「第9」としてまとまった気分になるから不思議である。
ラトル自身、紹介ビデオのなかで、「すぐに評価するな」と言っている。本人も、何度か演奏しているうちに、そのよさが見えてきたようである。私も、仕事場で、原稿書きのBGMに第4楽章だけを何度も流していたら、次第に慣れきたことは事実である。その意味で、第4楽章を指揮したニコラウス・アーノンクールの言葉(「第3楽章までは長く演奏されてきた。第4楽章も慣例にしなければならない」)をラトルが支持するのも今は理解できる。
思えば、モーツァルトの「レクイエム」も、弟子のジェスマイヤーが補筆したもので、かなり似せているが、100%モーツァルトというわけではない。ラトルは、ブルックナー「第9」の第4楽章の方が、モーツァルトの「レクイエム」よりも作曲家のオリジナルに近いと述べている。
別の雑誌のインタビューでラトルはこうも述べている。「今回の補筆版は完成されなかった大聖堂の前に、高い考察に基づいて再構成されたもうひとつの大聖堂を建設するということだと私は思っています。確かにその窓ガラスの一枚一枚は、作曲家が意図したように正しくはまっているかどうか問われるでしょうが、それは別として、新たな大聖堂を手に入れることが可能になったということではないでしょうか」(『モーストリー・クラシック』2012年7月号「究極の交響曲作曲家 ブルックナーと巨匠指揮者」〔産経新聞出版〕)と。
全日空の機内で偶然「補筆完成版」に再会して、その後何度も、繰り返しそのCDを聴いてしまった結果、私のなかで、幻だった第4楽章が「これもありかな」という程度の存在に変わってきたことだけは確かだろう。ただ、そうは言っても、40年以上、第3楽章のpppで終わることが「慣例」として染みついた私としては、やはり第9は3楽章で終えるのがいい。朝比奈隆もギュンター・ヴァントも第4楽章を加えた演奏を残さないで逝ったことからも、ブルックナーに関する限り、私は今後とも「保守派」でいきたいと思う。