わが歴史グッズの話(35)艦砲と空襲の破片、そして原爆瓦  2013年3月11日




日本大震災から2年が過ぎた。「3.11」から1年は、宮城県石巻市の現場から論じた。東日本大震災から2年たった現在の問題点と課題については来週論ずることにして、「わが歴史グッズの話」をアップする。前回は警察予備隊グッズを多数紹介した。今回は、ヒロシマ・ナガサキの原爆瓦と、艦砲射撃や空襲の破片をまとめてご覧いただこう。


昨日、3月10日は東京大空襲68周年だった。この写真は、3月9日夜半の爆撃で使われた爆弾の破片である。両端がカミソリのように鋭く、紙をわずかにかすっただけでスッと切れる。こういう破片が四方に飛び散り、人々を切り刻んだと思うと、背筋が寒くなった。ちなみに、明後日、3月13日は大阪大空襲68周年の日である。私は、大阪空襲訴訟において、裁判所(大阪地裁民事17部)に意見書を提出した原告側証人として法廷にも立った。リンクを参照されたい。

 米軍は、ヨーロッパでは、レンガと石とコンクリートの建物を破壊する爆弾を主に使っていたが、木と竹と紙からできている日本の家屋に対しては、もっぱら焼夷弾を大量にばらまく戦法がとられた。カーチス・ルメイ将軍のイニシアティヴによるものである。

 日本が無条件降伏を決定し、爆撃を続ける理由はもはや存在しなかったにもかかわらず、米軍は8月14日から15日にかけて、土崎空襲を実施した。これこそ、「消化試合」あるいは「爆弾の在庫一掃」的な空襲であった。一昨年の秋田弁護士会講演の際、土崎空襲の現場を通った。この空襲で亡くなった250 人は、さぞや「はらわりぃ」(秋田弁で「悔しい」)という思いだったに違いない。

米軍は事前に空襲を知らせるため、あるいは民間人を目標にしてしまうことへのイクスキューズから、「伝単」を大量にまいて「事前避難」を呼びかけた。絵の構図も文章も、日本人の心理を突くものだった。だが、当時の日本では、防空法により市民が勝手に避難することは許されなかった。また、伝単のなかには逆効果となるようなものもあった。この伝単の裏側には、「一に養生、二に薬」とある。これは意味不明であり、その下の軍閥批判と合わせて、鬼畜米英とたたき込まれた庶民には理解困難だったろう。


 東京や岐阜・大垣、ロンドンに投下された焼夷弾については、5年前の直言で書いた。また、P51ムスタング戦闘機による機銃掃射の傷痕についても触れたことがある。12.7ミリが貫通した万年塀は、射入口は小さく、射出口は大きい。この写真は射出口である。なお、日本だけでなく、ドイツのボン空襲ドレスデン空襲については、関係の直言を参照されたい。


この写真と、冒頭の写真は「長崎原爆瓦」である。3000度~4000度の熱で焼かれた瓦は、表面が泡立っていることがわかるだろう。黒っぽい方は熱線を浴びていない面である。一枚の瓦がたまたま二つに割れたため、一枚を裏返して比較できるように並べて撮影してみた。入手先からは、爆心地に近い長崎市旧駒場町付近で採取されたものと聞いた。


 もう一つは、広島原爆瓦である。長崎のそれのように鮮明ではないが、よく見れば、熱線を浴びた側が泡立っている。入手先によれば、元安川周辺で採取したものだという。





 ところで、2月17日、東海道新幹線が、不発弾処理のため、浜松-豊橋間で一時運転を見合わせた。上下線計32本が最大で約1 時間遅れ、約14000人に影響が出た。JR東海浜松工場敷地内で見つかった不発弾の処理作業が午前8時半頃から開始されるため、浜松市は3800世帯(約1万人)に避難指示を出した。新幹線の一部区間がその避難区域に入るので、新幹線と在来線すべてがとまった(2月18日付各紙)。東京で流れたテレビニュースには、「68年前の悪夢が蘇った」というような年輩の人の声はなく、「結婚式があるので困った」という日常的コメントを流していた。

 この浜松市の不発弾は戦艦の砲弾であったが、ツイッター検索をかけると、「爆弾なの、砲弾なの?」という混乱も見られた。「砲弾」というニュース報道に「?」がツイッターに流れていた。各局のニュースでは、そのあたりが十分に説明されていなかったので、「爆弾」と理解した人もいた。

こういう騒ぎは5年ほど前、私の近所でも起きた。東京都調布市での不発弾処理である(直言「『63年前の不発弾』の現場へ」参照)。この時はB29爆撃機の2000ポンド爆弾(俗称1トン爆弾)だった。

 浜松の不発弾は、1945年7月29日、30日、米英艦隊による浜松市に対する艦砲射撃の砲弾である。戦艦サウスダコタ、インディアナなど8隻が、1時間ほどで2000発を撃ち込んだ。浜松駅や隣接する旧国鉄工場や機関区も狙われた。その後の空襲も含めて3日間で200人近くが死亡したという。竹内康人『浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿』に詳しい。

ちなみに、サウスダコタとインディアナの主砲は16インチ砲(40.6センチ砲)9門である。この2艦を含む第38.1任務部隊は、日本沿岸を艦砲射撃してまわった。7月14日と8月9 日には、岩手県釜石市を艦砲射撃している。7月17日の茨城県勝田(現ひたちなか市)に対する艦砲射撃の砲弾破片については、7年前に紹介したことがある。新幹線をとめて処理した砲弾は、この時と同じ戦艦の主砲から発射されたものということになる。

 艦砲射撃と言っても、実は昔の話ではないのである。3年前、2010年7月、「リムパック2010」で、海上自衛隊のイージス艦「あたご」(DDG-177) が、5インチ(127ミリ)砲を使って強襲揚陸艦「ニューオリンズ」を撃沈する訓練を実施したことは記憶に新しい。いずれは「上陸地点」に対する艦砲射撃も訓練内容に入ってくるだろう。島嶼奪回作戦のため、上陸前支援射撃として。

なお、20ミリ機関砲の流れ弾が、当時住んでいた北海道の家の町内に降ってきたことがある。クラスター爆弾の不発弾ラオスに米軍が落とした爆弾の不発弾についても紹介したことがあるので、それぞれのリンクを見ていただきたい。

 それにしても、過去の戦争で使われた「歴史グッズ」のつもりで収集し、このシリーズで紹介してきた。だが、安倍政権のもと「国防軍」を持ち、武力行使をする「普通の国」になれば、今回紹介したものも、近い将来、この国の「現在グッズ」になるのだろうか。そうさせてはならない。

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