東日本大震災から731日。NHK総合テレビは朝から夜まで、東日本大震災関連の番組を流していた。死者1万5881人、行方不明者2668人の計18549(警察庁・3月8日現在)。これに震災関連死の人々が加わる。避難者は31万5196人(『毎日新聞』2013年3月11日による)。数の向こう側に一人ひとりの、かけがえのない個人がいる。
大震災1周年は宮城県石巻市の現場からの直言と、福島県大玉村仮設住宅(郡山市近郊)からの直言をアップした。2周年の当日は、2年前のこの日を思い出しながら、八ヶ岳の仕事場で一人黙祷した。だが、テレビから流れる追悼式とその後の記者会見における安倍晋三首相の語り口と内容に違和感を覚えた。
安倍氏の場合、過度の修飾語を伴う、妙な高揚感と力みのある断定口調に特徴がある。例えば、「国土強靱化」。昨年12月26日の首相就任演説で「国土強靱化対策を進めていく」と述べるや(『読売新聞』2012年12月27日付)、「復興特需の再来に期待」と地方建設業界が期待を高める結果になった(『朝日新聞』12月28日付)。「強靱化」という怪しげな表現は、民主党政権の「コンクリートから人へ」から、「コンクリートから鉄筋コンクリートへ」への切り替えをはっきり印象づけるものとなった。
安倍首相の上記の特徴的語り口は、日米首脳会談後の記者会見での「日米同盟の信頼、強い絆は完全に復活した」という言い回しにもあらわれた(『朝日』2013年2月23日付夕刊)。相手のある話でもあり、普通の首相ならもう少し抑制的な表現をするものだが、この人の場合、「完全に」という言葉が簡単に出てくる。
一番驚いたのは、2月28日の施政方針演説で、「世界一を目指す気概」「世界一安心な国」「世界一安全な国、日本」などと、人さし指を立て右手を振り上げ、40分の演説で「世界一」を7連呼するに至ったことである(『朝日』3月1日付)。
さて、大震災2周年の安倍首相の言葉で一番違和感を覚えたのは、「復興の加速化」である。やたら「加速」という表現が目立つようになったのも、安倍総裁・首相になってからである。だが、結果は「アベコベ」ではないだろうか。
原発の問題については、福島原発事故の収束の目処がついていないにもかかわらず、早々に原発の再稼動を決めただけでなく、原発の新設までも打ち出した。「加速」されたのは「脱・脱原発」だけだった。また、「国土強靱化」で巨大公共事業を全国展開しようとしたため、肝心の被災地復興のための資材が足らなくなるという本末転倒の事態になり、復興はさらに遅れている。アベコベーションはここにもある。
安倍首相の威勢のいい言動は危うい。「加速化」という言葉に加えて、「目に見える復興を示す」と参議院で答弁した(『朝日』3月6日付)。『愛媛新聞』3月11日付は「『見えない復興』に向けて」と題する社説で、安倍答弁にも言及しつつ、こう指摘する。
「被災地にある複雑な感情を、ひとくくりでは語れない。見えるものにこそ落とし穴があるように思えてならない。…政治家が成果を急ぎ、役所が平時の論理をかざし、『見えない復興』を置き去りにしている。『災後』という非日常が日常になりそうな今こそ、被災地の時間や住民の心の葛藤に目を向けなくてはならない」と。重要な指摘である。
『愛媛新聞』社説は続ける。「…あらがえない過疎の波がある。被災地を悩ませる地域医療と福祉のもろさ、雇用の不調和、産業の衰退、そして原発の罪は、もともと地方の抱える課題が危機的な形で発露したにほかならない」と。
地方の「過疎化」は小泉「構造改革」のなかで極端に進行し、医療、福祉、雇用、産業すべての分野で矛盾を広げていた。そういう「過疎化」した地域が大震災に襲われたわけである。巨大プロジェクトや大規模公共事業で「結果を出す」と焦れば焦るほど、復興をめぐる諸矛盾は拡大していく。追悼式や記者会見で「復興の加速化」を力強く語る安倍首相を見ながら、復興への道は遠いという絶望感を抱かざるを得なかった。
なお、「復興特別所得税」(所得税額×2.1%)はこの1月1日から25年間、所得税に上乗せされる(2014年から10年間、住民税の毎年1000円が加わる)。原稿料や講演料の場合、10%×2.1%で10.21%となり、1月以降、講演で手渡しされた謝礼(コインが混ざることがある)から、私自身「復興増税」を実感したが、そもそも国民に対して増税しておきながら、その使い道のひどさは、復興予算の流用問題で繰り返し指摘した通りである。
3月11日の「東日本大震災2周年」が終わると、メディアはTPP一色となった。新聞各紙も3月12日付夕刊から見事に切り替わった。「8月ジャーナリズム」ならぬ「3月ジャーナリズム」は、3月第3週半ばまでもたなかったわけである。しかし、東日本大震災のことを忘れてはならない。忘却とのたたかいはすでに始まっている。
忘却と言えば、明後日(3月20日)はイラク戦争開戦10周年である。これもほとんど忘却の彼方にあるのではないか。この「直言」では開戦直後に「国際法違反の予防戦争が始まった」を出して、これを厳しく批判した。開戦後すぐに開設された「イラク・ボディカウント」(戦争の犠牲者数を刻々と知らせる)はいまも続いている。「嘘で始まった戦争」として、イラク戦争1周年も論じた。ほかにも小泉政権のイラク戦争への加担については、「直言」で繰り返し批判した(バックナンバー参照)。そのなかで、名古屋高裁の自衛隊イラク派遣の違憲判断は注目すべき動きだった。開戦から6 年半の時点で、「イラク復興支援活動」の実態を、派遣隊員のマニュアルも使って実証的に論じた。湾岸戦争20周年との関係でイラク戦争を論じたこともある。この戦争を起こした者の責任、これに積極的に加担して協力した者の責任が問われよう。
《付記》
写真は、震災2周年の当日、3月11日午後2時48分過ぎ、福島県会津若松市西方の柳津町の圓蔵寺にて水島ゼミ15期生撮影。黙祷を終え、空を見上げたとき、雲の合間から太陽の光がさしてきたという。もう一枚は、陸前高田市の復興道路の工事現場。2012年11月3日(水島撮影)。