「シリア空爆」は回避された。化学兵器を市民に対して使用したのがアサド政権なのか、それとも反体制武装勢力なのかが明確でない段階で、オバマ大統領は、巡航ミサイル「トマホーク」などによるシリア攻撃を行おうとしていた。これに対してロシアが強い反対を表明し、フランスを除く欧州諸国も反対ないし懸念を表明。また米国内でも批判的意見が広がり、攻撃は中止された。10年前のイラク戦争の開戦前の状況を想起するとき、米国による一方的な軍事介入の手法は容易には通用しなくなりつつある。
メディアが当初はほとんど確実視していた「シリア空爆」。『週刊朝日』9月13日号は「シリア空爆のシナリオ」まで記事にしていた。だが、この「空爆」という言葉は要注意である。1991年1月の湾岸戦争あたりから、メディアでは「イラク空爆」というような使われ方をするようになった。だが、私は一貫して、「空爆」に括弧を付けて使ってきた。東京大空襲、大阪空襲…。これは「空から襲われる」人々の視線からのもので、「東京空爆」「大阪空爆」は日本語には存在しない。軍事用語では「航空攻撃」(air attack)ないし「航空打撃」(air strike)というから、「空爆」はこれらに近いと言える。「空爆」には「空から爆弾を落とす側」の論理を反映している。なお、「空爆」という言葉ばかり使っていた『読売新聞』が、ただ一回、「空襲」という見出しで伝えたのがこの場面である(2003年4月10日付夕刊〔東京本社版、4版〕第1社会面)。視線の違いがよくわかるだろう。
私は大阪空襲訴訟の原告側証人として、大阪地裁で証言したことがある。1945年3月10の東京大空襲。その3日後、大阪もB29の大編隊に「空から襲われ」、15000人以上が死亡した。法廷で私は、当時の防空法が、空襲下、現場にとどまって焼夷弾を消すことを市民に義務づけていたため、被害が拡大したのではないかという問題を中心に証言した。その年の12月、大阪地裁は原告の訴えを退けたものの、判決理由のなかで、防空法が退去禁止を定めており、実際に退去させない指導もなされたこと、また、「安全性の低い待避施設」を作らされ、多くの空襲被害者が「実態を正確に知ることができない状態にあった」ことなどを詳細に認定した(詳しくは、直言「大阪空襲訴訟地裁判決の意義」参照)。
「空から襲われる」人々がなぜ避難できなかったのか。この論点については、16年前の防空法に関する連載で触れたことがある。この連載を軸に、防空法のもつ上記の問題性について歴史的、法的に解明した本を、大前治弁護士との共著の形で出版することになった。タイトルは『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)。すでに原稿は完成しているので、来年3月の「大阪大空襲69周年」には世に出ているものと思う。そのなかで、「空から襲う側」が、時には遊び半分、からかい半分で爆弾投下や機銃掃射を行っていたことが紹介されている。発売前だが、「プロローグ」からその一部を紹介しよう。
《…筆者(水島)の自宅書斎の横には、戦前からの万年塀がある。そこに直径五センチほどの穴が二つ。幼い時からずっと気になっていた。それは、米空軍のP51ムスタング戦闘機の12.7ミリ機関銃弾の貫通痕だった。かつて塀の近くに大きな樫の木があって、父の従兄弟がその近くで遊んでいたとき、突然、P51があらわれ、機銃掃射をしてきた。急いで樫の木の反対側に回り込むと、米軍機は一端通りすぎてから急旋回し、もう一度機銃掃射をかけてきたという。「木のまわりをグルグル逃げまわった」。二度目の機銃掃射によって出来たのが、その弾痕だった(直言「痛みを伴う『塀の穴』の話」参照)。
この時の記録が残っていた。1945(昭和20)年2月16日、「帝都防空本部発表・情報第117号」に、「府中町東町一丁目機銃掃射ヲ受ケタルモ被害僅少ナリ」(小沢長治『多摩の空襲と戦災』〔けやき出版、1995年〕23頁)とある。「被害僅少」の一つが、この万年塀の穴ということになろう。二度目の機銃掃射のため旋回するP51の方を見上げると、操縦席で笑うパイロットの白い歯がはっきり見えた、と父の従兄弟は後に語っている。庭で遊ぶ子どもにまで、優越感と遊び感覚で機銃掃射を行ったのだろうか。…》
父の従兄弟と同じような体験をした人びとがいた。一人は東京都の主婦(81歳)。『朝日新聞』(東京本社版)9月17日付の投書欄に「逃げ惑う子をからかう敵機」が掲載された。その体験を要約しよう。
《戦争末期、私は女学校1年生、12歳でした。自宅は郊外なので電車を乗り継いで通学していました。…ある日の下校時、電車が門戸厄神駅で止まり、もう艦載機が来襲していたので皆飛び降りて逃げました、大人は20人ほど団体となって山の方へ逃げ去り、1人取り残された子どもの私は建築中の屋根だけある家へ隠れました。1機だけしつように私を追いかけて旋回しているので、恐ろしくなって飛び出して逃げました。当時は駅から岡田山まで一面の田んほ。収穫後は隠れる所もなく、あぜへ入り少ない水につかって伏せ、少し走っては伏せをし、泣きながら逃げ惑いました。すると頭上に来た艦載機が私の横1メートルくらいをバンバンと土煙をあげ銃弾を撃ち込みました。私が起き上がると、今度は旋回して前方よりまた私の横1メートルほどヘバンバンと弾を撃ちこみます。恐る恐る顔を上げると鼻の高い米兵の顔がはっきり見え、ニヤッと笑って飛び去って行きました。私に銃弾を当てなかったのは、子ども1人右往左往して逃げ回る姿を、からかったとしか思えません。》
そしてもう一人が指揮者・小澤征爾氏(78歳) である。小澤氏は『朝日新聞』のインタ ビューでこう述べている(2013年9月19日付)。
《平和を願う原点としての体験は、(満州からの)引き揚げ後、終戦まで過ごした東京・立川で遇った空襲にある。45年春ごろ、自宅近くの桑畑で弟と遊んでいた。空襲警報が鳴り、戦闘機が向かってくる。「機銃掃射って言うの? ダカダカダカダカーッて撃つのよ。向こうはね、恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」。防空壕に逃げたいのに、恐怖で体が動かない。「操縦士の顔が見えたような気がしたの。それくらい低く降りてきたの。ぴゃーって」。同級生の自宅は直撃弾に襲われ、一家3人が即死した。…》
この3人の体験に共通しているのは、米軍パイロットと顔の見える距離で相対していることだろう。いずれもパイロットは笑っている(小澤氏の場合は不明)。この笑顔の本質は何だろうか。相手は子どもだ。殺すつもりで機銃掃射をしていない。旋回して再度銃撃しても、弾はあてない。優越感と余裕。基地に戻る前に、残弾処理をしておく。これこそ、攻撃すべき目標はすべて破壊されて、もはや存在しないということの証左ではないか。小澤氏も言うように「ふざけてやっていた」としか思えない。
小澤氏にとって、この顔の見える距離での戦争体験を経て、「戦争はほんっとうにめちゃくちゃだと思った」と語っている。「ほんっとうに」と記者が文字にしているところからも、小澤氏の思いのこもった語り口が想像できる。実は、この『朝日』インタビューのタイトルは、「日中関係『大事なのは一人ひとり』」である。満州事変82周年を前に、旧満州(中国東北部)生まれの小澤氏を登場させるという企画である。
小澤氏は日中関係についてまず、こう指摘する。「俺なんか全然冷え込んでないよ。…冷え込んでいるのは、日中政府間の関係。大事なのは一人ひとりの関係で、ぼくは、中国にいる友人たちを信じている」。そしてこう続ける。「人間生きていくときにね、俺の政府と、お前の政府との仲が冷え込んでいるからって俺には何の関係もないよ。…ぼくはまったく心配していない。中国にいる僕の仲間だって心配してないと思う」。
そして、こう結ぶ。「政府がどう言ったからだとか、新聞が書いているから、とかじゃなくて。大事なのは一人ひとり。政府よりも、政府じゃない普通のひとがどう考えるかが一番大事。僕はそう思う」と。「満州」生まれ、空襲体験をもつ小澤氏の指摘は重い。
昨年9月11日、野田内閣は尖閣諸島の「国有化」を行った。これ以降、中国との関係が一気に悪化した。だが、今年の9月18日(満州事変82周年)は、昨年とはうってかわって「反日デモ」がまったく起こらなかった。政府による世論「操縦」もあるだろう。
昨年の「反日デモ」のあと、中国からの留学生がこう言っていた。「中国には13億人います。何万人がデモしようと、何百人が暴徒化しようと、それを引いたその他13億人がどう考えるかなのです」と。その通りだろう。最も避けるべき言い方は、「中国は…」とか「中国人は…」と、過度に一般化して語ることだろう。それは、「日本は…」「日本人は…」という言い方にもあてはまる。
小澤氏が熱く語るように、「大事なのは一人ひとり」なのである。