木には「託児所」の表示、学校の椅子が置かれ、子どもたちが遊んでいる。その後ろで女性たちが列をつくって順番を待っている。戦後最初の総選挙(第22回総選挙)の投票所風景である(『朝日新聞』1946年4月11日付)。戦争が終わってまだ8カ月だが、女性たちの笑顔が実に印象的である。翌日の新聞は、女性代議士が39人誕生したことを伝えている。日本国憲法は、女性が初めて参加した総選挙で選ばれた、女性を含む国会議員たちによって審議されて誕生した。憲法施行記念50銭切手も、国会議事堂を背にして、筒袖姿の女性が幼児を抱いて立つ姿だった。これらの写真は、日本国憲法施行60年の「直言」で紹介したことがある。
この憲法が占領下で制定されたことから、「押し付け憲法」とか「占領憲法」とか言ってその無効や改正を主張する議論がある。国会や地方議会に議席をもつ政党(「維新の会」)からは、廃憲論が公然と主張されている。近年、首相の口からも「占領軍から取り戻せ」といった乱暴な言説が繰り返し語られるようになった。改正手続をまず変えるという信じられない禁じ手まで飛び出し、首相が一時期これに執着した。思えばドイツ(旧西ドイツ)も米英仏3カ国占領下の憲法(基本法)制定だったが、これを「押し付け憲法」などと嘲笑するドイツ人はいない。敗戦・占領という過酷な状況のもとで、人々がしたたかに、しなやかに憲法に自らの理念を盛り込んでいく。その主体的な営みにもっと目を向けるべきだろう。
日本でも戦争が終わってすぐ、政党や民間のさまざまな憲法草案が発表されたが、民間の学者らでつくる憲法研究会の草案がとりわけ注目された。憲法研究会草案は、「戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者」である鈴木安蔵が、植木の憲法草案も参考にして起草したもので、それゆえ、日本国憲法と植木枝盛草案との間に「実質的なつながり」があると言われている(『植木枝盛選集』岩波文庫、家永三郎解説)。
日本国憲法の思想的源流が自由民権運動にあったことに注目する人が意外なところにいた。美智子皇后である。10月20日、79歳の誕生日にあたり、宮内庁記者会の質問に寄せた回答文のなかで皇后は、植木枝盛案と並び、自由民権運動のなかで生まれた私擬憲法として知られる「五日市憲法草案」について踏み込んだ発言を行った。『東京新聞』10月20日付がこの事実を伝え、皇后の回答要旨を掲載した。『朝日新聞』10月31日付の論壇時評「皇后陛下のことば 自分と向き合って伝える」(高橋源一郎)は、この作家にしてはかなり感情移入した文章になっている。『サンデー毎日』11月17日号も「人権・平和への思い」という見出しでこれを扱った。宮内庁ホームページから、くだんの箇所を全文引用しよう。
5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
誕生日に、この1年で印象に残った出来事や感想を述べるという設定のなかで、皇后は実にたくさんのことを、細部にまで気を配った絶妙の言葉運びで語っている。そのなかで、「他を圧して長かったのは、憲法に関する部分だった」(高橋氏)。そこで取り上げられたのは、「五日市憲法」という一般には知られていない私擬憲法のことだった。
明治10年代、多摩地方の農民が多くの民権結社を起こし、学習会を活発に行った。何軒かの旧家にはミル、スペンサー、ルソー、ベンサムなど、その時の学習で使ったと思われる大量の書籍が残されていた。そうした「人民の自発的な憲法精神の吸収体得の基盤の上に、知識人千葉卓三郎が起草を委託された」ものが五日市憲法草案であった(家永三郎『歴史のなかの憲法・上』東大出版会、1977年)。皇后が具体的に列挙するように、国民の諸権利も充実していたが、同時に、「民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝〔天皇〕ノ起議ヲ改竄(かいざん)スルノ権ヲ有ス」とあり(86条)、天皇が出した提案を議会が修正する権限も認められていた。また、「国帝」〔天皇〕が女性であることも可能だった(6条)。国事犯〔政治犯〕に対する死刑を禁止するなど(71条)、刑事手続に関する権利は9カ条と、権力に対する保障も周到だった。「五日市憲法」には、皇后も言うように、「市井の人々の間に既に育っていた民権意識」が生き生きと反映していた。ここであえて「民権意識」という言葉を選び、さらに「民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産」とまで言い切ったことに驚かされる。
安倍首相の推進する「自民党改憲草案」が、人権の徹底した縮減と国防軍設置など、「国権主義」的色彩が濃厚であるのとは対照的である。美智子皇后はまた、この1年で亡くなった人のなかに、GHQ民生局で日本国憲法制定に関わったベアテ・シロタ・ゴードン氏の名前を特に掲げ、「日本における人権の尊重を新憲法に反映させた」と評している点も注目される。「占領軍の押し付け」というシンプルな思考ではなく、占領軍内部の進歩的な人々のことも積極的に評価しているからである。五日市憲法草案とベアテ・ゴードン氏への言及が響き合って、皇后の日本国憲法観がしっかりと見て取れる。
それにしても、天皇・皇后が被災地や困難を抱えた人々のいる場所を訪問する際、そこにおける言葉の選び方の絶妙さに驚かされる。政治家たちが被災地をおざなりに訪問し、サッとまわって引き返すのに対して、天皇、皇后は、膝をついて、時間をかけて被災者と対話をする。そこでの言葉は確実に人々の心に届いている。
例えば、10月9日、水俣市で開かれた水俣条約採択のための外交会議における安倍首相のビデオメッセージには、「水銀による被害と、その克服を経た我々だからこそ、世界から水銀の被害を無くすため先頭に立って力を尽くす責任がある」という言葉があり、この発言を聞いた患者たちから、「まだまだ苦しんでいる人はおり、克服とは言えない」という怒りの声があがった(『朝日』10月10日付)。この6月には、水俣病被害の救済を求めて新たな訴訟も起こされている。安倍首相の「克服」という言葉の選択は、福島第一原発の「状況はコントロールされている」というフレーズと同様、当事者の心を深く傷つけるものだった。
この上滑った安倍首相の言葉づかいとは対照的に、首相メッセージが出された18日後に水俣市を初訪問した天皇は、水俣病患者と懇談した際、予定外のことを約1 分にわたって語ったという。それは、患者の多くが差別を恐れて病気を隠してきたという実態を知った直後に出た言葉だった。「…やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました。…今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています」。まだ苦しんでいる人がいるのに「その克服を経た」と、水俣問題は決着済と受け取られかねない言葉を使った安倍首相との違いは歴然としていた。原発事故のことをあんじて、体調がすぐれないのに何度も現地に足を運んだ天皇と皇后。除染地域にまで足を運ぶその想いの強さは、訪問の頻度と滞在の仕方から、おのずと伝わってくる。
そんななか、10月31日の園遊会で、山本太郎参議院議員が天皇に手紙を手渡すという「事件」が発生した。『東京新聞』は「原発事故の現状を知って 山本議員 手紙で『直訴』」という見出しだった。これは明らかに田中正造による明治天皇への直訴事件(1901年)を念頭に置いたものだろうが、「直訴」という表現は適切ではない。
まず、明治天皇は統治権の総覧者であった(帝国憲法4条)。足尾鉱毒の問題を何とか前進させるべく、正造は議員として、出来る限りのことを尽くした。例えば、「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国の儀につき質問書」を政府に提出し、政府を追及した。だが、事態は動かない。1901年10月、正造は衆議院議員を辞職。一国民として、12月10日、明治天皇への直訴を決行した。天皇に対して、個々の議員の上奏は認められていないが(帝国憲法49条)、他方、「相当ノ敬礼」を守ることを条件に請願権が保障されていた(同30条)。天皇への直接請願は想定されていなかったが、正造は憲法を熟知した上で、直訴という行動に出た。直訴状は『万朝報』記者・幸徳秋水が起草した見事な文章だった。直訴は秋水や新聞記者らのチームで取り組まれ、個人プレーではなかったのである。天皇への直訴を罰する法はなく、正造はすぐに釈放された。新聞は直訴を大きくとりあげ、被害民救済の支援者が続出した。政府も調査委員会を設置した(詳しくは、直言「田中正造と『3.11』と憲法」)。
これに対して、山本議員の行動はどうだろうか。無所属議員として国会内で発言の機会がないので、天皇に直接手紙を渡して原発や福島の実情を訴えようとしたというのは理由にならない。国会議員として、できることはたくさんある。そのために高額の歳費や立法事務費などが税金から彼にわたっているのである。質問趣意書を出すこともできる。鈴木宗男議員は質問趣意書の達人だった。山本議員は福島の問題についてなすべきことは、議員としての地位と権限をフルに使った発信だろう。そういう努力を尽くさず、テレビカメラの前で天皇に手紙を手渡すというのは、いかにも軽率であり、安易である。
そもそも現天皇は象徴天皇であり、明治天皇とは異なり、「国政に関する権能を有しない」(憲法4条)。その天皇に対して、原発や福島の実情を訴えて、山本議員はどうしようと思ったのだろうか。熟慮の末の行動とは思えない。一般の国民ならば、天皇に対して請願書を出せるが、それは内閣に対して行わなければならない(請願法3条1項後段)。山本氏は国会議員である。請願をむしろ受ける側である。
山本議員の罪深さは、何度も被災地に通って人々に言葉をかけて励ましてきた天皇・皇后が、いつかは「フクイチ」で作業にあたる人々にも声をかけたいという想いに水をかけたことである。この「事件」で宮内庁は慎重になるだろう。
ところで、憲法学上、天皇の行為については、国事行為と私的行為のみが許されるとする二行為説と、象徴としての地位から派生する行為も認める「象徴行為説」、あるいは天皇を「公人」とみる「公人行為説」、国事行為に準ずる行為を同じ条件で認容する「準国事行為説」などの三行為説がある。私は、憲法4条を基軸に、天皇の行為については、憲法6、7条に限定列挙される国事行為の範囲に厳しく限定する解釈をとってきた。天皇については、その象徴としての性格から、政治的に中立であることが厳しく求められる(非政治性)。問題は、内閣の助言と承認(憲法3条)を経由して「天皇の政治利用」が行われてきたことである。山本議員の行動を「天皇の政治利用」と断ずる向きがあるが、これは一議員の非常識かつ不勉強な行動にすぎない。むしろ、政府による「天皇の政治利用」こそが問題なのである。
最近の例では、安倍首相が4月28日、天皇・皇后の列席のもと、「主権回復を祝う式典」を行ったことである(直言「『記念日』の思想―KM(空気が見えない)首相の危うさ」)。沖縄県民は「屈辱の日」としてこれに激しく反対した。そういう式典に天皇・皇后を出席させたことは、「日本国民統合の象徴」性に傷をつけることになった。なぜなら、天皇は「47都道府県の象徴」でもあるのであって、そのうちの1 県が激しく反対した式典に天皇を参加させたことはきわめて問題だからである。
「天皇の政治利用」のもう一つの例は、9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会での最終プレゼンに高円宮妃を使ったことである。宮内庁長官が、「招致活動と見られる懸念はあるが、苦渋の選択をした。両陛下も案じられていると拝察する」と懸念を表明した。
安倍首相は憲法に対する侮蔑的な言動を行う一方、憲法上の権利を著しく制限するおそれのある「特定秘密保護法」を十分な審議もなしに成立させようとしている。首相や国会議員の圧倒的多数がこの憲法に対してネガティヴな対応をとっているとき、天皇・皇后が憲法の理念に忠実な言葉を紡(つむ)ぎ続けている。憲法99条は、「天皇又は摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」としている。安倍首相や多くの国会議員はこの義務を軽んじているなか、天皇・皇后が最も忠実にこの義務を果たしているように思われる。
山本議員は自らに投じられた選挙民の付託にこたえるため、議員としてできるあらゆることをなすべきだろう。そのためにも、まずはしっかり勉強することである。政策に通じた有能なスタッフを確保することである。そして、もう少し「丁寧な言葉」を使うことである(「ベクレてる」は不可)。