雑談(103) サークル会長というお仕事――早大公法研究会             2013年12月23日

公法研究会

定秘密保護法の強行採決(成立)武器輸出三原則の実質的撤廃「動的防衛力」から「機動的防衛力」への転換の動き(「防衛計画の大綱」)等々、重要な事件が目白押しだが、年末・年始モードに入っていくため、ストック原稿(「雑談」シリーズ)をアップすることをお許し願いたい。暴走内閣が打ち出す施策の数々については、この「直言」で継続的に批判・検証していく予定である。

さて、13年前、「雑談・大学教員のお仕事」「雑談(7) 大学教員のお仕事(2)」を出した。ドイツ在外研究から帰国したばかりの頃。まだ40代半ばすぎだった。そこでも指摘したが、大学教員の仕事の一つに、学生サークルの会長というものがある。私も早稲田大学の2つの公認サークルの会長をしている。「学生の会」として学生会館に部室をもらい、大学から補助金を受ける条件として、学生部(学生生活課)に提出するさまざまな書類(活動報告書、合宿・遠征届、届出事項変更願など)への会長の印が不可欠となる。これらの書類を期日までに提出しないと、学生会館の部室の使用などが認められなくなる。その点で、幹事長の学生とは携帯メールで連絡をとりあい、場合によっては私の自宅近くの駅まできてもらい、印鑑を押すときもある(ついでに食事やお茶をおごってもらえる運のいい幹事長がこの17年間に何人もいた)。

1996年に早大に着任後しばらくして、私自身も学生時代に会員だった早稲田大学公法研究会の会長職を、浦田賢治先生(現在、早稲田大学名誉教授)から引き継いだ。2005年には、早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団の会長にも就任した。早稲フィルについては、ニューイヤーコンサートや、東日本大震災の追悼音楽現地での復興支援ボランティア等々、この直言でもたびたび触れてきた。そこで今回は、早稲田大学公法研究会について書いておくことにしよう。

この学生サークルは1953年に設立された。私と同じ年輪を重ねている。私は1972年に会員となった。沖縄が日本に復帰する1カ月前だった。早大に教員としてもどって会長になってからは、公法研究会が縁でいろいろなところで出会いや再会があった。例えば、3年前、2004年度幹事長の西川大史君からのメールがきっかけとなって、大阪空襲訴訟にかかわることになった。大阪地裁への意見書の提出、証人尋問、そして来年1月末には、『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』(法律文化社、2014年1月)という本まで出版することになった。これは公法研究会の会長―幹事長の関係なしにはあり得なかった。当時超多忙で仕事を制限していて、この関係がなければ確実に断っていたからである。

また、栃木県佐野市で講演したとき、田中正造ゆかりの場所を案内していただいたのが、公法研究会1963年卒の赤上剛さんである。赤上さんのおかげで、田中正造が「直言」でもいろいろな形で登場することになった。

ところで、公法研究会には「会誌」があって継続的に発行している。冒頭の写真の左側は前会長の浦田賢治先生がご退職の際に、学生たちが先生にインタビューしてまとめた82ページもある「憲法学者と法学生の対話」が収録された会誌特別号である。これを作成した磯野研君、谷朋哉君(2005年度)らの努力にはいまも感謝している。

2013年、公法研究会は創設60周年を迎えた。その創設記念パーティが3月23日に開催されたが、そこで配られたのが『公法研究会60周年記念会誌特別号』(早稲田大学公法研究会〔幹事長・三宅弘将、発行責任者・井口綾香〕、2013年3月2日発行)である。そこには、浦田前会長、創設期の会員だった新井隆一先生(早大名誉教授)、1956年卒の本田一氏をはじめ、多くのOB・OGが寄稿している。いずれの文章も「時代」を反映していて興味深い。

今回の「直言」は、この会誌特別号のために書いた会長挨拶を下記に転載することにしたい。学生サークルの部内誌だが、60年間存在した大学サークルの歴史は、日本の歴史や日本国憲法の歴史と重なるところもあるので、ここに掲載する意味もあると考える。

公法研究会の60年に寄せて

会長 水島朝穂(法学学術院教授)

このたび、公法研究会は創設60周年を迎えました。浦田賢治前会長をはじめ、この60年間に公研の発展のためにご尽力頂いたすべての皆さまに、この場を借りて、まずお礼申し上げます。

私は、1972年4月、法学部入学と同時に公研に入会しました。例会に真面目に出席する会員ではなく、たまに合宿に参加する程度の不良会員でした。いま、こうして会長をやっておりますが、当時の私を知る先輩や同期の方々には気恥ずかしい思いがあります。でも、公研の存在とそこでの活動は、いまの私の研究・教育、社会的活動のありように影響を与えています。

まったく偶然ですが、私は公研と同年齢です。有倉遼吉先生が公研を創設された年に、この世に生まれました。物心ついた時、岸信介内閣でした。でも、私の頭のなかでは、「岸を倒せ」という言葉としてしか記憶に残っていません。小学1年生だった私の目には、「安保反対、岸内閣打倒」という鉢巻きをして国会包囲デモに向かう父親(中学校の教員だった)の姿が焼きついています。

中学生になってベトナム戦争が激しくなり、家の近所にあった米第五空軍司令部に飛来するヘリコプターの爆音が大変やかましくなりました。基地近くに住んでいたことが、社会問題に関心を向けるきっかけとなりました。中学3年生の時のレポートは、ベトナム戦争と佐藤内閣の関係について書きました。

1969年4月に高校に入ると、世は大学紛争真っ盛り。紛争は高校にも飛び火。私の高校もその年の10月、バリケード封鎖事件があり、1カ月間、すべての授業が中止になり、生徒の自主的な全校討論が続きました(小林哲夫『高校紛争』中公新書参照)。生徒会役員だった私は、「全共闘」のメンバーのいう「ポツダム生徒会粉砕、憲法ナンセンス」という主張に同意できませんでした。私はそれに反論するため、ロックやルソー、マルクスやディミトロフなどを読みあさりました。最初に読んだ憲法書が、増田書店(国立駅近く)にあった影山日出弥『憲法の原理と国家の論理』(勁草書房)でした。ドイツ語まじりの難解で思弁的な文体にあこがれ、その独特の言い回しを真似していました。そんな関係で、私は高校の社会科学研究部(社研)に入り、哲学や経済学の古典を勉強しました。ちなみに、社研の6代前の部長が、故・早川弘道法学部教授(ロシア・中東欧法)でした。

高校2年生の時、「70年安保」の年ですが、文化祭でクラス展示をやり、「横田基地問題」を扱いました。クラスメートと基地近くにテープレコーダーを持っていって、離発着する米軍機の凄まじい爆音を録音。教室内で再生しました。模造紙にマジックで書いた、安保条約の条文や年表、砂川事件の判決文などを壁に貼って展示しました。

翌年、沖縄返還をめぐって、国会でも世間でも大きな議論になりました。私が部長をしていた社会科学研究部の例会で、沖縄問題について勉強しました。その時、みんなで読んだのが『法律時報』1971年10月臨時増刊「沖縄協定―その批判的検討」です。巻頭論文は、影山日出弥「沖縄協定の国家論的分析」と浦田賢治「沖縄協定と現代日本法の再編」でした。私はこの2つの論文をまとめて、「青焼きコピー」(若い諸君には想像できない代物!)で報告しました。

そんな関係で、大学受験の第一志望校は、この論文を書いた浦田先生のおられる早大法学部にしたわけです。合格発表の当日、公研の出店に行って入会手続をしました。

公研での活動は、冒頭にも書いたように不良会員でしたが、『現代法の学び方』(岩波新書)の報告などは何章か担当しました。いまの若い諸君には考えられないでしょうが、当時の公研の例会や合宿は、経済学や国家論の勉強をけっこうやっていました。司法試験サークルとは違って、憲法のアカデミックな研究をしているという自負があったように思います。

大学2年のとき、あの長沼ナイキ基地訴訟判決が出されました。今でもその時の記憶は鮮明です。1973年9月7日(金)。札幌地裁は、「自衛隊は、憲法9条2項によってその保持を禁ぜられている『陸海空軍』という『戦力』に該当するもので、防衛庁設置法、自衛隊法その他関連法規は、憲法の右条項に違反し、その効力を有しえない」という明確な違憲判断を出しました。しかも、平和的生存権を正面から認める画期的な判決でした。その日、私は、高田馬場駅の売店で新聞の夕刊全紙を買い、電車のなかで食い入るように読んだものです。

各紙ともに一面トップでこの判決を報じました。『読売新聞』は「自衛隊は違憲」と一番大きな横見出しを打ったあと、縦六段で「長沼訴訟で初の判断」「陸海空軍に該当」「『自衛のため』では通らぬ」。社会面は「『戦力なき軍隊』神話ゆらぐ」「自衛隊、複雑な沈黙」。二面では「衝撃の政府、対応に苦慮」「防衛二法の成立困難」の見出し。『朝日新聞』は、一面は同様の見出しでしたが、二面で「高い理想と既成事実と」「のしかかる大きな矛盾」の横大見出しを掲げ、三面で「『憲法の心』明快に」と原告農民の反応を伝えていました。

当時1号館地下にあった公研部室では、幹事長の高橋洋さん(愛知学院大学教授)を中心に、この長沼事件一審判決について詳しく分析した会誌(ガリ版刷り)を作りました。いまでもこの会誌は、私の研究室のどこかにあるはずです。

当時の『法律時報』の付録に、判決全文がついていました。その黄緑色の表紙の裏には、「早大法学部公法研究会 水島朝穂」と万年筆で書いてあります。

実は、判決から35年目に、札幌地裁の福島重雄元裁判長にインタビューする機会がありました。この時、公研の名前が入った裏表紙は破れかかっていましたが、これを福島さんにご覧いただきました。

福島さんは自衛隊違憲判決を出してからずっと沈黙を守り続けてきました。メディアを避け、多くを語りませんでした。でも、2008年4月12日、東京の日本評論社5階の会議室で、初めて福島さんにお会いしました。その年、三度にわたり聞き取りを行いました。福島さんは、ご自身が長年つけておられた膨大な日記を提供してくれました。これを使って一気に書き下ろしたのが、福島重雄・大出良知・水島朝穂編著『長沼事件 平賀書簡―35年目の証言』(日本評論社、2009年)の第1部(12-134頁)です。

当時の札幌地裁・平賀健太所長から福島さんに圧力がかかる生々しい記述なども、日記のなかに発見しました。司法の独立を揺るがす有名な「平賀書簡事件」です。平賀所長が福島さんに圧力をかけた手紙の写しも表紙に使っています。福島さんと私とのやりとりのなかで、なぜ「平賀書簡」が出されたのかが偶然わかりました。これには福島さんご自身もびっくりされていました。私のちょっとした質問に答えるなかで記憶が蘇り、平賀所長の行動が見えたのです(44-45頁)。関心のある方(公研の関係者で関心のない人はいませんよね)は、是非この本を読んでください。

私は1972年から1983年8月末まで11年4カ月、学生・院生として早稲田にいました。その間、長沼事件のほかにも、重要な憲法判例がたくさん出ました。百里事件、教科書検定訴訟、全農林警職法事件、尊属殺違憲訴訟等々。これらの判決は、出たばかりで湯気がたっている段階で、公研の例会で扱ったと思います。院生時代はチューターとして、公研の例会に参加しました。83年から96年まで13年間は公研の活動から離れますが、96年4月に早稲田に教員として戻って以降は、会長として関わってきました。

公研がメインテーマとする憲法について、いま、「世間」では軽視、蔑視、嘲笑する空気があります。改正の議論ならまだしも、石原慎太郎氏のような廃棄論が出てくるにおよび、憲法をめぐる状況は緊迫しています。自民党の「憲法改正草案」は、憲法を、国民に対する義務づけ規範に変質させるものです。97条(基本的人権の保障)を削除して、天賦人権を否定するなど、これまでの改憲論にないカラーが出ています。人権制約の文言も周到をきわめ、「国防軍」の保持の方向に9条も改めようとしています。安倍首相のいう「戦後レジームの転換」の完成形態です。

安倍首相は「とりあえず96条!」と、居酒屋のビールのような扱いで、憲法改正手続規定から手をつけ、発議要件を「総議員の3分の2」から「過半数」に変えようとしています。そういう時だからこそ、「憲法とは何か」ということをしっかり議論する必要があります。

公研60周年にあたって一言申し上げました。これからも、OBの皆さまには、公研に対する応援をよろしくお願い致します。


(2013年2月11日執筆)

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