歴史における「2013年」――アベカラーの朝へ             2013年12月30日

靖国神社

2013年最後の直言(52回目)となった。今年の最初の直言「還暦の年を迎えて―激動の2013年への抱負」では、中央道・笹子トンネルでの大惨事(1トンもある天井板が崩落して通行中の車を押しつぶし、9人が死亡した)について触れた。人生、どこで、いつ、何が起きるかわからない。その日、その日を精一杯生きることの意味を感じる年の初めだった。

この12月2日、事故から1周年のその日、仕事場から笹子トンネルを使って自宅に帰る際、現場付近を通過しながら、ハンドルを左手でおさえて合掌した。道路公団民営化の過程における、安全管理費の「概ね3割の縮減」を主張した猪瀬直樹氏(当時・道路関係四公団民営化推進委員)は東京都知事になり、わずか1年で辞職したが、その記者会見で「政治家としてアマチュアだった」と語った。道路行政や安全管理についても「アマチュア」の分際で、傲慢不遜な態度で、経費削減のため安全管理費の削減を公団側に迫った事実は消えない。そのことが、笹子トンネルの打音検査の手抜きにどのように影響したのかについては今後の検証を待つべきだが、少なくともそんな人物が434万票も獲得して、ギリシャやベルギーよりも人口が多く、メキシコと同程度のGDPをもつ東京都のトップであったことは悲劇でしかない。悲劇と言えば、首相を途中で放り出した人物がその地位を「取り戻す」ことに成功したのがちょうど1年前である。一度目は悲劇だったが、二度目は喜劇どころか、惨劇になりつつある。

昨年最後の「直言」は「『憲法突破・壊憲内閣』の発足」と題して、その安倍晋三第二次内閣の発足を論じた。このタイトルが過剰・過大でなかったことは、1年間の政治、外交、経済、社会、文化、教育等々、この国のすべての分野で起きていることを冷静に診れば明らかではないだろうか。

安倍首相は「壊憲の鉄砲玉」である。「憲法96条先行改正」という禁じ手を使った明文改憲の手法だけでなく、この憲法のもとで定着してきたさまざまな原則や有権解釈を蹴散らして、実質的な改憲状態を現出させ、この国をアベ色に染め上げようとしている。先週起きた2つの出来事は、この人物に2014年(第一次世界大戦100周年)も首相をさせておくことの危なさを端的に表現していると言えよう。

先週26日、安倍首相は東京・九段の靖国神社を突然参拝した。側近らが自制を求めるもこれを振り切り、高村正彦副総裁などの再考を求める声に耳を貸さず、幹事長には当日朝に通告、連立を組む公明党の代表には当日電話をして、「賛同いただけないとは思います」と突き放した。「もう誰にも止められなくなっている」(自民党幹部)という状況のもとでの参拝だった(『朝日新聞』12月27日付)。

『南ドイツ新聞』は、「計算された挑発」という見出しを付け(Süddeutsche Zeitung vom 26.12.2013)、『ディ・ヴェルト』紙も、毛沢東の生誕120年の記念式典とほぼ同時刻に参拝したことに注目。「完璧なタイミングの挑発」と書いた(Die Welt vom 26.12)。また、『フランクフルター・アルゲマイネ』紙は「情念が煮え立つとき」と題して、教科書や学校での南京虐殺や「従軍慰安婦」問題の扱われ方を紹介しつつ、首相の靖国参拝を支える国民意識についても論じている(FAZ vom 26.12)。中韓だけでなく、ヨーロッパの日本を見る目が一段と厳しくなっている。

今回特筆すべきは米国の厳しい態度である。米国大使館は直ちに声明を発表し、「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」と明言するとともに、「米国は、首相の過去への反省と日本の平和への関与を再確認する表現に注目する」と述べた(12月26日声明・在日米国大使館公式サイトより)。声明は、その翌日には国務省の声明に格上げされた。

米国政府の意向は明確だった。10月3日、ケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて献花している。これはきわめて異例のことである。安倍首相が米国訪問の際に、アーリントン墓地(すべての宗教・宗派に開かれている)と靖国神社を同列視する発言をしたことに対する米国側の不快感のあらわれであり、首相の「靖国参拝」を牽制したものという見方が有力である。

安倍首相はこれまでの自民党総裁、首相にない特筆すべき点を持っている。それは思い込んだら止まらないことである。安倍政権に好意的・親和的な『読売新聞』一面コラム「編集手帳」でさえ、「一方通行の道を、向こうから逆走してくる車がある。正しいのはこちらだからといって、走り続ける人はいない。ブレーキを踏み、止まる。〈正〉と〈止〉は横棒1本の違いである。自分が正しくとも横棒は胸にしまい、事故を避けて止まらなければならない。靖国神社に“電撃参拝”した安倍首相の安全意識は、はなはだ怪しい」と書いた(同紙12月27日付)。この評価は甘い。安倍首相は道路交通法(憲法)を守らない「確信犯」で、故意に一方通行路を逆走して止まらないのである。

彼がいま依拠しているのは、ネット世論ではないのか。「フェイスブック宰相」と言われるだけあって、安倍首相の唐突な判断の背景に、「いいね!」をたくさんもらいたいという願望もあるように思う。だからこそ、近隣諸国との外交関係や経済関係が最悪になろうとも、在留邦人に不安感を与え、観光客が激減しようとも、「だって、ボク、行きたいんだもーん」という感覚なのではなかろうか。首相が自身のフェイスブックで参拝の「報告」を行ったところ、4時間ほどで「いいね! 」が3万件を超えたという。これまでは多くても1万5000件程度だったので、「異例の高い支持」だそうである(『産経新聞』12月27日付)。ますます勘違いが増幅している。

私は、今年の5月の段階で、安倍首相のことを「KM首相」(空気が見えない)と呼んだ。自分の「思い入れ」や「思い込み」、「思い違い」を壮大なる「勘違い」に押し広げていくキャラクターである。歴史認識が絡むと「勘違い」は度を超したものとなる(直言「『記念日』の思想――KM (空気が見えない)首相の危うさ」)。今回の靖国参拝に際して発表された首相談話「恒久平和への誓い」を一読すれば、それは明らかとなる。何点か指摘しておきたい。

まず、靖国参拝で「不戦の誓い」という勘違いである。すでに指摘したように、靖国神社は単なる宗教施設ではない。「国のために死ぬことを正当化するイデオロギー装置」であり、新しい戦争を精神的に準備する道具でもある。246万余の「みたま」は戦争の度に増殖していく。「国家」に忠義を尽くして死んだ者だけが「みたま」となれるから、戦争犠牲者の魂の「差別化」も徹底している。A級戦犯合祀以前の問題として、この神社がその誕生以来一貫して、戦争・軍事と不可分一体の関係にある点が重要なのである。しかも、歴代の首相が必ず「不戦の誓い」とアジア諸国への配慮の言葉を述べる「全国戦没者追悼式」(8月15日)において、安倍首相はあえてそれを行わなかった。靖国参拝で「不戦の誓い」を表明するためにあえて8.15では沈黙したとでもいうのだろうか。だとすれば、その「不戦の誓い」の中身は、彼の「積極的平和主義」と同様、言葉とは正反対のものではないのか。

首相の靖国参拝については、憲法上重大な疑問がある。しかし、首相談話にはそのことの自覚がまったくない。中曽根首相も小泉首相も参拝に際しては憲法についての指摘をかなり気にしていた。しかし、安倍首相は憲法など「どこ吹く風」である。そもそも特定の宗教施設に首相が参拝することは、国の機関が、特定の宗教団体の施設内において、その宗教体系に組み込まれた形で拝礼をするという点において、憲法20条3項が禁止する宗教的活動にあたると考えるべきである。首相はSPと公用車なしには行動できないから、首相個人の私的参拝は、在任中はあり得ない。小泉首相の靖国参拝に関する福岡地裁判決(2004年4月7日)や大阪高裁判決(2005年9月30日)は、その理由のなかで、「内閣総理大臣による参拝により、国が靖国神社を特別に支援している印象を国民に決定づけた」として、政教分離原則違反を認定している。

さらに、中国や韓国が猛烈に反発・抗議することが明らかなのに、「中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません」と言ってしまう。参拝後の記者会見で、「これからも謙虚に礼儀正しく誠意を持って説明をし、そして対話を求めていきたい」とおおらかに語ってしまう。激しく怒る相手に対して、「謙虚に礼儀正しく誠意を持って」などと、「歯が浮くような」というより「体が浮くような」言葉を羅列するのも安倍首相の特徴である。「礼儀正しく誠意を持ってぶん殴る」ということをされたら、いきなり殴られるより怒りの度合は深いだろう。私は、「引き続き丁寧にご説明申しあげたい」等々、相手が納得しないことがわかっていて使われるこの類の言葉を聞くたびに虫酸が走る。とりわけ、辺野古移設を拒否して、「県外移設」を求める沖縄県民に対して、この言葉は頻用された。そして、先週、安倍政権はついに沖縄県知事を屈伏させることに成功した。

沖縄タイムス号外

靖国参拝の前日、12月25日、安倍首相は仲井眞弘多沖縄県知事と会談。辺野古埋め立て承認をもぎ取った。その手法はこれまでの自民党政権にない強引なものだった。沖縄振興策を2021年度まで毎年3000億円台にするという「異次元のバラマキ」には驚いた。東日本大震災の復興予算同様に、沖縄県民の生活とは縁遠いところに「目的外使用」されることはいまからでも想像がつく。5年以内の普天間基地返還に向けて作業チームをつくるというのも、これまでずっとだまされ続けてきた沖縄県民は見抜いている。オスプレイの沖縄県外への一部移転については、そもそもオスプレイ配備そのものに県民は反対してきたわけで、日本各地に分散させることで負担軽減というのはあまりにも傲慢だろう。日米地位協定の改定交渉(基地内の環境保全や調査の実施)については、米兵犯罪に関わる地位協定17条について言及がなかったことからも、リアリティがない。にもかかわらず、知事は「驚くべき立派な内容をご提示いただいた」「格別の御高配を賜りましたことに深く感謝申し上げます」と述べ、安倍首相の靖国参拝の翌日、辺野古埋立ての承認を行った。知事はこうして、普天間基地「県外移設」の公約を反故にしてしまった。

知事の埋立て承認の布石は、先月、石破茂自民党幹事長が、沖縄県選出の自民党国会議員をあえて横に座らせる記者会見を開いたところで打たれている。沖縄選出議員たちは一言も発する機会も与えられずに、公約を撤回させられた。この石破の力による強引な党内運営が「政党高低」の冬型の寒々とした風景を生み出している。

突然の靖国神社参拝と沖縄県知事の辺野古埋立て承認という年末の2つの事件は、今後の安倍政権の政権運営と党運営の方向と内容を示唆しているように思われる。その際、注意すべき点は、安倍政権が続く間に自分たちのやりたいことをすべて実現してしまおうという官僚たちのおぞましい便乗作戦である。特定秘密保護法に引き続き、安倍首相が狙っているのは何か。萩生田光一・自民党総裁特別補佐は、安倍政権の「2年目は『安倍カラー』を出していくでしょう」と予言している。そして、首相とカップ麺をすすりながら語ったときのことを紹介する。首相は「法案の名前って大事だね」といい、特定秘密保護法ではなくて、「国民の安全のための情報漏洩防止法」か「国家安全機密法」だったらマスコミに「治安維持法の復活だ」と批判されずにすんだのにと後悔したようだ。そして、「『名は体を表す』というけれど、法律も名前が大事だ。…これからは練り直そうよ」と語ったという(『産経新聞』2013年12月27日付)。

ナチス看板

来年以降、悪法と言われないように「名前」にも出し方にも工夫を凝らしてくるだろう。「歯も体も浮くような名前」をつけてくるかもしれない。特定秘密保護法では遅まきながらがんばったメディアも静かになってしまうかもしれない。NHK経営委員会はアベ色に彩色されつつあるので、硬派のスペシャル番組やETV特集が存続しうるのか心配である。前出の萩生田総裁特別補佐によれば、「安倍カラー」はますます濃くなっていくようなので、このままいくと、ある朝起きてみると、みんなアベ色に染まっていた、なんていうこともあり得ない話ではない。フランク・パヴロフ=藤本一勇訳『茶色の朝』(大月書店、2003年)をいま本気で読み返しているところである。


《付記》最初の写真は、12月26日12時過ぎ、ゼミ16期生が靖国神社で、首相が帰った直後の報道陣を撮影したものである。3枚目は、英語圏のネオナチグループが作ったらしい鉄製の看板。ドイツ語と英語が混在している。ナチ時代、国会議員は862人もいたのに、全員が同じ色で表情がない(冒頭の看板では真っ黒! )。いまの日本の国会議員も、ただの採決要員(「いいね!」の代わり)に成り下がっていくのか。

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