都知事選が終わった。この選挙の歴史的な意味については先週書いたので繰り返さない(直言「垂直の『ねじれ』をつくれるか」)。結果は、政権与党の推薦候補が当選した。これで縦・横ともに「ねじれ解消」が完成し、安倍政権の驀進が続くことは確実となった。
それにしても、この選挙の「静けさ」は何だったのだろう。冬季五輪の開会式と「東京、20年ぶり大雪」(実際は45年ぶりだった)をメディアは繰り返し伝え、選挙最終日の「盛り上がり」は消されてしまった。テレビは都知事選を意識的に話題にしなかった。この扱いの低さは尋常ではない。NHKでは、FM放送やラジオ第一放送で原発問題を取り上げようとした出演者に圧力がかかった。都知事選の間、原発問題にはできるだけ触れさせない。これは結果的に、原発問題をスルーしようとする政権側の候補者に有利に働いたと言えよう。
また、かつてなら注目候補(+応援者)の一挙手一投足を執拗に追いかける民放のワイドショーも、今回はその手法を「あえて」とらなかった。「注目度ナンバーワンの応援弁士」の顔と声がメディアを通じて流れることを恐れたとも言われている。元首相たちのツーショットを意識的に報道しないことで、メディアの報道は安倍政権の意向を忖度するものとなった。政権与党は決して一枚岩ではなかった(それどころか、除名された候補者を応援する「大義」はないという声まで内部から出た)にもかかわらず、勝利した。
さて、毎年、福岡県の太宰府天満宮は、花が咲き始めるこの時期に、梅の鉢植えを総理大臣官邸に届けているとのこと。贈られた梅の品種は「思いのまま」。安倍首相は「全国津々浦々に花を咲かせます」と述べたという(『産経新聞』2月7日付)。この国はますます「安倍色」に染められていくのだろうか。萩生田光一・自民党総裁特別補佐が、安倍政権の「2年目は『安倍カラー』を出していくでしょう」と語ったことはすでに紹介したが(直言「歴史における『2013年』――アベ色の朝へ」)、都知事選勝利で、ますますこの傾向が「色濃く」なっていくことが予想される。
歴代首相のなかで、自分の名前を冠して自らの「カラー」を強調するのは、安倍氏をおいてほかにいない。どんな長期政権でも、「佐藤カラー」「中曽根カラー」という言葉は存在しなかった。なぜ安倍首相についてのみ「カラー(色)」がかくも語られるのか。中身が「空」(から~)だから、ことさら「色」(カラー)が強調されるのだ、などと言うつもりはない。しかし、ここまで「カラー」が強調されるのは、やはり異様である。相手も世界も「自分色に染めてしまおう」、というのは何とも恐ろしい。人や状況も考慮しないで、長年の慣行さえも無視して、強引に自分の好きな色だけに染めてしまうこと。それに染められていくこと、ストッパーなく安倍色だけに傾いていくことのバランスの悪さを、有権者はもっと警戒すべきである。
いくつか例を挙げよう。まず、学習指導要領改定をめぐる国会答弁である。1月27日、文科省は、中・高の教員向け学習指導要領解説書を改定し、全国の教育委員会などに通知することを決めた。解説書には、沖縄県の尖閣諸島と島根県の竹島を「我が国固有の領土」とする記述が入った(『朝日新聞』1月28日付)。2月5日の参議院予算委員会で佐藤正久議員(自民)は、学習指導要領改定に関連し、「小学校で
尖閣諸島をめぐる中国・台湾と日本・沖縄との関係は、地理、世界史、日本史の総合テーマとなりうる。歴史上複雑な問題をはらむだけに、子どもたちがそれを多面的、多角的に考えられるようにしなければならない。他国の子どもたちがいわゆる「反日教育」を行われているから、こちらも「日本精神」をたたきこんで打ち負かすというのは愚の骨頂である。国同士が対立している問題こそ、むしろ子どもたちは学びと発見の宝庫にしてしまうだろう。それを「固有の領土だ」という結論だけ押し付けて、政府の方針を明確にしていくというのではあまりに貧しい。これでは、戦前タイプの「教化」ではないのか。しかも、そこで想定されているのは小学校の教育である。歴史や地理として専門的に学ぶ以前の段階で、教室を、「固有の領土」への自覚を高めるという国威発揚の場に使うのは、教育現場に混乱をもたらすだけだろう。安倍首相の答弁はまさに、「そこまで言うか」の世界である。「海外で子どもたちが論争したとき、しっかり日本の考え方を述べられること」などと、国家を背負って、他国の子どもたちを言い負かすことのできるのがよい子どもとなると、これは戦前型の「少国民」(Jungvolk)の育成を彷彿とさせる。安倍政権は、従来の政権が立ち入ることに慎重だった教育の内部事項に、荒々しく、おおらかに踏み込んできている。それは8年前に始まっていた。
第一次安倍内閣のとき、教育基本法の「改正」が行われた(直言「教育基本法の魂を抜く」)。「改正」前の旧教育基本法10条にいう「不当な支配」には、権力の教育介入も含まれるというのが通説・判例だった。「旭川学力テスト事件」で最高裁大法廷判決(1976年5月21日)も、「教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けているもの」と明確に指摘し、「その意味において、教基法10条1項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があるといわなければならない」と判示していた。最高裁は、教育基本法が、「戦前における教育に対する過度の国家介入、統制に対する反省から生まれたもの」と認識しており、「同法10条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する」と述べていたことは注目される。しかし、第一次安倍内閣は、この旧教育基本法の「魂」を抜き去り、政府による権力介入を容易にしたのである(直言「これが『不当な支配』なのだ」)。
いま、安倍内閣は、教育委員会の委員長と教育長の「統合案」を示して、教育に対する首長の権限を強化し、教育行政を政治主導型に変えようとしている。教育が、その時々の「民意」により決まる政治から距離をとる。これは教育の本質からくる要請である。しかし、いま、教育の世界に対して「安倍カラー」は特に濃厚に打ち出されている。その実動部隊が「教育再生実行会議」である。そこで検討されている事柄を見ると、子どもたちの心のなかにまで入り込む執拗なイデオロギー教育になりかねない危うさをもつ。なお、同じ方向の動きとして、大学教授会の権限を限定・縮減して学長権限の強化をはかる学校教育法「改正」の動きがあるが、これは改めて検討する予定である。
安倍政権は、「放送」をイデオロギー装置としてより効果的に活用すべく、その中身に介入・コントロールしていく手法も露骨である。その一例が、今までの自民党政権ではおよそやらなかったようなNHK経営委員の仰天人事(「アベトモ人事」)である。経営委員は国会同意人事にもかかわらず、その自覚が安倍首相にはまったくない。どこの独裁政権でも、身内にポストを与えて権力強化をはかる傾きにあるが、安倍首相は「お友だち」を随所に配置していく手法をとる。その結果、不自然にイデオロギッシュな人物が「安倍カラー」を発揮することになる。NHK経営委員のなかの「アベトモ」については、早い時期から懸念や疑問、危惧が表明されていた(例えば、「NHK経営委員――限度超えた安倍カラー」『毎日新聞』2013年11月2日付社説)。その言動のすさまじさについてはここでいちいち立ち入らないが、「期待」以上の人物たちだったということだろう。
冒頭の写真は、内閣情報局発行の『週報』301号(昭和17年7月15日)裏表紙のイラストである。練馬区石神井公園「ふるさと文化館」における北原照久コレクション展示会(2013年11月)で、主催者の許可を得て撮影したものだ。「心も武装せよ」。まもなく施行される特定秘密保護法のおぞましい世界を象徴するようだ。それだけでなく、「心も武装」した子どもたちに思想動員をかけ、他国の子どもたちとの論争に勝つ。安倍カラーによる「美しい国」の一コマである(直言「『焚書』と『美しい国』)。
ところで、安倍首相は、先週の国会答弁で、またぞろ「96条先行改正」を主張しはじめた。「憲法改正の作法」としておよそ許されない邪道にもかかわらず、「たった3分の1の国会議員の反対で、国民の6割、7割が求めている改憲ができないのはおかしい」という珍妙な主張がまかり通っている。憲法改正についての粘着質な「安倍カラー」についても引き続き要注意である。
安倍カラーの浸透をどこかでストップさせなければならないが、都知事選ではそのための「垂直のねじれ」をつくる絶好の機会を逸することになった。深刻な総括が必要だろう。