2月20-21日、伊豆川奈でゼミ合宿を行ったが、最終日に映画『TOKKO―特攻』(リサ・モリモト監督、シネカノン、2007年)をDVDで視聴した。この映画は、日系二世の女性監督が、「特攻」で撃沈された米駆逐艦の生存者にも取材して、日米の「特攻」当事者から、同じ人間・個人としての本音を引き出したすぐれた作品と言える。学生たちのなかには、映画『永遠の0』(百田尚樹原作、山崎貴監督)をみた者がけっこういて、両者を比較する視点での感想は興味深かった(機会があれば紹介したい)。
合宿からもどった2月第4週、NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」に俄然注目した。私自身、朝ドラは「あまちゃん」も途中参入で、「ごちそうさん」もかなり後になってからのことである。大前治氏との共著『検証 防空法――空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)を2月上旬に上梓した関係上、防空法や大阪大空襲が描かれるという情報を得て、毎日録画して欠かさずみるようにしていたものである。
第19週(2月12日放映)では、バケツリレーで焼夷弾を消す防空演習の場面が登場し、さらに第21週(2月28日放映)では、主人公の夫が「空襲のときは火を消さずに逃げろ」と住民に指導して逮捕された。焼夷弾の威力を隠して危険な消火活動を強制することは、安全にこだわる建築畑の役人として耐えられなかったのだろう。ネット上では、「防空法違反で逮捕」というつぶやきが多くみられたが、厳密に言えば、彼の逮捕は防空法罰則が根拠にはならない。
時代考証もなかなかのものだった。町内の板塀等に貼ってある防空ポスターが1930年代のものと、1940年代のものとが並んでいたのはやや不自然であるにしても、また、栞(しをり)サイズの 『時局防空必携』が本のように拡大され、アップになったその内容がワープロで打ち直された“左から読む”横書きだったことはご愛敬としても、全体として、防空関係のグッズはよく配慮されていたと思う。
第22週では、1945(昭和20)年3月13日夜の大阪大空襲が描かれる。焼夷弾のすさまじさは体験者からすれば、こんな程度ではすまないというところだろう。逃げ場を失った主人公は、地下鉄駅に逃げれば安全という夫の言葉を思い出す。格子戸で閉ざされた地下入り口を叩いて「開けてください」「開けてぇー」「開けろー」と叫んだ主人公に対し、駅員は「空襲時は駅は開けられへんのや」「危険なんや」「防空法でそう決まっとるんや」 と述べた。しかし主人公の気迫に押されて駅員は扉を開き、やがて到着した電車に乗り空襲から逃れることができた――。
セリフ中に「防空法」という言葉が出てきたことは注目に値する。安全な場所への避難を禁止する法律を正面から描いたTVドラマは、ほとんど前例がないからである。
ドラマのとおり、地下鉄への避難は禁止されていた。1941(昭和16)年11月17日、帝国議会(貴族院・防空法改正特別委員会)では、地下鉄への避難を認めるよう求めた河瀬眞議員に対し、藤岡長敏・防空局長は、地下鉄を避難場所とする「世間ノ希望」があるとしながらも、これを頑として認めない答弁をした。この審議は当時の新聞1面に掲載された(『朝日新聞』1941年11月18日付)。それだけ市民の関心が高かったのであろう。
この政府方針は、終戦時まで変更されなかった。1944(昭和19)年6月に立案された内務省など5省による「中央防空計画」127条にも、「地下鉄道ノ施設ハ、之ヲ待避又ハ避難ノ場所トシテ使用セシメザルモノトス」と明記されていた。
これらは、1941年改正で新設された防空法(昭和12年法律第47号)8条ノ3および同法施行令を受けた内務大臣通牒「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」(昭和16年12月7日)が、都市からの退去・避難を全面的に禁止したことと軌を一にしている。国民は空襲から逃げることを禁じられ、身を挺して消火活動をするよう義務づけられていたのである。
ところで、英国のロンドンでは、地下鉄施設が避難場所とされ、ホームや軌道敷にまで多数の避難者があふれかえったことがある(参考:ロンドン地下鉄へ避難した市民【写真参照】 )。
もちろん、ここで地下鉄についての安全神話を語るつもりはない。東京では空襲時に地下施設の一部が爆風で破壊されたのも事実である。しかし、圧倒的多数の地下施設は損壊を免れている。猛烈な火焔が吹き荒れるなかに放り出されるよりは、地下駅に逃げた方がはるかに安全だった。地下駅や車両内で、空襲により乗客が死亡した例は日本では現在ないとされる。ドラマの主人公が言ったとおり、地上よりも「地下鉄は安全」だったのである
ドラマ「ごちそうさん」はフィクションであるが、地下鉄への避難が禁止され、入口が堅く閉ざされていた場面は現実および法制度と一致する。主人公の気迫で地下への避難が認められたことも、フィクションとしては感動を呼ぶ場面である。ネット上では、地下鉄への避難禁止についても触れている拙著『検証 防空法-空襲下で禁じられた避難』を紹介する書き込みも多数あり、防空法制への注目の高まりが感じられる。
ところが、なかにはフィクションであるドラマと本書の要点とを誤解しているむきもあるようである。検索でヒットした事柄を、ツイッターの140字のつぶやきに乗せて全世界に向かって「カクサン」させる。最初に書いた人の誤解が、さらに次の人の解釈を経て厳しい非難に変わるということもまま起こる。こういうものに訂正を求めたり、反論をしたりすることは困難である。誤解はありうる。おとしめることを目的とした曲解もある。だが、一知半解、「半知半解」というものも少なくない。近年のツイッターによって、「無知全解」も拡散しているように思えてならない。
その代表例が、「ドラマからも分かるように、大阪大空襲以降は地下鉄での避難が認められていた。だから水島の見解は誤りだ」という意見である。「水島朝穂のロンドンでは避難が認められていたから地下鉄駅への避難を認めなかった日本政府の方針はあまりにも冷酷という論は、銀座空襲以前であれば説得力を持ちえたであろうが、以後であれば政府の方針に妥当性がある。大阪大空襲時の地下鉄運行は、危険を承知で敢えてなされた事になる」「水島朝穂の地下鉄避難論を敢えて擁護してみると、氏の主張の中では、地下鉄避難論は当局による防空壕の簡素化指令とリンクしているのではないか、ともとれる。脆弱な防空壕と地下鉄とどちらがよりマシか、という次元の問題だ」等々。
勝手な「つぶやき」に反論するのもどうかと思うが、次々にリツイートされているので、「ごちそうさん」の「地下鉄避難の回」をめぐって飛び交っている言説に対して、ここでコメントしておきたい。
以上のコメントは、共著者の大前治氏の見解をもとにしている。とにもかくにも、是非、『検証 防空法― 空襲下で禁じられた避難』の現物を(図書館などにリクエストするなどして)、多くの方に読んでいただき、防空法制について議論が深まることを期待したい。
なお、空襲下に避難を禁じていた防空法を問題にすることは、米軍による市民をターゲットにした残虐な空襲を免罪するものだという批判(非難)も見かけた。とんでもないことである。私は、カーチス・ルメイを早い時期から批判してきたし、同じ敗戦国ドイツでドレスデン空襲を正面から問題にすることの困難性、戦後60年でようやくとりあげることができるようになった事情なども書いたことがある。「空襲」と「空爆」の言葉の違いを踏まえ、市民をターゲットにする攻撃方法への私の批判は一貫している(直言「平和における『顔の見える関係』)。
拙著の狙いは、戦後70年を前にして、60万を超える空襲被害者への国としての対応をきちんとさせることである。その端的なあらわれが、「空襲被害者等援護法」だろう。高齢化する関係者にとって、残された時間は多くはない。
《付記》第2次大戦も末期、一般人を巻き込んだ空襲が本格的に始まったのは、終戦の年の3月だった。10日に東京、数日後に名古屋や大阪と、軍事施設だけでなく普通の街が火に包まれていく。ある程度予想されたにもかかわらず、農村や郊外へと避難した住民は少なかった。・『東京新聞』2014年3月4日付「本音のコラム」鎌田慧「安全神話の危険」
▼最近出版された「検証防空法」という本で、理由の一端を知った。消火活動に従事させるため避難を事実上禁止し、違反すれば懲役か罰金を科していたのだ。法律にこうした決まりが盛り込まれたのは東京大空襲の4年前。真珠湾攻撃と同じ年だ。「爆弾にあたって死傷する者は極めて少ない」といった手引書も出ていた。
▼同書によれば、戦意喪失を避ける目的も大きかった。空襲を受け郊外に逃げたら、食料配給を止めると言われて街に戻り、次の空襲で家族を失う。そんな体験をした人もいた。NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」にも、「焼夷(しょうい)弾が落ちたら、消火しようとせず逃げろ」と指導した市役所職員が逮捕される場面があった。
▼東京大空襲などがあった3月には長らく、多くの人々が戦争の悲惨さを語り継いできた。3年前からは、震災とその犠牲者に思いをはせる季節にもなった。終戦から70年近くがたち、直接の体験者が減っていく。しかし何が起こり、それがなぜ起きたのかを調べ、伝えていく大切さはいまも変わらない。震災も同様だろう。
1945年3月10日未明、東京の下町は米軍の爆撃で火の海になった。10万人の命が奪われた東京大空襲だ。高木敏子さんは母と2人の妹を亡くす。悲惨さを伝えるため書いたのが「ガラスのうさぎ」である◆高木さんは学童疎開していて助かった。生き残った父親に尋ねる。なぜお母さんたちと一緒に逃げなかったの―と。警防団の父は詰め所に走り、母と妹は近くの防空壕に入ったという。その壕内は急速に熱くなり、母たちは火の海の中に飛び出していった◆当時、防空法という法律があった。空襲前に都市から転居することを禁じ、空襲時には猛火に立ち向かい消火活動をすると義務付けた。ふだん恩恵を受けている都市を風雲急となると放棄して退去するのは帝国の国民道徳からも許されない―。政府発行の「家庭防空の手引」にある◆隣組は国の指揮監督下、防空訓練を重ね、「逃げたくても逃げられない」縛りをかけた。防空精神がいたずらに強調され、「焼夷(しょうい)弾はバケツの水で消せる」など誤った情報が流された。早大法学学術院教授の水島朝穂さんらの近著「検証防空法」に詳しい。