「禁じ手」破り――武器輸出三原則も撤廃            2014年4月7日

アフガン絨毯

「禁じ手」というものがある。柔道で顔を殴ったり、剣道で足払いをやったり、ボクシングで関節技や締め技を使ったりしたら、それだけでアウトである。憲法に基づく政治でも、さまざまな「禁じ手」がある。集団的自衛権行使の違憲解釈や徴兵制違憲解釈など憲法が「やってはならない」と命じている場合は当然のこと、それまでの政権が批判的世論や憲法の精神を斟酌して、「やろうと思えばできたが、あえて抑制してきたこと」もまた、長期にわたって形成されてきた「禁じ手」と言えるだろう。法律や国会決議の形をとらず、首相の国会答弁などの反復継続、その蓄積によるものも少なくない。武器輸出三原則、非核三原則などがそれであり、P・J・カッツェンスタインのいう「準憲法的な」政治的了解である(有賀誠訳『文化と国防―戦後日本の警察と軍隊』日本経済評論社、2007年168頁)。そのもつ意味は決して過小評価されてはならない。だが、安倍政権は「最高責任者のおれがルールをつくるのだ」と言わんばかりに、そうした長期にわたるこの国の「禁じ手」の蓄積を「スピード感をもって」蹴散らしている。

その際、安倍政権の特徴の一つとして指摘できるのは、反知性主義である。「現代日本の反知性主義の…最大の特徴は、本人は高い知力を持っている権力者が大衆の反知性主義的感情を操作する、という図式が成立していないところにある。そうではなく、権力者自身が知的でなく、大衆に蔓延した反知性主義的感情と一体化し、その感情をますます活気づけ、ついには個別的な幾人かの権力者が反知性的であるのではなく、政治・経済・ジャーナリズムといった社会的諸領域の支配層全体が反知性主義によって満たされるという自体が生じつつある」(白井聡「『戦後』の墓碑銘」『週刊金曜日』2014年3月7日号29頁)。

「いいね! 」依存症の「フェイスブック宰相」米誌『ニューズウィーク』の命名)が舵取りする安倍政権の中枢からは、「禁じ手」を取り除くために、およそ考えられないような非知性的な言説が繰り出されている。「安保法制懇」の怪しげな議論の数々については、直言「『安保法制懇』は何様のつもりか」で批判すると同時に、明日(4月8日)発売の雑誌『世界』(岩波書店)5月号の拙稿「安保法制懇の『政局的平和主義』―政府解釈への『反逆』」で詳しく論じたので、ここでは触れない。

ここで注目したいのは、自民党の高村正彦副総裁が、1959年12月の砂川事件最高裁判決を取り上げ、「砂川判決の必要最小限の自衛権の範囲には、集団的自衛権も含まれる」と、「限定的な行使容認」に理解を求めたことである(『東京新聞』4月4日付)。弁護士資格をもつ人の言葉とは思えない言葉だが、これで党内がまとまりそうだというのだから、さらに驚く。大学の「憲法」講義で取り上げられる砂川事件というのは、旧安保条約の合違憲性が争われた事件であって、問題となったのは「個別的」自衛権であり、しかも国連の集団安全保障との関係でそれ自体の存否も問われていたのであって、日本が攻撃されてもいないのに他国のために実力を行使する集団的自衛権などは論外であった。その昔、司法試験に合格した高村氏ともあろう人が、1959年段階の砂川事件判決の論理とその周辺事情について知らぬはずはない。「わが国に対する武力攻撃」という要件を欠いた状態でなされる集団的自衛権の行使に「限定的」なものはあり得ず、それを知った上で「限定的な行使容認」というレトリックを使うのならば、その知的誠実性が疑われよう。

これに対して、公明党の山口那津男代表(弁護士)は、「[砂川]判決は個別的自衛権を認めたものと理解している。集団的自衛権を視野に入れて出されたと思っていない」と、高村氏の主張に否定的な考えを示した(『東京新聞』同)。同じ公明党の北側一雄副代表(弁護士)も、「砂川判決の一文を取り上げて、『集団的自衛権を容認しているんだ』というのは少し飛躍している」(『産経新聞』4月5日付「単刀直言」)とまっとうな指摘をしている。公明党は弁護士出身議員が衆参合わせて10人いるが、自民党は高村氏を含めて衆参両院で計18人である。与党内の「限定容認」の勢いは止まりそうもない。

「禁じ手」破りは続く。4月1日、安倍政権は、武器輸出三原則を全面的に投げ捨て、「防衛装備移転三原則」を閣議決定した。新三原則の前文で「武器輸出三原則は、わが国が平和国家としての道を歩む中で一定の役割を果たしてきたが、時代にそぐわないものとなっていた」と断定した(『東京新聞』4月1日付夕刊)。47年間維持してきたものを「時代にそぐわない」の一言で片づけてよいのか。

半世紀近くにわたり、「平和国家」のありようを示す大切な理念とされてきた武器輸出三原則は、武器禁輸政策に関する首相の国会答弁を整理した政府統一見解である。①共産圏諸国、②国連決議により武器の輸出が禁止されている国、③国際紛争の当事国またはその恐れのある国について、武器輸出を認めないというもので、その後、1976年に三木内閣が政府統一見解として、三原則対象地域以外についても、「憲法および外為法の精神にのっとり武器の輸出を慎む」という形に強化された。この三木内閣統一見解を加えて、「武器輸出三原則等」と呼んできた。しかし、1983年の中曾根内閣の時に、米国に対する武器技術の供与に限って、この「武器輸出三原則によらないこととする」とされ、その空洞化が始まった。今回、安倍晋三という「突破もの」を得て、ボロボロになっていた武器輸出三原則に止めが刺されたわけである。

今回の安倍政権「三原則」は、「武器」という言葉を排除して「防衛装備」に、「輸出」を「移転」に変えて、禁輸のイメージを一掃しようとしている。そして、①国連安全保障理事会の決議に違反する国や、紛争当事国には輸出しない、②輸出を認める場合を限定し、厳格審査する、③輸出は、輸出先の目的外使用と第三国移転について適正管理が確保される場合に限る、という新三原則を打ち出した。従来の「武器輸出三原則」で禁輸先としてきた「共産圏」や紛争の「恐れのある国」という表現もなくなった。

その上で、輸出を認める「審査基準」として、「平和貢献や国際協力の積極的な推進に資する場合」と「わが国の安全保障に資する場合」をあげる。あまりに一般的な「基準」であり、結局、4大臣会合をメインにする「国家安全保障会議(NSC)」で判断されることになる。「安全保障に資する場合」にあたるかどうかは、政権の判断でいかようにも解釈可能であり、客観的基準たり得ない。特定秘密保護法で問題となった、秘密を指定する者とチェックする者が同じという「名ばかり第三者機関」と同じ発想がそこに見られる。

相手国政府に対して、他国への再輸出や目的外使用については日本の事前同意を義務づけてはいるものの、「平和貢献・国際協力の積極的な推進のため適切と判断される場合」や、国際共同開発などの場合は、事前同意を必要としないという例外も設けている。これでは、武器輸出について原則承認して、例外を限定するという「武器輸出解禁原則」ではないか。

私は10年前、『朝日新聞』のオピニオン面「私の視点」に原稿を依頼され、「武器輸出見直し論――本音に屈せず禁輸継続を」を書いた(『朝日新聞』2004年8月14日付)。

…日米の武器商人たちの「本音の突出」に付き合って、原則に手をつけてはならない。世界平和にとって真に必要なのは、包括的武器輸出禁止条約である。地域紛争が泥沼化していく背景に、紛争地域への武器流入があるからだ。とはいえ、国連常任理事国の五大国だけで世界の武器輸出額の大半を占める皮肉な状況のもと、現実は厳しい。警察官と武器商人が同一人物では紛争はなくなるまい。それでも、武器輸出規制を求める世界世論を広めることは重要だ。武器輸出三原則見直しはそうした方向に逆行する。中曾根内閣以来、平和国家の「周辺規制」が一つずつ外されてきたが、ここでまた一つ外し、憲法9条本体の規制撤廃にまで進むのか――。あられもない本音に屈せぬ議論がいま、求められる。

アシアナ

10年が経過して、ついに重要な「禁じ手」の一つ、武器輸出三原則が撤廃された。「防衛装備移転三原則」は軍需産業の本音の「解禁宣言」にすぎない。日本で開発された武器が、世界で誰かを殺す。生活を崩壊させ、美しい街や自然を破壊する。10年前に書いたとおり、「武器輸出規制を求める世界世論を広めること」、それは過去に戦争を経験したこの国の平和国家としてのあり方そのものにかかわるのであり、武器によって人が殺される哀しみが、「時代にそぐわな」くなることなどないのである。

そこで思い出したのが、2002年4月にアフガニスタンのカブールから、友人が送ってくれた3つの「グッズ」のことである。一つは、女性に着用が強制される「ブルカ」の現物。それと、旧ソ連製兵器に覆われた「武器の国」アフガンを描いた絨毯である。これは、この12年間、研究室の入口近くに敷いてある。そして、いま、私が想起するのが、アフガンの子どもが作った木製の玩具である。「アシアナから――2002年カブール」と書いてある。挽き肉をつくるミンチ器の上に、AK47小銃や対戦車ロケットRPG7など各種の武器が突っ込んであり、ハンドルを回すと、鉛筆やショベル、本や薬などに変わって出てくる。「コンヴァージョン(軍民転換)」を象徴する玩具である。文部省が中学生用の教材として配布した『あたらしい憲法のはなし』のなかの有名な挿絵と響き合う。

武器を平和的なものに作りかえる。戦争の惨禍を経たこの教訓が、安倍政権のもとで崩されていく。いま、求められているのは、武器を拡散させて利益を得る社会からの離陸への想像力と創造力である。「アシアナ」のように。

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