「最高の責任者は私です」(2014年2月12日衆院予算委)。質問者を威嚇するように、むきになってこんな答弁する首相があらわれようとは想像していなかった。これには既視感がある。7年前の直言「国会『議事』堂はどこへ行ったのか」に、次の下りがある。
…先例や慣行は破り放題、「不正常な採決」(野党が同意しないまま行われる採決)が続出した。…不信任案や問責決議案の採決は12回…懲罰動議も18件提案された。衆院では、年金法案の採決時に委員長をはがい締めにした民主党議員を「登院停止30日」にするため、これに反対した衆院懲罰委員長(民主党)の不信任動議まで可決するという荒っぽさである。『朝日新聞』6月30日付社説「『数の力』を振り回す政治」は、「相次ぐ禁じ手」「『強い宰相』への焦り」「品格に欠ける政治」という柱で、この「前代未聞」の国会を批判した。特に驚いたのは、参議院選挙の投票日まで動かすという荒技である。与党はまるで、官邸の投票装置のように動いている。特に参院自民党の「軽さ」は決定的なものとなった。…安倍首相は、「有識者」の私的懇談会に集団的自衛権行使の解釈変更を提言させようとしている。…国会が機能しなくなったとき、そうした重大問題を追及できる場を失うことを意味する。…7月29日の選択は重要である。…
2007年7月29日の参議院選挙で自民党は大敗し、第一次安倍内閣は命脈がつきた。だが、総選挙で大勝し、「過去に向けた右転回」(『南ドイツ新聞』2012年12月18日付)を開始した安倍晋三氏は第二次内閣を組織して、来週にも集団的自衛権行使の「政府方針」を打ち出そうとしている。第一次内閣の時との決定的違いは、2016年まで国政選挙がないことである。この国の立憲主義と民主主義にとって、いま、真正の危機である。
安倍晋三という人物が首相になると、毎度のように教育の国家統制が粘着質で進む。第一次内閣のときは、戦後教育の柱だった教育基本法に手をつけ、その最も重要な「魂」を抜き去った(直言「これが『不当な支配』なのだ」)。この国の教育は安倍色(カラー)に確実に染まりつつある。3カ月前の「直言」にこうある。
…いま、教育の世界に対して「安倍カラー」は特に濃厚に打ち出されている。その実動部隊が「教育再生実行会議」である。そこで検討されている事柄を見ると、子どもたちの心のなかにまで入り込む執拗なイデオロギー教育になりかねない危うさをもつ。なお、同じ方向の動きとして、大学教授会の権限を限定・縮減して学長権限の強化をはかる学校教育法「改正」の動きがあるが、これは改めて検討する予定である。…
そこで予告していた学校教育法改正案が、5月19日の週から国会で審議入りする。野党の弱体化で、「スピード感あふれる」審議で成立してしまう可能性が高い。大学と「大学の自治」にとって真正の危機であるにもかかわらず、メディアの注目度は低く、一般の人にはほとんど知られていない。
この「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正する法律案」は、大学の何を、どう変えようとしているのか。2007年改正前の学校教育法59条1項が、「重要事項を審議する」機関として、大学に教授会を必ず置くことを義務づけていた。そのため、教授会の議を経ずに理事長が勝手に教授を解雇した事件で、解雇無効の判決が出ている(詳しくは、永井憲一・中村睦男共編著『大学と法― 高等教育50判例の検討を通して』〔大学基準協会 2004年〕参照)。教授会の「重要事項」に教員人事は当然に含まれるからである。さすがの安倍第一次内閣も、2007年の学校教育法改正でこの条文に手をつけることができなかった(条文の位置だけは59条から93条に移動)。
この度、安倍第二次内閣はついに、大学の核心部分である教授会権限に手をつけてきた。学校教育法93条1項の「改正」である。新旧対照表をご覧いただければわかるように、第1項の「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」がバッサリ削除されている(PDFファイル)。そして、教授会は、学長が「決定を行うに当たり意見を述べる」機関に変質させられている。
大学の「重要な事項」、すなわち教員人事から、カリキュラム、入学から卒業、学生の処分、その他教育・研究にかかわるすべての事項は教授会で決定されてきた。「疑わしき」は教授会の権限と推定される、である。60年代後半の大学紛争期には、「大学の自治」は「教授会の自治」におとしめられると批判されたものだが(その「学生の自治」も消失した)、いまやその教授会の権限も失われようとしている。
それにしても、この改正案は姑息である。教授会が自ら決められることを第2項で3つ列挙している。①学生の入学、卒業、課程の修了、② 学位の授与、③「教育研究に関する重要事項で、学長が教授会の意見を聴くことが必要であると認めるもの」である。一見すると「重要事項」が具体的に列挙されて明確になったかのようである。だが、①と② は従来も当然に「重要事項」だったが、この規定の仕方はむしろこれだけに限定する効果がある。さらに③で、「重要事項」であっても、学長が教授会の意見は必要ないと判断すれば(「認める」主体は学長だから)、教授会にはからないで決定できる仕掛けになっている。これでは、教授会の権限の縮小効果しかないだろう。
さらに第3項では、教授会は、学長や学部長などが「つかさどる」教育研究に関する事項を審議し、学長や学部長などの「求めに応じて意見を述べることができる」とされている。ここに学部長が出てくるが「ライン」的な位置づけで、教授会は単に審議し、意見を述べることの「できる」だけの機関におとしめられている。また、大学の研究や教育の世界に「つかさどる」という表現をことさらに用いている点も問題だろう。
この改正案の狙いは、法案の「趣旨」のなかに端的にこう表現されている。「大学運営における学長のリーダーシップの確立等のガバナンス改革を促進するため、副学長・教授会等の職や組織の規定を見直すとともに、国立大学法人の学長選考の透明化等を図るための措置を講ずる」と。
「リーダーシップ」と「ガバナンス」という言葉が使われていることに違和感がある。学長や学部長のトップダウンによる「スピード感」あふれる大学運営が期待されているようだが、それは壮大なる勘違いというものである。大学にとって最も無縁なのは、指揮命令関係である。過度な「リーダーシップ」は有害でさえある。学部長が教授に対して指揮命令をするという発想がそもそも大学にふさわしくない。従来、学長や学部長というものは、われわれ教授からすれば、大学のお世話係という認識があって、「ご苦労さま」という感覚だった。だが、近年は妙にその役割が強調されるようになり、なかには勘違いして空回りしている長もいる。この国の首相と同じである。「私が大学の最高責任者だ」などと学長が言ったら、かつてなら笑いものになっただろう。だが、いまは誰も笑わなくなった。特に職員管理は徹底し、指揮命令関係が大学内に貫徹するようになっている。従来はもっとアバウトだったし、それが大学のよさでもあった。
今回の改正案の92条4項には、副学長の役割として、学長の「命を受け、校務をつかさどる」が追加された。まさに学長→副学長の指揮命令系統の確立である。政府が求めることをやるのが大学であるというような勘違いが、近年の大学に生まれている。補助金をぶら下げられて、その分け前にあずかるために、研究教育機関としての大学の魂が失われつつある。それを促進しているのが「世間の目」への強迫である。
安倍色(カラー)が大学の研究・教育にまで及びつつあるいま、1935年の天皇機関説事件後の大学法学部の寒々とした風景が想起される(直言「憲法研究者の『一分』とは(その1)」) 。天皇機関説を講義や教科書で採用していた法学部教授19人が狙い撃ちにされた。文部省思想局は、受講する学生のノートまで集めて、授業内容をチェックした。天皇機関説事件の背後で、大学は学問研究の自由も教授の自由も失っていったのである。それをメディアと民衆が後押ししていった。
「安倍色」に染まる日本は日々、何とも言えない息苦しい空気が広がりつつあるが、大学の核心部分についにそれが及んできた。「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」(麻生太郎財務相)という方向に確実に進んでいる。
この学校教育法93条改正についての大学関係者からの批判として、「大学の自治を否定する学校教育法改正に反対する緊急アピール」を参照されたい。
と、ここまで書いてきて終わろうと思ったら、『産経新聞』5月1日付が届いた。その一面をみて驚いた。「東大独自ルール『軍事忌避』に反旗―複数の教授ら米軍から研究費」という見出し。「軍事研究と外国軍隊からの便宜供与を禁止している東京大学で、複数の教授らが平成17年以降、米空軍傘下の団体から研究費名目などで現金を受け取っていたことが…分かった」という。東大は1959年から軍事研究を禁止し、1967年の評議会で「軍事研究はもちろん、軍事研究として疑われるものも行わない考えを確認している」として、外国軍隊からの資金提供も禁止してきた。しかし、男性准教授(当時)が米空軍の関連団体から学会の開催費用として1万ドルを受領したり、別の男性教授(当時)が5000ドルを受け取ったりしているという。これのどこが悪いというのが『産経』のスタンスで、記事全体としては東大における軍事研究禁止のルールの撤廃を求めている。1967年と言えば、「武器輸出三原則」が決まった年である。『産経』は安倍内閣による「武器輸出三原則」撤廃に続き、大学における軍事研究の「解禁」の動きを促進させようとしている。
近い将来、学長が「リーダーシップ」を発揮して、大学における軍事研究の促進を「つかさどる」とき、教授会は果たして「意見を述べることができる」だろうか。