来年は「天皇機関説事件」80周年である。この事件はあまりにも有名だが、実は、文部省思想局が全国の憲法学者に圧力をかけて、天皇機関説という特定の学説を一掃するため動いたのである(直言「憲法研究者の『一分』とは」)。教科書の改訂・絶版を行わせ、また憲法講義の担当から解任するなどの陰湿な方法を使って、大学から一つの学説を抹殺したのである。
中身が「空」(カラ)であるがゆえに「色」(カラー)を過度に強調する指導者が権力を握ったことでもたらされる不幸は、どこの国、どの時代でも共通である。焚書、研究者の戦争動員、特定の教授や学問内容への攻撃等々…。
社会の格差や矛盾が深刻な状況となり、国民の不満が政権に向かうことを避けるには、外に「敵」をつくり、緊張感を演出することが効果的である。国民にそれを攻撃させることで政権はさらに安泰となる。領土問題は単純化が最も容易なため、どこの国も利用する。日本も周辺諸国もほとんど同じ手法を使って、対立をことさらにあおっている。いずこでもメディアの果たす役割は相変わらずである。
第二次安倍内閣は、こうした周辺諸国との緊張激化という「好条件」のもと、露骨な形で教育への介入と統制を強めている。「『入学から卒業まで』、『親学』から大学院の研究にまで口を出し、安倍式教育『改革』の、自制も抑制もない暴走が始まった」と指摘したのは、ちょうど7年前の6月のことだった(直言「これが『不当な支配』なのだ」)。教科書検定の強化も第一次安倍内閣だった。
「再チャレンジ」の第二次内閣は、7年前にはできなかった高等教育と高等教育機関を主攻正面に設定している。その手始めが、学校教育法93条1項の「改正」である。これまでの政権がさすがに直接には手をつけられなかった「大学の自治」のコアに堂々と踏み込んできた(「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正する法律案」新旧対照表〔PDFファイル〕)。大学運営の中軸である教授会の権限を弱化させるもので、それにより失われるものは計り知れない(詳しくは、直言「『学長が最高責任者だ! 』―学校教育法改正で変わる大学」参照)。これに対する大学人の批判の声もあがっている。
そして、先月下旬、『産経新聞』5月21日付の一面で、特定の講義と担当教員をターゲットにして、大学の授業に対する攻撃が始まった。4月28日、かつて私が勤務していた広島大学総合科学部の「演劇と映画」という教養科目の講義において、約200人の学生に対し、元慰安婦の証言をもとに構成された60分の韓国ドキュメンタリー映画「終わらない戦争」が上映されたというのだが、記事は、「いつから日本の大学は韓国の政治的主張の発信基地に成り下がってしまったのか」というその受講者の一男子学生(19歳)の声をもとにこの講義を非難している。
『産経』によれば、担当の准教授は映画の上映前に、慰安婦問題をめぐる河野官房長官談話についての問題点を説明することもなく、上映が終わると、「今日の授業は以上です」と告げ、すぐに講義を切り上げたという。「『強制連行』の証言だけを示し、学生には議論の余地も与えなかった」という印象を得たこの男子学生は、「講義を受けた学生らは『日本だけがものすごい悪いように映った』『映像内容がその通りだと素直に思ってしまった』と漏らしていた」と語り、国立大学の授業として、慰安婦募集の強制性があたかも「真実」として伝えられたことに疑問を呈し、「何の説明もなしに、あの映画を流すのは乱暴だ」と指摘したという記事である。記事はもっぱらこの一学生の印象を軸にまとめたもので、「現在、事実関係を確認している。事実がはっきりしない段階ではコメントできない」という大学広報の対応と、「学生に議論の余地を与えなかったのではなく、講義の時間が足りなかった」という准教授の声を紹介している。
200人もの学生が参加する講義について、2年次の一学生の印象だけをベースに、最後は河野談話や朝日新聞の批判で終わるという、「歴史戦」と銘打たれたコーナーの典型的なキャンペーン記事である。ここで取り上げるまでもないのだが、記事がネットに拡散して、広島大学に抗議電話が殺到しているということ。ネット上に、「広島大学の反日講義」「大学に巣食う韓国人工作員」等々、偏見に満ちた書き込みやツイートが多数見られること。そして、この記事に便乗(もしくは意識的に連動)して、2日後の衆議院内閣委員会(5月23日)で、広島出身で「あんまり勉強しなかったので広島大学には行けなかった」と自称する議員(「維新の会」)が、文科省にこの授業についての見解をただしている(リンク先はYouTubeでの映像)こと。そこには、大学教育や憲法で保障される学問の自由についての大きな理解不足がある。今回はそれについていくつか述べたい。
この議員は、大学当局がコメントを控えたことが、授業内容の事実関係を把握していないから問題だと述べているが、これは大学教育というものを理解していない。そもそも大学当局が個々の授業の毎回の内容を把握するなどということはありえない。カリキュラム編成や学科目配当は学部教授会の権限だが、個々の授業は担当教員の責任で行うもので、大学当局がいちいち内容を細かくチェックすることはない。しかし、元高校教員の経歴をもつ女性文科政務官から、授業内容について調査をしていること、「文科省として大学に対して必要な助言を行う」という答弁を引き出している。だが、大学の特定の授業と担当教員をめぐるこうしたやりとりそのものが問題なのである。
大学の授業は、担当教員によって、素材、切り口、方法論、結論を含めてすべて自由に組み立てることができる。「教授の自由」は憲法23条の学問の自由から当然に導かれる。文科省が個々の授業内容をチェックすることを認めれば、国家や「世間」にとって都合のいい授業内容しかできなくなり、「教授の自由」が損なわれ、大学の授業は萎縮する。授業の中身の問題点やその改善は、あくまでも教員と学生との間で、また科目担当者間の議論を通じて行われるもので、大学の管理機関が介入すべきものではない。いわんや、文科省が調査に乗り出し、是正を勧告するといった筋合いのものではない。
問題となった講義のように、多数の教員で担当するオムニバス講義の場合、全体の目的や狙いが必ずしも徹底せず、個々の担当者がもっぱら自己の問題意識で一回だけの講義を行い、前後の関係が不明確になるということはあり得ることである。学生にとってはさまざまな話を聴ける反面、やや唐突感が毎回残ることも否めない。これがこの種の講義の課題である。だが、それは科目責任者の教員が最後にまとめの講義をやって、最終的な調整をするのが基本である。また、カリキュラムや学科目配当を審議する学部の教務関係の会議で、当該科目の問題点と課題を議論して、担当者や科目責任者に改善を求めるというのが筋である。
問題となった講義の場合、部外者が事情も知らずに断定はできないが、少なくとも担当した准教授が60分のドキュメンタリーを見せたあと、残り30分を使って学生から質問や意見を求めていれば、このような形では問題にならなかったようにも思われる。『産経』では、「講義の時間が足りなかった」と准教授が語ったことになっているが、90分授業の場合、60分の映画を上映するなら、残り30分をどう使うかに注意を払うのが通常である。上映後、学生の質問や意見を聞かないということは考えられない。広島大学のシラバスを見る限り、この講義は当該科目の3回目にあたり、4回目は別の教員が「中国の絵解き芸能」について講義するので、この准教授の「朝鮮の映画」というテーマは一回性のものである。もし記事の通りならば、准教授は映画を上映しただけで講義を終えたことになる。これは望ましい授業運営とは言えない。しかし、あくまでも当該オムニバス講義実施上の問題点として、学部の担当教員や科目責任者らの話し合いで解決すべき事柄である。それを一受講者の投書を使って、外部から授業運営の中身の当否に踏み込むのは、大学の授業とその運営の自主性を損なうもので問題だろう。
日本科学者会議広島支部は次のような声明を出した(リンク先はPDFファイル)。
…かつてドイツでは,政権獲得前のナチ党が,その青年組織に告発させる形で意に沿わない学説をもつ大学教授をつるし上げさせ,言論を萎縮させていった歴史がある。その忌まわしい歴史を彷彿とさせる本件にたいして,われわれが拱手傍観しているようなことがあれば,特定の政治的主張をもつ報道機関がその意に沿わない講義のひとつひとつを論評し,特定の政治的主張をもつ外部のものが大学教育に介入してくるきっかけを与えることになる。…
大学における「学生の授業評価」の問題性についてはかつて指摘したが、200人の学生がいれば、その印象は多様であり、教員に反感をもつ学生がネットに悪口を書き込むことは、教員なら誰でも経験していることだろう。問題は、こうした一部の声を使って、「偏向授業」といったキャンペーンがはられることである。『産経』が「歴史戦」を宣言して今回のような特定の授業を標的にしたことで、こうした非難を受けやすいテーマを自粛ないし抑制する動きが大学内に広がるとすれば、これは学問の自由(教授の自由)と大学の自治の自殺行為だろう。
そこで思い出したのだが、いまから12年前の今頃、当時官房副長官だった安倍晋三氏が、早大「大隈塾」という正規授業にゲストとして呼ばれたことがある。一回限りの講義のなかで安倍氏は、「憲法上、核兵器、ICBM(大陸間弾道弾)は保有できる」と語ったとして、一部週刊誌が大きく取り上げて非難した。講義に参加した学生が密かに録音して、それを外部に流したものである。私はこの時、誰もが参加できる一般の講演会とは異なり、非公開の(出席をとる)大学の授業であることを指摘して、授業の内容が外部に漏れてこれが非難されたことの問題性を論じた(直言「大学の授業への『介入』」)。
この「直言」を出したあと、私のホームページがDoS攻撃を受けてダウンするという事態に発展した。ある学生団体は、その発行する新聞で、「安倍発言を擁護する水島朝穂教授」「進軍ラッパを吹く権力者を免罪」「反権力なき知性の限りない堕落」といった的外れの非難と個人攻撃を私に行った。12年前、安倍発言を擁護・免罪したとして一部で非難されたが、私は安倍氏が、同僚の教員が運営に関わる授業にゲストとして招かれて行った発言である点を重視した。安倍氏が核武装について発言しても、全15回のうちの1回であり、別のゲスト(辻元清美氏ら)も予定されており、受講者はいろいろな見解を聞いて多角的な視点と批判力をつけるというのが当該講座の狙いとされていた。
以上、述べたとおり、何が学問の自由や大学の自治を守るために必要不可欠かの要点はおわかりいただけただろう。それは、どちらのイデオロギーに加担するとかしないとかいう種類のものではないのである。
今回の広島大学のケースでつくづく残念なのは、学生が子ども扱いされていることである。先に紹介した衆議院内閣委員会で、「あんまり勉強しなかった」と語る議員の質問に、女性文科政務官が答弁する際、「子どもたちに何を学ばせるかが大切だ」と、大学生のことを「子どもたち」と呼んだのには脱力した。大学における学生は「子どもたち」ではなく、大人である。どんな映画を上映しようとも、教員がどんな見解を披瀝しようとも、それを批判的に受けとめ、教員に対して質問や意見を述べる主体として扱うべきである。
学生自身もまた然り。学生は「生徒」ではないのである。受講において「映像内容がその通りだと素直に思ってしま」う“だけ”では学生とは言えない。どのような講義も、自らの知性や判断を磨く「きっかけ」となるに過ぎない。そこから自分はどう感じ、どう考え、何を調べ、どういう意見を持つのか。それが自由にできるのが大学という「場所」である。それゆえ、またそれゆえにこそ、学問の自由と大学の自由を守らねばならないのである。
いま、大学は、国家や「世間」に対して過度に迎合して、大学本来の使命を失いつつある。次回は、大学を職業教育の場にしようという最近の動きを批判する。(この項続く⇒直言「大学を職業教育の場に?!――『傲慢無知』政権の大学政策」)