大学を職業教育の場に?!――「傲慢無知」政権の大学政策            2014年6月9日

安倍首相演説

「傲慢無知」の安倍政権は、とうとう本格的な「大学改造」に乗り出そうとしている。前回の直言で触れた広島大学総合科学部の授業をめぐるケースをきっかけに、大学の自治や学問の自由への直接的な統制・管理も強まっていくおそれがある。一方、各種の補助金やポスト、組織改編などを多彩に組み合わせた「学者の餌付け」を通じた管理も行われていくだろう。その手法によるここ10年余の大学の変貌には驚くばかりである(直言「大学の文化と『世間の目』」)。そして、とうとう大学のあり方そのものを変える暴走関白宣言が首相の口から飛び出した。 5月6日、パリで開催されたOECD閣僚理事会において、安倍晋三首相は基調演説を行った(首相官邸HP)。「私は改革を恐れません」という言葉を4回も使い、例によって自意識過剰、新自己チューな演説である。「いかなる岩盤も、私の『ドリル』の前には無傷ではいられません」と言うに至っては、“お前大丈夫かと、おでこに手を当てた”(さだまさし「雨やどり」)くなるほどである。フランス・パリの地ネタや、外国人受けするような事例やエピソードをねじ込んだ、演出過剰なスピーチ原稿だが、次の下りには思わず目が点になった。日本の大学教育の「改革」に話が及んだときのことである。

…ある調査では、大学の特許出願のうち、アメリカでは15%程度が新たなビジネスにつながっていますが、日本では0.5%程度しかない。

日本では、みんな横並び、単線型の教育ばかりを行ってきました。小学校6年、中学校3年、高校3年の後、理系学生の半分以上が、工学部の研究室に入る。こればかりを繰り返してきたのです。

しかし、そうしたモノカルチャー型の高等教育では、斬新な発想は生まれません。だからこそ、私は、教育改革を進めています。、もっと社会のニーズを見据えた、。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています。…

この演説をネットで見つけ、そのURLをメールで知らせてくれた大学院生の一人が、この演説を論評する長文のメールを送ってきた。以下、本人の同意を得て、その文章を紹介しよう(なお、適宜リンクを付した)。

…安倍首相のOECDでの演説を読んで一つ不自然な点を発見し、その浮いた箇所から、日本の将来にまで至るいろいろな問題が見えてきました。

安倍首相によれば、「学術研究を深めるのではなく、…職業教育を行う」のが高等教育の枠組みということのようです。Discipline/Instructionとしての教育です。これが「教育改革」の手段とされているわけです。しかし、「斬新な発想」が生まれるのはむしろ一般的な大学で幅広く教養を身につけた場合でしょう。「斬新な発想」から付加価値を生んでいくという目的との関係で考えてみると、この手段(実践的な職業訓練)はまったく役に立ちそうにないですね。演説で先に挙げられているソニーの大賀社長の例にしても、大賀社長が実践的な職業訓練(ここでは、CD開発の実践に役に立つ工学教育)ではなく、音大というルートを経てきたことがCD開発に繋がったと考えるべきであって、むしろ多様な人材を確保することの重要性を教える例のように読めます。「実践的な…職業教育」の重要性を論じるための例えとしてはまったく不適切です。この話は演説の主張と食い違い、浮いています。

違憲審査をするとき目的・手段審査を用いますが、目的・手段による分析は政策分析の手法でもあります。目的と手段の食い違いは、標榜されている目的とは別の目的が存在することをあぶり出します。今回の例で言えば、「斬新な発想」から付加価値を産んでいくという目的に対して実践的な職業訓練という手段は、にわかに整合しないものを感じます。社会が複雑化しており、「経営学や心理学の知見、文化への造詣など、幅広い素養が求められる」という演説での主張やいろいろ挙げられている例と、実践的な職業訓練重視とは、距離があると思われるのです。

むしろ、演説の中で明らかに浮いている「実践的な職業訓練重視」言明こそが、「教育改革」における目的なのではないでしょうか。その傍証として、最近の報道で見られるような「社会経験」を求める傾向や、大学に職業訓練としての教育を求める世の中の動向が挙げられます。この「実践的職業教育」の主張を見る限りでは、職業訓練校へのルートを開くということではなくて、今ある大学を職業訓練校化していく(枠組みを取り込む)ということのようです。私の悪い予感が正しいとすれば、それは、高い付加価値を持つ分野にマンパワーを投入すべしという演説での主張とはまったく裏腹に、むしろ単純労働者を増やすということになるのではないでしょうか。何しろ『高等』教育という場を使ってまで「職業教育」を行うわけですから。

もちろん、そうすれば表面的に生産力や労働者の数は増え、ダンピングが可能になるわけですが、長期的に見れば安倍首相のいう「イノベーション」は消えていくでしょう。国民生活としては、私がここ数年各種メディアで知った、あるいは就職した友人たちとの間で話題になった「過労死に至る悲惨な労働現場」が常態化することになるでしょう。

教育には、その時々の大人(教育する側)がどのような人材を求めているかが反映されるものですから、この「実践的職業教育」言明を、今後の日本社会を映す鏡としてとらえることは決して不適切ではないと思います。私が思うに、こういう目的の中に学校教育法93条の改正(案)なども位置づけられるのだと思います。そもそも学術研究ではなく職業訓練ということになると、学問共同体の固有法則の尊重、端的に言えばオートノミーなど果たして必要とされるでしょうか。そこで求められるのは規律です。とりわけ、「世の中」(学生を毎年採用する諸企業)が必要とする職業教育を行うということならば、文部行政当局が、「社会のニーズ」(安倍首相)を背景にしてピラミッド型のヒエラルキーと化した教師集団を通して学生・院生を規律し、「世の中」が望む人間をつくろうとすることになるのは必定と言えます。

「学術研究を深めるのではなく」と総理大臣に言われると、来年が天皇機関説事件80周年であることを改めて感じざるを得ません。80年前には、帝国陸海軍が、自己の利益と対立する美濃部達吉らをパージしたわけですが、そうすると国家を認識するための国家法人という概念が使えなくなります。そこで、「國體」明徴と言って初等教育から大学まで思想的コントロールを試みることによって国家統合を果たそうとしたわけです。ここで重要なのは、このような集権化は、一人ひとりに自分で考えさせず、一人ひとりを公定Ideologyのスピーカーにすることによって分裂を避けようとするものです。だから、そこでは自己と国家の自分勝手な同一化が発生し、逆説的にアナーキーが現出します。俺こそ国家だ、だから俺に従えという輩が大量発生する世界です。

現代にも同じことが言えるのではないでしょうか。実践的職業訓練にとっては無用の学問共同体のオートノミーを破壊し、大学においては「国民の支持」とか「国民感情」を背景に、ヒエラルヒッシュな教員団を構成し学生を規律する。初等・中等教育においては、日の丸と君が代を使ってヒエラルヒッシュな構成に反発する人間をいぶり出しているわけですが、そういうことをする目的は「実践的職業教育」にあるのだということが、今度の演説でよく分かりました。今後の大学にたいする文部当局の介入は、「実践的職業教育」という概念を用いて分析すると良いということでしょう。現在、「実践的」な研究優先と基礎分野の軽視、大学の講義が「実践的」であることを求める傾向(試験対策的傾向)などが財政的な介入によって実現されつつあると言えるでしょうが、これらの介入は「実践的職業教育」という概念のもとに統一的に理解することができます。

では、果たしてこのような政策が今後通用力を持ってさらに実現されていくかどうか。大学に対して利害関係を持つ企業のことはさておいても、市井でもアカデミズムに対する風当たりはものすごく強いのだということを肌で感じます。先に挙げたような「社会のニーズ」、つまり労働力ダンピングを目指した「実践的職業訓練」は、案外簡単に支持を得てしまうかもしれません。その結果日本の教育水準が著しく低下し、生産力に劣る国になるとしても、です。規律される側の学生の感覚としても、就職を目指す人にとっては「社会のニーズ」に迎合するほかないわけですから、「社会のニーズ」に合わせた教育プログラムを大学で受けたいと考えるかもしれません。

逆に、そもそも学術研究や、研究(特に基礎分野の)を前提とした大学に価値があるのでしょうか。もし、本気で労働力ダンピングによって資本を日本に誘致していく、というようなことを考えているのであれば、それはまったく無価値と言わなければなりません。しかし、私は、学術研究には「嚮導」の役割があると考えています。安倍首相の演説の他の箇所ではただしく捉えられているように、複雑化している社会を、社会からは一歩引いたところで分析し、導く役割があると思います。国家嚮導行為(Leitung)は執政権(Regierung)だけではなく、その批評者としての学問の徒も担うはずです。目的はどうあれ、批評者を自由な批評から遠ざける国家は、80年前のわが国がそうだったように、分裂し自滅するものでしょう。

繰り返しになりますが、社会をみちびく嚮導者をなくすことによって教育水準は低下し、技術の世界におけるイノベーションも起きず、経済活動はますます停滞することになると思います。お金になりそうな「実践的」職業も、その背景にはさまざまな分野の知見があるのであって、諸分野における嚮導者たる学徒を軽視することは、「実践的」職業もじわりじわりとスポイルされていくことを意味します。

こんどの一件は、自分の利害を防衛しようとしているのだと言われるのを覚悟で、嚮導者としての大学と学問研究を擁護する必要を強く感じた出来事でした。とりわけ国家作用という国家との関わりという点でド直球の分野で分析を続けようとする人間には、かつて清宮四郎が京城で、宮沢俊義が東京で味わった苦難を覚悟する必要すらあるかもしれません。長文で失礼しました。

この院生の長文メールに付け加えることはしない。安倍首相のいう「実践的職業教育の場としての大学」構想の狙いとその破綻の方向は、文中で指摘されている通りだと思う。これから修士論文を書き、博士論文を書いていく大学院生としての決意を感じる文章でもあり、うれしく読んだ。いつの時代、どこの国でも、大学を破壊していく最初の一突きは、「短期と短気」である。パンがなければ人は飢え死ぬ。しかしパンでない方を忘れてもまた死ぬ。そのせめぎあいのなかで選択をしなければいけないと思う。ファストでインスタントな今日の選択は、明日を危うくするだろう。「安倍ドリル」の前に、大学も無傷ではいられないのである。

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