7月20日(日曜)午後。自宅で原稿書きをしていると、居間の電話がなった。書斎の電話番号とは別なので、不動産の売り込みか、妻の関係だろうと思って受話器をとった。男性の声でフジテレビだと名乗るので、てっきり集団的自衛権関係の取材だと思ったが、「識者コメント」をとる記者ではなく、世論調査の担当だという。ということは、これは「生まれて初めて」の体験となるところだった。これまで61年間、東京、札幌、広島、そして東京と生活をしてきて、ただの一度も世論調査の対象になったことがなかったからである。世論調査って、本当に無作為抽出で電話しているのかな、だったら一度くらい私のところにかかってきてもいいのにな、と何度思ったことか。
電話口の男性は、安倍内閣や集団的自衛権についてお聞きしたいという。これはおもしろいと、逆取材のつもりで構えていると、「いま、20代と30代が不足しているので、お宅に若い方はおられますか」という。声のトーンから若者ではないと判断されたらしい(あたり前か)。息子も娘も30代だが、すでに独立して家にはいない。正直にそう答えると、「ああそうですか」と、あっけなく電話は切れた。「ちょっとお待ちください」といって息子になりすまし、声のトーンを変えて「ハ~イ、なんでしょうかぁ」と質問に答えてやればよかったと思ったが、そこまで知恵がまわらなかった。どうせFNN・サンケイグル一プの調査なので、安倍内閣支持率も高いだろうなと思っていたころ、その世論調査結果が公表された。「『政治に関するFNN世論調査』は、2014年7月19日(土)~7月20日(日)に、全国から無作為抽出された満20歳以上の1,000人を対象に、電話による対話形式で行った」とある。
結果は、安倍内閣の支持率が下がり、不支持率が上昇し、4割代で並んだ。この社の調査では初めてのことである。集団的自衛権行使について「評価する」は35.3%、「評価しない」が56.0%。これも「天敵」の『朝日新聞』の調査と大差ない数字だ。閣議決定に至るまで政府・与党内で十分な議論が行われたと思うかについては、「思う」16.0%に対して、「思わない」が76.5%と圧倒。集団的自衛権行使によって抑止力が高まると思うかという質問には、「思う」31.2%、「思わない」59.4%と、サンケイには悲しい数字だ。憲法解釈で集団的自衛権を使えるようにしたことについて十分な説明が行われたと思うかについては、「思う」9.6%、「思わない」85.7%、という厳しい数字が並ぶ。政府応援団のフジ・サンケイグループの調査で、しかも私の「1票」が入らなくても、内閣支持率は下がり、批判的意見が多数を占めた。このことは、安倍政権の強引な政策に対して、国民のなかに危惧や批判が広まっていることを示している。
7月1日に行われた「閣議決定」をめぐっては、公明党の「転進」とそれを擁護する議論を、かつての公明党議員の鋭い国会質問との対比のなかで批判しておいた。その後、ネット上やメディアの一部で、あの「閣議決定」は実は集団的自衛権を容認したものではなく、従来の政府解釈の線は変わっていないのだ、といった類の言説(以下、「最近の議論」という)が広まっている。「閣議決定」の本質に対する過小評価、ないし過度の楽観論と言えるだろう。
この最近の議論の特徴は、「閣議決定」で「集団的自衛権」とされているものは、実際は個別的自衛権と集団的自衛権が重複する領域にある事象を問題としており、「閣議決定」で認められたものは、実際はこれまで政府が考えてきた個別的自衛権の範囲を超えるものではないという主張である。こうした主張が「冷静」であるという評価が広がり始めている。
以下では、最近の議論のもつ問題性を、従来の政府解釈を前提にして内在的に明らかにしていくことにしよう。なお、あえて言っておくが、私は憲法9条のもとで自衛権は否定されているという立場をとり、その意味では「個別的自衛権」さえ否定する立場である。安倍内閣の暴走に対して、あえて従来の政府解釈に立って、内在的に集団的自衛権行使の議論を批判している(『世界』2014年5月号拙稿参照)。
図1さて、図1をご覧いただきたい。従来の政府解釈によれば、憲法9条は、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」を除き、すべての武力の行使を禁じている。「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」以外の武力の行使としては、集団的自衛権の行使、他国の武力行使と一体化する行為、我が国が武力攻撃を受けていない場合の機雷除去、安保理決議に基づく武力行使など、様々な類型の武力行使がある。だが、憲法上の関心事は、ある行為が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」に当たるかどうかだけである。例えば、下記の答弁がその一つ。
■衆院予算委員会1998年3月18日
○大森内閣法制局長官 集団的自衛権に当たるから認められないとか、集団的自衛権に当たらないのだから認められるという、集団的自衛権を核にした議論がよくなされるわけでございますけれども、我が国の問題に関する限りは、やはり集団的自衛権の概念を解するのではなくて、我が国を防衛するために必要最小限度の行動に当たるかどうかということが基準になるはずでございます。
集団的自衛権を定義してから、Aという行為は集団的自衛権に当てはまらないから憲法上認められ、Bという行為は集団的自衛権に当てはまるから憲法上許されないという議論の仕方は、政府解釈の憲法論として本来正確ではない。憲法論としては、AやBという行為が「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」に当たるかどうかだけを考えればよいのである。国際法上の集団的自衛権のあれこれの定義は、国内法の解釈である憲法論としては主要な問題ではないのである。憲法解釈論としては、集団的自衛権行使は、「我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものであり・・・自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていない」(2004年1月26日衆院予算委員会秋山内閣法制局長官)から、「憲法改正という手段を当然とらざるを得ない・・・そういう手段をとらない限りできない」(1983年2月22日衆院予算委員会角田内閣法制局長官)のである。しかし、最近の議論に見られるように、国内法の解釈である憲法論と、国際法の解釈とを混同している議論も少なくない。
図2は、国際法上の個別的自衛権・集団的自衛権と憲法上の「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」の関係について整理したものである。
図2従来の政府解釈では、【黄枠】だけが合憲となり、それ以外はすべて違憲と扱っていた。最近の議論は、【黄枠】に【緑枠】が含まれるとするが、これは正しいだろうか。武力行使【黒枠】には、国際法上の個別的自衛権【青枠】、国際法上の集団的自衛権【赤枠】等がある。国際法上の個別的自衛権と国際法上の集団的自衛権の定義については、政府は次のように解釈している。
■2003年7月15日衆議院議員 伊藤英成君提出 内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書
国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
国際法上の個別的自衛権と国際法上の集団的自衛権の定義については、学説上諸説あるが、政府は前述の定義を採用しており、次の答弁のように、これを勝手に変更することはできないとしている。
■参院予算委員会2014年7月15日
○岸田外務大臣 ・・・この国際法上の定義を日本が勝手に変えることができるかという御質問もいただきました。
集団的自衛権とは、国際法上、一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されている権利と解されております。もとより、こうした法的概念を我が国独自の考え方に基づき変更することはできないと考えております。
一般論として申し上げるならば、我が国に対する武力攻撃がないにもかかわらず、これを我が国に対する武力攻撃であると拡大解釈して、個別的自衛権の行使として武力の行使を正当化すること、これは国際法上できないと考えております。
また、「個別的自衛権と集団的自衛権、これは、国際法上、我が国に対する武力行使があるかないかということにおいて明確に一線が引かれています」(衆院安全保障委員会外務委員会連合審査会2014年6月2日岸田外務大臣)とされており、これは「論理上」(同外務大臣)の問題である以上、ある武力行使が個別的自衛権行使に当たるか集団的自衛権行使に当たるかは、二者択一の関係にあり、ある武力行使が個別的自衛権行使でも集団的自衛権行使でもあるということはあり得ない。公海上の米艦防護の事例に関する政府答弁がそのことを確認している。
■参院予算委員会2003年3月14日
○政府特別補佐人 内閣法制局長官(秋山收君) ・・・我が国を防衛するために行動しているアメリカの艦船等が攻撃を受けたときに、自衛隊がその攻撃を排除することは、それが我が国に対する武力攻撃から我が国を防衛するための必要な限度での実力行使にとどまるものである限り、あくまでも個別的自衛権の行使として許されると解しておりまして、集団的自衛権に基づき許されると解しているわけではございません。
このように、国際法上の個別的自衛権と国際法上の集団的自衛権は重なり合うことがないのである。したがって、両者が重なり合うことを前提として、今回の閣議決定で集団的自衛権として認められた部分は、これまでも容認されていた個別的自衛権の範囲内にとどまっているとする最近の議論は、その前提からして疑問と言わざるを得ない。
次に、今回の閣議決定が国際法上の集団的自衛権の一部を認めたものであることを確認したい。まず、憲法上唯一認められている武力行使である「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」【黄枠】は、一般に「個別的自衛権」と呼ばれているが、これは国際法上の個別的自衛権【青枠】とは範囲が異なる。
■衆院法務委員会1981年6月3日
○角田内閣法制局長官・・・いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。・・・
このように、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合にこれを排除するための必要最小限度の実力の行使」【黄枠】は、国際法上の個別的自衛権【青枠】よりも狭いのである。では、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」であるかどうかをどのように認定するのか。
■参院イラク人道復興支援活動特別委員会2004年6月10日
○秋山内閣法制局長官 これは具体の状況により判断されるべきものと思いますけれども、お尋ねのような、我が国に来援のために向かっている米軍が公海上で攻撃を受けたという場合に、我が国としてどのような対応ができるかという問題は、そのような攻撃が自衛権発動の要件のうち、我が国に対する武力攻撃の発生に該当するかどうかということで決まるわけでございます。
それで、理論的にはこれが我が国に対する組織的、計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題でございまして、個別の事実関係において十分慎重に判断すべきものでありますが、仮に当該攻撃が我が国に対する武力攻撃に該当すると判断されるということも法理としては排除されないというのが政府の考え方でございます。この場合には、我が国として自衛権を発動して武力を行使し、我が国を防衛するための行為の一環として当該米艦の防衛をすることもあり得る、法理的にはあり得るものと考えます。
このように、「我が国に対する武力攻撃」に当たるかどうかは、理論的には「我が国に対する組織的、計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題」とされているのである。例えば、邦人が乗っている米船の防護の事例で考えてみよう。
■衆院内閣委員会2014年5月23日
○山田外務省大臣官房参事官 ・・・例えば攻撃国の発言等さまざまな状況から判断して、例えば、邦人が乗っているから、日本を攻撃するためにこの米船を攻撃するのである、そういった意図を明らかにする等の事情があって、その攻撃が我が国に対する組織的、計画的な武力の行使の着手であると判断されれば個別的自衛権が行使できる可能性はございますが、これはあくまでもこのような限界的な事例につきましてでありまして、日本人の方が乗っておられるからといって直ちに日本が個別的自衛権を行使できるというわけではない。仮に、もし日本が武力によってその攻撃を排撃しようとした場合には、これは米国のための集団的自衛権の行使であるというふうに判断される可能性が高いものと考えます。
したがって、安倍首相が5月15日の記者会見で示したパネルの事例である「まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たちが乗っている米国の船」に対する攻撃も、この政府見解に照らした場合には、「我が国に対する組織的、計画的な武力の行使」と認定されれば、「我が国に対する武力攻撃」として個別的自衛権の行使【黄枠】で対処可能ということになる。
ところが、安倍首相は、5月15日の記者会見で、上記の「・・・子供たちが乗っている米国の船」のパネルを用いて、次のように発言した。「日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です」と。
安倍首相は、この事例で、我が国に対する武力攻撃が発生していないから武力行使ができないと考えるのが政府の憲法解釈であることを明言している。つまり、この事例では、米国の船に対する攻撃は「我が国に対する組織的、計画的な武力の行使」であると認定できないことが前提とされているのである。したがって、最近の議論のように、安倍首相のパネルの事例を個別的自衛権によって説明することは誤りである。そして、7月1日の「閣議決定」【緑枠】の内容はこうである。
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」
この「閣議決定」後の記者会見で、安倍首相は次のように説明した。「例えば、海外で突然紛争が発生し、そこから逃げようとする日本人を同盟国であり、能力を有する米国が救助を輸送しているとき、日本近海において攻撃を受けるかもしれない。我が国自身への攻撃ではありません。しかし、それでも日本人の命を守るため、自衛隊が米国の船を守る。それをできるようにするのが今回の閣議決定です」と。その結果は、直言2014年4月28日「集団的自衛権行使はいかなる「結果」をもたらすか」で示した冒頭の図(『世界』2014年7月号と奥平康弘・山口二郎編『集団的自衛権の何が問題か――解釈改憲批判』〔岩波書店、2014年7月刊〕の拙稿にも掲載)の通りである。
そして、横畠内閣法制局長官は、次の答弁で、この「閣議決定」が集団的自衛権の行使であることをついに認めた。
■衆院予算委員会2014年7月14日
○横畠内閣法制局長官 ・・・今般の閣議決定は、国際法上、集団的自衛権の行使が認められる場合の全てについてその行使を認めるものではなく、新三要件のもと、あくまでも「我が国の存立を全うし、国民を守るため」、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部限定された場合において、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものでございます。このような、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置としての武力の行使は、閣議決定にございますとおり、「国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。」ということでございます。しかしながら、それ以外の、自国防衛と重ならない、他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念される、いわゆるというのが先ほどの七二年見解とぴったり同じであるかどうかはあれですが、そのように観念されるいわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではございません。
ここで「自国防衛と重ならない、他国防衛のために武力を行使することができる権利として観念される・・・いわゆる集団的自衛権の行使」とは、国際法上の集団的自衛権【赤枠】のうち自国防衛目的【紫枠】以外の部分である。今回の「閣議決定」は、この部分は違憲であるとした。では、政府は、どのような理屈で集団的自衛権の一部の行使を認めたのか。
■衆院予算委員会2014年7月14日
○横畠内閣法制局長官 ・・・個別的自衛権あるいは集団的自衛権という概念は国際法上の概念でございまして、区別するメルクマールとしては、自国に対する武力攻撃が発生しているか、そうでない場合かというところで分けているという整理でございます。目的が自国防衛であるか他国防衛であるかという、目的で分けているものではないと承知しております。
従来、「自衛のための必要最小限度の実力の行使」にいう「自衛のための」は、「我が国に対する武力攻撃の発生」を前提としていた。外形的事実である。「我が国に対する武力攻撃の発生」という客観的な要件を課していたので、武力行使の濫用の危険性が最小限に抑えられており、「他国に対する武力攻撃の発生」であればいかに自国防衛の目的でも武力行使はできなかったのである。ところが、今回の「閣議決定」の理屈は、「自衛のための必要最小限度の実力行使」という従来からの政府解釈は「自衛のため」としかいっておらず、「閣議決定」で認めた集団的自衛権の一部行使も「自衛のため」であることに変わりないから、「従来の政府見解の延長線上にある」ということであろう。だが、前述の「集団的自衛権行使のためには憲法改正が必要」という角田内閣法制局長官答弁からすれば、「閣議決定」は憲法改正をしないで集団的自衛権行使の一部を認めてしまったわけで、「自衛のための必要最小限度の実力行使」という文言は維持されていても、「自衛のための」の実質的な意味内容は変えられてしまったのである。法律学的には、「集団的自衛権の一部行使が可能」と法律効果が変わってしまったのに、「自衛のための」という法律要件の実質的内容が変わっていないはずがないではないか。
加えて、「自衛のためなのに何が悪い」と開き直り、「自衛のため」の実質的内容を変更し、自国防衛目的という主観的な要件【紫枠】を導入してしまったため、武力行使に歯止めがかからなくなってしまった。横畠内閣法制局長官は、「我が国及び国民に深刻、重大な害が及ぶ、その危険が現実にあるというときに、さすがの憲法第九条においても武力の行使を認めると、さすがの憲法も武力の行使を禁じているということまでは解されないということで一貫している」(参議院予算委員会2014年7月15日)と答弁し、「我が国に対する武力攻撃がなくても、我が国及び国民に深刻、重大な害が及ぶ、その危険が現実にあるというとき」の一類型を「自衛のため」に含まれるとして、「自衛のため」の中身を広げてしまった。
これは戦前の軍部の発想に接近しているとは言えまいか。海軍大臣官房編『軍艦外務令解説』(昭和13年発行、山本五十六海軍次官が前書きで「適当ナルモノト認ム」としたもの)によれば、「自衛権ヲ行使シ得ル条件」は、「(1)国家又ハ其ノ国民ニ対シ、急迫セル危害アルコト。(2)危害ヲ除去スルニ、他ニ代ルベキ手段ナキコト。(3)危害ヲ排除スルニ、必要ナル程度ヲ超エザルコト。(4)危害ハ、自己ノ挑発シタルモノニ非ザルコト。(5)危害ガ自衛行為ヲ加ヘラルベキモノノ不法行為又ハ怠慢ニ基クモノナルコト。」である。戦前の自衛権行使の要件は、従来の政府解釈による自衛権行使の三要件(①我が国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除するために他の適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)と文言は似ているが、『軍艦外務令解説』によれば、満州事変と上海事変が自衛権行使の例とされる。だからこそ、従来の政府解釈が「我が国に対する急迫不正の侵害があること」という自衛権行使の要件をさらに具体化して、「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実に限定していた意味は非常に大きかったのである。
なお、「自衛のための必要最小限度の実力」を行使する自衛隊を合憲とすると、いつの日か、このように「自衛のため」が拡大解釈され、歯止めが効かなくなることは、予想されたことである。私が「個別的自衛権」すら否定してきたことを「子どもの議論」とする向きもあるが、今回の「閣議決定」により、「自衛のため」という要件の危険性が改めて明らかになったことと思う。内閣法制局は「自衛のため」という思想を抜身で使う究極の禁じ手を使ったと言わざるを得ない。
このように、「閣議決定」を冷静に、また「淡々とした法律論」として読んでいけば、「集団的自衛権について政府解釈は変更されていない」とは決して言い切れないことがわかるだろう。7.1「閣議決定」に対する過小評価、あるいは過度の楽観論がもたらす効果は、論者の主観的意図を超えて、今後の法整備における批判の軸足を曖昧にし、安倍政権の暴走に結果的には手を貸すおそれなしとしない。
翻って考えてみると、最近の議論が、「閣議決定」をいわば「限定的に」解釈していくのは一つの戦術なのであろうが、安倍政権の側には拡大解釈の戦略が垣間見える。例えば、7月14日の内閣法制局長官答弁は「日本が直接攻撃を受けたのと同様な被害が発生する場合に限られる」とするが、内閣は原油供給難など経済影響や日米関係影響で「同様な被害」があると拡大解釈している。「閣議決定」を過小評価する最近の議論の戦術では、限定的とはいえ「閣議決定」を追認してしまうことで、むしろ政権側の拡大路線に拍車をかけてしまうことにもなりかねない。
憲法が軋みをあげる「現場」をしっかり見据え、この「閣議決定」によって破壊された地点をきちんと分析・認識して、ダムの最終決壊をいかにして阻止していくかの議論が必要である。その際、樋口陽一氏が9年前に改憲論について語った言葉がここでも重く響く。
「サロン談義のなかでそれぞれ理想の憲法像を出し合うのが、いまの問題ではないはずです。改憲論をめぐる争いは、その社会のその時点での、最高の政治的選択なのです」(『論座』2005年3月号)。