暑いというよりも、熱いというのが実感である。辺野古の現地は、ジリジリと照りつける太陽が皮膚を刺すようだ。8月27日朝から辺野古に向かった。案内をしてくれたのは、2004年沖縄ゼミ合宿のときの8期ゼミ長で、卒業後朝日新聞記者となり、この4月から沖縄タイムスに交換記者(1年)として出向している矢島大輔君である。この取材には、ゼミの「デモ班」の一部(3人)も同行(便乗)した。
名護市に着くと、まず1998年のゼミ沖縄合宿の際に訪問した「名護学院」に向かった。崎浜秀政理事長(当時は総務部長)にお会いするのが目的である。ところが、道に迷った。名護学院はちょうど1年前に名護市中心部、つまり、東海岸(太平洋側)から西海岸(東シナ海側)に移転していたのである。
16年前、私はゼミ合宿で訪れる前に、同じく記者交換制度で沖縄タイムス記者となっていた木村文記者(後に朝日新聞マニラ支局長、現カンボジア在住フリーランス記者)の案内で、名護市二見以北にある名護学院を訪れていた。そのことを、『沖縄タイムス』1998年5月3日付の文化欄に「地方自治の可能性――沖縄から見える憲法」と題して書いた(直言「これは「沖縄問題」なのだろうか――日本国憲法施行63周年にして」に収録)。出だしはこうだ。「長いスロープを上がると、重症者病棟だった。木々が絡むフェンスの間から、キャンプ・シュワブが見渡せる。名護市瀬嵩の知的障害者施設・名護学院。市民投票に向けて、職員たちは「障害者にも知る権利がある」と、手作りの紙芝居を作り、海上ヘリ基地問題を伝える努力をした。…」
1997年12月、辺野古の基地移設をめぐる名護市住民投票の際、この名護学院の障害者の方々も投票に参加した。それを可能にしたのは、崎浜さんをはじめとする職員の方々の工夫と努力だった。そのことを木村記者が『沖縄タイムス』1997年11月18日付社会面トップで伝えた。私はNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」でこの記事を取り上げ、全国に紹介した。
移転した名護学院に到着。崎浜さんとは本当に久しぶりの再会だったが、理事長室の書棚には、かつてゼミ生と訪問したときに撮影した紙芝居の写真などを収めた拙著『憲法「私」論――みんなで考える前にひとりひとりが考えよう』(小学館、2006年)が並んでいた。
学生たちが崎浜さんにインタビューする場に同席したが、お話をうかがっていて、本当にこの間、普天間基地の移設という国の方針に、この地域が翻弄され続けてきたことを感じた。17年前にすでに、名護の市民は、名護学院の障害者の方たちを含めて住民投票に参加し、基地受け入れに「ノー」を言ったのである。にもかかわらず、歴代政府は、地元の「ご理解」を得るために「丁寧にご説明」を続けている。嘘で塗り固めた「抑止力」論に基づく新基地押し付けはもうやめにすべきである(直言「なぜ、まだ辺野古なのか――思考の惰性を問う」)。
だが、安倍政権は8月14日、辺野古の美しい海でボーリング調査を始めた。なぜ、この日なのか。お盆の時期、沖縄ではとりわけ家族・親族が集まって先祖を思うこの日に、地元出身者が圧倒的に多い沖縄防衛局職員、第11管区海上保安本部職員、沖縄県警の警察官からも、家族との大切な時間を奪った。その張本人こそ、安倍首相にほかならない。本人が「早くやれ」と机をたたいたとか、たたかなかったとか言われているが、いずれにしても政権中枢が非常に急がせたことだけは確かだろう。こうして、お盆休みの14日に強権的な行為が始まったのである。
「8月14日という日付を、抗議の意思を込めて胸に刻んでおきたい。「取り返しのつかない愚行」と「理不尽な蛮行」の始まった日として」。『沖縄タイムス』8月15日付社説はこう書き出す。短気で短慮の首相とその官邸による仕切りは、末端の公務員を焦らせ、強引な手法をとらせていく。まず防衛省は6月に、キャンプ・シュワブ沿岸部の常時立ち入り禁止区域を拡大し、約561ヘクタールの海域を「臨時制限区域」に指定した。大浦湾側から制限区域を見ると広大な地域になる。
14日早朝、沖縄防衛局に雇われた漁民と民間警備会社の警備員が小型の漁船をチャーターして、辺野古沖の埋め立て予定海域にブイ(浮標)とフロート(浮具)を設置した。海上保安部の巡視船が周辺に配置された。海保のゴムボートだけでも20以上で、反対派のカヌーを寄せつけない。日米地位協定2条4項 (a)に基づき、地元自治体や住民の意向を無視して制限区域は拡大され、米軍が望む場所に、日本国民の税金を使って、新基地が建設される。完成すれば、米軍に排他的管理権が付与され、基地の自由使用が認められる。半世紀以上続く、日米安保条約6条に基づく「全土基地方式」の理不尽、不条理がここに集中的に表現されている。この国は、国家主権の深部が侵害されていることに、そろそろ気づくべきであろう。
この異様な現場で、8月25日、海保のゴムボート部隊と反対派のカヌーとがぶつかり、大変な事態になった。その過剰警備の模様を、『東京新聞』8月26日付「こちら特報部」は詳細にレポートしている。海保11管区は、この「海上ごぼう抜き」の法的根拠を、海上保安庁法2条の「海上の安全及び治安の確保」としている。しかし、海保法は組織法であって、2条は海保の目的を定めたもので、カヌー隊を実力で規制する作用法的根拠は薄弱である。「検挙」ではなく、「事情を聞く」という形で実力行使が行われ、負傷者まで出ている。矢島記者の体験では、多くのメディア関係者が取材を妨害されたという(記事〔PDFファイル〕)。
1998年の橋本政権のとき、防衛庁が海保に対して強制排除するよう求めたところ、海保は「強制排除を執行すると、流血の事態を招く恐れがある」として拒否したという(守屋武昌『「普天間」交渉秘録』新潮文庫、2013年)。安倍首相の強い意向は、この海保の姿勢を転換させた。地元採用の多い11管区の職員たちにとってはつらい警備だったろう。力の対応には応援部隊が投入された(私が見たのは第2管区〔東北地方〕のそれ)。
私たちが現場に着いたのは27日。海上は穏やかだった。冒頭の写真は、スパッド台船というボーリング調査を海上で行うために固定足場として使用するもの。その周囲に海保のゴムボート、沖縄防衛局(ODB)のチャーター船、少し距離をおいて巡視船が1隻いる。
10年前、キャンプ・シュワブの境界は有刺鉄線だけだった。いまはコンクリートと頑丈な鉄柵で隔てられている。そこに、刑事特別法で威嚇する立ち入り制限の看板が掲げられている。基地側から貼ってあるため、読みにくい。突然、市民団体の人があらわれ、横断幕を貼っていった。でも、数時間以内には撤去されてしまうという。その時、大きな音がして、海兵隊の水陸両用装甲兵員輸送車(AAV7)が近づいてきて、急反転してもどっていった。
座り込みの人たちのテント村に行き、学生たちが説明を受ける。カヌー隊の人たちからも学生たちは取材していた。
車で正面ゲートに向かう。デモ隊と警備員とのにらみ合いが続いていた。2年前の普天間基地正面ゲートでは、沖縄県警機動隊が前面に出て規制していた。今回の辺野古警備の際立った特徴は、警察(公権力)は控えにまわり、民間警備会社が前面に出ていることである。警備における「官から民へ」。民間警備会社(ALSOK)が横一線で入口を警備して、デモ隊に対峙している。沖縄県警の警察官が一人、道路の反対側に立ち続けている。
左の写真をよく見ると、警備員の背後に機動隊の大型輸送車が1台停車しており、そこに沖縄県警機動隊1個小隊が常時待機している。民間の警備員が突破されたり、対応不能になったりしたときに出てきて、規制に入る手筈なのだろう。その状況判断を、右の写真の、正面に一人立つ警察官(スカイブルーの作業服のようなものを着ていて、階級章は見えなかった)が行うようだ。彼の少し横には、2人がデモ隊をずっとビデオ撮影している。
デモはこの正面ゲートのところで連日、朝から夕方まで行われている。猛暑のため、各団体のテントが歩道に30メートルにわたってあり、そこで水分補給と休憩をとってから抗議行動を続けている。警備員も警察官も汗だくである。安倍首相が無理やり押し付けた辺野古新基地建設は、こうして沖縄のすべての人々に、最も暑い時期に大いなる迷惑をかけているのである。
さすがに県民の怒りは強い。沖縄合宿中に入手した『琉球新報』8月26日付一面トップには、辺野古移設に80%が反対とある。安倍首相の強引な手法は「味方にできる人まで敵にまわしている」と言えるだろう。この調査では、沖縄県民の8割が、辺野古米軍基地建設を中止すべきとしているだけではない。普天間基地の取扱いについても、県外・国外への移設を求める声が47%、無条件に閉鎖、撤去すべきとする声が33%となり、この両者を合わせると8割に達する。辺野古に移設すべきとの回答はわずか10%である。これまでの政治的立場を超えた沖縄の一致した声となって、11月の沖縄県知事選挙に確実に影響するだろう。安倍首相の性急な対応がまた、一つの県で知事を失うことになった。そもそも辺野古移設があり得ないことは、17年前に決着が着いていることを改めて確認したいと思う。