《巻頭言》「9.11」から13年目のその日に、「吉田調書」と「吉田証言」の問題で、朝日新聞社長が謝罪会見を行った。それぞれ異なる背景や事情があり、「誤報」の問題については十分な検証が必要だが、この間のメディアの扱いは、本質的な問題を抜きにした「朝日たたき」の様相を呈しており、明らかに異様である。ちょっと引いて冷静に考えてみよう。一新聞の「誤報」を突破口にして、原発再稼働と集団的自衛権行使、政府の歴史認識について批判的なメディアをたたいて、一気にその実現をはかる、一種の「反動」・復古"Restauration"が始まったのではないか。支持率を下げてきた安倍政権の「秋期攻勢」である。歴史を振り返れば、大きな転換点では、たたきやすい失敗やミスが事件化され、巨大な歴史的居直りのきっかけとして使われることがしばしばある。「日本の名誉を回復する」と、ネオナチとのツーショットが海外メディアで問題にされた総務大臣や政調会長が語る。ナチスとの関わりは、欧米の政治家なら、それだけでアウトである。誰がこの国の名誉を棄損しているかは明らかだろう。事柄の本質を見失ってはならない。ミスや誤りはそれとして検証しつつも、メディアの本質的役割は権力をチェックし、国民の知る権利に奉仕するものであることを忘れてはならない。権力者のメディアたたきに同調していると、1930年秋のドイツのような状況に近づいていくことになりかねない。「直言」でこのことを含めてしっかり論じたいが、都合により、9月はじめに脱稿した原稿のアップがしばらく続くことを冒頭に申し上げておきたい。
沖縄でのゼミ合宿期間に、私が直接見聞きした「沖縄のいま」を連載してきた。その3となる今回でひとまず「完」とする。
学生たちは離島を含めて、沖縄各地で取材をしている。8月26日の私の予定は、午前中はホテルの部屋で原稿書き、夕方から沖縄タイムス本社で講演することになっていた。かねてから沖縄でお会いしたいと思っていた憲法研究者・小林武氏(沖縄大学特任教授)に、ダメもとでメールしてみた。携帯電話の番号を使う「ショートメッセージサービス」(SMS)である。すぐに「懐かしいメール拝受しました。ぜひお会いしたいと思います…」という返信があった。原稿書きを切り上げ、お宅のある宜野湾市に向かった。
普天間飛行場の近くまできて、タクシーの運転手が道に迷ってしまった。ナビに住所を入れたのに、マンション入口にたどりつけないのだ。何度か周辺をまわって、ようやくその建物にたどりついた。なるほど。基地が一望できる。しかし、基地から100メートルも離れていない。何ともすごいところにお住みなのだと思っていると、満面の笑みを浮かべた小林さんが、階段を降りてこられた。海兵隊の大型輸送ヘリCH53Eが低い高度を保ったまま、ゆっくり私たちのまわりを旋回していく。何と、住宅地の上でホバリングまでしている。基地内でのエンジンテストも、しつこいほど続く。
読者にはちょっと想像力を働かせていただきたい。普通の住宅地にある駐車場に暴走族がたむろして、昼夜を分かたず、空ぶかしを繰り返し、低速で走り回る。これがずっと続いていると考えればよい。さらに、オートバイが住宅に突っ込むことはまずないが、ヘリは空から住宅地に落ちる可能性がある。小林さん宅から南西850メートルにある沖縄国際大学に普天間基地の大型輸送ヘリCH53Dが墜落してから、ちょうど10年が経過した。NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」でこのことを熱く語ったのを、ついこの間のことのように思い出す。ちなみに、この写真は、10年前に水島ゼミ8期生と、事故の3週間後に現場を訪れたときのもの。墜落時に炎上して真っ黒になった木や、すすけた1号館の壁が痛々しい。
ところで、ご自宅のドアには、「望洋学房」とある。部屋に入るなり、机の上に不自然に積み上げられた本の山に目がいった。仲地博・水島朝穂編『オキナワと憲法―問い続けるもの』など、私にはすぐにそれとわかるものばかりだ。一番上の北海道スイーツの箱が気になった。私が質問を発する前に、小林さんから説明があった。平和的生存権についての論文を札幌の深瀬忠一・北海道大学名誉教授にお送りしたところ、数日前にお礼の手紙とともに届いたもので、その直後に私からメールがきたので驚いたという。深瀬氏は『恵庭裁判における平和憲法の弁証』(日本評論社、1967年)、『長沼裁判における憲法の軍縮平和主義』(同、1975年)、『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)などの著作と活動を通じてこの分野の草分け的存在であり、憲法学界の重鎮の一人である。
小林さんが古稀を過ぎてから沖縄に住み始め、3年4カ月たった。久しぶりにお会いしたので、一連の憲法問題や学会状況についてひとしきり私の方から話をした。その間、小林さんは窓を閉めない。私も話すことに集中していたので、普天間基地の騒音がBGMになっていた。
小林さんは私より13歳年上で、私が憲法の学会に入って以来、36年以上のおつきあいになる。院生時代から、論文の抜き刷りや本をお送りすると、達筆の礼状が届く。やがて学会の運営委員としてもご一緒した。
2004年に大学の風景が一変し、学会の開催にも支障をきたすようになり、休日に授業をやらざるを得ない関係から、学会途中で帰る地方大学の教員も少なくなかった。それを問題にした直言「大学と「世間」(その1)――本末転倒の風景」のなかで、「10月の京都での学会のおり、ある教授が、「私は全国憲法研究会の創設以来、一度も休まず皆勤しましたが、明日は休日授業のため初めて欠席します。残念です」と私に語り、足早に去っていかれた。その悔しそうな顔が目に焼きついている」と書いたのは、今だから明かすが、小林さんのことである。
病に倒れたかつての同僚、鳥居喜代和氏の仕事を一冊の本にまとめようとしたときも、また、これに対して立命館大学が博士学位を特別に授与したときも、さまざまな形で応援していただいた。小林さんにとって、鳥居氏は同門の弟弟子にあたる。
南山大学教授が長く、愛知大学教授で定年を迎えられると、2011年4月から沖縄大学特任教授となって宜野湾市に居を移された。その間、わざわざ普天間飛行場に近づくため、3回も引っ越しをしたという。生活の便利さ、静けさなどの環境のよさを求める一般人の感覚とはかなり異なり、ことさらに基地の近くに住もうとする。「危険への接近」の法理よろしく、自らを米軍基地の騒音と墜落の危険にさらして、「平和的生存権」の論文を書く。まるで修行僧の境地ではないか、と思った。改めて小林さんの覚悟を知った。
この直言「沖縄の現場から」の連載で小林さんのことを紹介するのはほかでもない。そのお仕事がいま、日本にとっても、沖縄にとっても重要な意味をもってきていることを伝えたいからである。
小林さんは、スイス憲法の研究で法学博士の学位を取得されてからは、とりわけ憲法訴訟論の分野でたくさんの業績をあげてこられた。私が注目しているのは、平和的生存権を職業裁判官にも届く言葉と内容で精緻化してきたことだろう。その成果は、自衛隊イラク派遣訴訟において、名古屋高等裁判所が出した違憲判決(2008年4月17日)にも反映している(直言「空自イラク派遣に違憲判断」)。
この判決は、違憲確認請求や派遣差し止めの訴えはいずれも認めなかったが、判決理由のなかで、航空自衛隊のイラクでの活動が憲法9条1項に禁止される「武力の行使」に該当して違憲であることと、平和的生存権の権利性を詳細に認定した。特に、平和的生存権が、法規範性をもつ憲法前文と9条、13条を媒介にして第3章の個別的人権を通じて憲法上の法的な権利として認められるべきこと、自由権的、社会権的、参政権的態様をもつ「複合的な権利」であり、かつ裁判所に対して保護・救済を求めることのできる具体的権利であること、憲法9条に違反する戦争遂行などへの加担・協力を強制されるような場合には、裁判所に対して違憲行為の差し止めや損害賠償請求ができる具体的権利性があること、を認定した点は画期的と言える。判決が認定したポイントは、小林さんが証人として裁判官の前で述べた中身と重なる。
判決の半年前、2007年10月25日、控訴審第6回口頭弁論において小林さんの証人尋問が行われた。小林さんは2時間にわたり、平和的生存権についての自説を静かに、しかし情熱的に展開し、次のように述べて証言を終えた。
…各人権の基底的な権利である平和的生存権が侵害されている今日、人権保障のために存在する違憲審査権の行使は不可欠なものになっています。裁判官が、政治的な事案に関して躊躇の念がよぎるのもやむをえないと思いますが、その躊躇の行き着くところの司法消極主義は、結局、政治の行為を追認していくだけの作用を果し、憲法を保障することにも、人権を回復救済することにも役立たないことになります。裁判所が行う行為は、あくまでも法律的判断であって、政治部門に対して右顧左眄する必要はありません。勇気を持って違憲審査権を行使して頂きたいと思います。憲法は、違憲のものを違憲と判断する裁判所・裁判官を、司法の独立の保障において、また裁判官の身分保障によって守っています。そして国民もそれを支持しています。憲法の保障に役立ち、そして人権を守ることに資する、歴史的な判決を当裁判所が下してくださることを心より期待しています。(自衛隊イラク派兵差止訴訟の会『自衛隊イラク派兵差止訴訟全記録』〔風媒社、2010年〕103頁より)。
名古屋高裁民事三部の裁判官は、この小林証言を積極的に取り入れた判決を出した。これについては6年前の「直言」で詳しく触れたが、やがて、これはイラク派兵違憲訴訟における岡山地裁判決(2009年2月24日)にもつながっていく(直言「長沼から岡山へ――平和的生存権の発展」)。
岡山地裁判決は大胆にも、「平和的生存権は、すべての基本的人権の基底的権利であり、憲法9 条はその制度規定、憲法第3 章の各条項はその個別人権規定とみることができ、規範的、機能的には、徴兵拒絶権、良心的兵役拒絶権、軍需労働拒絶権等の自由権的基本権として存在し、また、これが具体的に侵害された場合等においては、不法行為法における被侵害法益として適格性があり、損害賠償請求ができることも認められるべきである」としている。
安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定が行われたことで、実質「他衛」となる派遣命令を拒否する自衛隊員に対する懲戒処分の取消を求める訴訟や、海外派遣に伴う民間人の協力義務をめぐる訴訟、さらには「徴兵制違憲解釈」の閣議決定による転換の可能性を含めて、安倍政権が、今後、国民の人権を侵害し、文字通り「国民の命とくらし」に強権的に踏み込んできたとき、それに対する抵抗として、平和的生存権の主張を裁判所で展開し、それを側面から支える法的主張をさらに磨いて、違憲判決を勝ち取っていく必要性と可能性が生まれているように思う。
そして、辺野古において理不尽な強攻策に打って出た安倍政権に対して沖縄が抵抗していく際、司法的救済の可能性が今後いろいろと工夫されていくことになるだろう。地方自治に対する中央政府の介入や強権的な政策と向き合うには、「切り札としての地方自治」にあたる憲法95条(地方自治特別法の住民投票)の再稼働も必要だろう。小林さんが『平和的生存権の弁証』(日本評論社、2006年)で展開した沖縄の訴訟をめぐる議論の重要性が増している。職務執行命令や補助金などを使った直接、間接の地方への圧迫もそう容易ではない(直言「沖縄職務執行命令訴訟判決から10年」 )。とはいえ、「鉄砲玉」首相のもと、どのような「禁じ手」を繰り出してくるか予想できない。そうした「いま」こそ、小林さん自身が「三部作」と呼ぶ一連の論文は意義深い。すなわち、「平和的生存権の展開状況」(愛知大学法経論集197号〔2013年12月〕)、「沖縄における平和的生存権の可能性」(同198号〔2014年3月〕)、「沖縄米軍基地爆音訴訟における平和的生存権の主張」(同199号〔2014年8月〕)である。できるだけ早く、これらが「沖縄から憲法を考える」という形で一般の人々にも読まれるようになることを期待したい。
なお、小林さんのお宅にいる間はMV22オスプレイの離発着はなかった。那覇にもどる途中、「日米合同委員会合意」(2012年9月19日)で制限されているにもかかわらず、私が乗ったタクシーの頭上近くを垂直離着陸モードで飛んでいった。(完)
《付記》