8月27日、私は沖縄県名護市辺野古にいた。照りつける太陽の下でカメラを構えていたとき、携帯が振動してメールの到着を知らせた。「米倉斉加年さんが亡くなりました」という友人からの知らせだった。にわかに信じられなかった。翌日の地元紙を見ると、前日の夜9時33分に福岡の病院で急逝されたとのことだった。
昨年11月9日、日本司法書士会連合会中国ブロック講演会のため、私は新幹線で岡山駅に向かっていた。たまたま私が乗った車両には客がいなくて、4列先に男性が2人座っているだけだった。早速、急ぎの校正刷りのチェック作業にとりかかる。パーサーがおしぼりサービスに来たとき、「ありがとう」という声が聞こえた。妙にインパクトのある響きだったので、作業を中断して、通路側に体を乗り出して前を見ると、あの米倉斉加年さんだった。秘書の方と何やら打ち合わせをされている。他に客もいないので私も大胆になって、米倉さんの座席に向かった。名刺を渡し、ほんの短時間、お話させていただいた。初対面なのに、名刺をみて「あーっ」とおっしゃって、顔をじっと見つめられた。名前はご存じだったようで、10月に出たばかりの拙著『はじめての憲法教室』(集英社新書)を差し上げようと思ったが、あいにく手元には、岡山で使うメモを書き込んだ1冊しかない。岡山駅で降りるときに、「最新の拙著をお送りしますので」と申しあげ、帰宅後、すぐに1冊お送りした。
今年の正月、年賀状の束のなかに白い角形封筒が一つあった。送り主は米倉さんだった。開封すると、お手紙とともに『まさかね繪暦』(2014年)が入っていた(ネット上には2012年版が出ている)。
水島朝穂様
大変、大変御無沙汰しました。
新幹線の車中でお声をかけていただき、どんなにうれしかったでしょうか。
あの日は、私の母校(福岡の西南学院大学)に呼ばれて行くところでした。水島先生のことは、法学部の準〔ママ〕教授の方が早稲田出身だったのですぐに承知しておりました。
御著書をいただきましたとき、どんなに驚きうれしかったことか。
ところが80才にもなると、そろそろ死ぬとでも思われたのでしょうか、このところ、なんだか仕事がふえて、舞台、テレビといそがしく、その合間を縫って〈九条の会〉で各地を飛び廻り・・・
テキパキとはとてもいかず、ひと息ふた息と休み休みの日々のくらしです。そういうわけで、ついついお礼が遅れに遅れましたことを、お赦し下さい。
御著書からいろんなことを学びました。
考えることがとても多かったです。
「法」が人間が生きるためにあるということならば「法」を語ることは生きることを語ること。
生きることを語ることが「法」を語ることであるならば、「法」の専門家ではない私にも「法」を語ることが出来ることを御著書から学びました。
ありがとうございました。
これからも
“戦争は人を殺す
平和とは人が生きること” と言いつづけます。
良いお言葉を沢山ありがとうございました。
お体を大切に御活躍下さい。
御健康を祈念しております。
二〇一三年 師走
米倉斉加年
お手紙を頂戴した翌月、大前治氏と私との共著『検証防空法』(法律文化社)が出版された。当時放映されていたNHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」のなかで、ちょうど戦時下の生活が描かれ、空襲が近づくなか、主人公の夫が防空演習を妨害した容疑で逮捕されるシーンが出てくる。大阪空襲の際に主人公が地下鉄の駅に避難しようとする場面もあって、本書への関心が高まった時期でもあった。
そんなとき、新聞で、NHKスペシャル特集ドラマ「東京が戦場になった日」が3月15日に放映されることを知った。この作品のなかで、主人公の 神部正明役で米倉さんが出演される。「いまでしょ」とばかり、すぐに封筒にあったご自宅宛に一冊お送りした。「共演者の若い俳優の皆さんにもぜひ回覧してください」という手紙を添えて。返事はなかった。米倉さんからのお手紙に、「ひと息ふた息と休み休みの日々のくらし」とあったので、ゆっくりお読みなのだろうくらいに思っていた。そうしたなかでの突然の訃報。驚くとともに残念である。そのお人柄溢れる感想を再びうかがえる折の巡ってくることを淡く想う自分がいた。なお、米倉さんが主演された「東京が戦場になった日」は、「第54回モンテカルロ・テレビ祭」で、「モナコ赤十字賞」を受賞している。
今年の1月から、仕事場の壁に『まさかね繪暦』がさがっている。7月までの絵は、女の子や女性の横顔など、米倉さん特有の色合いのもので、仕事場で眺めて楽しんでいた。米倉さんの顔の描き方は独特で、感情が抑制されている。しかし、夏休み中ずっと眺めていたこの8月の絵だけは、少年が涙を流し、悲しみをストレートに表現している。おや、と思って横を見ると、「あの日、8月6日・9日」という書き込みがあった。
『東京新聞』8月27日付夕刊は一面肩で、米倉さんのご逝去を伝えた。「存在感ある脇役」「『9条まもる』絵本でも思い」という見出し。俳優として、また演出家としてよく知られた方だが、「平和への思いは強く、絵本作家としてもメッセージを発信」していた。「東京の『世田谷・九条の会』の呼び掛け人の一人でもあり、会のホームページには『平和とは人間が生きること。戦争は人を殺す。生きるために九条をまもります』と記していた。2003年、絵本『トトとタロー』を紹介した本紙のコーナー『自著を語る』で、米倉さんは『また、夏が来た。決して忘れることのできないあの夏の日々。沖縄の人たちの死、ヒロシマの人たちの死、ナガサキの人たちの死。ボクの弟もあの夏、栄養失調で死んだ』と話した。」
『まさかね繪暦』の8月の絵は、もしかしたら弟さんを描いたものではないか、と思った。まさにこれから、というところだったのに、残念でならない。ご冥福をお祈りしたい。
「生きることを語ることが「法」を語ることであるならば、「法」の専門家ではない私にも「法」を語ることが出来る。」
この言葉を、専門家はしっかりと受けとめる必要があるだろう。