向田邦子と防空法――火叩きによる消火            2014年10月13日

防空絵とき1

要な事件が目白押しである。特に「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)の再改定についての中間報告が10月8日に公表され、9日付各紙はいずれも一面トップでこれを報じた。17年前の「ガイドライン」中間報告発表の際には「緊急直言」を出した。その時は、「日本周辺事態」が入ったことを問題にしている。今回、その「周辺事態」が削除されるというのだから隔世の感を禁じ得ない。再改定の本質は、日米の軍事的協力関係について、地理的限定を外そうとしているところにある。16年前に出版した編著『グローバル安保体制が動き出す』のタイトルのリアリティが出てきた。「7.1閣議決定」の効果である。これについては、別の機会に深刻に論ずる予定である。

さて、10月8日付朝刊各紙を見て複雑な気持ちになった。ノーベル物理学賞を受賞した3人の研究者について書かれた大きな記事の横に、わが身近における博士学位取り消しの記事が小さく置かれている(特に『朝日新聞』第2社会面)。本当に情けない。悲しい。納得できない。書きたいことがたくさんある。最近の大学教員はツイッターなるものをやっていて、この問題についての「つぶやき」が飛び交っているが、私は軽い「つぶやき」的な話をここに書き連ねるわけにはいかない。何らかのタイミングで直言でも論ずることになろう。

私は、4年半前に直言「学位が売られる」を書き、博士学位をめぐる深刻な状況について触れ、また3年前には、ドイツの政治家辞任にひっかけて、「コピペ時代の博士号」の問題を比較的早い時期に指摘していた。ドイツではその後も政治家のコピペ問題が続いている(直言「政治家の剽窃」)。こういう問題が起きるのも、背景に大学の「変貌」がある。そのことをまとめて指摘した直言のなかで、「『薄利多売』ならぬ『博士多売』の世界。ドイツで起きた出来事が、いずれ日本でも起きないと誰が言えるだろうか」と書いた(直言「大学の文化と「世間の目」)。

防空絵とき2

いま、たくさんの仕事を同時に片づけなくてはならないので、直言の書き下ろし原稿を書く時間がとれない。そこで今回は、先週のNHK連ドラ「花子とアン」について書いた直言の補足として、読者の方から教えていただいた向田邦子のエッセイを紹介したいと思う。

小池真理子編『精選女性随筆集 第11巻 向田邦子』(文藝春秋社、2012年)53-55頁に収められている「ごはん」(原題「心に残るあのご飯」)という作品。初出は「銀座百点」1977年4月号で、『父の詫び状』(文藝春秋社、1977年)所収である。

これを読んでびっくりした。向田の鋭い観察眼と彼女特有の文章の向こうに、空襲時における防空法の「縛り」(逃げるな、火を消せ)がきわめてリアルに描写されていたからである。『父の詫び状』を読んだ方に聞いてみても、その箇所について特段記憶にないということだった。問題意識をもって読むと、それまで気づかなかったものが見えてくるものだが、これはまさにその例である。

東京大空襲のとき、向田邦子は16歳で、女学校の3年生だった。軍需工場で旋盤工として風船爆弾を作っていた。3月10日、自宅のある東京・目黒の状況を次のように描写している。以下、前後を省略して、当該箇所のみ引用する(傍点はすべて引用者のもの)。

 ・・・
 三月十日。
 その日、私は昼間、蒲田に住んでいた級友に誘われて潮干狩りに行っている。
 寝入りばなを警報で起された時、私は暗闇の中で、昼間採ってきた蛤や浅蜊を持って逃げ出そうとして、父にしたたか突きとばされた。
 「馬鹿! そんなもの捨ててしまえ」
 台所いっぱいに、浅蜊と蛤が散らばった。
 それが、その夜の修羅場の皮切りで、おもてに出たら、もう下町の空が真赤になっていた。我家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾の直撃で、一瞬にして燃え上った。
 父は隣組の役員をしていたので逃げるわけにはいかなかったのだろう。母と私には残って家を守れといい、中学一年の弟と八歳の妹には、競馬場あとの空地に逃げるよう指示した。
 駆け出そうとする弟と妹を呼びとめた父は、白麻の夏布団を防火用水に浸し、たっぷりと水を吸わせたものを二人の頭にのせ、叱りつけるようにして追い立てた。この夏掛けは水色で縁を取り秋草を描いた品のいいもので、私は気に入っていたので、「あ、惜しい」と思ったが、さっきの蛤や浅蜊のことがあるので口には出さなかった。
 だが、そのうちに夏布団や浅蜊どころではなくなった。「スタア」や料理の本なんぞといってはいられなくなってきた。火が迫ってきたのである。
 「空襲」
 この日本語は一体誰がつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。真赤な空に黒いB29。その頃はまだ怪獣ということばはなかったが、繰り返し執拗に襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた。
 家の前の通りを、リヤカーを引き荷物を背負い、家族の手を引いた人達が避難して行ったが、次々に上る火の手に、荷を捨ててゆく人もあった。通り過ぎたあとに大八車が一台残っていた。その上におばあさんが一人、チョコンと座って置き去りにされていた。父が近寄った時、その人は黙って涙を流していた。
 炎の中からは、犬の吠え声が聞えた。
 飼犬は供出するようにいわれていたが、こっそり飼っている家もあった。連れて逃げるわけにはゆかず、繋いだままだったのだろう。犬とは思えない凄まじいケダモノの声は間もなく聞えなくなった。
 火の勢いにつれてゴオッと凄まじい風が起り、葉書大の火の粉が飛んでくる。空気は熱く乾いて、息をすると、のどや鼻がヒリヒリした。今でいえばサウナに入ったようなものである。
 乾き切った生垣を、火のついたネズミが駆け廻るように、火が走る。水を浸した火叩きで叩き廻りながら、うちの中も見廻らなくてはならない。
 「かまわないから土足で上れ!」
 父が叫んだ。
 私は生まれて初めて靴をはいたまま畳の上を歩いた。
 「このまま死ぬのかも知れないな」
 と思いながら、泥足で畳を汚すことを面白がっている気持も少しあったような気がする。
 こういう時、女は男より思い切りがいいのだろうか。父が、自分でいっておきながら爪先立ちのような半端な感じで歩いているのに引きかえ、母は、あれはどういうつもりだったのか、一番気に入っていた松葉の模様の大島の上にモンペをはき、いつもの運動靴ではなく父のコードバンの靴をはいて、縦横に走り廻り、盛大に畳を汚していた。母も私と同じ気持だったのかも知れない。
 三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変り、夜が明けたら、我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた。私は顔中煤だらけで、まつ毛が焼けて無くなっていた。・・・
 大八車の主が戻ってきた。父が母親を捨てた息子の胸倉を取り小突き廻している。そこへ弟と妹が帰ってきた。
 両方とも危い命を拾ったのだから、感激の親子対面劇があったわけだが、不思議に記憶がない。覚えているのは、弟と妹が救急袋の乾パンを全部食べてしまったことである。うちの方面は全滅したと聞き、お父さんに叱られる心配はないと思って食べたのだという。
 孤児になったという実感はなく、おなかいっぱい乾パンが食べられて嬉しかった、とあとで妹は話していた。・・・ 【以下略】

防空絵とき3

このあとに、空襲の余燼のなか、死ぬことも覚悟して両親が、とっておきの白米を釜いっぱい炊きあげ、さつまいもの精進揚げまで作ってくれて、「魂の飛ぶようなご馳走」の話が続く。空襲下の極限状況のもとでの描写なのに、向田邦子の文章はユーモアにあふれている。多感な記憶。浅利や蛤、犬の吠え声、父母の爪先立ちや履物まで。近所でも死者が出ているはずなのに、この人の筆にかかると独特の雰囲気がかもしだされるから不思議だ。

「三方を火に囲まれ(た)」状況にあったのだから、3人とも消火中に焼け死んだ可能性もある。「どうしたわけか急に風向きが変り」という事態にならなければ、向田邦子はこの世にいなかった。「夜が明けたら、我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた」という幸運があったとはいえ、焼夷弾による火災が迫るなか、火叩きで消火を試みるという非科学的な行動をとった。向田自身、上記のエッセイのなかで、「火叩き」で消火するという行為を批判的にみている気配はない。それだけに、知識も情報も物資も乏しいなか、庶民が疑いや選択の余地なく、防空訓練で命じられていた通りのことを行なっていた家庭風景がリアルに伝わってくる。

防空法8条の3が、こういう形で庶民の日常のなかで自然に定着していたことを知ることができた点で興味深い。大阪空襲訴訟の一審判決が、「退避せずに被害を受けた者、退避をしたが直接の被害を受けた者、肉親が退避しなかった者など、その先行行為〔防空法8条の3〕が与えた影響も様々なものがあるのであって」として、防空法の「縛り」と被害の態様が「いろいろ」だからという理由で原告の訴えを退けたが、向田家のように火叩きで消火活動をしてしまい、逃げ遅れて焼け死んだ人びとは(数では示せないが)確実に存在したと言えるだろう。

《付記》文中の絵は、大日本防空協会編(内務省推薦)『防空絵とき』(同協会、1942年)より。

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