1年半ぶりの「わが歴史グッズ」シリーズである。前回は原爆瓦などを紹介した。今回は、1940年9月27日に締結された「日独伊三国間条約」に関係する歴史グッズを紹介することにしよう。
日本の政権はいま、首相とその周辺(官邸)や閣僚、党執行部を軸に、反知性主義とウルトラ・ナショナリズムに支配され、政治家の口から、かつては考えられなかったような言葉が繰り出されるようになった。例えば、石破茂前幹事長は、NHKの「日曜討論」(2014年5月18日)で、「アメリカの若者が血を流しているのに、日本の若者が血を流さなくていいのか」と語った。「血を流す」関係とは何か。他国に侵攻して、そこの若者も血を流す。米国は世界中の紛争に首を突っ込んで、「世界の警察官」然としてたくさんの若者が血を流してきた。これからは日本も、米国とともに血を流して、他国の若者の血も流させて、憎しみやテロの対象になるのか。
高市早苗総務大臣も危ない。2011年4月に衆議院で議決された「日独交流150周年に当たり日独友好関係の増進に関する決議」(決議第5号)には、「両国は、第一次世界大戦で敵対したものの、先の大戦においては、1940年に日独伊三国同盟を結び、同盟国となった。その後、各国と戦争状態に入り、多大な迷惑をかけるに至り、両国も多くの犠牲を払った」という記述がある。この決議にかみついたのが、高市早苗議員である。『月刊正論』2011年7月号で、「『戦争権』は、全ての国家に認められた基本権です。・・・日本の自虐史観にドイツまで巻き込んで、現在のドイツ政府を『反省するべき行為をした主体』であるかのように断罪する権利を日本の国会は持つとは思えません」などと、完全にピントがずれた反対意見を展開している。1928年の不戦条約以降、戦争は違法化され、「戦争権」なるものが存在する余地はない。ドイツにまで「自虐史観」なる言葉を押し付け、ナチスや日独伊三国同盟は間違っていなかったといわんばかりの論調である。
さらに安倍首相は、訪米中の記者会見(9月25日)で、「日本が再び世界の中心で活躍する国になろうとしている」と語った。9月26日朝のNHKニュースで流れたが、ほとんど自己陶酔の表情で、「女性活躍」施策の下りでは、世界の指導者から大きな称賛を浴びたと自画自賛していた。それにしても、「再び世界の中心」という言葉が気になった。戦後70年近く、日本は、他国に対する武力行使をする状況に置かれないできた。「再び」ということは、かつて枢軸国として「世界の中心」にいて武力行使ができた時代の「日本を、取り戻す」ということか。
お互いを「世界の中心」と認め合う枢軸国の条約が「日独伊三国間条約」である。締結翌日の『朝日新聞』1940年9月28日付号外を見てみよう。1面には、天皇の詔書、近衛文麿首相の「内閣告諭」(首相・近衛文麿)、須磨情報局長との記者問答などが載っている(全体写真)。「日独伊三国間条約」は、1936年の「日独防共協定」、1937年の「日独伊防共協定」をバージョンアップしたもので、軍事同盟としての性格を濃厚にしている。
まず、第1条で、日本は独伊が「欧州に於ける新秩序建設に関し、指導的地位を認め且之を尊重す」と宣言し、続く第2条で、独伊両国も日本の「大東亜に於ける指導的地位を認め且之を尊重す」として、お互いの「指導的地位」を確認し合っている。そして第3条で、「日本国、ドイツ国及イタリヤ国は・・・三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に依つて攻撃せられたるときは三国は有らゆる政治的、経済的及び軍事的方法に依り相互に援助すべきことを約す」として、三国のうちの一国が、他国から攻撃を受けたときは三国が共同で対処することを約束した。
天皇の「詔書」には、「政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図を同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ・・・」とある。近衛首相の「内閣告諭」にも、「独伊両国ハ帝国ト志向ヲ同ジウスルモノアリ」とある。「意図」あるいは「志向」と、表現こそ異なるものの、要は日本がヒトラーとムッソリーニと同じ目的をもっていることを内外に宣言したわけである。
記者団との問答のなかで須磨情報局長は、第3条の「攻撃」という言葉はどういう範囲を指しているか、経済圧迫も「攻撃」の一種かと問われて、「解釈の問題だろう。しかし締約国間にはこの解釈について諒解があるだろう」と答えている。武力攻撃だけでなく、経済的な圧力も共同対処に含めるということである。また、「この条約は軍事同盟なのか」と問われ、相互援助条約では不十分で、軍事同盟というと仮想敵がいないといけないが、この条約にはそれがないとごまかしている。
条約締結の8カ月前、阿部信行内閣が総辞職している。気の合う石川県人ばかり登用した「チーム阿部」は、第二次大戦への不介入方針をとったが、陸軍が強く反発して総辞職に追い込まれた。
米内光政内閣を半年挟み、次に組閣した近衛文麿内閣は阿部内閣よりも軍部に積極的に肩入れした。気の合う仲間だけでチームをつくった阿部信行、近衛文麿の「おぼっちゃま性」は、ともに安倍晋三と重なる。平成の安倍内閣は昭和の阿部内閣と見えざる「糸」で結ばれているのか。糸染め藍がごとく、まさに「安倍は阿部より出でて阿部より濃し」で、いま、安倍内閣は軍事同盟に前のめりになっている。
すでに1936年の日独伊防共協定の締結以降、日本とドイツの関係はかなり緊密になっていた。1938年10月にはヒトラーユーゲントが来日して、大歓迎されている。左はその時の歓迎バッジである。また、ヒトラーユーゲントの来日を記念した歌(Japan von Hitler Jugend)まで作曲されている(YouTube)。なお、1940年(「皇紀2600年」)には、ドイツ政府から、リヒャルト・シュトラウス作曲「皇紀2600年奉祝音楽」が送られ、近衛首相が「国民精神高揚」の機会として準備していた奉祝行事にいろどりを添えたことはすでに紹介した通りである。
右のバッジは日本とドイツの国際交流の記念バッジで、交流の会議は、オーストリア・チロル地方のアルペンホテルで行われている。1944年という戦争末期に、いったいどういう人たちが、アルプスをのぞむ風光明媚なところで交流していたのか。どんな内容の会議だったのか。これを入手したドイツの骨董店サイトでも詳しい情報がない(サイト)。関連資料もないため、このバッジのことは現在調査中である。
右の伝単は、長期抗戦は滅亡につながるから、これを携帯して投降すれば敵兵とは見做さず、厚遇すると促している。負傷した蒋介石がいまにも野犬の姿をしたスターリンに食い殺されそうなところも含め、何ともえげつない構図である(米軍の「助命伝単」の方が心理戦では長けている)。日独伊三国同盟の締結で勢いにのり、傲慢な態度がにじみ出ている。
左の記事にあるナチスの提灯は、7年前に入手して、「わが歴史グッズの話(24)―ナチス」で紹介したことがある。1937年11月25日に後楽園球場(当時)で開かれた「日独伊防共協定記念国民大会」の提灯行列で使われた提灯である。大会後、皇居近くの東京会館前まで提灯行列が行われた。式典に参加したドイツ大使やナチ党幹部を喜ばせようと特注され、市民に配られた。
実は、2011年3月11日の震災の際に研究室の本が崩れて、この提灯は本に押しつぶされ、破損した。その後、愛媛県西条市の伊予提灯工房に依頼して修理してもらった。実に丁寧に修理していただき、ほぼ元通りになった(その復元の過程は「伊予提灯」のブログ参照)。また、この提灯のことは、『東京新聞』2013年6月3日付夕刊が一面トップで記事にしている。なお、再び地震で研究室が倒壊することに備え、いま提灯は天井からぶら下げてある。
《付記》10月17日から3日間にわたり学会(全国憲法研究会、憲法理論研究会、日本公法学会)が続いたため、直言の更新が遅れたことをお詫びします。