「ベルリンの壁」崩壊から4分の1世紀――1年ゼミ生の視点            2014年11月10日

シュピーゲル①

日は「ベルリンの壁」崩壊から4分の1世紀の日である。「壁」建設から50周年の直言(「『壁』を作る側の論理」)、「壁」崩壊から20周年の直言(「世界の西と東の風景」)、ベルリンの「ホロコースト記念碑」と「壁」との微妙な関係を論ずる直言(「ベルリンの『壁』から『石碑』へ」)、ドイツ統一後の状況について、東ベルリン滞在(1991年2~9月)の体験と現地で入手した資料をもとに書いた直言(「『壁とともに去らぬ』―旧東独の傷口」)、そして、歴史上「11月9日」に起きた出来事に注目して、「壁」崩壊を歴史のなかに位置づけた直言(「さまざまな“11.9”」)など、11月9日前後は「ベルリンの壁」絡みの直言をアップしてきた。「ブランデンブルク門を天安門にしてはならない」というゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(当時)の一言で、旧東独の政権党(SED)指導部が、市民デモに対して強硬姿勢をとるE.ホーネッカー議長を解任したことから、「壁」崩壊が始まった。「6.4」なくして、「11.9」はなかった。それを1832年5月27日の「ハンバッハの祭」にまで遡及して論じた直言(「ハンバッハと天安門」)も参照されたい。

シュピーゲル②

「ベルリンの壁」崩壊25周年をあえて「4分の1世紀」という表題にしたのは、それだけの年月が経過したことを表現したかったからにほかならない。ドイツでも、さまざまなメディアが「あれから25年」を特集している。34年定期講読しているDer Spiegel誌は、38号(9月15日)から、「世界を変えた7つの日」(Sieben Tage, die die Welt veränderten)を連載した。第1回は1989年の「5月7日」である。旧東独における地方選挙の日。「壁」崩壊はここから始まったという切り口は新鮮だった。いつも99.999%の政権党信任の投票結果だったものが、この日初めて、1.15%(約14000人)の不信任票が出たのだ。この選挙結果を政権党は隠蔽しようとした。「組織的な選挙偽造」である。これに市民が怒り、「平和革命のきっかけ」となった。この選挙の投票日から「149日後に壁が崩壊した」。

連載第2回は「9月30日」。東独市民が国を見捨て、チェコやハンガリーに逃れていたが、この日、西独外相が、プラハに逃れた東独市民の西独への出国ビザを許可したのである。それに先立つ8月19日。オーストリアとの国境の街、ハンガリーのショプロンで、「汎ヨーロッパ・ピクニック」というイベントが開かれ、数千人の東独市民が西に脱出していった。

連載第3回は「10月9日」。タイトルは「通りの力」(Die Macht der Straße)。独ライプチッヒにおける「月曜デモ」の裏側を描く。9月4日、ニコライ教会前での1000人のデモに始まり、10月2日に2万人、次の月曜の10月9日には15万人が街頭にあふれた。デモは禁止されていたが、たくさんの市民が街頭に出て、「我々が人民だ」(Wir sind das Volk)というスローガンを叫んだ。「ドイツ民主共和国」が「人民民主主義」でも何でもなく、少なくとも1953年6月17日以降、とうの人民から離反した官僚国家であることを全世界に可視化した瞬間だった。その際、東ベルリンのエリートたちは西側に逃げたが、古都ライプチッヒの人びとは「ここにとどまる」(“Wir bleiben hier.”)といって、東独の変革のたたかいを始めた。このライプチッヒの「月曜デモ」がなければ、内側からの「壁」崩壊はなかったといわれている。

連載第4回は「11月4日」。ベルリン・アレクサンダー広場を中心に50万人以上の市民のデモである。これで政権党指導部への不信任が揺るぎない現実となる。そして、連載第5回が「11月9日」。「壁」崩壊の「その日」である。さまざまな人びとの決断や偶然の連鎖がこの日を生んだ。連載は、時間単位でそれを刻々と描いている。

第6回は1990年の「1月15日」。秘密警察(シュタージ)本部に市民がなだれ込み、破棄されようとしていたシュタージ文書を確保した日である。連載第7回は1990年の「3月18日」。東独における初めての自由選挙の日である。この選挙で、「壁」崩壊に中心的な役割を果たした市民フォーラムなどは議席をほとんど得られず、コール首相のキリスト教民主同盟(CDU)が圧勝し、早期の東西ドイツ統一に向かうきっかけとなった。一発の銃声もなく、東西冷戦の象徴である「ベルリンの壁」は崩壊した。この7回連載の結びの言葉は、「壁」崩壊を内側から準備したのに、統一後は政治の表舞台から消えていった東独市民運動の活動家のそれである。「かつてドイツに存在した唯一の平和的・民主的革命をなし遂げた世代に属することは、最大の幸福である」(Der Spiegel,Nr.44 vom 27.10.2014,S.60)と。

『ベルリンヒロシマ通り』

ベルリンの壁

私は「壁」崩壊の1年3カ月後に東ベルリンのカール・リープクネヒト通り9番地(アレクサンダー広場、テレビ塔の真ん前)に住んで、その後7カ月にわたり「ベルリンの壁崩壊」後のドイツを取材した(拙著『ベルリンヒロシマ通り』〔中国新聞社、1994年〕参照。森英樹教授の書評〔PDFファイル〕がある)。その時に入手した「ベルリンの壁」の現物を授業や講演で見せたり、触らせたりしてきた。そのように統一まもないドイツを体感した人間からすれば、「壁」崩壊は「ついこの間の出来事」だった。語るとき、どうしても熱くなる。1989年11月13日(火)、広島大学総合科学部の「外国書講読」は勢いがついた。その2カ月前に広島大に着任したばかりで、学生は「この先生、誰?」状態で授業も淡々と進んでいたが、授業のなかで、「壁」崩壊の可能性について示唆していたため、この日を期して学生たちの目の色が変わった。リアルタイムで「壁」崩壊を語り合った学生たちは、いま40代半ば過ぎになっている。

「壁」崩壊の経過、その後の展望を含めて、最もわかりやすく、リアルに、かつ切実に伝える作品として、私はNHKスペシャル「ヨーロッパ・ピクニック計画―こうしてベルリンの壁は崩壊した」(1993年)を高く評価している。1993年の放映当時のビデオで、またDVDも購入して、この20年間、学生たちに見せてきた私の1年導入演習(ゼミ)では、1996年の早大着任以来、必ず上映し、感想レポートを書かせてきた。「ベルリンの壁」についての学生の反応を、20年にわたって観察してきたことになる。

この10月9日の授業でも上映した。だが、感想レポートを読んでいて、ちょっとびっくりした。学生たちにとって、「ベルリンの壁」崩壊をめぐる指導者たちの悩みは、「本能寺の変」の織田信長の自刃と同じような感覚で語られていたからである。「壁」崩壊は、「本能寺の変」ほどに、歴史上の出来事になっていた。それでも、この作品を見ると、学生たちの認識は大きく変わる。そして考え出す。今年は、香港の学生デモとの絡みで語る学生が何人もいた。以下、1年ゼミの学生たちのレポートから、特徴的な感想を抜粋して引用しよう。まずは、「本能寺の変」に例えたTI君のレポートから。

「…私が生まれたのは1995年であり、すでにドイツは西と東に分かれておらず、ソビエト連邦もロシアになっていました。それらの事実はある程度の年齢になってから知ったものであり、最近までは、頼朝が征夷大将軍になったとか、信長が本能寺で自害したとかと同じ、歴史上の出来事としての実感しかありませんでした。このビデオで取り上げられているベルリンの壁崩壊も、教科書で習うべき事実として捉えているだけでした。しかし、このビデオを見て、その認識は変わったように思います。ベルリンの壁崩壊というのは、ただそれ単体の事象であるのではなく、その当時の様々な情勢や思惑が絡み合った結果であるのだと知りました。また、ハリー・ルクスのような、当時この事件の渦中にあった人たちにとって、この事件はまさに自分の目の前の現実だったのであり、彼ら一人一人に物語があって、今自分が見ているこの事件は、彼ら生きた人間が作り出したものであるのだと実感しました。そして、これは過去の出来事であるばかりではなく、今現在にも色濃く影響を残すものであるのだと思います。今の日本や世界の情勢は、こうした過去の出来事の結果として作り出されたものであり、今を考えるためには、歴史を知ることは重要なことなのでしょう。だから、私達は歴史を正しく認識せねばならないし、同時に、それが現在とどう関わるのかということも理解を深める必要があるのだと感じました。
 私達にとっての過去や歴史は、当時の人たちにとっては今であり現実です。頼朝や信長は、歴史の教科書に載るだろう、という考えで幕府を開いたり自害したりした訳ではありません。それぞれが思うまま今を生きた結果が、このように後世に伝えられているのです。ならば、それは私達にも言えることだと思います。私達が今の出来事として、ニュースとして見ている数々の事象や、これから実行しようとしている計画、政策は、後世に多大なる影響を及ぼすものであるかもしれません。良かれと思ってした政策が百年先まで人々を悩ませるかもしれないし、散々叩かれた悪政が後から長い目で見れば賞賛すべきものかもしれない。結果どのような影響を与えるか、完全に読み切ることができる人間など、後にも先にも誰もいないでしょう。現実とは、様々な思惑や偶発的な出来事に左右されるものだからです。だからといって、思考停止する必要はありません。私達に必要なことは、先のことは完全には分からなくても、このビデオに出てきた人達のように、直面する今を懸命に考えて生きることだと思います。」

次はKN君である。冷戦時代に、国家の枠を超えて、「汎ヨーロッパ・ピクニック」という発想が生まれた背景に、ハウプスブルク帝国の末裔のオットーの存在があると指摘して、それを歴史的に読み解いている。

「…私は日本史受験者だったので、今回初めてベルリンの壁崩壊について学びました。そこで、映像を見た後に自分で調べたことも含めて感想を述べたいと思います。映像を見て感じたのは歴史を動かすには強い信念と行動力、そして先見の明が必要だということです。ベルリンの壁崩壊は、ゴルバチョフによるペレストロイカに起因していますが、映像の中でゴルバチョフは「こっちから行動しないと市民が動き出す」と言っていました。社会主義という環境で生まれ育ってきた人間が、先を見越して今までの世の体制を変更しようと試みるということは並の人間にはできないことと思います。多くの市民の心を読み、常に先手を打ち続けなくては政治を動かすのは困難なのだと思いました。私は春学期のプレゼンで集団的自衛権を扱いましたが、集団的自衛権容認の閣議決定を行った後にイスラム国問題が大々的に報じられたのを目にすると、今の日本の政治には先見の明が欠如しているのでは、とも思いました。
 日本史を学んでいるときに中世の武家社会が、伝統的権力である天皇をその権力が形骸化しているのにも関わらず利用していたこと(征夷大将軍などの官位の授与など)に強い関心を抱いていました。今回、映像に登場したオットー・フォン・ハプスブルクも一種の形骸化した権力なのではないかと思いました。中世ヨーロッパにおいて絶大な権力を保持していたハプスブルク家の当主であった彼は、オーストリア帝位継承権(後に放棄)・ハンガリー国王継承権を保持していましたが、それらはほぼ形骸化したものだと思います。これらの事情から彼は「古きよき保守派」と評されるそうですが、これも一種の信念の表れだと思います。日本史での多くの出来事との違いは、彼自身が実際に行動したことだと思いました。汎ヨーロッパ・ピクニックは伝統的権力者が実際に行動することによって成功したと感じました。…」

続くSYさんは、歴史の裏に「生身の人間の意志や行動がある」ことを学んでいる。年表や活字上の世界のことが、生きた人間の悩みや決断で行われていることを知ることは大切である。

「…このビデオの中の登場人物でわたしが最も心惹かれた人物は、東ドイツから国交断絶を通告されるかもしれず、場合によってはハンガリー動乱のときのように再びソ連が軍事介入をしてくるかもしれないという重大なリスクを負いながら、ハンガリー・オーストリア間の国境を解放して東ドイツ人たちを西側へ脱出させる足がかりをつくり、東ドイツから強く強制送還を求められていた多くの東ドイツ人たちをハンガリー政府の名をもって合法的にオーストリアに出国させる決断を下した、当時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュ氏です。彼とその政権の閣僚たちの決断と行動にはとても感動させられました。
 わたしはベルリンの壁もソ連も東西も存在しない時代に生まれた世代なので、実際に先生にベルリンの壁の一部を見せていただいたときも、ベルリンの壁崩壊やソ連解体、東西統一を歴史の一ページのような、遠い世界の話のように感じていましたが、その裏には生身の人間の強い意思や勇敢な行動があったのだな、ということを実感をもって知ることができてよかったです。もし、ヨーロッパに旅行に行ったときは、ベルリンの壁、ズグリゲット協会だけは是非とも生で見てみたいと思いました。」

MWさんの感想は興味深い。より当事者性を感じている点が大切だし、問題解決への道筋について考え、そこに一定の方向性を見いだしているところが大事である。

「…ここで学べることは、正義が必ず勝つなどという精神論ではない。もし仮に正義がこちら側にあったとしても、相手側には相手なりの理論があり、それに至った思考回路がある。無差別的な殺戮など筋道の立っていないこともあるが、今回は平等という一つの目標があり、それに因った社会主義がある上での政策があった。それなのに自身の正義を振りかざして否定してしまっては、正義が暴力に変わっても正当化されるおそれがある。では、そうすればいいのか。そこで、言葉のやりとりが大切になってくる。話し合い、お互いの主張・立場を理解し、共通の問題意識を持ち、それを双方の妥協出来る範囲で解決していく。どちらかの勝ち負けではない。そのようなやり方では問題解決に至るどころか、次の火種を生むことになるのはこの歴史が物語っている。この双方の妥協による問題解決、紛争回避こそ政治・外交の最大のメリットであると私は考えるし、そのメリットを活かさねばならないだろう。
 よく「戦争はこの世からなくならない」というが、果たしてそうだろうか?決してこの世界を楽観視しているわけではない。多少のいざこざはあっても仕方のないことだ。しかし、それを大きくしない方法はいくらでもあるし、その具体例がこの外交方法ではないだろうか。この先人たちはいつでも私たちに、血を流さない和解の方法を教えてくれているのだ。ただ過去のこととみなすのではなく、今の時代だからこそそこから学び、活かしていかねばならないと感じた。」

さらにHKさんは明確に、「一人ひとりの行動」の重要性を指摘している。「ベルリンの壁」崩壊に向かう25年前のことではなく、明らかに彼女はいまの香港の問題を想起している。

「…さらに今回のVTRを通して感じたのは、人間一人ひとりの行動の重要性である。計画の中心人物であったフィリップ・マリアやハンガリーの民主化政策に関わってきたオットー・ハプスブルク、そして当時のハンガリー政府のネーメト・ミクローシュらはもちろん、故郷を捨てて西側への脱出を試みた東ドイツの人々やハンガリーの民間団体も計画の成功に大きく貢献していると思う。特に東ドイツの人々は、失敗すれば重い罪に問われるという状況下でことをなしていたのである。私ならおそらく東ドイツの政策を甘んじて受け入れ、身の安全を確保することを選んだだろう。多人数が力を合わせることも必要であるが、自分の信条や後世のために力の弱い一人の人間である自分自身を奮い立たせる勇気に感銘を受けた。「ヨーロッパ・ピクニック計画」の成功もあり、かくしてベルリンの壁は崩壊したわけだが、VTRにもあったとおりこれですべての問題が解決されたわけではないし、冷戦体制の崩壊で新たに対立が発生した地域もある。このような問題が解決されなければ、本当の意味での「壁の崩壊」は実現されないであろう。ヨーロッパ・ピクニック計画と同様、ベルリンの壁の崩壊も大きな流れの中のほんの序章に過ぎないのかもしれない。
 現在香港で学生によるデモが起こっているが、この動き自体は試みとして素晴らしいと思う。しかし香港内でもデモに対して冷ややかな目を向ける人々が現れ始めてしまった今、これ以上の過激な行動に及べば暴徒と称されかねないし、流血事件につながる可能性も十分に考えられる。そこで、東ドイツの人々がハンガリーを経由して脱出したように、正面から中国政府と対決するのではなく国際社会に訴えるという回り道をして改革を求めるという方法も視野に入れるべきなのではないかと思う。…」

最後に、GM君は、より明確に、香港の学生・市民の運動に注目している。中国の民主化というところまで思考を広げ、そうした過程に日本がどのようにコミットしていくべきかについても論じ及んでいる。1年生ながら、アジアと日本の今後についての展望についても語っている。

「…私は、映像を見ているとき、今回の話がどことなく現在の中国と被っているかと思いました。別に私は、中国が崩壊すればよいとか、見るに堪えない根拠のない「○○国の経済崩壊」とかそのようなことを論じようという気は全くありません。しかしながら、中国は強大な軍事力を有し、社会主義を掲げ共産党が一党独裁をしながら、実質的には資本主義であり、貧富の差が甚だしい上に、言論の自由がない国です。現在中国では、民主化を求めるデモ、政府の政策に反対する抗議活動が至る所で起こっているそうです。その典型例が香港の選挙を巡った学生らによるデモ活動かと思います。中国政府もいつか(そう遠くない将来)に民主化をしなければならないということは、念頭に置いているかもしれません。しかし、今回の一件が中国の民主化に火をつけるかもしれません。他の不満分子に影響し、中国全土に飛び火し、民主化の発端になるかもしれません。ピクニック計画が、ベルリンの壁の崩壊に繋がり、ソ連の崩壊に繋がるとは誰も考えていなかったと思います。つまり、香港の一件が、大きな歴史の転換点になるという可能性はゼロではないわけです。もちろん、中国で民主化が起これば、日本に対してもとても大きな影響が及びます。そう考えていくと、香港の一件は、「単に隣国で起きているデモ」と片付けてはならず、より慎重に、詳細に観察していく必要があると考えるようになりました。
 最後に、ピクニック計画の中心人物であるフィリップ・マリアが「国境のないひとつのヨーロッパ」を提唱していたそうです。現にヨーロッパはそれにほぼ近いと思います。日本や・アジアにもそのようになり、争いが少しでもなくなることを願いますが、そのためには、日本やアジアの政治家、国民が、ハンガリー政府、民主フォーラムのように、国民の声に耳を傾け、間違っているということは、それがいかなる相手でも楯突き、そして自国だけでなく相手国の幸福も考えてほしいと思います。」

「壁」崩壊から25年。いま、香港の若い学生・市民が街頭に出て、普通選挙実施を求めている。25年前の「天安門」が香港で再現されるとは思いたくない。むしろ、25年前の「ライプチッヒ」になれるかどうか。かなり困難だが、可能性を信じたい。わがゼミ生たちも、やがてさまざまな分野に進出して、歴史と主体的に関わってくれることを祈りたい。なお、「壁」崩壊25周年の読み解きとして、村上公子氏の「壁崩壊から25年、ドイツはどう変わったか」を参照されたい。

トップページへ。