阪神淡路大震災20年のその日、6434人を追悼する式典に安倍晋三首相の姿はなかった。それがこの首相のすべてを物語っている。追悼式典出席よりも大事にしたことは何か? しっかりと記憶しよう。安倍首相は前日の16日から、「地球儀を俯瞰する外交」の一環として中東諸国歴訪に出発した。「首相動静欄」を見ると、17日は緊急性の感じられない会談や昼食会、博物館見学である(PDFファイル)。日程を調整し、17日に1時間ほど神戸に滞在することはできなかったのだろうか(『神戸新聞』2015年1月29日付)。そこで思い出したのが、大震災6年目の追悼式典に欠席した森喜朗首相のことである。「公務多忙」を理由にしていたが、「首相動静」欄ですぐに嘘がばれてしまった。安倍首相の場合は震災から「20年」という節目である。そして、とってつけたように、追悼の言葉をフェイスブックに書き込んでいる。式典は欠席でフェイスブック。なんという軽さだろう。『産経新聞』の電子版1月17日17時54分が、「首相FB『教訓いかし防災減災に力』 阪神大震災から20年で」という見出しで、首相を懸命にフォローしている。カイロとの時差は7時間。カイロのホテルで朝食後にでも書き込んだのだろうか。一事が万事である。内政ですらこうなのだから、外交については、言葉や文化・宗教などが違う分、間違ったメッセージは破壊的効果を及ぼす。
日本人2人が過激派組織「イスラム国」に拘束され、2億ドル(約236億円)の身代金を要求されるという事件が現在進行中である。2人の命が危険な状態に置かれており、予断を許さない。2004年4月のイラク人質事件とは大分違うものの、またぞろ「自己責任論」が形を変えてあらわれていることも要注意である。
11年前の人質の1人とは面識があったため(『沖縄タイムス』2004年5月2日付コラム「大弦小弦」参照)、当時のゼミ生たちが個人として駅頭に立ち、救出を訴える署名運動を展開したことが想起される。札幌市長が英文でイラクの武装勢力に解放を訴える活動も行った。当時は、あんな危険なところへ行って拉致されてもそれは自己責任だとして、「救出費用を自己負担すべきだ」から始まり、人質とその家族に至るまでのプライバシーの暴露は執拗かつ異様なものとなった(直言「自己責任と無責任」)。それでも、人質解放につながったのは、市民やNGOなどによるイラク民衆や関係者への働きかけと、アルジャジーラという独立系メディアの存在が大きかった。拉致した組織が土着の抵抗勢力だったことも、解放につながった一因である。だが、今回は違う。「イスラム国」という、稀にみる狂信的かつ暴力的な「統治」をおこなっている組織で、かつネットを駆使した情報操作にも長けているという点で、きわめて手ごわい。もちろん今回の人質事件の直接の問題が「イスラム国」にあることはいうまでもない。だが、そういう組織に、日本は敵と見なされてしまったのである。なぜか。
結論からいえば、それは、安倍首相の「地球儀を俯瞰する外交」と「積極的平和主義」の破綻である、と私は考えている。11年前は小泉政権だった。イラク派兵はしたものの、まがりなりにも内閣法制局の憲法解釈の枠内で、「復興支援」と「非戦闘地域」を掲げていた。しかし、安倍首相は昨年7月1日に、「集団的自衛権の行使」を容認する閣議決定を強引に行ってしまった。この違いは大きい。「イスラム国」はそのあたりをしっかり把握しているのではないだろうか。
1月20日午後3時前、動画サイトYouTubeに、「イスラム国」の黒覆面の戦闘員とオレンジ色の服を着てひざまずかされた2人の日本人の映像が流れたが、そのなかで、覆面男はこういった。「日本の首相へ。おまえはイスラム国から8,500キロ離れているにもかかわらず、自発的に十字軍に参加した。日本は女性と子どもを殺害、イスラム信徒の家を破壊するための1億ドルを得意げに拠出した」と。そして、「日本国民へ」として、「おまえたちの政府はイスラム国と戦うために2億ドルを支払うという最も愚かな決定をした。おまえたちには、2人の日本人を救うため、政府に2億ドルを支払うという賢明な決断をするよう圧力をかける時間が72時間ある」と述べた。具体的な主張・要求は、24日午後8時現在これだけだが、1分40秒の短い「演説」には、重要な意味が込められているように思う。
まず、「8,500キロ」という数字のリアリティである。Google Earthで距離を測ってみると、千代田区永田町2丁目の首相官邸から、シリアのラッカ中心部まで8,595キロある。それだけ「離れているにもかかわらず」、わざわざ敵対しにやってきたという形で、これまで日本は敵対的存在では必ずしもなかったことを暗に示唆している。せっかく持っていた中東における「親日的な貯金」(私は「平和憲法の貯金」と呼ぶ)をすりつぶしたのは、安倍政権の「集団的自衛権行使」への前のめりの施策のなせるわざだろう。
次に重要なことは「自発的」と「十字軍」という言葉である。2001年の「9.11」直後、ブッシュ大統領は「テロに対する戦争」を「十字軍」といってのけた(直言「『限りなき不正義』と『不朽の戦争』」)。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、2001年3月から5月にかけて各地を訪問し、ギリシャ正教やユダヤ教の指導者に対し、900年以上前の「十字軍」について謝罪し、エルサレムでは、法王との会見にイスラム信徒の指導者も同席した。「十字軍」は「カトリック原理主義」による、軍事力を使った他宗教への抑圧であり、法王の謝罪は、「千年単位の画期的な和解」への一歩になり得るものだったが、ブッシュ大統領の「十字軍」発言で、この画期的な歩みは吹き飛んでしまった。イスラムを悪用する一部のテロ集団が増長しはじめたのも、この「十字軍」発言が「栄養」になっている。
米軍と有志連合軍は「イスラム国」に「空爆」を行い、子どもや女性が死んでいるが、この活動に日本は直接参加することはなかった。しかし今回、日本はその有志連合の仲間に入れて欲しいと自ら中東へやってきて、「イスラム国」に対して「金の爆弾」を投下すると宣言してしまったわけである。それを決定づけたのは、昨年9月23日、エジプト大統領と会談した際の首相発言ではないだろうか。安倍首相は、米軍による「イスラム国」掃討を目的としたシリア領内での空爆について、「国際秩序全体の脅威であるイスラム国が弱体化し、壊滅につながることを期待する」と述べた。この時の新聞の見出しがすごい。「首相『空爆でイスラム国壊滅を』 エジプト大統領と会談」(『日本経済新聞』2014年9月24日付)である。
さらに、要求の「2億ドル」という数字にも意味がある。2人の人質を「画像合成」してまで並べたのは、1人に1億ドルという形で、日本が支出する金の性格を印象づけようとしたのではないか。メディアは、人道支援のための支出で、政府は誤解を解くべしといった気楽なことをいっているが(当面は相手を刺激しないようにという配慮かもしれないが)、この支出の「2億ドル」の使われ方をチェックしようという問題意識がメディアにあるだろうか。
実は湾岸戦争のとき、日本が支出した「クルド難民支援」の5億ドルは、全額アメリカ軍の戦費になっていた。この事実は、1993年7月19日の参議院決算委員会で明らかになった。政府は91年7月に閣議決定した「湾岸平和基金」への5億ドルの追加拠出について、全額が米国に支払われていたことを認めた。湾岸戦争のときに90億ドルの最終支払いについても、当時のレートで、1兆790億円が米国に渡っている(直言「侵略の戦費を負担してはならない」)。今回は、首相自らが「空爆で壊滅」といって2億ドルを支出するわけだから、どんなに人道支援といっても「戦費」と見られるのは自然だろう。拠出した以上、「軍事」との棲み分けは困難である。
それに加えて、安倍首相がやった外交上、安全保障政策上の大失策がある。それは、1月20日のエルサレムでの首相記者会見である。中身よりも、その背景セットに重大な問題があった。いうまでもなく、中東における最もデリケートな問題は、イスラエルとの距離である。日本のこれまでの政権は、イスラエルとの関係には慎重な配慮をしてきた。しかし、この日の会見映像は最悪だった。TBSニュースをみていて、佐古忠彦キャスターが驚きの表情で紹介したので、思わず撮ったのが冒頭の写真である。
中東では「ダビデの星」(六芒星)はイスラエルという国家の暴力性を象徴しており、イスラム諸国との関係を考えれば、日の丸と並べることに対しては最高度の慎重さが求められた。端的にいえば、最もやってはいけないことだった。現地対策本部長の中山泰秀・外務副大臣あたりのアイデアかもしれないが、彼は日本・イスラエル友好議員連盟元事務局長である。残念ながら、これで日本は、イスラエル同様、イスラム信徒に敵対する存在という印象を与えてしまった。これは外交的失策というレベルではすまない。これこそが、実は「イスラム国」の狙いで、彼らの情報戦争の勝利だったといえるかもしれない。
「イスラム国」に足をすくわれる格好になった安倍首相の中東歴訪は、「地球儀を俯瞰する外交」の一環というが、この言葉が最初に使われたのは、2013年10月15日の衆議院での所信表明演説だった(『読売新聞』2013年10月16日付)。ネタ元は谷内正太郎氏(国家安全保障局長)あたりだろう(同年12月18日の早大でのシンポの問題提起でも使う)。今回、日本版NSCは一体何をやっていたのか。会議は一回開かれたようだが、首相とその周辺の打ち合わせとどこが違うのか。鳴り物入りで発足したが、スカスカの中身と機能が見えてしまった。その局長が広めた「地球儀を俯瞰する外交」という言葉は、もう使うべきではないだろう。
そもそも「地球儀を俯瞰する外交」の「俯瞰」には、「高みから下方を見渡す」という意味がある。そこには、少なくとも2つの弊害がある。一つは高みから見るので、足元がよく見えない。近隣諸国の韓国や中国との関係がうまくいかないのも、「地球儀を俯瞰する外交」の故だろう。もう一つは、トップが軽々しく50カ国以上を駆け足でまわって、結局、「高みの見物」(俯瞰)になるから、首脳との会談が中心となり、それぞれの国のなかに人脈やチャンネルを開拓することがおろそかになる。安倍政権になって、外交チャンネルの偏りを思い知らされた。11年前の人質事件のときのような、さまざまなチャンネルが活かせているか、今回は大いに心もとない。安倍首相の薄っぺらさは、人質解放をめぐって「オーストラリアのアボット首相に電話しました」と胸をはったことからも明らかだろう。この「お友だち」との電話が「イスラム国」の人質交渉に役立つとはとうてい思えない。トルコのエルドアンとの連携を得々と語るあたりも、かなり怪しい。プーチン(ロシア)やエルドアン(トルコ)と不自然なほど頻繁に会い、国際人権の観点から問題視されている国々と熱心に交流する。安倍首相の歪んだ外交の言い換えが、「地球儀を俯瞰する外交」ということにならないか(直言「『政局的平和主義』――安倍政権の歪んだ対外政策」)。
チャップリンの映画『独裁者』のなかで、独裁者「ヒンケル」が、地球の形をした風船を持って遊ぶ(もってあそぶ)有名なシーンがある。安倍首相のように、地球儀を弄ぶ(もてあそぶ)ような外交はやめるべきである。
「積極的平和主義」も同様である。安倍首相がこの言葉を公の場で使うようになったのは、2013年10月26日の国連総会一般討論演説が最初だったように思う(直言「誤解される言葉の風景」)。すでに批判したように、彼の「積極的平和主義」とは、「国際協調主義(憲法98条)を悪用して、日本の対外的な軍事機能を一気に拡大することを憲法の平和主義の名のもとに正当化しようとするものであり、平和主義の政治主義的利用、端的に言えば、『政局的平和主義』である」。
長年にわたり「平和国家」としての「ブランド」(米軍基地をもち、自衛隊が海外展開する実態があっても)を維持し、少なくとも、武力行使のために乗り込んでくる国ではないというイメージを定着させてきた日本にとって、安倍流「積極的平和主義」は、軍事に積極的な「平和主義」に変質させようとするもので、大いに危険である。しかし、最大の皮肉は、その安倍首相が、人質事件発生後、2億ドルが「非軍事で人道的なもの」であると必死になって弁明していることである。「非軍事」ということが日本の有効な立場であることを証明してしまったようなものである。憲法を無視して7.1閣議決定で集団的自衛権の行使容認をしたことが、かえって自国民の命を危険に晒すことがこれで明らかになった。軍事に積極的な安倍流「積極的平和主義」の破綻を自ら宣言したものといえよう。
ちょうど2年前の1月16日、アルジェリアの天然ガス関連施設がイスラム武装勢力に襲われ、日本人を含む多数が人質となる事件がおきた(直言「アルジェリア人質事件をどう考えるか」)。「直言」で書いたことを繰り返しておくならば、こうである。すなわち、邦人保護は国家の任務であり外務省設置法4条9号に定められた国の責務である。真の守り方は、現地に溶け込み、現地の人々に信頼されることである。「平和を愛する諸国民(peoples)」(憲法前文)〔武力によらない解決を望む民衆同士〕のネットワークをいかに創るか。安全を守るためには力の政策を、というのでは内向きの「守り」になる。むしろ、平和と安全の守り方と創り方が大切だろう。今回もまた、日本(政府、外務省)は大事な情報をもっていないし、チャンネルは乏しい。これは「平和の創り方」がきちんと出来ていないからである。「邦人を守れないのは憲法9条のせいだ。今こそ改憲を」という議論がまたぞろ出ているが、これは議論が全く逆である、と。
いま、人質解放に向けた、市民によるSNSを駆使した動きが始まっている。「アイアムノット安倍」(古賀茂明氏が報道ステーションで語った「私はシャルリー」をもじったプラカードメッセージ⇒該当部分の書き起こし)という形で、安倍首相と日本の市民とは別であることをアピールすることは有益だろう。安倍政権によって歪められた「平和国家」日本のイメージを回復させなければならない。