《追悼》
この原稿を書いていた1月30日17時6分、知り合いの新聞記者から携帯に電話が入った。憲法学者の奥平康弘先生(東京大学名誉教授)のご逝去の知らせだった。一瞬頭が真っ白になった。1月26日に亡くなっていたことが新聞的にいうとその電話の少し前に、「わかった」ということである。85歳。私は学生時代に初めて読んだ東大社研編『基本的人権』第3巻(東大出版会)と『表現の自由とはなにか』(中央公論社)以来、先生の著作から学んだことは非常に多い。大学院修士課程のときに英米公法の刺激的な授業を受講した。憲法研究者になってからは、学会、研究会、憲法再生フォーラム、96条の会など、さまざまなところでご一緒させていただいた。先生のすごさは、その学問的・人間的魅力から、大学の枠、世代の枠を超えて、憲法研究者の厚い層を育てたことだろう。学恩はつきない。数年前、私が責任者となって実施した憲法裁判の連続講演にも参加していただいた(『憲法裁判の現場から考える』成文堂)。昨年出版された『集団的自衛権の何が問題か』(岩波書店)を含め、先生が編者となられ私が分担執筆した単行本は5冊になる。全国憲法研究会の発足メンバーの1人で、1985年から2年間、代表を務められた。今年5月の創立50周年記念の会でお会いできないのが残念でならない。「九条の会」の呼びかけ人の一人でもあり、市民のなかに立憲主義、平和主義を広げていく上で果たした役割はきわめて大きい。なお、個人的にいえば、先生はクラシック音楽の「通」で、コンサート会場で偶然お会いしたことが何度もある。特に35年前、朝比奈隆がブルックナーの交響曲5曲を、5つの違ったオーケストラで演奏する「残響にこだわるコンサート」では、5列前の席に座っておられる先生を毎回お見かけした。安倍政権が「壊憲」に向けてアクセルを踏み込む危うい状況のなか、この国のゆくえと私たちを見守り続けてください(共同通信文化部コメント。『河北新報』2015年1月31日付)。
22015年は「戦後70年」という区切りである。「安倍談話」への動きも急である。同時に、「冷戦後時代の終わり」(田中宇)という切り口から、政治における「強制民主化」と経済における「市場原理主義」に彩色されたこの25年間を総括する視点も大変興味深い。そんな2015年が始まって1週間もたたないうちに、フランス・パリにおいて、イスラムの預言者を風刺した雑誌の編集部が襲撃され、多くの死者を出すという衝撃的な事件が起きた。背景にはまだまだ見えない部分もあるが、暴力の連鎖がくるところまできたというのが率直な印象である。近年、非国家的主体が「国」を名乗り、国民国家や国家連合の枠組みに挑戦している。2001年「9.11」の「同時多発テロ」から14年。「冷戦後時代の終わり」は、「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)の終わりになるのか。いま、世界と日本は、「戦後」の終わりと「冷戦後」の終わりが絡み合って重大な転換点にある。パリにおける「1.7事件」をどのように読み解くか。この「直言」でも何回かに分け、時間をかけて考えていきたいと思う。
35年定期講読しているドイツの『シュピーゲル』誌の1月10日号を見てびっくりした。表紙には、襲撃事件の直接のきっかけとなった『シャルリー・エブド』の当該号(ムハンマドの風刺画)に銃弾が打ち込まれた絵が使われている(写真)。タイトルは「自由への攻撃」。特集ページのトップの絵は、鉛筆が2本立っていて、そこに旅客機が向かう構図。冒頭の写真はそれに、「9.11」の貿易センタービルをあしらったライターを重ねてみたものである。ニューヨークから知人が送ってくれた絵はがきを重ねたのがこれだ(写真)。「鉛筆の自由」が特集のメインタイトルで、出版、編集、執筆の自由に対する重大な侵害という認識が感じられる。これまで『シャルリー・エブド』が掲載してきたムハンマドの風刺画を何枚もカラーで転載し(20-21頁)、シュピーゲル編集部全員が「私はシャルリー」というプレートをもった集合写真を大きく掲げている(25頁)。そこに連帯表明「私たちはシャルリーだ」(Wir sind Charlie)というキャプションが付けられている。権力批判では定評があり、1962年にNATO軍の極秘文書(図上演習想定)をすっぱ抜き、編集長が逮捕され、編集部が捜索されるという「シュピーゲル事件」を体験している雑誌だけに、『シャルリー・エブド』への連帯表明も早かったのだろう。だが、私には『シュピーゲル』の当該号の編集と内容に違和感が残った。「懐疑の強さ」という巻頭評論の強いトーンもそうだが、何より、問題となったムハンマドの風刺画を執拗に転載したことが大きい(20-21、28頁。ここにはあえてリンクしない)。この雑誌らしいのだろうが、表紙はあまりにも挑発的である。
事件後に発刊された『シャルリー・エブド』の表紙の転載をめぐっては、日本の新聞各紙の間で対応が分かれた。その表紙には、ムハンマドが「私はシャルリー」というプレートをもって涙を流す風刺画が使われている。朝日・読売・毎日の全国紙3紙は誌面に載せなかったが、共同通信が加盟各社に配信した(掲載する地方紙・ブロック紙とそうでないところに分かれた)。『東京新聞』が一番早く、1月13日付夕刊1面にカラーで載せ、14日付特報面でも使った。日本人の大半は、この絵の転載した記事を見ても何も感じないだろう。しかし、『東京新聞』1月29日付「応答室だより」は、「一方読者からは『掲載で傷つく人がいるとしたら、それが少数の人たちであっても、その気持ちを尊重したい』との声もありました」として、「イスラム教徒におわび」を掲載した。日本でも、ムハンマド風刺画の問題がようやく実感されつつある。表現の自由は、宗教を冒涜する「涜神の自由」を含むのか。1月14日にネットオークションで『シャルリー・エブド』の前身『アラキリ』(日本の切腹・ハラキリ)1966年6月号の現物を入手できたので、近いうちに現物紹介を兼ねながら、この問題を考えてみたい。
それにしても、1月11日のパリにおける抗議集会・デモは、370万ともいわれる多数の人々が参加する、フランス史上空前のものとなった。世界50カ国の国から首脳ないし首脳級が参加した。米国のオバマ大統領と安倍首相の不在はかなり目立った。安倍首相は駐仏大使を参加させ、自身は岸信介元首相の墓参りに行ったようだ。阪神淡路大震災20周年式典への欠席と同様、安倍首相が何を大事に思っているか、何を大事に思っていないかがよく見えた瞬間だった。「私はシャルリー」というプレートを掲げて行進する人々もたくさんいた。ムハンマド風刺画を新たに掲載した最新号は通常6万部程度なのに、700万部も売れたという。これは明らかに異常である。この種の雑誌が存在することは社会における自由のあらわれだが、これが何百万部も売れるという状況には違和感がある。みんなが一致結束して「対テロ戦争」をたたかうという空気も危ない。
フランスのバルス首相は、1月13日に国民議会で演説し、「フランスはテロとの戦争状態(Guerre contre le terrorisme)に入った」として、14年前のブッシュ米大統領と同様の発信をしてしまった。オランド大統領は、「イスラム国」への空爆参加も視野に空母「シャルル・ドゴール」をペルシャ湾に派遣する方針を表明した。同時に、フランスが「異常事態」に直面しているという認識を示して、軍の人員3万4000人削減計画を見直す考えを明らかにした(『東京新聞』1月15日付夕刊)。2001年の「9.11」と同じような構図が見えてきた。
昨年からヨーロッパでは移民排斥の動きが急である。ドイツでは、25年前のライプチッヒの月曜デモが「壁」を崩すきっかけとなったが、それから25年たって、イスラム教に批判的な人々が、今度はドレスデンから「ヨーロッパのイスラム教化に反対する愛国的ヨーロッパ人PEGIDA」というものを組織して、毎週月曜日にデモを行っている(Die Welt vom 19.1.2015)。この動きをどう見るか。
論ずべきことは山のようにあるが、ここまで書いてきてタイムリミットである。目下、ストラビンスキーの「春の祭典」などをBGMに、1200枚の答案の山と格闘する「冬の採点」の真っ只中である。そこで、ちょうどメールで届いた学生のレポートを紹介したい。
2年前と同じく「冬の採点」の最中に、ゼミ15期生のレポート(4カ月かけてイラン、アルメニア、グルジア、トルコなど10カ国、約24000kmを地上から訪れた)を掲載したことがある(直言「雑談(95)今時の学生について(1)――シルクロード一人旅」)。今回掲載するのは、昨年フランス留学から帰国したゼミ17期生の渡邊勇介君の文章である。「1.7事件」の翌日のゼミの冒頭、私がこの問題について語ったところ、渡邊君が強い関心を示してくれた。君の意見を聞かせてくれというと、長いレポートをメールで送ってきてくれたのだ。それを以下、ほぼそのまま掲載する。彼の経験や抱く疑問は、おそらく来週以降の議論の「入口」になるだろう。
私は2013年8月から、2014年6月までフランスのドフィーヌ大学に留学していた。その経験を踏まえて、今回のシャルリー・エブド襲撃事件について考えてみようと思う。その際、フランスにおける「移民」、「表現の自由」、「デモ」の問題を軸に述べていきたい。
まず、パリには、「移民」が数多くいる。アラブ系であったり、黒人であったり人種はさまざまだ。移民には二世などのフランス国籍の者も含む。フランス人の友人が住んでいたパリの中心部(セーヌ川より南)では、移民の姿を見ることはそれほど多くなかった。留学中に住んでいたのはパリの北、パリ18区とパリ北郊外サントーウェンの境にある学生寮である。その周辺には移民が数多く住んでいた。パリの「辺境」である。それは、パリ北部ないし北東部がほとんどである。そのような地域のスーパーマーケットには、ハラール肉が売られており、ケバブ屋の軒数が多かったりする。「小さなアルジェリア」などと言われるような地区もある。私はよく近所のケバブ屋に通っていたのだが、そこではフランス語が聞こえないことはざらだった。私は、移民の住む場所が「固定化」されてきているようだと感じたものであった。
私が通っていた大学で、ほとんどの学生、教師は白人だった。黒人やアラブ系の学生もいるが、やはり数は少ない。だが、近くの清掃員を見ると、ほとんどが黒人やアラブ人である。クラブのガードマンも黒人が多かったし、スーパーの店員もそうだった。しかし、クラブで遊んでいる人は白人が多いし、ブランドショップの店員は白人だった。職業選択の自由があるし、何よりあの国では平等に人権が与えられているはずだが、現実には、清掃員や店員などは移民が多い。移民が多く住む土地は犯罪率が高い、という話をフランス人の友人に聞いたことがある。事実、私も6人の黒人に囲まれて、持ち物を取られたことがある。場所はパリの北部である。私が住んでいた場所の最寄り駅でも、移民が警官に捕まることが多く見られた。今回のシャルリー・エブド襲撃事件及び警察官襲撃事件の犯人も移民だった。しかし、周囲にいた移民の人々はいい人ばかりだった。行きつけのケバブ屋の兄ちゃんは、とても私に優しかった。私の帰国直前に、「なんだよ、バカンスじゃなくて帰るのかよ」と残念そうに言った彼の顔は、忘れられない。店にいたアラブ系の人や黒人も、気さくに挨拶をしてくるいい人たちばかりだった。もちろん些細な個人的体験ではあるが、「移民すべてが悪い人」という考え方への小さな反論にはなるだろう。
シャルリー・エブド襲撃事件は「イスラム過激派」によるものとされている。だが、フランスにおける移民の現状というものを見なければ、問題の本質は見えてこないのではないか。単に「イスラム過激派による犯行」としてしまっては、今回のテロ事件をとても表面的にしか理解できないと思う。
なぜなら、フランスに住む「イスラム過激派」と、もともと中東地域に住んでいる「イスラム過激派」ではまったく生きてきた背景というものが違うからだ。フランスに住む、イスラム教徒の「移民」とは、フランスにおいてどういう立ち位置なのか。どうやって生きてきたのか。そして、彼らはどのようにして、「イスラム過激派」になってしまったのかということを考察しなければ、今回のテロの根源がどこにあるか見えてこないような気がするのだ。
「表現の自由」についても、日本人の私たちが理解するそれとはかなり違う。表現の自由の獲得過程が違うのだから、それは当たり前だろう。フランスの「表現の自由」を知るための手がかりとして、「ライシテ」という概念があげられる。簡単に言えば「政教分離」のことである。第三共和制期に形成された、教会と国家の分離法がその原点である。フランスにおける共和制は、キリスト教による「教会権力」を弱めることから始まった。彼らが宗教を皮肉ったり、ユーモアの的とするのはこれが原点にある。教会は力を持った「権力」だったから、それに対する皮肉やユーモアというのは、反権力的な「表現の自由」の象徴であった。彼らの表現の自由は、権力(宗教)への批判から始まっている。思えば、フランス人はあまり「キリスト教的」ではない。私のフランス人の友人も、「フランスは宗教への信仰心だけ見ると、ヨーロッパの日本みたいなものだよ」と言っていた。特に、「大学に通っている」フランス人で、宗教に熱心な者を、私は見たことがない。
ただ、「ライシテ」は、最近のフランスでは「教会に対するもの」というよりは「イスラムに対するもの」として使われているような気がする。私が受けた「ライシテ」を取り扱う授業でも(この授業は学生が留学生中心であったが)、議論のテーマは「学校においてブルカを被ることは認めるべきか否か」といったものだった。その議論では、私などを筆頭に「ブルカを被ることくらい認めてあげてもいいのではないか」というような意見を言っていた。これに対して、フランス人教師は「確かにそういう意見もあるかもしれない。だけどやっぱり、教育の場に宗教が入り込むということにはかなり大きな違和感があるね」と言っていた。私はその時、「私たち」と「彼ら」はそもそも違う国で育っていて、考え方も何もかもが「基礎」から違うのだと痛切に感じた。この事例はもちろん、全員のフランス人にあてはまるわけではないが、象徴的な出来事だったので、ここに記しておく。
シャルリー・エブドが今回襲撃されたのも、イスラムを「風刺」していたからであったとされている。日本人から見ると、あれを「風刺」と考えるのか「差別」と考えるのかは意見が分かれるだろう。しかし、フランス人にとって「宗教」への風刺や皮肉というものは、フランスが「フランス共和国」であることの証明なのではないだろうか。そういう側面からも、今回の事件を考えていく必要があると思う。
フランスにおいて、「デモ」というものは「マニフェスタシオン」と呼ばれる。マニフェスタシオンとは「表明」という意味もある。デモンストレーションではなく、マニフェスタシオンという名がついていることからも、日本のそれとは違う。ちなみに、ストライキは「グレーブ」と呼ぶ。
フランスにおいて「デモ」は日常的なものである。あちらこちらで頻繁にやっているものだ。たくさん見かけたなかで、私が留学しているときに出会った大きなデモは、「ロマの女子学生が、強制送還された件に反対するデモ」だった。フランスのあらゆる場所で、学生が立ち上がり、強制送還に反対する。すばらしい活動だ。しかし、私の友人は「だってデモに参加すれば高校休みになるし、そっちの方が楽だから参加しているんじゃないかな。」とばっさり切っていた。確かに、そういう一面もあることは見逃せない事実だと思う。ただし、フランスの人々は意見を主張することは大好きなので、確かにデモのようなものが盛り上がる国民性ではある。加えて、デモではないがパリの「テクノパレード」などのイベントにも多くの人が集まることも見逃せない。おそらくフランス人は、「祭り」がとても好きなのだろう。
今回のシャルリー・エブド事件に反対する「大行進」もいったい何人が本当に自分のことをシャルリーだと思っていたのか見当がつかない。ただ、確実に言えるのは、「感動的な大行進」というものではなかったことである。あの大行進のすぐあとに、ネット上で「表現の自由を守るための素晴らしいデモ」や、「ペンはテロに屈しない」というような言説が散見された。でも、本当にあの大行進に参加していた皆が皆、シャルリー・エブドの主張に心から賛同していたのか。「表現の自由」を守るために参加していたのかというと疑問が残る。個人的には、大きな祭りに参加しよう、というような感覚であった人も多いのではないかと思う。それが悪いことだと言いたいのではない。ただし、あの大行進を私たちが異常なまで美化することは何か違うと思っているだけだ。だから、私はあの大行進を「感動的」だとは思えないし、思わない。しかしもちろん、この辺りは実際の参加者に話を聞かなければ分からないところではあり、遠く離れた日本から推察するだけでは足りない。なので、実際に参加した友人に話を聞いてみようと思う。
ただ、私があの大行進を見て一つ凄いと思ったことがある。それは、さらなるテロの危険性があるのにもかかわらず、あれだけ短期間で多くの人々が集まったことである。実際、これから同じようなテロが日本であったら、あそこまでの人が集まるだろうか。渋谷のスクランブル交差点で、サッカー日本代表戦の後のような風景が見られるだろうか。
10ヶ月程度しかフランスにいなかった留学生としての立場で、今度の事件について書かせていただいた。この件を通して、フランスというものについてさらに深く勉強していこうと考えている。
(水島ゼミ17期 渡邊勇介)