全国憲法研究会(公式サイト)主催の憲法記念講演会が立教大学タッカーホールで開催された。昨年の明治大学での講演会に引き続き、私が代表として主催者側となって行う2年目の、そして最後の企画である(来年以降は自由人です!)。
今回はノンフィクション作家・評論家の保阪正康さんをゲストにお招きした。もう一人は、AKB48の内山奈月さんと『憲法主義』をヒットさせている南野森さん(九大教授)。個人的には最高の組み合わせができたと自負している。幸い、若い人々を中心に900人近くが参加した。お越しいただいた皆さまと、会場や当日の運営全般についてお世話いただいた立教大学の皆さまに、この場を借りて厚くお礼申し上げたい。
保阪さんとは10年ぶりの再会だった。2005年5月12日、池谷薫監督の依頼で、映画「蟻の兵隊」のためにゼミの1コマを提供した。「旧日本軍山西省残留問題」の生き証人・奥村和一さんと学生たちとのやりとりを撮影するためだったが、保阪さんもその場に同席されたのである。今回の講演で保阪さんは、「語り継ぐべき憲法の歴史的精神とは何か」と題して、戦前の体制の決定的欠陥として、軍事が政治をコントロールしたこと、「特攻」と「玉砕」という軍事常識に反した方法がとられたこと、そして捕虜条約を批准せず捕虜となることを否定したことの3つを挙げた。衝撃的だったのは、特攻機は無線のスイッチをオンにした状態で突っ込ませていたこと。基地では特攻隊員の最期の叫びを記録していた。軍は終戦時にその記録をすべて焼却した。「大日本帝国万歳」などという叫びはほとんどなく、「お母さん」とか、恋人の名前、なかには「海軍のバカヤロー」というものもあったという。個人メモを残した参謀に保阪さんが取材して聞き出したものだ。軍は人間としての最期の叫びを封印した。日本国憲法はそうした軍の暴走をおさえる「非軍事憲法」であり、それを「平和憲法」にするにはまだまだ時間と国民の努力(エネルギー)が必要であり、少なくとも2047年まで100年間はこれを維持する必要があると保阪さんは語った。将官を含む元軍人への長年にわたる周到な取材に裏打ちされたその言葉には重みがあり、説得力があった。
一方、南野さんは「戦後70年に考える――憲法とは何か」と題して、AKB48のメンバーの一人と憲法の本を出すまでの経緯を、安倍政権の改憲への動きの変化と絡ませ、ユーモアをまじえて語った。そのなかで憲法と憲法学の基本的な論点が巧みに折り込まれていたのはさすがだった。フランス憲法学の研究で知られる南野さんが、あえて「やわらか系」の本を出した背景を知って、立憲主義の真正の危機に向き合う憲法研究者としての覚悟を感じた。
お二人の話を通じて、権力者が国民に向かって、改憲に「慣れさせる」「しっかり植えつける」などと恥ずかしげもなく言い放つ時代に、憲法の歴史と憲法そのものについてしっかり知ることの大切さ(南野さんのいう「知憲」)を明確にしていただけたと思う。なお、この講演の内容は『憲法問題』27号(2016年5月、三省堂)に掲載される。
さて、この日、横浜では、3万人が参加して「平和といのちと人権を!5・3憲法集会」が開催された。作家の大江健三郎さん、澤地久枝さん、憲法研究者の樋口陽一さん、昨年全国憲で講演していただいた香山リカさんらが檀上から訴えた。
その日の夜、ネット上には、「大江健三郎が安倍首相のことを安倍と呼び捨てにした」という声が無数に広まった。ネタ元は『産経新聞』ということだった。Yahooニュースは、発行部数ではブロック紙の中日新聞よりはるかに劣るこの全国紙の影響力が強い。リンクも『産経』サイトにはられている。そのため、5月3日20時30分更新の記事「すべて安倍のせい 大江健三郎氏『米演説は露骨なウソ』」が一時トップにきた。だが、この記事はネット上だけで、同紙5月4日付朝刊14版にはまったく掲載されていない(憲法関連記事は2面と5面)。早版にネットに出た記事があったのかまでは確認していないが、少なくとも東京本社最終14版(どの新聞社でもこれが保存用になる)には載らなかったことは事実である。大江氏が参加した憲法集会について『産経』が「大きくとりあげた」というのは、ネット上だけのことだった。しかも、『産経』ネット記事も「呼び捨て」については触れていない。
「呼び捨て」を直接取り上げたのは、読売新聞社系の『スポーツ報知』電子版(5月3日18時8分)である。いわく、「横浜市の臨港パークで行われた『5・3憲法集会』では、ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏(80)らが参加。大江氏は安倍晋三首相を7度も呼び捨てにして『彼がアメリカ両院で話したことはウソだと思う』などと批判した」と。見出しも、「大江健三郎氏、安倍首相呼び捨て批判」。これはネット上に飛び交う大江氏批判の無数のつぶやきとも符合する。
それにしても、こうしたネット上の記事(翌日の新聞記事では落とされるような)はどことなく怪しい。政府に批判的な集会を詳細に取材してネットに流すのは、いかにも公安調査庁的な手法で、ことさらネトウヨに栄養分を注いでいるとしか思えない。「ネット世論」はすぐに反応して、大江氏を罵倒した。「呼び捨て」を文学者失格のように書く者もいた。しかし、「一国の首相を呼び捨てにするのはおかしい」という感覚がそもそもおかしい。どこでも政治家は呼び捨てで批判されることを覚悟しなければならない。傑作なのは、「大江健三郎は安倍総理を呼び捨てにした」というものだ。通常、作家としては呼び捨てだが、ここは大江氏とすべきだろう。このネットの人々は、「安倍総理閣下」とでも言えば満足なのか。「偉大なる安倍総理閣下」では、お隣の三代目とどこが違うのか。憲法改正案を含めて、安倍政権が北朝鮮に似てきたのは偶然ではないだろう。
日銀総裁からはじまり、NHK会長、内閣法制局長官、原子力規制委員会委員長等々、重要人事に「オトモダチ」を採用して安倍カラーを徹底する手法はこの1年でかなり進んでいる。NHK大河ドラマから世界遺産候補(なぜ松下村塾が入るのか!)まで、「安倍カラー」は不気味に浸透している。朝起きたら、安倍色になっていたというのが現実になりつつある(リンク先はPDFファイル)。
最後に、5月3日の二つの新聞の朝刊コラムに私の書いたものが使われていたので、ここに残しておきたい。一つは『北海道新聞』一面コラム「卓上四季」。もう一つは『信濃毎日新聞』一面コラム「斜面」である。ここには、安倍政権に萎縮しない地方紙の気骨と、「安倍色」に染まらないための重要な栄養が含まれている。
若い政治家や研究者の話を聞いたり、論文を読んだりして時折、強い違和感を覚えることがある。憲法学者の水島朝穂さんがそう書いている(「立憲的ダイナミズム」岩波書店)▼人の生死に関わることでも、痛みや苦しみ、血が流れる切実さを感じていない。まるでゲームを楽しんでいるようだ。水島さんは「生命や平和に対する感性の欠けた法解釈は有害でさえある」と結論づける▼きょうは憲法記念日。この日を前に安倍晋三政権は憲法の制約や日米安保条約の枠組みをあっさりと超える軍事協力を米国に約束した。その軽さを見ていると、よもやとは思うが水島さんの危惧が頭をよぎる▼憲法の平和主義は武力を用いない努力と工夫を徹底して求める。人間の命が戦争によって失われることがあってはならない。そんな強い思いが背後にある。以前にも当欄で紹介したが、中曽根康弘内閣で官房長官を務めた故後藤田正晴さんは自衛隊の海外派遣に強く反対した▼イラン・イラク戦争中の1987年、ペルシャ湾への艦艇派遣の話が持ち上がったときもそうだ。交戦海域に艦艇を派遣すればタンカーの護衛と主張しても、相手から見ると日本は戦闘行為に入ったと理解する。「戦になる。国民に覚悟はできているか。できてないだろう」と(「情と理」講談社)▼いま、国民に覚悟はあるのか。肝心の政治家はどうか。その点が何とも危うい。
軍歌「戦友」の4番はこう歌う。(歌記号)軍律きびしい中なれど/これが見捨てて置かりょうか/しっかりせよと抱き起こし/仮包帯も弾丸のなか…。命令に従わずに同僚を手当てする。軍律に違反する行動である◆「戦友」は厭戦歌ともみなされた。命優先は人として当然ではあっても、戦争遂行には邪魔になり危険すら招く。上官が兵士を非情な命令に従わせるには軍事の論理を貫く特別の裁判所、軍法会議が必要になる。憲法学者、水島朝穂さんの講演録に学んだ◆自衛隊の海外派遣を広げる安全保障法制の改定。政府は自衛隊員の国外犯処罰規定を自衛隊法に明記する。国内では防衛出動が発令され警戒勤務中に、理由もなく職場を離れると7年以下の懲役か禁錮。この罰則を海外で適用する。部隊の一部による反乱や職務放棄を想定している◆「軍としての全属性を具備する動きだ」と水島さん。他国同士の戦争に参加する集団的自衛権行使で、死の恐怖に直面する自衛隊員は増える。敵前逃亡を防ぐにはさらなる厳罰化が必要か。自民党憲法改正草案は、国防軍審判所を置くとある。軍法会議だ◆戦時中、敵前逃亡すれば最高刑は死刑だった。軍法会議と故郷の家族が非国民扱いされるとの恐怖が兵士たちを「玉砕」に駆り立てた。現憲法は軍法会議も徴兵制も認めていない。非軍事と人間尊重の論理が貫かれているからこそである。