「自衛隊員のリスク」と「国民のリスク」            2015年6月8日

自衛官のリスク

安倍首相の演説

「平和安全法制特別委員会」の審議のなかで安倍首相が多用・頻用する言葉がある。『朝日新聞』5月31日付第4総合面の「安保国会――語られた言葉」の整理によれば、26日から28日の3日間の審議に限っても、「例外」「一般に」といった限定的な意味を含む言葉が110回以上、次に多いのが「リスク」で85回以上。「幸せな暮らし、生活」が16回以上で、「木を見て森を見ない」という言葉も3回以上使われたという。非常に目立ったのが「リスク」という言葉で、26日の本会議だけで首相は20回以上、27日と28日の委員会審議では、質問者も含めると240回というから相当なものだ。民主党議員が「活動エリアが広がるから、自衛隊のリスクは高まるのではないか」と質問すると、首相は「なぜ自衛隊がリスクをとって活動をするかといえば、国民のリスクを軽減させるためだ」と答弁する。あきれるほど、議論はかみ合っていない。

「自衛隊員のリスク」と「国民のリスク」を並べて語る首相。そもそも「リスク」とは何か。ネット検索をかけると、4000万件以上ヒットする。ちなみに「危険」という日本語は5600万件だから、「リスク」という言葉はずいぶん普及したものである。しかし、安倍首相や中谷防衛大臣の「リスク」の使い方はかなり怪しい。そこで、リスクの問題に詳しいある研究者に、そもそも「リスク」とは何か、「平和安全法制整備法案」の審議過程における「リスク」の使われ方などについて、「直言」の読者のために書き下ろし原稿を依頼した。近年、『シャルリー・エブド』事件について、あるいは、ISによる日本人人質殺害事件で安倍首相があまりに「責任」という言葉を使うので、憲法学における「責任」概念について、それぞれ専門に取り組んでいる研究者の見解を「直言」のなかで紹介してきた。今回はその第3弾ということになる。


「リスク」、「生命・身体の危険」、「安全」保障法制をめぐって

いま、安保法制をめぐる国会論議で「リスク」が論じられている。安保法制は「自衛隊員のリスク」や「国民のリスク」を高めるか?といった発言である。だが、これは「リスク」なのだろうか。その前に、いま国会で使われている「リスク」とは、一体何についての「リスク」だろうか。金融リスクや損保のリスクなど経済的リスクという「リスク」の使われ方もあるが、「自衛隊員のリスク」というと、やはり生命・身体のリスク、つまり「戦死」「戦傷病」についてのそれだろう。そのことの重みをぼかして、「リスク」というカタカナの軽さで覆い隠してはいないだろうか。

そもそも「リスク」とは、いろいろな意味で使われる。たとえば、「危険」と同じ意味に使われることもあるが、違う意味で使われることもある。(a)損害発生の確率×損害の積の値が大きなものを「危険」というのに対して、(b)損害発生の確率×損害の積の値が小さなものを「リスク」という(これを「定量的リスク」と呼ぼう)。また、(c)原因と損害の因果関係が科学的に不確実な「リスク」という(これを「科学的不確実性リスク」と呼ぼう)。(c)の例は、とくに環境問題にあり、がん発生の不確かな低線量の放射線のリスクなどがある。あるいは、(d)本来なら情報収集で解明可能だが、人身・精神的自由と衝突するため解明困難ゆえに不確実なリスクもある(これを「状況的不確実性リスク」と呼ぼう)。以上は、環境・災害リスクと軍事リスクとの違いも含め、藤井康博・高橋雅人「リスクの憲法論」水島朝穂編『立憲的ダイナミズム』(岩波書店、2014年)251頁以下を参照。

以上の分類によれば、「自衛隊員のリスク」は、(c)「科学的不確実性リスク」ではない。派遣先で武器によって攻撃を受ければ、ヒトは死傷してしまうことは科学的(生物学・物理学的)に不確実ではないからである。また、積の値の小さな(b)「定量的リスク」でもないだろう。かけあわせる損害は自衛隊員の生命・身体という大きなものだからである。安保法案が成立すれば、戦闘現場近くへ自衛隊派遣が実現でき、攻撃を受けて死傷者の出る確率(蓋然性)は高い(他国の実情をみれば高い蓋然性がある)。そういうわけで、誤解のないように、積の値の大きな(a)「危険」と呼んだほうがいいのではないか。たしかに、情報収集で解明困難な(d)「状況的不確実性リスク」の部分もありうる。もちろん厳密に数値化ができるわけではないが、各国の統計や経験から予測は可能である。以上をふまえれば、目下のところ、「自衛隊員の生命・身体の危険」=「自衛隊員の戦死・戦傷病の危険」が問題となっているのである。

他方、「国民のリスク」についていえば、生命・身体という重大な損害についてだとしても、現時点で、損害発生の確率が高いとはいえないのではないか。現時点で、日本が攻撃を受けて国民の生命・身体が損なわれる十中八九の高い確率(蓋然性)があるとまでは言い難い。他方で、安保法案の成立に基づいて自衛隊派遣をすれば、よりいっそう敵をつくり、日本国民が狙われる可能性は高まりうる(これも高い蓋然性とまでいえるかは微妙である)。そこで、「危険」ではなく、「国民の生命・身体のリスク」=「国民の戦災リスク」という言葉で議論すること自体は誤りとまではいえないだろう。

以上をふまえて、国会で議論となっている論点をみていこう。まず自衛隊員について、次いで国民について。

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国会でいわれる「自衛隊員のリスク」、すなわち「自衛隊員の生命・身体の危険」は高まるのかどうか。政府は、「非戦闘地域」のみならず「現に戦闘が行われていない地域」にまで自衛隊員を派遣できるようにするという。どう考えても「危険」は高まりそうである。「安全」な現場を選んでいくというが、ならば、なぜ派遣できる地域を拡大するのか。そもそも「安全」な現場など派遣先にあるのか。「非戦闘地域」でも砲弾が撃ち込まれ、「安全」ではなかったにもかかわらず、拡大しようとするのである。自衛隊員の安全確保をするというが、装備面ではイラクへも重火器をすでに持って行っていた。いっそう情報収集・訓練強化をがんばるから、また、より強力な武器を持っていくからなど、運用で「危険」は高まらないというのは、なんとも都合のいいシナリオである。自衛隊員の安全を確保・配慮する法制度は現行法でも法案でも同じなのに、「危険」は高まらないという答弁にも疑問が残っている(5月27日衆院特別委の民主党・大串博志議員の質問に対する中谷元防衛大臣らの答弁)。仮に百歩譲って、重武装で攻撃を防げるとしても、戦闘地域に近づくことは、少なくとも狙われる確率は高まる。政府の答弁を聞いていると、原発に続いて、ここでも「安全神話」が始まろうとしているように聞こえる。

攻撃があれば活動を一時休止する(逃げる)という答弁も、現場を知るひとが聞けばどう思うだろうか。支援している他国軍を置いて逃げるのかという問題もありうるが、それよりも「逃げられない」という問題がある。混沌とした地域で、不測の一発目が自衛隊員に命中することもありうる。よくメディアでは、わかりやすく円形状のイメージで、中心に「戦闘地域」があり、周囲に「現に戦闘が行われていない地域」、「非戦闘地域」が順に広がっている図が示される。しかし、攻撃は正面からあるとは限らず、背後からの攻撃、あるいは、周囲を取り囲まれる攻撃もありうる。逃げ道を絶たれることもありうる。

さらに、現場では一般市民に紛れて戦闘員が自衛隊員へ攻撃してくる可能性も高まる。だからといって、過剰に防衛しては、自衛隊員が一般市民をも殺害してしまう「危険」もある。そうなれば、日本への憎しみが高まり、暴力の連鎖が始まることになる。先の大戦において、日本軍が現地で一般市民も巻き込んで、殺し、殺される「危険」に陥った悪夢が蘇ってしまう。

以上の恐怖から、自衛隊員のストレスによる病気や自殺の「危険」が高まる問題もある。自殺については、すでにイラク派遣についても指摘されており、派遣地域の拡大とともに「危険」は高まる。

5月14日の記者会見で安倍晋三首相が挙げた1800人以上の(大半は事故による)「殉職者」には、これまで「戦死者」はいなかった。安保法案が成立しても「自衛隊員のリスクが高まらない」という発言を維持しつづけることには無理がある。高まることは政府の側でも内心ではわかっていながら、法案が不成立に終わることや、自衛隊員の志願者が減ることを危惧してなのであろうが、図らずも法案への不信を招いているのであろう。にもかかわらず、「高まらない」と断言し続けるのであれば、素人から見ても、政権が防衛について素人であることのアピールになってしまっているように見える。そのような政権の「総合的判断」に自衛隊員の生命・身体を預けることは恐ろしい。

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次に、「国民の生命・身体のリスク」である。これは安保法案によって下がると、安倍首相はいう。はたして安全保障法制は、国家ではなく国民の「安全」を確保する法制なのか。

たしかに、軍事同盟によって「抑止力」が高まって国民を守ることができるというシナリオは19世紀ならありえたかもしれない。しかし、20世紀以降、むしろ同盟は戦禍の拡大を招いてきた。軍拡競争につながる安全保障のディレンマも危惧されて久しい。安倍首相の言葉でいえばアメリカとの「血の同盟」、安保法制の拡張によって、アメリカの戦争に「積極的」に付き合い、わざわざ敵にまわす国を増やしてしまいかねない。また、いわゆる「テロ」には「抑止力」が効かず、自国や他国で一般市民を巻き込んでしまう「テロ対策」「対テロ戦争」支援は、かえって「テロ」の温床を育ててしまいかねない。なお、アメリカがどんなに軍事力に頼っても、「テロ」の攻撃にさらされ、多くの国と敵対関係になっており、アメリカ国民の生命・身体のリスクはあり続けている。

仮に百八歩譲って、安保法案の成立によって、「国民の生命・身体のリスク」が下がるシナリオがありうるとしても、「国民の生命・身体のリスク」が高まるシナリオがありうるのだから、リスクを選ばざるをえない(賭けを強いられる)ことについて当事者の国民に十分に説明し、十分に声を聴く必要があるだろう。それをリスクは「下がる」、「絶対」に巻き込まれないという“断定的判断の提供”をするのは、消費者法的な発想を借りていうならば悪質な政治商法といわれかねない(自衛隊員の生命・身体の危険についてもあわせて“不実告知”“不利益事実の不告知”が疑われないか)。

また、抱き合わせで出されてきた11法案のうち武力攻撃事態対処法に関わる集団的自衛権の「新3要件」の第1要件の中に(日本が攻撃されていないにもかかわらず)国民の生命・自由・幸福追求権が根底から覆される明白な「危険」がある事態が挙げられている。しかし、この明白な「危険」には、損害発生の差し迫った高い確率(蓋然性)が求められるはずだが、いまの政府のいう「リスク」の軽い言葉づかいや「総合的判断」では、いとも簡単に「危険」も認められてしまうおそれがある。

ちなみに、「戦争に巻き込まれる」という批判については、安倍首相は、60年安保条約改定の時も同様に批判されたが、同条約によって「日本の安全」は守られたとし、「批判が全くの間違いであった」と繰り返している。しかし、まず厳密にいえば、これまでも武力行使する米軍への基地提供や後方支援(兵站)、とりわけ武力行使する米軍を輸送することで武力行使と一体化し、日本は巻き込まれてきたと考えられうる。もっとも、主体的・「積極的」に参戦したい権力者からみれば、「絶対」に巻き込まれることはないのだろう。さらに、今後の安保法制が問題になっているのに、過去の安保条約の例を出していることは理解に苦しむ。これまでのことを変えようとするときに、これまで大丈夫だったことを根拠にするというのは論理破綻ではないか。

そもそも、「国民の生命・身体のリスク」を低減させる事前配慮のためには、中立的な外交・交渉や「テロ」の原因である貧困・教育機会欠如・文化宗教対立・環境負荷を低減させる非軍事的支援などの手法を進めなければ、根本的解決にならないのではないか。また、仮に本気で石油危機・原発攻撃を危惧するならば、再生可能エネルギーの促進に本腰を入れなければならないのではないか。

以上、「自衛隊員の生命・身体の危険」と「国民の生命・身体のリスク」の問題をみてきた。ここまで「国民」といってきたが、抽象的な国民ではなく具体的に生きている住民個々人に着目する必要がある。政府の目算では、個々人の生命・身体が問題になっているにもかかわらず、経済的なリスク計算をしていないだろうか。たしかに経済危機が生命・身体のリスクにつながることはありうるとしても、生命・身体リスクを招きうる経済的利害のための武力行使・武器使用を認めては、「満州は日本の生命線」といい、さらに東南アジアの石油を求めて進出した歴史を再生してしまうことになりかねないのではないか。人命の数と、お金(利権・地位・名誉)とを天秤にかけてリスク計算をしてはなるまい。

(6月1日脱稿)

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