明けましておめでとうございます。本年も「直言」をよろしくお願い致します。
昨年12月14日に1000回を超え、今回で「直言」はちょうど19年になります。『東京新聞』12月29日付が第2社会面トップで「直言1000回」を報じたが(PDFファイル)、「壊憲 これからも対峙」というその横見だしの気持ちで、今年も書き続けていこうと決意しているところです。
さて、2015年は「直言」54本をアップしたが、その大半は安保法制に関連したものだった。12月18日、原稿を執筆しながら、NHKスペシャル「自衛隊はどう変わるのか―安保法施行まで3か月」をみていた。NHK政治部(私は「政権部」といっている)の迎合と忖度の姿勢に影響されて、どうせ政府寄りの内容だろうと思って期待しないで見始めたが、途中から集中してみてしまった。政府に気をつかいながらも、映像や編集にいろいろな「仕掛け」が施されていて興味深かった。
安保関連法の施行を前に、南九州を担任する陸上自衛隊第12普通科連隊の隊員への密着取材と訓練風景は実にリアルだった。負傷した隊員を2人で抱えて搬送する訓練や、暗闇での応急処置の訓練。特殊メイクの傷口を使い、「射入口確認! 射出口確認! 」と叫びながら止血する。実戦が近いことを感ずる隊員たちの表情はかたい。「カッコいい」射撃シーンはほとんどなく、戦闘現場での応急処置や負傷者搬送の訓練が続く。
番組後半、海外派兵の先輩国ドイツの経験と教訓の扱い方は印象的だった(ドイツでは「外国出動」[Auslandseinsatz]という)。アフガニスタンで戦闘に巻き込まれ56人の死者を出したドイツ。そのモティーフは、「政府が想定していたより、現場ははるかに厳しかった。一国の判断で、戦闘現場から引き揚げることは困難」である。
派兵当時の関係者として話す人物。画面に出た途端、1999年4月にカッセル大学のシンポジウムでお会いした議員だとすぐに分かった。W.ナハトバイ議員。緑の党の安全保障問題のエキスパート。当時は黒の革ジャンを着て、党執行部の「コソボ空爆」方針に反対していたので、テレビ画面の彼をみて17年の時の流れを感じた。社会民主党(SPD)と緑の党(Die Grünen)の連立政権のなかで、連邦議会防衛委員会の主要メンバーの一人となっていた。彼は「アフガニスタンでは戦闘行為に関与しないという議会決議があり、実際最初の4年間、ドイツ軍は一度も銃撃戦を行いませんでした」という。だが、その状況はやがて一変する。
30歳のJ.クレア伍長は、派遣任務が書かれた文書には、物資輸送や治安維持の目的しかなく、「戦闘」という言葉はなかったのに、実際は違ったと語る。アフガンの現場は熾烈で、彼はある村の近くで武装勢力に3日3晩包囲されて動けなくなった。飛び交う銃弾、迫撃砲弾の着弾音。寝食をともにした同僚が死亡。想定していかなった死の恐怖に直面し、気をまぎらせようと、持っていた携帯電話の録画機能で震えながら撮影した戦闘の映像からは、生々しい「戦場」の緊迫感が伝わってくる。地べたをはいずり、自ら携帯のカメラに「四方を敵に囲まれた」と叫び続ける。戦闘中の軍人が、まるで「戦場カメラマン」のような役割を果たしている。「政府は当初派兵について伝えていない。深刻な食い違いがあった。いつも敵の標的にされた」とクレア伍長は当時を振り返る。
なぜ彼が戦闘に巻き込まれるようになったのか。その事情が映像によって語られていく。場所は2008年2月、第44回ミュンヘン安全保障会議。R.ゲーツ米国務長官(当時)の言葉が辛辣だ。「ある国だけがぜいたくにも民生活動を選び、その他の国は戦闘と死の負担を強いられているのだ」と。目の前に座るF.J.ユング国防相(当時)の顔が引きつる。これ以降、ドイツは派遣部隊の規模を拡大し、活動範囲を危険地域にまで広げていく。それに伴い犠牲者の数も増え続け、14年間のアフガン派兵で56人が死亡した。
ブランデンブルク州の州都ポツダムにある陸軍派遣部隊司令部の敷地内にある「記憶の森」(Wald der Erinnerung)。木の一本一本に、アフガンで死亡した兵士の顔写真がはりつけてある。息子を失った母親の姿が痛々しい。ここで再び、ナハトバイ議員が登場。苦渋に満ちた表情で、「一国の判断で撤退することのむずかしさを痛感している」として、次のように語る。「アフガニスタンを巡りさまざまな利害や思惑が絡んでいることを十分に認識すべきでした。私たちは楽観的すぎたのです」。番組での発言はぶつ切りで編集されるのが常であり、翻訳のバイアスもある。実際に何をどこまでいったのかは分からない。ただ、17年前に私がお会いした時の反戦平和の政治家の面影はそこにはない。「楽観的すぎた」では多くの命が失われたことの総括にはならない。番組のメッセージは、「いったん派兵を始めたら、途中で撤退するのは困難」ということだから、彼の発言もその範囲におさまっていた。番組ではドイツ軍人の被害のみが語られ、ドイツ軍が一般住民の死亡に関わった「クンドゥス事件」(2009年9月)などには触れられていない。
ここで番組は日本にもどり、安保関連法が成立した直後の昨年9月末、都内でドイツの経験を学ぶシンポジウムの様子を映していく。そこには、海外派遣の指揮官を担った自衛隊幹部も参加していた。陸上自衛隊研究本部長で退官した山口昇元陸将が質問した。「ドイツにとってNATOの域外でドイツ人が命を落すことへの抵抗が強かったのではないか」と。それに対しては、「ドイツ軍で死傷者が出ていることは非常に深刻な問題になっています。国民に伝える際には、不都合なことでも説明することが求められているのです」と語る。
画面はそのあとに、中谷元・防衛大臣が登場して、相変わらず、「安保法の運用において、安全確保の枠組みを講ずることでリスクを極小化していく」「撤収や業務の中断などを状況に応じてやっていく」など、国会での迷走答弁を繰り返す。この番組は、防衛大臣など政府関係者や米国防省関係者ばかりに取材しており、政府による安保法制の広報的な面が強いのかと思っていたが、「戦場のリアル」を前面に押し出し、安保関連法をこのまま施行して大丈夫?というトーンで貫かれていたように思う。安保法施行前に入隊した自衛隊員に「自衛隊に入る時、戦場へ派遣されることは想定していたか」とインタビューしたり、PKOで南スーダンへ行く隊員を空港で見送る家族らのコメントもあった。
派兵先輩国のドイツの苦渋を伝えることで、安保関連法は施行すべきでないと主張する側にかっこうの素材を提供したともいえるが、他方、見方を変えれば、この番組は、「一度始めると容易に中断・撤収できない」から、やるなら覚悟の上でやるべきだという主張にもつながる。また、「不都合なことでも国民に伝える必要がある」というメッセージは、現実に起こりうる事態をきちんと説明して、憲法9条改正の議論を正面から提起すべきだという議論につながる傾きをもっている。憲法を改正して、軍隊としての本格的な準備をしないと対応できないぞ、という声が勢いを増せば、「戦場のリアル」の強調は、憲法9条改正で「現実」に合わせるという議論に誘導されるおそれなしとしない。それだからこそ、ドイツの憲法状況を深く、広く、濃く研究し、伝えることが重要になると私は考えている。
ドイツでは1956年3月に、基本法(憲法)の第7次改正を行った。この改正は、戦後ドイツが再軍備を行うための最も重要なステップで、軍隊の設置から、徴兵制、軍人の権利、軍に対する議会統制、軍事オンブズマン制度の採用に至る本格的な軍事憲法(制度)(Wehrverfassung)の導入をはかるものだった。今年(2016年)は、この第7次基本法改正からちょうど60周年を迎える。たまたま大学の「特別研究期間制度」(海外1年・半年)がとれたので、この機会に再びドイツ・ボンで研究生活を行うことにした。ただ、ゼミ、研究室、日本の状況を考えて、半年の短期を選択した。1999年~2000年の在外研究のテーマは「冷戦後ドイツの安全保障政策の展開と基本法の運用過程の研究」だったが、今回は「第7次基本法改正から60年のドイツの安全保障と法」とした。
17年前は、1998年11月9日の「直言」で、「4月から「ドイツからの直言」に」を出して早めにお知らせした。そこに当時の多忙な日々のことを書いたが、ここ数年の安倍政権の暴走の「おかげ」で超多忙な状況である。アウトプットの連続で、本をじっくり読む(熟読、精読、味読)時間も精神的余裕もなくなっている。さらなるアウトプットのためには、ここでまとまったインプットの時間を確保したいと考えている。2016年7月の一大政治決戦もあり、留守中、いろいろとご不便、ご迷惑をおかけするが、人生最後の在外研究の機会なので、どうぞご理解のほど、よろしくお願いします。
明日(1月5日)は、この3月に卒業するゼミ18期生たちと、恒例の「おでん会」を開く。これから仕込みに入る。
《追悼》
憲法学者で早稲田大学名誉教授の大須賀明先生が81歳で亡くなられた。12月23日逝去、81歳。私は、1974年4月、3年次の大須賀憲法ゼミに入って、日本の憲法判例について学んだ。憲法25条については、生存権の「具体的権利説」を唱えられ、憲法講義でもそれを熱く語っておられた。大須賀ゼミで誰が生存権を扱うかは皆の関心事で、ひやひやしていた。私は先生の具体的権利説に納得がいかなくて、それを批判的に取り上げ、かなり強く反論された記憶がある。その後、私は体調をくずして大学を実質的に休学状態となり、北海道に1カ月「静養旅行」をするなど、いい加減な生活をしていた。出席が必須のゼミで、先生は、前期ほとんど出席していない私に単位を与えてくださったのである(当時は通年4単位)。大学院では浦田賢治教授の研究室に入ったので、修士1年次の「憲法研究」の授業でお世話になっただけだったが、例えば、自由主義的法治国家を、ドイツ語で「リベラーレル・レヒツシュタート・・・」と抑揚をつけて講義されていたことを思い出す。1996年4月に私が早大に赴任すると、ご定年までの8年間、公法懇(公法科目担当者懇談会)のメンバーとしてともに仕事をさせていただいた。かつての不肖のゼミ生にもかかわらず、教員として対等にお付き合いいただき感謝している。先生のお仕事は、生存権論を軸に社会権全般にわたっており、単著『生存権論』(日本評論社、1984年)と『社会国家と憲法』(弘文堂、1992年)のほか、編著、共著が多数ある。大須賀編『現代法講義 憲法』(青林書、1996年)では私も1つの章を担当した。また仲地博・水島朝穂編『オキナワと憲法』(法律文化社、1998年)の内容やタイトルを考えるときに常に意識したのは、沖縄復帰前に出版された影山日出弥・吉田善明・大須賀明著『憲法と沖縄』(敬文堂、1971年)であった(積み上げられた本の真ん中に2冊見える)。憲法理論研究会では事務局長、全国憲法研究会では1997-99年に代表をつとめられた。それにしても、2015年、奥平康弘先生、深瀬忠一先生に続いて、憲法学の先達がまた一人この世を去った。先生の社会権論は、安倍内閣によって社会保障の構造的劣悪化が進むなか、これに対抗する憲法理論を磨き上げていくときに立ち返って参照されるべきお仕事といえるだろう。ご冥福をお祈りしたい。なお、「お別れする会」が後日開かれる予定である。