雑談(111)映画「野火」をみる――戦争のリアル
2016年2月8日

映画「野火」

「戦後70年」が過ぎ、戦争体験をいかに伝えるかに苦慮している間に、新たな戦争体験の準備が進んでいる。自衛隊の文書に「戦地」という文言が使われるようになった。「平成25年度米陸軍戦闘訓練センター(CTC)における訓練成果」(平成26年2月27日 教育訓練課)という内部文書がある。軍事問題研究会が情報公開により開示させたもので、米陸軍第2師団第3ストライカー旅団と陸上自衛隊富士学校部隊訓練評価隊との共同訓練について記した文書には、「その他 NTC〔ナショナルトレーニングセンター〕到着時から撤収(NTCからの出発)まで、(禁酒、携帯電話の使用禁止、服装の統制等)で実施…」とある(「軍問研ニュース」2016年1月12日より)。

戦争(戦場)のリアルを実感させる訓練が自衛隊で行われていることはすでに述べた。音の恐怖(聴覚)、「破片」の恐ろしさ(視覚、触覚)、銃剣で刺突する際の感触についてはすでに書いた。戦争について、「五感」を活かして伝えるという点でむずかしいのは「臭覚」と「味覚」ではないか。前者に挑戦したのが、沖縄県南風原町にある「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」の試みである。ここを管理している南風原町立文化センターでは、当時、壕にいた人たちの証言を集めて、当時の「臭い」を再現する展示を設けた。体験者からの聞きとりでは、何よりも強烈に記憶に残っているのが、壕内にこもった汗や血、汚物などが混ざった強烈な臭いだという。 体験者は、「ブタやネコの死体が腐ったようなにおいに、いろいろ混ざった感じ」というが、これを再現できるか。センターの学芸員と、「香りのデザイン研究所」(埼玉県新座市)のにおい専門家が、ひめゆり学徒隊だった人たちのアドバイスをもとに試作を重ねた。2014年12月18日に、できあがった「においの小瓶」をひめゆり学徒隊の体験者にかいでもらうと、「これよー」とつぶやいたという。「このにおい、死んでも忘れない。それほど強烈だった」(『朝日新聞』2014年12月19日付)。

映画で戦争の「臭覚」と「味覚」の両方を感じさせる作品に出会った。たまたま通勤途中にある下高井戸シネマでみた大岡昇平原作、塚本晋也監督作品「野火」(2015年)である。「地の匂い。水と空気の匂い。樹液の匂い。めくれ上がる皮膚の匂い。散らばる内臓の匂い。腐りゆく自分の匂い。」この映画を貫く象徴的言葉である。

映画で戦争を描くのは存外むずかしい。大部隊も大規模な戦闘シーンも出て来ない。装備の軸は小銃、銃剣、せいぜい手榴弾というこの作品のコンセプトは、人肉喰いである。44年前、学部学生のとき、敵前逃亡罪と人肉喰いが頭に残る深作欣二監督「軍旗はためく下に」(東宝、1972年)をみた。結城昌治の原作も読んだ。人肉喰いの話は、戦争中各地に存在した。この「直言」でも触れたことがある。『野火』を書いた大岡昇平には『レイテ戦記』もある。私も同じフィリピン戦にこだわって、29年前に書き上げたのが、久田栄正・水島朝穂『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)である。当時私は33歳。資料集め等、その執筆過程で人肉喰いの事実を知った。さまざまな戦場体験記のなかに、「人間の肉は〇〇のそれに似ている」という記述が出てくると、「戦争の味覚」を舌が勝手に想像してしまい、おぞましい気分になったこともある。大岡昇平『野火』は小説ながら、フィリピンの飢餓戦場を描く上では欠かせない一冊だった。

天皇のあいさつ

ルソン戦を軸とするフィリピンの戦闘では、約51万8000人の日本人が命を落した。この数字は1931年の「満州事変」から「終戦」までの中国大陸での戦死者の数とほぼ同じである。短期間の戦闘ながら、フィリピン戦がいかに悲惨なものだったかがわかる。

天皇の写真

2016年1月、天皇皇后は、フィリピンへの慰霊の旅を行い、「無名戦士の墓」と「比島戦没者の碑」に供花した。天皇はフィリピン戦へのこだわりを次のように表現する。「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」(1月26日、出発に先立つ挨拶)、「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私たち日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」(1月27日、大統領主催晩餐会での挨拶)。死者のなかでまず110万のフィリピン人犠牲者のことに言及し、マニラ市街戦という具体的な戦闘を挙げ、さらに「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘」という表現により、日本がフィリピンにかけた迷惑・加害の構造にまで踏み込んでいる。「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」いう安倍首相の「傲慢無知」とは大違いである。

天皇皇后のフィリピンへの慰霊の旅について、もし久田栄正氏(1915年生まれ)が生きておられれば何といっただろうか。前述の久田氏との本を、2013年に岩波現代文庫として復刊させる際に、50頁以上を削減する作業を行ったが、その際、若い世代の感覚を活かすべく、大学院生の塚林美弥子さんに協力をしてもらった。その彼女が「野火」をみた感想を書いてくれた。また、それを読んだ大東文化大学の藤井康博氏も「野火」についての感想を寄せてくれた。藤井氏は、学生時代、久田氏の故郷の石川県鶴来や北海道北見を訪れ、久田氏の弟さんに会って話を聞いたり、ルソン島の、久田氏が生き抜いた戦場跡をまわったりした経験をもつ。ぜひ両氏の感想を連続でお読みいただきたい。

映画「野火」に寄せて
             
塚林美弥子

「じゃあどうする? 俺がおまえ殺して食うか? おまえが俺殺して食うか?」。主人公(田村一等兵)に対し若き日本兵(永松)が叫んだ「問」である。本作品のエッセンスがこの台詞に集約されていると思う。映画「野火」は、戦地において飢餓のあまり人肉嗜食へと駆り立てられ、その禁忌を破り、人間が人間でなくなるか否かの極限状態を見事に描いている。

部隊から追い出された田村は、ジャングルの中をおそろしい程の孤独とともに歩いていく。飢餓と渇き、望郷に衰弱しきった田村は、「あたし、食べていいわよ」と、名も知らぬ血のように真っ赤な熱帯の花に、官能的な夢幻の誘惑を受ける。しかし、田村はその正体であった人肉に手を付けることはできなかった。さらに、十字架のかかる会堂で、偶然か必然か、出くわした現地のフィリピン人の男と女に対し、現地の言葉で「マッチをくれ」、「殺しはしない」と叫ぶも、若い女の恐ろしい叫び声に耐え切れず、ついに田村は銃を向け殺してしまう。いくらかの食糧や塩を手にするも、部隊も病院からも追われ「自由」の身であった田村はその後、銃を川の中に放り投げてしまう。これらの場面には田村の人間としての極限での態度表明が見て取れる。

「美しい自然の中で、なぜか人間だけがボロボロになっていく感じ」を描きたかったという塚本監督。その目的は見事に達成されていると思う。真っ青な空、青々とした木々、原色で鮮やかに咲き乱れる花、そして暗闇を照らす幻想的な蛍の光。楽園とも思える雄大な山々と海に沈む夕日。その中で、誰の命令かもわからぬパロンポンへの進行中、顔も見えぬ「敵」の爆撃と銃撃にあっけなく吹き飛んだ腕や脚、その肉片を奪い合うギョロ目の餓鬼と化した友軍兵士たちの地獄。そのコントラストが戦争の不条理さを際立たせる。しかし、これが現実の戦争なのだろう。読書好きの「普通の男」を殺人者にする。主体の見えない軍命によって狂気に陥り、日本人同士が殺し合う。軍事的な「敵」を想定し、政治的、経済的な善悪を論じていても戦争の本質は何も見えない。「野火」には戦争中に日本が犯した本当の罪が描かれている。これを直視しない限り、同じ過ちは確実に繰り返されるだろうと痛切に感じた。

フィリピンの戦場を描いた記録には、個人的に特別な想いがある。久田栄正氏と水島朝穂氏の共著、『戦争とたたかう――一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)が、『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年)として復刊される際、幸運にも旧著の加除修正という仕事に関わらせていただいた。

本書は憲法学者の久田氏が自らのルソン島での凄惨な戦争体験を語り、聞き手となる戦後世代の水島氏が膨大な関連資料に基づき質問を繰り返すことで、久田氏の個人的体験を今日的問題と結びつけて憲法学的に再定位している。単なる戦争体験記や普通の平和憲法論の本とは異なっており、私の心に深く刻まれている一冊である。

映画「野火」を観賞した際、『戦争とたたかう』の中で久田氏が語った、日本軍の精神主義に翻弄され、獣化した「皇軍」が横行する「屠殺場」の戦場が私の目の前で展開され、疑似体験するような感覚に幾度となく陥った。映画「野火」において、フィリピンの密林で病や飢餓により果てた日本兵を踏み分けて進み、衰弱しきった田村が最後に観た光景は「人間狩り」という地獄の底であった。この点、フィリピン・ルソン島北部での退却行の最中における経験を久田氏は著書の中で次のように語る。マラリアとアメーバ赤痢を併発し、ガリガリに痩せて「食べられるものは何でも食べたのに、私は、猿だけは食べられなかった」と。久田氏の所属していた旭兵団は、戦争末期の3月段階で飢餓状態に陥り、5月末から6月にかけては「米一粒も残っていなかった」。蛙、ヘビ、ガメ虫、何でも喉を通したが、人間の赤ん坊のように見えた猿は「とても食べられなかった」のだという。「友軍」を見殺しにせざるを得ず、飢餓で狂気に陥った日本兵が同僚を殺し、その肉を喰らうことを知って絶望した久田氏は、この「人間廃業」の戦 場で、それでもなお「私がまだ人間をやめていないことを自分で確認し」続けようとしたのであった。

表紙の画像

「野火」に映像化されている惨憺たる戦場体験は、久田氏が唱えた平和と「個人の尊重」との結合という論理を強力に支えている。久田氏は戦場を奇跡的に生き抜き、1945年9月、マニラの収容所において捕虜として生活し、復員後、マラリア再発の床で日本国憲法草案に出会った。そこで「まっさきに目がいった」のが9条であったという。戦後一貫して久田氏は「人が人として生きられぬ社会をつくってはならない」として、戦場で感得した平和の大切さに基づき、個人の尊重を徹底すれば、論理必然的に戦争は否定されるのだと、様々な場面で主張し続けた。「戦争でたたかう」のではなく、「戦争とたたかう」ことを選び、日本国憲法の平和主義と個人の尊重にこだわり続けた久田氏の叫びにも似た訴えを、私は「野火」の上映中に何度も聞いた気がした。

今年3月末には集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法が施行され、いよいよ運用の段階に入っていく。映画「野火」では、戦争体験者の肉声をそのまま反映させたような場面が繰り広げられ、日本国憲法9条も自衛隊も生まれたときからそこにあった私を含む戦争の現実、痛みを知らない世代に対し、焦りと怒りの混ざった警鐘を鳴らしているようにも感じられた。『戦争とたたかう』とともに、私が日本国憲法の平和主義の原点に立ち返る際に欠かせない作品になるだろう。

(早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程)

たたかう映画『野火』からみえる視点
藤井 康博
「戦争映画」ではない「戦場映画」

『野火』を、戦争と同時代に生きた市川崑監督と比べて、現在に生きる塚本晋也監督がどう映すか、数年前の予告から期待していた。

観終わって映画館を出た後、渋谷の雑踏を歩くなかで、これほど映画館の内と外の隔絶された空気を体感する映画はなかった。アフガン戦争やイラク戦争の帰還兵は、些細なことにイライラする人々のいる日常に急に戻された時、不条理な戦場とのギャップに苛まれ、自死に至る者もいるという。交差点の喧騒を抜けながら、その心情の一端が一瞬だけ垣間見えた気がした。

ただ、時折綴る感想めいた映画評は、鑑賞後しばらく、書けなかった。日常に多忙だったという言い訳もあるが、圧倒されて、茫然として…言語化できなかったためである。いま可能な限りで雑感をいうならば、以下のことがいえる。

モノクロであった市川版『野火』(1959年)の薄れつつある記憶と比べて、鑑賞から半年後も、塚本版『野火』の密林と血と土のどぎつい天然色の活写は、鮮明に脳裏から色褪せてはいない。

例えば、『仁義なき戦い』は「任侠映画」ではない。国際政治力学を暗喩する「代理戦争映画」「権力とたたかう映画」だったともいえる(参照、樋口陽一「『何がこわいのかね』――ゴム長靴で行動する知識人・菅原文太」現代思想43巻7号〔2015年〕22頁以下)。

塚本版『野火』は「戦争映画」ではない――と宮台真司は高く評価する(『塚本晋也×野火』〔游学社、2015年〕45頁以下)。観客は、通常の戦争の風景を映画館に持ち込むことができず、自らを「安全圏」に置くことができず、密林の戦場へ放り込まれるからである。これには同感である。また、この映画は、涙と背景解説を欠かさないような、いわゆる「反戦映画」ではないともいえる。「戦争とたたかう映画」といえるほどまで非暴力的不服従の明確なメッセージはないが、「戦争を戦わない映画」、「戦わずして戦死(餓死)とたたかう映画」といえる。

そして、脱走兵が戦う『スター・ウォーズ EP7』〔2015年〕のように銃風が飛び交い硝煙臭のする4D技術を使わずとも、塚本版『野火』は、心臓に響く臨場感に満ち満ちている。将校が登場する大所高所の「戦略映画」では全くないが、下士官・兵の目線の「戦場映画」ではある(『恐怖と絶望』〔1953年〕をはじめS・キューブリック監督の一連の戦争映画などについての拙論は、志田陽子編『映画で学ぶ憲法』〔法律文化社、2014年〕5章・12章・35章)。


「尊厳」と「慣れ」

塚本監督が、田村一等兵を主演せざるをえず、自身にアップで迫るカメラワークは、「個人」の主観的な視点を浮き彫りにする。そこへ引き込まれる。と同時に、カメラが撮る田村は客観的に自身を見ている節もある。その混濁する心理をどう観ることができるか。

かのV・フランクル『…それでも人生に然りと言う――ある心理学者、強制収容所を体験する』(邦訳題『夜と霧』)の一節にも、下記と似たような心理が語られていた記憶がある。同書に、久田栄正の上掲書――「ある憲法学者、戦場を体験する」書――を重ねて想う。生き残った久田や田村は「尊厳」を侵害されて奪われたのではない。「尊厳」を侵害されまいとして、人肉食をしないという「人間」の尊厳(一定の価値観・規範意識)を保ち続けたのだ。それは、辛うじて自由意思のある「個人」の尊厳を保った者がなしえたことだった。あるいは、尊厳を保とうとしたまま餓死した者も存在した。「正気」の者たちのなかでは「狂気」の者は生き難いが、「狂気」の者たちのなかでも「正気」の者は生き難い。

一方、「慣れ」ということ。『野火』では兵たちが煙草を吹かしながら「狂気」の空間に「慣れ」ていく。また、「狂気」の空間の強制収容所にいたフランクル自身が自己保存のために過酷な状況に「慣れ」ていったという(似た心理を接写した映画『サウルの息子』〔2015年〕にも圧倒される)。近頃のアフリカや中東の「テロ」「紛争」「内戦」「空爆」の死傷者数の日々のニュースに「慣れ」てしまっているおそれがあるとすれば、具体的個人を描写する『野火』や『戦争とたたかう』などの作品に(再び)接して想い起こす必要がある。ひとの死・苦しみに対して直情に訴えて反応することも危ないが(proactiveな「積極的平和主義」)、死・苦しみにクールに「慣れ」過ぎた分析も危なっかしい。時折、歴史や体験記を顧(省)みることが求められよう(retroactiveな平和主義)。

現代戦はハイテク兵器を使うことが強調されているが、「敵」とされる国や家に押し入って制圧する地上戦は、アフガン・イラク戦争を例に見てもなくなってはいない。地上戦には泥道を這う歩兵が必要に迫られる。時として兵を駒のように見て戦略を述べる者がいるが、 一人ひとりの顔の見える現場の状況を知る必要があろう。せめて『野火』や『戦争とたたかう』などの作品で戦場を追体験する必要があろう。また、若者には戦争の記憶の継承など無理だ、と悲観する者もいれば、嘲る者もいる。しかし、戦争体験を知らない者が多い現状に「慣れ」て合わせるのではなく、追体験を伝え続けることも実直な営みとして大事ではないか。

摂食する目的それ以外で殺生をする状況に「慣れ」が生じうる動物は、「ヒト」を除き珍しいだろう。しかし、人は、生物学的な「ヒト」として生きるのみではなく、法的には、「人格」をもち、共同体的な「人間」、そして、多様な「個人」でもある。「ヒト」を喰ってしまった「ヒト」は、生物の「個体」として生き長らえることができても、自我が崩壊してしまい、自由意思をもった「個人」として尊重される主体であることが困難な状態に追いやられている。

昨今、「…自由、生命及び幸福追求の権利が根底から覆される…」という「存立危機事態」なる物言いがある。しかし、相互に対立しうる、「自由」と、「生命」と、食欲の本能の「幸福追求」または文明的な「幸福追求」とを、包括的にひっくるめて安易に語ることは疑問である。それらが根底から覆される「事態」「事変」は、いわゆる戦争や武力行使である。しかし、“誰”の権利が覆される「事態」なのか。“誰”の危機を救おうとしているのか。「事態対処法制」で日本政府が想定しているであろう米国を介した「我が国」と「国民」(日本人集団)のみの危機なのか。それとも、一人ひとりの住民「個人」の危機なのか。さらに、「国際平和協力・支援」と称して、圧政や内戦に苦しむ「他国民」の危機までも救おうとしているのか。この点にかかわり、もう少し立ち入ってみよう。


「出発点」と「終着点」

近年公刊された本に以下の見解がある。

「水島朝穂は、武力行使の悲惨さを改めて抉り出す〔…〕。『実際の戦闘では即死は少ない。腹部を撃たれた場合、腸が出てきても、かなりの時間生きている……』、と。しかし、このような現実を指摘することで問題は終わらない。であり、人道的介入や『保護する責任』を実現するために武力行使に赴く軍事組織の構成員を、このように描写される悲惨な現実の可能性がありうるがゆえに引き止めるべきことが本当に道徳的・倫理的に必然的に要請されているのかが、今、深刻に問われているのである」(山元一「九条論を開く」水島朝穂編『立憲的ダイナミズム』〔岩波書店、2014〕85頁、強調原文)。

たしかに問題の「出発点」であるが、行き着く「終着点」でもある。「人道的介入」と言おうと、「保護する責任」と言おうと、武力行使という手段で介入すれば、救われる者の尊厳・生命・自由もあろうが、しかし、解放の歓喜の声や美しい英雄譚が輝く向こう側で、どの国の裏にも、ほぼ確実に避けられない、苦しみ蝕まれる尊厳があり、失われる生命があり、覆い隠される自由がある。

おそらく、山元説も以上のことを踏まえたうえで、救われるべき生命と、救うために失われる生命との相克に悩み、自問するのであろう。そのうえで、ある者と別の者の、尊厳と尊厳、生命と生命を天秤にかけて、はたして片方をとる解決でよいのか。片方を第一優先し、二次的に可能な範囲で両方に配慮するという解決でよいのか。あるいは、両方を救う武力なき解決が険しくても、武力行使せず、両方を見捨てずに追求し続けるのか。少なくとも、尊厳と生命は、単なる手段(道具)のみとなってはなるまい。尊厳や生命を量的に衡量することも法的に馴染み難い。実際にも「平和」「人道」「保護」と称して武力行使し、かえって「混沌」「非人道」「難民」を招く矛盾がありうるのである。

よく、アウシュヴィッツのナチスのような事態を、各国は見過ごして武力介入しないでよいのか、という疑問が投げかけられる。しかし、そうした武力介入を――憲法前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」た――他ならぬ日本が担当してよいのか。「解放」「共栄」と称して侵攻をしてしまった「実績」のある国が、再び「支援」と称して積極的に軍事的な参加をすることが良策なのか。武力行使には軍事的にも経済的にも加担せず、積極的に非軍事的な援助に徹することではいけないのか。

以上の問題の「出発点」と、この先に進むおそれのある「終着点」を見失えば、武力介入に手を貸す条件は安きに傾く。この数年、日本は「分岐点」を彷徨っている。『戦争とたたかう』や『野火』が灯してくれる「原点」の道を、目を覆って通り過ぎたくなるとしても、直視して立ち止まる必要があるのでないか。

13年前に歩いたルソン戦跡の道、現地村人の当時の体験談を想起しつつ、ここでの「現点」としては、悩み続けている雑感にとどめざるをえない。

(大東文化大学法学部准教授)
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