大学教員、憲法研究者という立場を離れれば、私もただの「じじい」である。孫には「ジイジ」と呼ばれている。足元もよく見ずに林に分けいり、躓きながらシャッターを押す。そんな1枚である。不思議なもので、子どもと孫は違うといわれる。自分が「祖父」になって初めてわかった。「孫は来てよし、帰ってよし」といわれるが、その距離感が独特の関係をもたらすようである。その孫が「オッジ」といって特別の感情をあらわすのが、彼の伯父、すなわち私の息子である。
37年前、私が大学院生の時に生まれた息子の育児は、文字通り必死だった。原稿を書きながら、左腕で息子をかかえて左手で哺乳瓶を口にあてる。静かなので、チラリと見ると、哺乳瓶が鼻に入り白目をむいていた。帰宅した妻に、しこたま怒られた。それが24年後に、笑い話で新聞コラムに書かれた(直言「大学に保育所ができた」参照)。
当時、妻が小学校教員として働いていたので、息子は0歳児の無認可託児所、1歳からは市立保育所に入れた。その送り迎え。子育ての合間に論文を書いていた。1981年2月、その市立保育所で事故が起きた。熱性痙攣を起こした0歳児をすぐに病院に連れて行くことをせず、親の迎えを待ち続けたのだ。当時、病気と怪我では対応に違いがあって、「病気になれば、親に病院に連れていかせる」という「原則」が貫かれた結果だった。保育所の対応の遅れにより、子どもの脳に障害が残った。父母の間に不安が広がった。その子の両親の家に、お母さんたちが集まり対応を練った。「保育所の安全対策を求める会」ができて、一見暇に見える大学院生の私が代表に押し上げられた。ガリ版刷りのニュースやパンフを作り、市との交渉、市内の全保育所での署名運動など、82年から83年にかけて、私の研究・実践のテーマは「保育所の法律問題」となった。
子どもを寝かしつけてから、5~6人のお母さんたちが私の家に集まって世話人会をした。管理職に内緒で、保母さんたちも複数参加してくれた。「保育所の安全対策」を求める運動は広がり、7000人分の署名を市長に直接手渡すところまできた(『読売新聞』1982年11月6日付三多摩版)。私が札幌の大学に就職した後、1984年2月に両親は市を提訴した(『朝日新聞』1984年2月5日付)。その後市との和解が成立し、リハビリに力を注いだ結果、その子はかなり回復したと聞いている。この原稿を書くため、何十年ぶりに昔の手帳を見て、いろいろな思い出が甦ってきた。ドイツ憲法の勉強ばかりやっていた大学院生が、保育行政や保育所事故の問題などについて徹底的に学ぶことになった。市長に署名を手渡すときに、足元でちょろちょろしていた3歳児の息子がいま、当時の私よりずっと上の年齢になった。そんな思いを15年前に次のように書いた。
「子どもを育てるということは、子育てを通じて、育てる人自身が人間として成長することを意味する。育児はまさに「育人」である。人は子育てを通じて、初めて「親になる」。人生のごく短い期間ではあるが、育児は大切な「学びの時期」なのだと思う」(直言「育児と育人」より)と。
孫2人の育児真っ最中の娘を見ていて、いろいろと考えるところがある。そんななか、ネット上で、「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名ブロガーの書き込みが話題になっていることを知った。2月15日。《何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?何が少子化だよクソ。〔以下略〕》。乱暴な表現だが、これが、子育て世代の本音として、またたく間にネット上で共感が広がっていった。書き込み翌日のNHK「News Web」で取り上げられるや、その週のうちに民放のメジャーのニュース番組でも紹介された。そして2月29日の衆院予算委員会で、山尾志桜里議員(民主党)がこの問題を直接取り上げ、安倍首相に迫ったのである。
近年、野党の国会での追及には隔靴掻痒の感が否めなかったが、山尾議員の質疑は見事である。質問内容の組み立て、元検察官らしく法的知識に支えられた理知的な追及、国民感覚にも訴える要素を随所に交えつつ、緩急自在の発問、毅然とした揺るぎない姿勢に、思わず聞き入ってしまった。37分という限られた時間をフルに活用する点で舌をまいたのは、待機児童問題から、税金の使い方を媒介にして「甘利問題」追及への移行が、無駄な口上なしに、流れるように行われたことである(ここから確認していただきたい)。予算委員会にふさわしい質疑だった。
山尾議員の質問に安倍晋三首相はたじたじで、「匿名である以上、実際に本当であるかどうかを、私は確かめようがない」と答弁してしまった。議員席からは「誰が〔ブログを〕書いたんだよ」「〔書いた〕本人を出せ」「うざーい」といった野次が飛んだ。質問者席のすぐ隣で、テレビ映りのいい位置をキープしている平沢勝栄議員の「誰が書いたんだよ」という野次はさすがに評判が悪く、後日、ワイドショーで弁明にやっきになっていた(「平沢勝栄 野次」で検索をお願いしたい)。なお、平沢議員は東大生時代に、安倍晋三少年の家庭教師をしていた人物として有名である。
メディアによると、このブログを書いた女性は、東京都内に暮らす30代前半の女性。夫と1歳になる男児と3人暮らし。事務職の正社員で、4月に復職の予定だったが、保育所に子どもを入れられなかったという(『朝日新聞』3月4日付夕刊)。来月復職するのを前にした不安と焦燥感が、あのような文章にさせたのだろう。平沢議員は「死ね」という表現が「いじめを助長する」というが、彼女の訴えの名宛人は、現在の日本国なのであって、人に対して「死ね」とはいっていないことに注意すべきである。「日本死ね」というのは、子育てに冷たいこの国は、このままいくと未来がないぞ、ということをいっているわけで、表現こそ荒っぽいが、その内容は、安倍政権の壮大なる勘違いの施策(私は3年前に「アベコベーション」と総称した)の一端を、皮肉まじりに的確に指摘しているではないか。 山尾議員にこのブログへの感想を求められて、安倍首相は「本当かどうかわからない」と突き放したが、これは子育て世代に冷たいという印象を与えてしまった。この首相の場合、「冷たい」のではなく、「わかっていない」だけなのだが、「首相の天敵」とされる女性議員に核心を突かれて、怒りの感情をうっかりむき出しにしてしまったことで、テレビを通じて子育て世代の反発をかってしまった。さすがに、3月10日の政府与党連絡会議では、公明党の山口那津男代表が「切実な国民の声に丁寧な対応をしていく必要がある」と注文をつけただけでなく、自民の閣僚経験者からも、「初動を誤った。首相の答弁がはねつけるような印象を与え、(待機児童問題に)火を付けた」との苦言が出されたという(『朝日新聞』3月11日付)。そもそも「少子化」なのになぜ待機児童問題が生まれるのか。この点については、ジャーナリストの猪熊弘子氏のインタビューが興味深い。まず、猪熊氏は「児童の権利条約」(「子どもの権利条約」)18条に注意を喚起する。特にその3項は、「締約国は、父母が働いている児童が利用する資格を有する児童の養護のための役務の提供及び設備からその児童が便益を受ける権利を有することを確保するためのすべての適当な措置をとる。」と定めている。「0歳の赤ちゃんであっても、子どもにきちんと居場所を与えるということは、世界的な潮流です。OECD加盟国で、0~5歳の子どもに居場所が与えられる権利がないのは日本だけ。待機児童が社会問題化してもう20年経つのに、日本では子ども自身が過ごすのに最も適切な場所にいる権利は認められていないのです。法律できちんと必置と制定されれば、国や自治体は必死にそういう施設を造らなければなりません。それがないから、こんなに待機児童があふれているのです」と指摘する。規制緩和の嵐のなかで、保育の現場の荒廃も著しい。猪熊氏は規制緩和が2001年に始まっていたとし、保育の質の悪化を憂慮する。
それにしても、安倍政権の「アベノミクス」の「新3本の矢」の「希望出生率1.8の実現」というのは一体何なのだろうか。首相官邸のホームページには「ストップ少子化・地方元気戦略」(要約版)というのが掲げられている。その「戦略の基本方針と主な施策」〔PDFファイル〕を見ると、首相がいう「希望出生率1.8」の“積算根拠 ”のようなものが示されている。{既婚者割合×夫婦の予定子ども数+未婚者割合×未婚結婚希望割合×理想子ども数}×離別等効果。これに数字をあてはめると、{(34%×2.07人)+(66%×89%×2.12人)}×0.938≒1.8。「未婚結婚希望割合」とか「離別等効果」などがなぜこの数字なのか、等々。さっぱりわからない。
最近、保育士不足の解消のために、「幼稚園や小学校の先生」を活用する動きも出てきている(厚生労働省「第3回保育士等確保対策検討会」)。同じ子ども相手ということだろうが、保育士養成課程と教員養成課程の内容は異なる。特に「3歳未満児」の専門家である保育士は、多様な環境にある子どもに対して、いかに「保育の質」を維持するかで現場は緊張感を持って臨んでいると聞く。いくら「緊急対策」とはいえ、単に人さえ増やせばよいという発想は安易すぎるのではないか。
また、保育士の数が増えない背景には、その社会的地位の低さがある。「女性の職場」としての長い歴史がそうさせるのか、その仕事量の多さと複雑さに比べ報酬があまりにも低いため、なり手が少ないという事情によるのか(介護士も同様の問題を抱える)、おそらくその両方だろう。まずは、これら業種の社会的地位の向上のために、政府はもっとてこ入れをすべきではないだろうか。安倍首相は「保育所」を「保健所」と言いまちがえた答弁のなかで、「待機児童ゼロを必ず実現させる決意だ」と言い切った(3月11日 参議院本会議。『毎日新聞』3月12日付)。期限も設けず言葉だけの決意を述べる「お約束」には既視感がある。
子育て世代に嫌われた安倍首相の答弁姿勢と内容。これは、集団的自衛権行使を可能とする安保関連法を強行した安倍政権に対して、女性の拒否感がとりわけ強いことと相まって(直言「子どもを米国の戦争で死なせない――女性週刊誌と安保法制」)、今後、ボディブローのように作用していくかもしれない。おりしも東日本大震災5周年である。安倍首相の記者会見はずれまくっていた。「今後5年間を「復興創生期間」に」というならば、ではこれまでの5年間は一体何だったのか、さらに5年も先延ばしさせるのかという声がすでに出ている。そもそも2012年12月の安倍政権発足時の記者会見で、「国土強靱化対策を進めていく」といった段階から、被災地の復興の足をひっぱる方向に進んでいき、オリンピックのほうに熱心に予算をつけていく。民主党政権の「コンクリートから人へ」を逆転させて、「コンクリートから鉄筋コンクリートへ」の転換を鮮やかに印象づけた(直言「「復興の加速化」のなかでの忘却」参照)。子どもの未来のためにも、安倍政権の「アベコベーション」にストップをかけなければならない。
山尾議員は先の質問前半の結びで、「なぜ子育て世代に税金がまわらないのか。その根本的な原因は、投票率が低くて、お金に余裕がない子育て世代よりも、〔投票率が高くて〕票とお金があるところに税金が使われる自民党政治の体質にある」と指摘したが、まさにその通りである。若い世代、子育て世代が投票所に向かい、一票を投ずれば、この国の政治は大きく変わるだろう。
《付記》3枚目の写真は、札幌の大通り西11丁目の札幌高等・地方裁判所庁舎前の公園で遊ぶ保育園児たち。近くを通りかかり、思わずシャッターを切った(2007年9月2日撮影)。