「ドイツからの直言」の第1回をお送りする。更新が遅れたのは、インターネット環境を整えるのに思わぬ時間を要しているからである(後述)。
3月28日にフランクフルト空港に着いた。実は今回は、「ブリュッセル」と「ケルン」の2つに「縁」があった。昨年10月にドイツ行きの飛行機を予約したとき、17年前と同様、ケルン・ボン空港着のルフトハンザ便を考えた。ブリュッセル空港経由である。だが、3月22日に爆弾テロ事件が起きて同空港が閉鎖となったため、フランクフルト直行便に変更し、地上から行くことにした。日本の新幹線にあたるインターシティエクスプレス(ICE)はボンには停車しないため、ケルンまで行って普通列車(RE)で引き返すというプランをドイツ鉄道(DB)のホームページで予約した。だが、出発が近づくにつれて、空港のセキュリティが厳重になったという情報が入り、予約した列車に乗れるかどうか不安になったため、出発前日にネット上でキャンセルした。
空港での手続は意外にあっさりとしていて拍子抜けだったが、到着後、空港駅でチケットを買った際、ケルンを経由するプランは考えずに、時間は多くかかるが特急(EC)と普通列車(RE)を乗り継いでいくことにした。この選択には、大晦日にアラブ系・北アフリカ系住民によるドイツ女性集団性暴行事件の現場となったケルン中央駅は避けたいという妻の気分を反映していた。コブレンツからのライン川沿いの懐かしい風景が目の前に展開して、普通列車の選択も悪くはなかった、と思ったのが甘かった。
ようやくボンのバート・ゴーデスベルク(Bad-Godesberg)駅に着いたが、ホームに降り立って愕然となった。エスカレーターもエレベーターもない。駅舎は改修中でなかには入れない。ホームには、天に向かうような長いアルミの仮設階段がそびえ立っている。ベルリンに首都移転して17年。これがかつて政府機関の集中した街の駅なのかと驚いた。引っ越し荷物が届くまでの当面の生活必需品満載のスーツケースを両手で持ち、54段(計108段)の階段を昇り降りした(写真)。妻が大きなスーツケースを持って階段を登っていると、途中で青年が助けてくれた。昨年3月のサンフランシスコ空港での体験以来、外国で人の助けを受けると心にしみるものである。タクシーをとめて、ネットで予約したホテルに向かった。かつてのようにボンからタクシーを使えばよかったと後悔した。「ブリュッセル」と「ケルン」がなければ、前回同様、ごく普通の旅になっていただろう。なお、後日入手した市民向け情報誌には、私が撮ったのと同じアングルの写真をつけて、「駅の改修は2016年末に完了〔2014年からの先延ばしを皮肉る見出し〕」「障害者は他人の助けなしにホームを渡れない」と批判する記事が載っていた(Blickpunkt 2015/16, S.12)。99年のベルリンへの首都移転後、ボンとその周辺は「ドイツの普通の田舎町」になったということだろう。首都決定(1991年)の際、中央省庁がすべてベルリンに集中せず、ボンにも残るという「ボン・ベルリン首都移転法」の理念は幻となったようである。
とはいえ、「元首都」も「住めば都」である。翌29日、かつて1年住んだ住宅から5分くらいのところに借りた部屋(3-Zimmerwohnung mit 2 Balkonen)に入居した。この3月まで24年間、早大ヨーロッパセンター職員を務めたA-M. Springmannさんの紹介によるものである。周囲は緑豊かな高級住宅地で、官僚の年金生活者の家が多い。ライン川まで直線で450メートルほど。庭のすぐ前に小川(Godesberger Bach)が流れていて、そのせせらぎと鳥のさえずりがマッチして、精神的に落ち着く。散歩の途中でリスにも出会った。ここのリスは、頭は角刈り、尻尾がデッキブラシのような種類である。
着いた日から曇りの日が多く、雨も時々降ったが、気温は比較的高い。かつて滞在した時に最初に迎えてくれたマグノリアの大木を真っ先に見たいと妻がいうので行ってみると、7、8メートルもの見事な枝を広げて待っていてくれた。まわりを見回すと、マグノリアの大木はけっこうある。驚くのは、レンギョウも2階の窓にまで届くほどの大きさのものもある。歴史が古いからか、日本のようにあまり剪定をしないからか、はたまた肥料がいいからだろうか。それらの木々をさらに覆うように落葉樹が枝を広げ、芽吹きはじめている。白樺の芽吹きはこれからである。日本と植生が少し違うのかもしれないと妻はいった。
緑地帯には、芝生のなかにイチゲやディジー、スミレや踊り子草がかわいく咲き、庭先には、クロッカス、水仙、ムスカリなどの球根花。チューリップはいま開こうとしている。庭の低木のなかには、ミツバツツジやエニシダ、黄色ヤマブキ、ボケ、マンサクなどが花をつけ、シャクナゲの蕾もふくらみはじめている。Rheinalleeを歩いてライン川沿いに出ると、濃いピンク色の早咲きの桜が満開である。
かつて滞在した時、毎日のように新聞を買っていた雑貨屋に行くと、ご主人は私のことを覚えていて再会を喜びあった。帰国を前に店内で並んで記念撮影した写真を持参したが、ご主人の第一声は「お互いに年をとりましたね」だった。当時は一流紙(FAZ、FR、Welt、SZ)から地元紙(GA)、政治的に左(die taz、Der Freitag、ND)から極右(Nationalzeitung)まで毎日買っていたが、今回は妻の無言の圧力を感じて、1日3~4紙に節約することにした。やはりインターネットで読むのとは大違いで、解説記事や評論も紙媒体で読むとしっかり頭に入るし、特集や周辺記事、見出し・小見出しの連携で読みごたえがある。それにしても、FR(Frankfurter Rundschau)紙がタブロイド版になっていたのには驚いた。クォリティペーパーだったのに、活字の量も減り、やや薄味になったのは残念だった。
スーパーマーケットは経営主体が変わって別名称になったものもあるが、あまり変化はない。だが、品揃えは大きく変わった。とにかく種類が多いのだ。地元の方の話では、EU各国から安い食料品が入ってきて、品揃えがきわめて多彩になった。むしろドイツ産は高いという。17年前には近所に中国・韓国(わずかながら日本も)の食材を売る店があったが、それはなくなっていた。「Samurai」という米を買っていたが、いまはスーパーでそれに近い「Milchreis」というのを見つけて、白米のご飯として食べている。「まったく粘りのないサラサラ米」というところか。値段は500グラムで49セント(約65円)と安い。
この17年で何が変わり、何が変わらないのか。生活を始めてまだ6日という時点で書きたいことはたくさんあるが、2つにしぼっておこう。1つは「Handy」(携帯電話の通称)のことである。ドイツでも携帯電話の普及はすさまじく、単に「携帯電話」の範疇を超えて、日本の「お財布携帯」のバリエーションも発達し、電車の切符も買わずに「Handy」の機能を使う人が増えている。かくいう私は、この2月まで「ガラケー」を使ってきたが、ドイツで「ライン」をやれば写真を送れるし、無料通話もできるという娘たちの提案を受けて、この1月からスマホに切り換えていた。携帯すらもたないといっていたのに、ゼミ合宿における「学生指導」(指で導く)を理由に携帯を導入し、「ついに先生もスマホ?」、とあきれるゼミOBもいるかもしれない。「携帯電話不保持宣言」をした人間が、「だからスマホもやらない。たぶんやらないと思う。やらないんじゃないかな。ま、ちょっと先のことはわからないが(さだまさし「関白宣言」の乗りで)」という「留保」を外したわけである。「スマートなアホ化」(略して「スマホ化」)と批判してきた私としては忸怩たるものがあるが、携帯もスマホもすべて妻名義で、私は「所有」ではなく、「所持」させられているという(屁)理屈だけはまだ撤回していない。
渡独前にdocomoの海外プランを検討したが、半年生活する人間にぴったりのものはなかった。そこで、ドイツのO2というプロバイダーと契約を結んで、ネットも携帯も現地のものを利用することにした。入居当日の3月29日12~16時に技術者が訪問するアポを日本にいるうちにネットでとって、開通する予定だった。だが、ちょっとした手違いで工事ができなかった。技術者はコールセンターに電話してアポを取り直せという。そこで近所の公園の公衆電話を使おうと思ったが、すでに撤去されていた。17年前はあちこちにあった公衆電話ボックスがない。スーパーマーケットにもない。駅前の郵便局までいって、やっと1台見つけた。かつてそこには10台以上あって、列に並んでかけたものだった。そうした風景は過去のものになっていた。見回すと、みんな「Handy」で話しながら歩いている。真っ黒のブルカ女性が歩道の真ん中でじっと動かないのでどうしたのかと思ったら、黒い「Handy」で電話をしていた。ブルカの隙間からわずかに見える両目が笑っていたので、彼氏との電話なのかもしれない。「公衆電話がない社会」は日本も同じで、2年間も行方不明だった女子中学生が東中野駅の公衆電話から家族と警察に電話して身柄を保護されたという事件により、公衆電話が再び注目されているという。公衆電話を探しまわり、そのことを私も実感することになった。
結局、プロバイダーとのアポはSpringmannさんの「Handy」をお借りして、生年月日やら銀行口座番号やらを言わされて完成し、1週間先の4月7日に工事と決まった。それまでは、最初に泊まったホテルまで歩いていって、そこのレストランの机を借りてメールをしている。28日の宿泊時に「ホテルネット」というプロバイダーのパスワードを教えてくれたので、それをパソコンが記憶していてネットにつながるのだ(ただし速度が遅い)。というわけで、ネット環境が整わない状況のなか、この「直言」原稿もそのホテルまでいって日本のHP管理人に送信したものである。これが更新の遅れた理由である。
ドイツも、何から何までインターネット、しかも「Handy」、スマホによって動く社会になった。テレビのニュース(4月1日夜)でも、スマホを使用しながら運転して事故を起こすケースが多発していることを伝えていた。運転中のスマホ使用に罰金を科すことも検討中というが、いずこでも同じ問題を抱えているようだ。4月7日に新居でネットが完全開通してから、いろいろと調べて、この「直言」でも再度書くことにしよう。
さて、今回書いておきたい2つ目は、ドイツ社会と外国人(難民)の問題である。これは現在焦眉の課題で、いずれ詳しく書くことになるが、まずこの地図をご覧いただきたい(Süddeutsche Zeitung vom vom 1.4.2016, S.6より)。タイトルは「カラフルな共和国」(Bunte Republik)である(連邦共和国 (Bundesrepublik))と響きを似せている)。この国には「かつてないほど多くの外国人が住んでいる。…難民の流入が地図を新たに塗り替えた」として、連邦統計局が2015年12月31日現在でまとめた数字を紹介して、これが「ドイツの普通の姿」になりつつあるという記事である。興味深いところは、州レヴェルでなく、郡と市まで細かくカウントして、最も多い外国人を色分けしたことである。
まず青色はトルコ系。これは旧西ドイツ時代からの事情(低賃金労働者(Gastarbeiter)として政策的に招いて定着した)からいって当然だろう。オランダ国境に近い地域にはオランダ系(オレンジ色)が、南西の方はイタリア系(黄色)、南東がオーストリア系(灰色)とチェコ系(紺色)、北部の薄い灰色は「その他」でこれはデンマーク系である。つまり周辺の国境を接した地域の郡部・市にはその国々の住民が最も多い。これは理解できる。問題は、薄い黄色のポーランド系とえんじ色のルーマニア系である。これはドイツ統一後、東欧からの「経済難民」流入で住みついたものと思われる。旧東ドイツ地域だけでなく、旧西ドイツ地域にもポーランド系がかなり定着していることがわかる。面白いのは、南西部のラインラント=プファルツ州のカイザースラウテルン周辺だけが黒色のアメリカ系、旧東のポツダムとドレスデンだけが紫色のロシア系になっていることである。前者は米軍基地関係者、後者は旧東時代にソ連軍の司令部や軍拠点があったので、ロシア系住民が一番多いと記事にはある。
この地図で最も注目されるのは緑色のシリア系住民である。これが2015年に一気に増えたシリア難民である。旧西ドイツ地域ではバイエルン州のニュールンベルク西方とパッサウ西方の郡部の2箇所だけで、あとはすべて旧東ドイツ地域に集中している。ベルリンは「壁」があった時代からトルコ人が多い(特にクロイツベルク区)ので青色は当然だが、それ以外は東欧(ポーランドとルーマニア)系の住民とシリア難民が、外国系住民のトップということになる。この記事によれば、昔からいるトルコ人の平均年齢は43歳で、トルコ系住民の3分の1はドイツで生まれている。他方、シリア難民の平均年齢は26歳で、3分の1は青年と子どもである。メルケル首相の難民受入れ戦略のポイントが、シリア難民の「若さ」にあることはよく知られている。高齢化社会ドイツの新たな活力を狙ったものである。だが、ケルンの大晦日(Silvesternacht)の事件を契機にして、「ケルン前」(vor Köln)と「ケルン後」(nach Köln)という言葉が生まれている(General Anzeiger vom 2./3.4.2016, S.5)。テレビ・ニュース(n-TV)によると、今週から「ケルン事件」のアルジェリア人被告人の裁判がはじまる。メルケル政権の難民政策への反発は、さまざまな形であらわれている。
3月13日の旧東のザクセン=アンハルト州議会選挙で、前回0%だった「ドイツのための選択」(AfD)という難民排斥を主張する右派政党が一気に24%を超える得票をして第2党に大躍進した背景も、この地図の緑色の多さから見えてくる。今週、この州では保守のキリスト教民主同盟(CDU)と社民党(SPD)と緑の党の「黒赤緑」というとんでもない組み合わせの連立政権が誕生する。CDUは黒、SPDは赤だから、緑の党を加えて「アフガン連立」といわれ、敵(AfD)は「タリバン」かと皮肉られている(die taz vom 4.4.2016, S.6)。この地図の色分けは、政治の色分けも変えつつある。
半年という短期とはいえ、生活するための必需品を買い揃えるのは一仕事である。17年前はまず車を買って、ネット環境を整え、娘の学校を決めることに力を注いだ。ここで生活を始めてすぐに私の誕生日がきた。当時は46歳のバースデーを妻と娘に祝ってもらった。昨日は63歳の誕生日をここで静かに迎えた。車もなく、ネットも7日までつなげないので、とにかく歩いて買い出しに行く。バート・ゴーデスベルクの中心街(モルトケ通りから南西側)は別世界である。かつて妻が一人で市場に買い物に出かけて、新鮮な野菜などを買って来たが、今回はパトカーの巡回が頻繁になり、かつ、私服警官になりすました男がパスポートと財布の提示を求め、知らぬ間に現金を抜き取られているという事件もあったというので、妻は慎重になっている。
かつて政府機関や外交官の家族が買い物をしていた街の中心部は、アラブ系の住民や全身をブルカで覆った女性の姿がけっこう目立つ。なぜここにアラブ系住民が多くなったかというと、1999年まで首都だったボンとバート・ゴーデスベルクに世界各国の大使館が存在したことと関係がある。サウジアラビア大使館があったところにはサウジアラビアの学校がいまもあって、そこで育った人たちが会社を設立して、アラブ各国の若い人たちを雇っているという。そのなかに「イスラム国」(IS)の影響を受けた者がいるという話を聞いた。
前回の在外研究時はボン大学公法研究所のJ. Isensee教授に受入れてもらったが、今回は東アジア研究のReinhard Zöllner教授にお願いした。まだ研究室にうかがっていないが、来週には訪れたい。これから半年間、ドイツとヨーロッパの状況を観察しながら、「ドイツからの直言」を出していきたいと思う。