曇り時々晴れ、一時にわか雨で、朝晩は気温7度前後、昼間は16度前後の少し肌寒い日々が続くが、満開の桜に続き、ジュンベリーやライラックの花も咲き始めた。花の咲き方を見る限り、「春が来た」(Der Flühling kommt)だが、土曜日の地元紙の見出しは「春よ来たのか、来てないのか」(Kommt er oder kommt er nicht, der Frühling?)という実に微妙な季節感ではある(Geneal-Anzeiger〔GA〕vom 9/10.4.2016, S.25)。
ドイツテレコムとのアポもとれて、7日にようやくインターネットが利用可能となった。8日に半日かけてドイツ語のマニュアルと格闘して、プロバイダーから届いたルーターを、「LINE」もできるように設定した(5日遅れで、孫の「じいじ誕生日おめでとう」voiceも聞けた〔笑〕)。もともとネット用語が苦手なところに、プロバイダーのサポートを電話で受けるためのその電話(ネットとセットのプラン)がまだ使えない。さすがにドコモの携帯で国際電話してサポートを受ける勇気はなかった。その孤独感と焦燥感がマニュアルを読み解くパワーを与えてくれたようである〔汗〕。
ネット開通と同時にアマゾンで書斎の椅子を注文したり、近所のプロテスタント教会のリコーダーアンサンブルに飛び入り参加した妻のためにブロックフレーテ(日本でいうリコーダー)を注文したりして、すっかり「通販生活」である。連邦鉄道(DB)の「BahnCard 25」(+60歳老人割引付き)もネット注文したので、安く列車に乗ったり、レンタカーが借りられるようになった。17年前にこの近くで生活したときに比べて、ドイツのネット社会化は一段と進んだように思う(前回の「Handy社会」参照)。ただ、「ネット弱者」に不利にならないようにする配慮は必ずしも十分とは思えない。ネットに弱い、外国人の高齢者という三拍子そろった私がそれを体感しているわけである。
さて、ここは、バート・ゴーデスベルクのなかの、帝政ドイツ時代からの別荘地区(Villenviertel)なので、ご近所の建物のなかには文化財保護マークがついたものも少なくない(Wikipediaのリスト)。1944年の空襲で7割が廃墟となったボン市街から少し離れていたのが幸いして戦災を免れた。ドアの上に「1904年」という数字を掲げた家もある。特に立派な屋敷は1999年まで、半世紀にわたり、政府機関、大使館の建物として使われてきた。
国連開発計画(UNDP)と国連ボランティア(UNV)が入っていた城のような屋敷にも行ってみた。かつては自由に出入りできたのが、いまは警備が厳重で、監視カメラが幾重にも設置されていて驚いた。すぐ隣に、17年前に娘が通ったボン・インターナショナルスクールがある。かつては隣接する公園と区別がつかないくらい境目はアバウトで、娘の授業風景を見るために出入りすることもできた校庭は、頑丈なフェンスで完全に囲まれ、10メートルおきくらいに監視カメラが設置されている。この写真を撮っているだけで、私は十分に不審者に見られていただろう。
冒頭の写真は、バート・ゴーデスベルク駅前にあった左派党(Die Linke)のポスターである。「自由は安全によって死す」(Freiheit stirbt mit Sicherheit)とある。テロ対策や警察国家化が自由を脅かしている現状を批判したものだが、そもそもこの党には旧東の社会主義統一党(SED)の生き残りで、シュタージ(旧東ドイツ国家保安省)の協力者だった者も含まれており、うさん臭さは拭えない。「ベルリンの壁」崩壊後の新しい世代の幹部たちは違ったメンタリティをもっているようで、この党もいろいろと複雑な問題を抱えていて一枚岩ではないようである。副党首のSahra Wagenknechtは、難民受入れに制限を設けることに積極的で、右派ポピュリズムの「ドイツのための選択肢」(AfD)を側面から援助するものだと、左派系週刊紙からも批判されているほどである(Der Freitag, Nr.13 vom 31.3, S.5)。
それはともかく、かつてここに住んだときと違うのが「安全」についての感覚である。引っ越した翌々日、直線で1キロほどのところにある郵便銀行(Postbank)の現金自動預け払い機(日本のATM)が何者か爆破され、金が盗まれた。混合ガスを使った爆破という派手な手口には驚いた(GA. vom 1.4, S.17)。
同じく地元紙によれば、ここボンを含むノルトライン=ヴェストファーレン州警察は、イスラム国(IS)がケルン・ボン空港へのテロの予告を行ったことについて、人々がパニックに陥ることを警戒している。ただ、その後、ケルン・ボン空港への具体的な計画があるとの情報はない。州内務省の憲法擁護局(日本でいう公安調査庁の公安調査局)によれば、この州のイスラム原理主義者は2700人に増え、うち600人が暴力的傾向をもち、そのうちの150人が特に危険として、その一部は収監されるか、すでに危険領域(シリアなど)に逃亡しているという(GA. vom 1.4, S.1)。私の住むバート・ゴーデスベルクから少し離れたメーレムには、アラブ系の学校や、大きなモスクがある。聞いた話では、そこにいるイスラム教徒よりもむしろ、そこに集まるドイツ人の若者たちの方が「過激化」しているという(「イスラム国」の予備軍?)。
17年前、メーレムには大型の量販店があったのでよく車で買い物にいったが、街の雰囲気はかつてとは大きく変わっている。地元の人たちが共通していうのは、ボンとその周辺に「テロリストが集まってきている」ということだ。実際どうなのか、私にはまだ判断がつかない。ただ、昨年のボン駅での爆弾騒ぎに続き、イスラム国(IS)によるケルン・ボン空港攻撃予告もあって、住民のなかに緊張感が漂っていることは確かだろう。
フランスでは、昨年11月13日のパリのテロ事件から96日間で、3379件の令状なし家宅捜索が実施されたという(1日平均35件)。まさに「高度安全索」(Hochsicherheitstrakt)である(Die Frietag, Nr.13 vom 31.3, S.3)。オランド大統領は3月30日、「テロとの戦争を憲法改正なしに遂行する」という姿勢を明らかにした。テロ事件以来、緊急状態法を2回延長しており、これの権限を憲法に導入しようという試みは当面、頓挫したとみられている(Frankfurter Allgemeine vom 31.3, S.1)。既存の緊急事態条項(フランス第5共和制憲法16条)に加えて、新たな緊急事態条項を導入するといっても、やはり憲法改正のハードルは高かったわけである。
「自由と安全」というテーマは、常に難問(アポリア)であり続けている。その点で、先日読んだ「絶対的安全は存在しない」というWolfgang Bonßのインタビュー記事は興味深かった(die taz vom 30.3, S.3)。ミュンヘン連邦軍大学でリスクと不安定性について研究しているというこの社会学者は、パリからイスタンブール、ブリュッセルへと、テロ事件の間隔が次第に縮まっていることに注意を喚起しつつ、「不安全の新しい文化」について語る。「テロリストは、例外事態が通常事態となることを望んでいる」。「我々はどんなに努力をしても、不安全性(Unsicherheit)を安全性(Sicherheit)に完全に転換することはできない。我々は、絶対的安全(absolute Sicherheit)は存在しないということから出発するときにのみ、安全でなくするもの(Verunsicherungen)とより上手につきあえるのである。…」
このテーマは引き続き追いかけていく予定である、とここまで書いてきたところで、テレビ(ZDF)が、本日(8日)、ブリュッセル警察が空港テロ事件で逃走中の容疑者が逮捕されたというニュースを流している。続いて、連邦政府難民担当官が記者会見し、ドイツへの難民申請者の3分の1以上が申請を拒否されていること、そのため国外追放者の数が増加しているというニュースが流れてきた。実は、ボンでも難民問題との関係で、私自身の住民登録がまだできていないという現実的な影響が出ているが、これはまた後日書くことにしよう。