小川(Godesbergerbach)の氾濫の被害は想像以上だった。バッハ(Bach)のイメージは日本の文部省唱歌「♪春の小川はさらさらいくよ…」のイメージで、拙宅前のこの小川も、一段と緑が濃くなった木々の間を、諸鳥のさえずりと調和しながら流れる「せせらぎ(細流)」であった。それが6月4日に豹変した。すぐ間近で濁流が轟音をあげ、水位を徐々にあげてくる(写真)。「現在進行形」で執筆したのが先週の「直言」である。その冒頭と末尾の注をご覧いただきたい。週明けの地元紙を見ると被害の状況が詳しく出ていた(General-Anzeiger vom 6.6.2016, S.1, 19-20, 26. 下までスクロールすると写真が見られる)。街の中心部が水没と記事にあったので早速見てまわったが、デパートは閉鎖されていた。入口に流木が食い込み、地下駐車場は水没して使い物にならない。拙宅もあと数十センチ水位があがっていたら浸水していたわけで、本当に危ういところだった。小川の上流地域に局地的豪雨(日本でいう「ゲリラ豪雨」に近い)が降り、一気に氾濫したものと思われる。ライン川は水位がかなり上がったが、氾濫の手前で止まった。Hochwasser(水害・河川氾濫)という言葉は、Unwetter(悪天候)と並んで、人々の日常挨拶の頻出語になった。ヨーロッパ各地が突然の豪雷雨にみまわれており、身近にその被害が及んできたわけである。
この災害で、内務省の連邦技術支援隊(THW)も出動した。水害対処が主だが、核戦争時の住民保護の活動も行う。冷戦後、「国際貢献」がドイツに求められたとき、連邦軍派遣に反対する世論に配慮し、非軍事のTHWがソマリアやルアンダなどに派遣されたことがある(「民間防衛」の脱軍事化傾向の項参照)。拙宅の近くはもっぱら消防が対応し、 ブルーの車両のTHWは、被害が甚大なメーレム(ボン市の南部地区)などに展開した(写真)。まさか在外研究先で災害を体験するとは思わなかった。消防やTHWの活動、住民同士の相互援助(汚れた家財道具などの撤去)も取材できた。さらに、ボン市のホームページで、この小川に関する条例(案)も見つけた。時間がないので内容は紹介できないが、この地域がいかに水害(河川氾濫)と関係が深いかがよくわかった。
「災害」といえば、先々週はデュッセルドルフで「イスラム国」(IS)の自爆テロが計画されていたとして、逮捕者も出た。デュッセルドルフの日本総領事館からは次のような内容の注意喚起のメールが届いた(PDFファイル)。人の集まるところに近づくなといっても、まもなくUEFA EURO 2016(サッカー欧州選手権)が始まる。私はまったく関心がないが、あちこちで騒ぎが始まるといわれており、テロだけでなく、フーリガンの心配もある。
さて、先週4日間、ベルリンに滞在した。たくさん書きたいことがあるが、機会をみて「直言」でも取り上げていく。初日、フィルハーモニーに行く前に、ベルリン在住の知人との待ち合わせ場所を、冒頭の写真にある「ヒロシマ通り」(Hiroshimastraße)にした。本当に久しぶりである。車の走行が激しくなり、周囲の風景は大き く変わっていた。道路標識柱には自転車がくくりつけられていた(写真)。この通りとの縁は、1991年のベルリン在外研究中に、広島の『中国新聞』に紹介したことに始まる。その関係から1994年に中国新聞社から『ベルリン ヒロシマ通り―平和憲法を考える旅』を出版した。この通りは、友人のH・シュミット氏が市民運動を組織して区議会を動かし、軍人の名前の通りからの改名に成功したものである。その経緯を、シュミット氏から提供された区役所の議事録などを使って紹介した。『朝日新聞』も2000年8月23日付でこれを紹介した。
なぜベルリンに「ヒロシマ通り」なのか、誰が、どういう経緯でこの名前にしたのかについて、ようやく一般にも知られるようになり、観光客が訪れる場所にもなった。「ヒロシマ通り」の実質的改名者であるシュミット氏の名前は、ドイツ大使の講演のなかでも触れられている(神余駐独日本国大使講演「核のない世界を実現するための日本とドイツの協力―ベルリン・ヒロシマ通り6番地で考えたこと」2009年10月30日、ボン独日協会主催講演会)。私は拙著『憲法「私」論――みんなで考える前にひとりひとりで考えよう』(小学館)の第1章において、「ヒロシマ通り」をめぐるシュミット氏との出会いと別れ(死別)について書いた。この本はまもなく絶版になって入手できなくなるので、この機会にお読みいただければ幸いである。
その「ヒロシマ」を5月27日、オバマ大統領が訪問した。ドイツの各紙も写真入りで大きく報じた。『フランクフルター・アルゲマイネ』紙は「オバマは道徳的革命を要求」という見出しの記事を、被爆者の肩を抱く大統領の写真とともに一面トップにもってきた(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 28.05, S.1)。ドイツのテレビでは見ることはできなかったが、新聞記事で見る限り感動的なシーンである。オバマ演説も『朝日新聞』のサイトで読んだ(以下、演説の訳は同紙による)。
地元紙は2面の評論で、2009年のプラハ演説と比べて「より曖昧で、より防衛的」になっているとし、「核兵器のない世界」に向けた「Yes, we can.」は削られたとやや厳しい(General-Anzeiger vom 28/29.5, S.2)。切れ者の日本特派員を置くことで知られる『南ドイツ新聞』の関連記事の見出しは、「空から降ってきた死」(Der Tod, der vom Himmel fiel)。サブ見出しは「バラック・オバマの広島訪問は歴史教科書のための一契機。ホワイトハウスは原爆投下に謝罪しない」である。東京特派員のCh. ナイトハルト記者のこの記事は、「すでにオバマの広島訪問前にホワイトハウスは、原爆投下を謝罪することはないことを明確にしていた。オバマはその演説のなかで、「あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします」と述べた」として、オバマ演説の曖昧さを突く。兄弟を広島で失った亀井静香元郵政相の言葉、すなわち「オバマ大統領は謝罪をしないのなら広島においでいただくのはおやめになったほういい」を引用する。そして、「広島が71年間待ち続けた〔米大統領の〕訪問は、75分で終わった」と結ぶ(Süddeutsche Zeitung vom 28/29.5, S.9)。
ナイトハルト記者の鋭い筆致は、訪問の1週間前の5月20日付評論(タイトルは「米国の謝罪への不安」)にも活かされていた(Süddeutsche Zeitung vom 20.5, S.2)。「何十年もの間、東京〔日本政府〕は、第二次世界大戦での被害者として自らを表現するためにヒロシマとナガサキへのアメリカの原爆投下を利用してきた。ワシントン〔米国政府〕が遺憾の意を表するようであれば、日本も自らの多くの戦争犯罪を認めざるをえなくなる」というリードで、「東京とワシントンは、彼らの軍事同盟をその上に築いてしまっている」と書く。また記事は、「安らかに眠ってください、過ちを繰りしませぬから」の碑文に主語がないことにもこだわりつつ、「もしオバマが広島で悔悟を示せば、それにより彼は安倍に対して、かつて日本によって酷く虐待されたアジアの諸国民に謝罪することを強いることになる」と指摘している。オバマ大統領が「謝罪」に踏み込むことを最も恐れたのは安倍首相その人だったというわけである。記事がいうように、ここに広島訪問の一つの「矛盾」があった。
確かにオバマ大統領の演説のどこにも「謝罪」それ自体はない。ただ、「10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです」という表現は、原爆の犠牲者を、日本人の男女と子どもたち、朝鮮人、米国人捕虜という形に分け、同じ人間、一人ひとりの生活をもった個人として見ようとしているといえなくもない。また、「私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。」という下りも注目である。原爆を使用した唯一の国が米国であることは自明であり、それを言外に、かつ当然の前提として語るならば、原爆が多くの「罪なき人々」を殺したのだという自覚なしにこうした表現は使えないだろう。「科学によって…殺戮の道具に転用することができる。広島がこの真実を教えてくれる」という下りも、広島への原爆投下が「殺戮」だったこと確認している。さらに、「朝起きて最初に見る私たちの子どもたちの笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。私たちはそうしたことを思い浮かべ、71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです。」という表現もよく計算されている。確かに甘い、文学的表現だが、正面から責任や謝罪に踏み込まない形をとりつつ、「気持ち」の傾きを示そうとしている。
続く安倍首相の演説は、「原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう『争う心』と決別する、そのような歴史的な訪問にしなければならないと決意している」と述べ、すべてを「日米同盟」強化に還元するような勢いをもっていた。「原爆や戦争を恨まず」といってしまう感覚はすごい。ユネスコ憲章前文(「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」)の趣旨とは全く異なり、原爆や戦争に親近感をもち始めた人間の言葉といわれても仕方ないだろう。この安倍演説とオバマ大統領の演説との間には微妙な距離感があった。
招待した被爆者の人選への配慮は、『朝日新聞』5月31日付の武田肇記者の署名記事に出ている。招待された被爆者の多くが米国史と関わっていたのは偶然ではないだろう。米国との関わりの深い人々をも傷つけたという形をとって、米国内からの反発を緩和しようとしたのだろうか。いろいろな思惑が交錯して、決して手放しでは喜べない。2009年にノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領は実際、「核兵器のない世界」のためにどれだけ努力をしたのか(削減した核兵器は700発にすぎない)。無人機を使った攻撃でアフガンやイラクの「朝起きて最初に見る私たちの子どもたちの笑顔」を無残に奪っているのは誰か。しかし、こういった点をすべて認めた上で、それにもかかわらず、原爆を投下した国のトップが71年目にして広島にきて、原爆慰霊碑の前で頭を垂れたという事実は重い。オバマ大統領が「核攻撃の承認に使う機密装置を持った軍人も同行させていたことで、広島で「核なき世界」を訴えた米大統領が、広島に初めて「核のボタン」を持ち込むことになった」(『朝日』5月31日付武田記者)ことは事実であるが、合衆国大統領というのはそういう存在であり、それが広島にきたということをリアルにみるべきだろう。
オバマ演説の副産物として、死者の数の公的な修正も今回の一つのポイントといえる。米国は戦後、広島の原爆投下の死者を公式に7万1379人(米国戦略爆撃調査団)としてきたため、米国のニュースや学術論文にも7万人という低い数字が一人歩きしてきたという。今回の演説では「10万人を超える死者」という表現が使われ、実数の14万に近づける方向で実質的な修正が行われたとみることもできる(井上泰浩「オバマ演説をひもとく」参照)。
私は、国と国との関係のなかで、「TPP」が大事だと考えている。まずTime(いつ)。「1945年8月6日」に、広島というPlaceに、原爆を投下した国のトップ(Person)が訪問する。この3つが揃えばインパクトがある。Placeは長崎も同様である。今回のTは「G7のついでに」だが、世界に一人しかいない米合衆国大統領が、わずか75分とはいえ、広島に滞在し、被爆者と会い、原爆慰霊碑と平和記念資料館を訪れたことは過小に評価してはならないだろう。米国に対して、核軍縮の「言行一致」を迫っていくのは途方もない努力が必要であるし、トランプ政権でもできたならとんでもない事態になる。しかし、今後は、米合衆国大統領がともかくも広島に足を踏み入れたという事実から出発することができる。これは重要な第一歩である。
ちなみに、「戦後60年」を前にした2004年、当時のシュレーダー政権は、見事な「記念日外交」を展開した、これはTPPの特にTimeとPlaceを重視したものだった。その点で、当日になるまで気づかず、翌日の新聞で気づいたのが「ヴェルダンの戦い」100周年の独仏首脳の姿である。
5月30日の『南ドイツ新聞』1面。相合い傘で男女が墓の前にたたずむ写真がトップに掲げられている。メルケル首相とフランスのオランド大統領である。ベルギー国境に近いフランスのヴェルダンで、100年前、ドイツとフランスとの間で凄惨な殺し合いが行われた。戦争というよりも、「巨大な肉挽器」という表現がされるほどだ(ヴェルダンの戦場のいまの様子について、このウェブサイトを参照)。
ヴェルダンの戦いは、第一次世界大戦の西部戦線の主要な戦いである。1916年2月21日に始まり、両軍合わせて30万人以上が死亡し、少なくとも40万人が負傷した。なぜ、この戦いが注目されるのか。それは、一つの正面の戦闘として、死者の規模が半端でないことが大きい。典型的な出血消耗戦というもので、両軍ともに大量の兵士を十分な作戦計画もたてずに泥縄式に投入して、ひたすら損害を増やしていった。
第一次世界大戦の特徴は、泥沼の塹壕戦である。NHKの「映像の世紀」第1回でも出てくるが、機関銃の弾幕のなかを無意味に突撃させてバタバタ倒れていく戦闘を毎日毎日続けていくのである。ドイツとフランスが何のためにヴェルダンで戦うのか。その意味は、実は総司令官のヴィルヘルム皇太子もよくわかっていなかったというのが通説である。この戦いは、上から下まで無意味の常態化だった。ヴェルダンにある納骨堂=「骨の家」(Beinhaus)には、ドイツとフランスの若者13万人分の身元不明(識別不能)の骨が詰め込まれているという。どんな戦争も残虐だが、この戦いは「巨大な肉挽器」と呼ばれるほどにひどかった。13万の人間が識別できずに骨としてまとめて保存されている。墓ではなく、「骨の家」に。
「ヴェルダンの戦場は現代的、産業的、大量殺戮的戦争の総和である。と同時に、ヴェルダンは第二次世界大戦後に新しいヨーロッパが打ち立てられる上での礎石にもなった」(Süddeutsche Zeitung vom 28/29.05, S.4)。「ノー・モア・ヴェルダン」というのは、独仏の戦争は二度とないということを意味している。ヨーロッパのなかで戦争はもはやない。しかし、いま、どこでもナショナリズムが突出してきている。その時、ヴェルダンの戦いはその歯止めになるか。
5月29日、独仏の首脳がヴェルダンで、兵士たちの墓の前に頭を垂れた。メルケル首相は挨拶のなかで、「ヴェルダンは私たちの頭を離れることはない。ヴェルダンが私たちの頭を離れることはできないし、あってはならない」と述べた。オランド仏大統領は、新しいナショナリズムとポピュリズムに警告しながら、「我々の祖国を愛そう。しかし、我々の共同の家、ヨーロッパを守ろう」と語った(Süddeutsche Zeitung vom 30.5, S.1, 5)。
続いて、ドイツの映画監督フォルカー・シュレンドルフが演出した催しが展開された。ドイツとフランスの若者4000人が、5000人の兵士の墓標の間に走り込んできた。それはすごい風景だったに違いない。写真を見ると、墓の下に眠っている兵士と同年代の男女である。ドイツとフランスの若者は二度と殺し合うことはない。その未来は、この究極の無意味な死の堆積の上に築かれたのである。なお、こちらで入手した「ヴェルダン」案内として、H.Rohde, Verdan: Militärgeschichtlicher Reise und Tourenplaner, 2016がある。そのうち訪れてみたい。
理不尽な暴力によって肉親を、大切な人を失った人々の悲しみが消えることはない。それが民族的偏見に満ちた虐殺であっても、原爆であっても、隣国との「消耗戦」であっても同じである。怒りと憎しみの矛先は、勢い、相手の国やその国の人々、その指導者に向かう。「過去の克服」は、過去を消すこと、忘れることではなく、過去について「想起する」(erinnern)ことから始まる。それには、前述の「TPP」が重要である。適切な時(例えば100周年)に、適切な場所(その悲劇の象徴的な場所)を、適切な人(国の指導者)が訪れて、言葉を発すること。この「パーフォーマンス」と言葉の内容が、その後の和解や融和につながっていく。その積み重ねでしか、怒りや憎しみ、悲しみを緩和していくことはできないだろう。もちろん日本も例外ではない。それをできるようにするためには、まずトップを、「適切な人」に変える必要がある。これは、参議院選挙の隠れた論点かもしれない。