6月23日の“Brexit”(脱英)によって“Bregret(Britain+Regret)”(悔英)。いまヨーロッパは、「国家間戦争以外は何でもあり」の状況になっている。世界史的知識をひっかけて、「英国の大後悔時代」ということらしい。一方、16歳選挙権のオーストリアでは、憲法裁判所の判決によって、5月22日に行われた大統領選挙の再選挙が行われる。右翼ポピュリストのホーファーが当選すれば1年以内にÖxit(オーストリア〔Österreich〕EU離脱の国民投票)に向かう可能性がある。
次回の「直言」更新(7月11日)の時は、参議院選挙の結果が出ているだろう。「意識的に隠された論点」が憲法改正であったことが選挙後にわかって、「日本の大後悔時代」になることだけは避けなければならない。投票に先立つ視点として、各党の公約や政策を知ることも必要だが、それ以上に、基本的な国家運営全体の構造を知ることがまずもって重要である。「権力を一局に集中させない」ということに気を配ることも有権者がもつべき大事な見識ではないか。
「英国の振り見て我が振り直せ」ではないが、ドイツの連邦参議院のありようも、日本における投票に際して参考になるかもしれない。6月20日付「直言」では、25年前のベルリン首都決定について、当時の議事録などを使って書いた。「直言」がアップされた当日の新聞各紙は、ボンの地元紙が一面トップと見開き頁を使って、首都移転25周年の経過とその後について詳しい検討を行っている(General-Anzeiger vom 20.6.2016, S.1-3,8-9)。特に政府職員の増減がグラフで示され、1面の漫画は滑り台でベルリンに向かう政治家たちを皮肉っている。ちなみに、その「直言」で、私は議事録の発言を数えて「104人の演説」と書いたが、ある新聞は「110人の演説」と書いた(Süddeutsche Zeitung vom 20.6, S.5)。おそらく5人の提案者と2回発言した議員もカウントしたものと推察される。
ベルリン首都決定により1999年にベルリンに引っ越したのは連邦議会(Bundestag)だけではなかった。二院制をとるため、もう一つの院である連邦参議院(Bundesrat) も移った。先日のベルリン取材の際、ナチスのゲシュタポと親衛隊(SS)、親衛隊保安部(SD)の本部跡(Topographie des Terrorsテロのトポグラフィーという)を久しぶりに訪れた。その近くに連邦参議院がある。冒頭の写真にあるように、旧プロイセン議会の建物を使ったので重厚長大である。他方、こちらの写真は、1999年まで半世紀あまりボンにあった連邦参議院の議事堂である。どこかの市役所の建物と見紛うばかりの素朴な作りである。ベルリンのいまの建物と比べれば、おそらく世界の上院(参議院)のなかで最も質素な議事堂だったのではないかと思う。現在は同院のボン連絡所(außenstelle)として使われている。
連邦参議院は、国民から直接選挙されるのではなく、16の州(ラント)政府首相および主要閣僚が議員となる第二院である。議員定数は69。それぞれの州(ラント)に3議席が割りふられる。そして、住民200万以上の州は4議席、600万以上は5議席、600万以上は6議席となる(基本法51条2項)。ドイツで最も住民が多いのは、ボンを含むノルトライン=ヴェストファーレン州で1805万、次いでバイエルン州の1246万、バーデン=ヴュルテンベルク州の1073万と続く。他方、ブレーメン市(州の扱い)は66万、ザールラント州は107万と少ない。16州のうち、住民数の多い4州に6議席が、ヘッセン州5議席、ザクセン州など7州が4議席、ブレーメン市など4州が3議席となる。
基本法上、連邦参議院はきわめて強い権限をもつ。「諸ラント(州)は連邦参議院を通じて、連邦の立法および行政ならびに欧州連合の事項について協力する」(同50条)とあるように、立法手続上、連邦参議院の関与と同意なしには法律は制定できない。連邦参議院の強さはヴァイマル憲法(1919年)と比較すると明瞭である(Vgl. M. Lau, Weimar ist nicht Bonn-Ein Vergleich der Regierungssysteme, 2009, S.12-14)。
一般にヴァイマル憲法は「世界で一番民主的な憲法」と俗称されるが、実は「民主主義の不用意で過剰な採用」がヒトラーの独裁に通ずる結果となったことは見逃せない。この憲法の「構造的欠陥」は多岐にわたる(L.Achtelstetter, Lehren aus Weimar?, 2012, S.4ff.)。1949年5月にボンで制定された基本法はその克服形態ともいえる。とりわけ立憲主義と民主主義との慎重な調整がはかられている。それは、直接民主制への抑制的姿勢、首相の議会解散権の制限、連邦大統領の形式化・儀礼的元首、そして連邦憲法裁判所による統制機能(抽象的規範統制や憲法異議など)がある。あまり知られていないが、実はヴァイマル憲法のもとでのライヒ参議院が弱体だったという反省から、現在の基本法では強力な連邦参議院となった背景がある。ヴァイマル憲法は「民主主義の過剰」の制度設計で、第二帝政憲法にさえあった旧連邦参議院の権限(特に郵便や税など)を縮減して、比例代表で選出されたライヒ議会への「民主的一元化」の指向がみられた(実質的な一院制)。緊急事態条項の悪しき典型とされるヴァイマル憲法48条1項は、地方(ラント)がいうことを聞かなければ、大統領が軍隊を差し向けて中央政府の決定を強制することまで認めていた。民主主義へのおおらかな信奉が、ナチスに逆用されて滅びたのがヴァイマルの「第一民主制」だった。
この反省から、ボンで制定された基本法(「第二民主制」ともいわれる)は、連邦参議院の権限を強力にしている。直接選挙されたわけでもない州政府の代表たちが、連邦参議院を通じて連邦政府の対外政策、EUに関係する決定にも影響を及ぼすことができる。連邦大統領を選ぶ連邦会議のメンバーは連邦議会と同数である。連邦憲法裁判所裁判官の半数も連邦参議院により選出される(94条)。対外的緊急事態において、核シェルターのなかで「防衛事態」を確認する「非常議会」(合同委員会という)の構成も、連邦参議院から16名の参加を必須としている(53a条、115a条)。さらに、基本法の改正にも連邦参議院の3分の2以上の賛成が必要である(79条2項)。
連邦議会の反対派(野党)は州議会の選挙で勝利して連邦参議院で多数を占めることによって、連邦政府の活動の余地を制限することが可能となる。連邦参議院の「トータル・バリケード政策」で統治が困難になり、統治の危機が生じないよう、基本法は両院同数の委員からなる両院協議会(Vermittelungsausschuss)を設けて調整をはかっている(77条2項)。かくて、ドイツの二院制は、国民の地域的編成に独自の意義を見いだし、国民の政治的意思形成過程に同価値で関与させる仕組みといえる。
6月20日付「直言」でも少し触れたが、17年前の7月1日、私はボンの旧市庁舎で開かれた「ドイツの民主主義50年・ボン祭り」(主催:連邦議会および連邦参議院)に参加した(直言「「素晴らしき仮の宿」に別れ」)。50年間、首都の役割を果してくれたボンとその市民に、連邦議会と連邦参議院が感謝するというものだ。十数メートルの距離からG・シュレーダー首相や両院議長の演説を聞いていた。
ボンのすべての議会・政府機関の建物は地味である(写真は1987年のもの。高いビルは議員会館(Lange Eugen)、手前の白い建物が連邦議会)。東西ドイツが統一したらベルリンに立派なものを作るという意志を示すため、「仮の姿」(Vorläufigkeit)を維持し続けたわけである。小さな首都での半世紀は、ボン民主制として世に知られた。その暫定的で一時的なものという姿勢によって、議事堂・官邸から政府部局の建物までが、よくいって簡素・質素、悪くいえば貧相である。だが、この「暫定性」(Provisorium)こそ、それ以外のさまざまな要素と響きあって、ボン民主制を象徴するものだった。暫定首都の50年を通じて、ドイツはヨーロッパのなかで信用を回復・確立していった。確かにベルリンの建物はすべて重厚で立派である。しかし、プロイセン時代の権威主義的色彩は否めない。50年間、ボンの簡素な暫定首都(「連邦村」(Bundesdorf)と陰口された)の抑制的なかたちがあったからこそ、いまの首都ベルリンがヨーロッパに受け入れられたのだともいえる。17年前の7月1日、当時の連邦議会議長W・ティールゼが私の目の前で、「ボンなくしてベルリンなし」(Ohne Bonn wäre kein Berlin.)と演説して、市民の大きな拍手を浴びたことを思い出す。抑制と均衡の戦後ドイツの「国のかたち」がそこにある。
ひるがえって、6日後にせまる7月10日は日本の参議院選挙の投票日である。先月訪れたベルリンの「ヒロシマ通り」。その6番地にある日本大使館の掲示板には、「18歳選挙権」のポスターが、かなり日焼けした状態で貼られていた。ところで、私が初めて選挙に関心をもったのは、中学3年生の時の第8回参議院選挙(1968年7月、投票率68.9%)だった。また、私が国政レヴェルで初めて選挙権を行使したのは、大学2年の時、1974年7月の第10回参議院選挙である。投票率は73.2%。いまでは考えられないほど高かった。
日本から届く新聞社の記事案内メールを見ていると、参議院選の序盤の情勢は、「憲法改正に前向きな自民、公明両党など4党が、非改選も含めて改憲発議に必要な3分の2(162議席)に達する78議席を獲得するというもの(『毎日新聞』6月24日付)。また、日本からのメールのなかに、「憲法改正誓いの儀式」という動画のURLがあった。これには「びっくりボン」(賞味期限切れ!)だった。特に長勢甚遠元法相は、自民党改憲草案ではまだ不安があるといって、「国民主権・基本的人権・平和主義の3つをなくさなければ、ほんとの自主憲法にはならない」とまで述べていた。
あれこれの政策の是非を議論する以前に、議論の土台とルールを破壊する者たちを相手にしていることを忘れてはならないだろう。「民意の暴走」に対してあえて「地方(ラント)の声」を絡ませて、抑制と均衡によって国の行方を誤らないようにする仕組みが連邦参議院の存在意義だとすれば、日本の参議院は、半数改選という3年に一度の「民意の定時観測」によってそれを行うものとはいえまいか。国権の最高機関たる国会のなかで、参議院は、衆議院が決めたことをもう一度しっかり考え直させる、まさに国権の「再考機関」である。有権者の賢明な選択を期待したい。
《付記》ちょうど昼食中につけたニュースのテロップに「バングラデシュでイタリア人と日本人が死亡」と流れたので、驚いた。5月末と6月初旬、私のいるボンを管轄するデュッセルドルフ総領事館から、「ラマダンの金曜日は注意するように」という注意喚起メールが届いていた。安倍首相の「地球儀を弄(もてあそ)ぶ外交」は、海外にいる日本人をあまねく危険にさらしている。ちょうどサッカーのヨーロッパ選手権(ME)でドイツが4強に入れるかを決める対イタリア戦が夕方からあるので、国旗をつけた車も走り出した。人がたくさん集まる場所は通常より多くなる。いずこも安全とはいえない。