私の住むバート=ゴーデスベルク(Bad-Godesberg)は、1944年10月のボン空襲の被害を受けなかったので、19世紀末から20世紀初頭の建物が並ぶ。かつては政府機関や大使館の建物として使われたものがたくさんあって、首都ベルリン移転後も、リビア大使館の一部などが残っている。州の文化財保護を受けている建物も多い。5月はじめ、散歩の途中にラインアレー(Rheinallee)で「マックス・ヴェーバー財団」(Max Weber Stiftung)の建物を見つけた。世界的に有名な団体の本部がこんな身近にあるとは思わなかった。事務所でパンフレットなどをもらったが、そのなかにヴェーバーの講演録『職業としての政治』のリプリント版が含まれていた。散歩の収穫である。
その『職業としての政治』(Max Weber, Politik als Beruf, München/ Leibzig 1919)には、「政治家の資質」(Qualität des Politikers)として決定的なものが三つ挙げられている。(1)情熱(Leidenschaft)、(2)責任感(Verantwortungsgefühl)、(3)「判断力〔見通す力〕」(Augenmaß)、である(S.49)。単なる判断力ではない。物事や人間に対して距離を置いてみること、この距離感覚をヴェーバーは重視する(S.50)。距離を見失うこと(Distanzlosigkeit)は、政治家の致命的な欠陥(Todsünden)の一つとされる。そして「虚栄心」(Eitelkeit)。政治家の内に潜んでいる、瑣末で、あまりにも人間くさい「敵」だが、この危険な存在とたたかう必要がある。「政治家という職業の聖なる精神に対する罪が始まるのは、この権力追求が…事物に即さない(unsachlich)、かつ純粋に個人的な自己陶酔(Selbstberauschung)の対象となるときである」(S.51)。そして、政治家たるものの決定的ポイント、すなわち、「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が…どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」(„dennoch!“)と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』(„Beruf“ zur Politik)をもつ」(S.67, 訳文は脇圭平訳、岩波文庫、1980年105-6頁参照)という言葉で終わる。亡くなる前年、かつヴァイマル憲法施行2カ月後に出版された講演である。その指摘の数々は今もなお、重く響く。
日本を出る1カ月前、上記の指摘を、甘利明内閣府特命担当大臣(経済財政政策)辞任の写真を掲げ、政治家らの失言を踏まえつつ紹介した(直言「権力の私物化と「生業としての政治」」)。ドイツから日本の政治を見ていると、「政治家の資質」以前の惨憺たる状態になっていることが悲しい。
6月1日、安倍首相は消費増税先送りを宣言したが、その時の記者会見をネットでみる気力が出なかった。会見内容を新聞のサイトで読んだが、あまりにも言葉が軽い。9年前の参院選公示日、「消えた年金」について「最後のお一人までお約束します」といったその直後に政権を投げ出したところまでは遡らなくても、2014年11月18日に消費増税の1年半延期を決めた際に、「再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします」と言い切ったことは記憶に新しい。その際、「リーマン・ショック並みの経済危機」と「東日本大震災級の大災害」だけが再延期しない「条件」だったはずだった。春の熊本地震は理由にならないとカードとして使わず、何と「リーマン・ショック前の状況にある」という「天動説的理由づけ」によって正当化するに至った。そのため、伊勢・志摩G7前から、各国首脳への「根回し」(国民の税金を使った「首脳外食」)を展開したのだが、うまくいかなかった。
その点を、ドイツの高級紙は、「日本における適時開示宣誓書(Offenbarungseid)」と題する東京特派員の評論によって鋭く突いた(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 2.6.2016, S.17)。「適時開示宣誓書」とは証券取引所に上場する会社に義務づけられたもので、一国の首相の言説をそれに例えて皮肉ったものだ。評論は、「リーマン・ショック前」を首脳たちに認めさせようと焦った安倍首相の動きについて、「G7がかくも国内政治的に濫用されたのは稀である」と書く。「安倍の決断は経済的観点からいえば正しいと同時に間違っている」という切り口から評論はこう続ける。消費増税は経済成長の負担になるが、それを促進はしない。他方、安倍の決断は、彼が財政再建を副次的な問題とみているというシグナルを発してしまった。さらに悪いことに、確信をもった解決を示せなかった。消費増税先送りの決断は、安倍とその経済政策にとっての「適時開示宣誓書」になってしまった、と。「アベノミクス」の破綻を糊塗しつつ、参院でも3分の2の憲法改正可能議席を獲得するためには手段を選ばない安倍首相の姿勢は、世界のなかの日本の「格付け」を下げる一方である。ちなみに、国境なき記者団による「プレスの自由ランキング」では、日本は61位(アルゼンチン(57位)、クロアチア(58位)より低い!)と昨年よりさらに順位を下げた(Reporter ohne Grenzen e.V., Fotos für die Pressefreiheit, 2016, S.10)。特定秘密保護法や総務大臣の「電波停止」恫喝発言など、安倍政権の「メディア萎縮政策」が背景にあることは明らかだ。
ところで、安倍首相のいう「消費増税・2年半延期」の結果、その実施は2019年10月となるが、それは4月の統一地方選や7月の第25回参議院選挙以降となる。安倍首相の自民党総裁任期は2018年秋で切れる。自民党の党則には「3選禁止規定」があるが、これを改めて3期9年続投しようというのだろうか(東京オリンピックも自分が仕切る?!)。安倍首相の無責任は最強である。なぜなら責任を感じていないだけでなく、責任があることすら気づいていない節があるから。これは強い。安倍首相の口癖は「政治は結果がすべて」ということだそうだから、参院選の結果が出て、「憲法改正の主張が支持を得た」と言い出すのも時間の問題だろう。
先だっての大統領選挙でオーストリアは寸止めでブレーキがきいたが(憲法裁判所の判決により再選挙になるので微妙)、英国の国民投票では、3.8%の差でEU離脱が決まった。驚くべきことに、国民投票直後、離脱派の中心人物たちは、相次いで責任あるポストから逃亡した。
まず、保守党のボリス・ジョンソンが、辞任するデーヴィッド・キャメロン首相の後継首相を決める選挙に立候補しないと言明した。ジョンソンは元ロンドン市長で、群を抜いて人気のある政治家だった。キャメロンに対抗して党内地位をあげるために、今年の2月21日の段階で、“Brexit”推進論者に改宗したとされている(Financial Times, February 23, 2016による)。彼は4カ月だけのEU離脱推進の俄か論者だったわけである。EU離脱が確定的になるや、ジョンソンは姿を隠し、マスコミから逃げ回った。そして党首選への不出馬宣言。この写真はメディアに見つかってあわてるジョンソン(Die Zeit vom 30.6.2016, S.21)と、英国という車を木に衝突・大破させて逃げ去る彼を皮肉る漫画(General-Anzeiger vom 1.7, S.2)である。そのタイトルは「敵前逃亡」(Fahnenflucht)に引っかけて、「運転手逃亡」(Fahrerflucht)である。まさか自分の主張が多数をとるとは思わずに威勢よくキャメロン首相を攻撃していたのだが、まさかの勝利にあわてふためき、結局逃亡してしまった。国にダメージを与えながら責任をとらない最低の政治家である。
他方、英国独立党(UNIP)党首のナイジェル・ファラージは、「自分の国を取り戻したい」というスローガンを掲げて、20年の長きにわたってEU離脱の運動を続けてきた。その点がジョンソンとは違う「筋金入り」である。その主張はスイスをモデルにしたものであると、スイスの雑誌が明らかにしている(Die Weltwoche, Nr.26 vom 30.6.2016, S.3, 14)。ところが、国民投票の結果が出るや、ファラージは7月4日、運動のスローガンを自分に適用して、「自分の生活を取り戻したい」といって党首を辞任してしまった。これには驚いた。ファラージは英国におけるEU懐疑派の「顔」のような存在だった。UKIPはこのファラージ党首のもとで欧州議会において大躍進し、イギリス国内においても2015年総選挙で得票数で保守党、労働党に次ぐ三位につけた。そして、彼の主張を52%の有権者が支持したのである(以上、BBCのサイトから)。「私は政治家を職業にしたことも、したいと考えたこともない。政治の世界に身を置いているのは英国をEUから離脱させるためだ」と弁解したという。『職業としての政治』のいう「自己陶酔」の「情熱」だけはあったが、責任感も判断力もなかったということだろう。「責任倫理」を欠いた「虚栄心」の塊というべきである。
そういえば、「英国を取り戻す」というスローガンは、「日本を、取り戻す」という意味不明のスローガンと実によく似ているではないか。「取り戻す」なら、「何を」「何から」取り戻すのかが最低限明確にされていなければならないが、どこの国においても、デマゴーグの常套手段はその点を曖昧にすることである。いずれ、「私の生活を取り戻したい」と、再び政権を投げ出さないという保証はない。
なお、“Brexit”の問題では、同僚の中村民雄氏の論稿「イギリスのEU脱退とイギリス憲法」が参考になる。国民投票のイギリス憲法上の意味と今後の脱退意思の決定の主体と手続について「脱退意思をだれが、どういう手続で通知するか」など、法的な問題については目下のところメディアではほとんど触れられていない。「国会主権の原則」と国民投票、「国会主権の原則」とEC法、それぞれの優位性、EU離脱をめぐる法的、実務的な問題が今後展開していくのを前に学ぶべきたくさんの論点がそこにある。中村氏によれば、英国が、EU構成国の中で唯一、EUと構成国の間の権限配分バランスが適切かどうかを包括的、体系的かつ実証的に研究した国であることである。Balance of Competences Reviewと呼ばれる大掛かりな政府主導の研究にキャメロン政権は着手しながら、それを無視して国民投票に走った。「だが今やこの研究が貴重な置き土産として真価を発揮し、これからのinformed discussion(情報を十分に得た熟議)の基礎となるであろう。熟議のうえで脱退の道を選ぶにせよ、イギリスはさまざまの方法で粘り、自ら掘った墓穴を少しでも埋めようとするだろう。イギリスの底力は端倪すべからざるものがある。EU諸国もイギリスとあらゆる方面で友好関係を維持することが利益であり、事を急くべきではないと私は思う」。重要な指摘である。国民投票は、ジョンソンやファラージのような連中により単純な論点絞りが行われ、冷静な判断ができなかった。その反省から、これからはじっくり正確な知識と情報、熟議に基づいて、EUとの関係の再定義を行っていくのだろうか。
その同じ英国で、7月6日、元内務省高官ら5人で構成する独立調査委員会が、2003年のイラク戦争の検証を行い、「平和的な解決手段を尽くす前に侵攻した」と断定する報告書を公表した。委員長の名前をとって「チルコット報告」という。14億円の予算、7年間かけた調査で、この戦争に参加した自国の政策を検証している。責任を厳しく問われたトニー・ブレア首相(当時)は、同日、反論の記者会見で2時間にわたって語り、イラク戦争の開戦について「正しい判断であり、世界をより安全にした」などと自身の判断を正当化した(『毎日新聞』7月7日付夕刊)。しかし、イラクが大量殺戮兵器を保有しているとの秘密情報部の情報には疑問を抱かざるを得ないと報告書は述べている。さらに、イラク戦争の結果を軽く見ていたと指摘し、戦後イラクにおける英国の施策も不適切だったと結論づけた。そこには、「イスラム国」(IS)誕生の原因をつくったことも含まれている。また、ブレア首相が開戦前、一蓮托生を意味する書簡をブッシュ大統領に送ったことを明らかにした上で、英米は国益が異なるので無条件の支持は必要なかったと指摘した(『毎日新聞』7月8日付)。
これを報ずる『南ドイツ新聞』は「拙速にして無計画」という1面サブ見出しとともに、「ブレアの墓碑銘」というタイトルの厳しい解説と、長文の検証記事を掲載した(Süddeutsche Zeitung vom 7.7, S.1, 4, 7)。報告書においては、ブレアの侵略戦争遂行が問題になっていること、「侵略の罪」は国際刑事裁判所が権限をもつ国際法上の犯罪構成要件にあたること、しかし、そのための条約が未発効(30カ国がこれまでに調印)のため、ブレアが訴追されることはないし、将来的に訴追される恐れもないこと(遡及効なし)、ただ、この報告の唯一の効果が、労働党内の権力闘争の爆薬になること、などが指摘されている。まさにブレア元首相の「墓碑銘」である。
このタイミングでの報告書公表にどんな国内政治的事情があり、また“Brexit”で権威失墜した英国の国際的な「名誉挽回」を狙ったものかどうかはわからない。しかし、英国が自らの政府が行った戦争参加について時間をかけて検証したことは評価できる。この写真は報告書に対する記者の質問を振り切って車に乗り込むブレアの姿を写したものである。なお、この6日、ジョージ・W・ブッシュ元大統領は70歳の誕生日を迎えた。それを報ずるドイツの新聞の見出しは「破局的な決算」である(General-Anzeiger vom 6.7, S.2)。それにひきかえ、日本は小泉政権によるイラク戦争参加について何の検証もしていない。それどころか、安倍政権は、イラク戦争の戦犯であるドナルド・ラムズフェルド国防長官(当時)らに旭日大綬章を授与しているのである(直言「勲章は政治的玩具か」参照)。
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』のいう「政治家の資質」を欠いた人々によって、日本も英国も、そしてギリシャ、イタリア、ハンガリー、ポーランド等々も政治がかき回されている。冒頭の写真は、アメリカとフランスで政治をかき回している中心人物たちをジョンソンと重ねた絵である(Die Zeit vom 30.6, S.1)。髪の毛の色と表情に共通点があることを強調しているようにも見える。
「政治家の資質」という観点から診ると、現在のドイツの政治家が優等生というわけではない。しかし、少なくともアンゲラ・メルケル首相の腰は座っている。抑制的な表現や表情のなかにも、問題解決への「情熱」を忘れていない。世界とEUのなかでのドイツの位置をしっかり自覚した「責任感」、そして何より、どんな事態にもぶれない「判断力」は、G7各国首脳のなかでも群を抜いている。安倍首相が「根回し」に1日だけドイツにきたときも冷やかに対応し、伊勢志摩サミットのおりに伊勢神宮に首脳たちを招いて、おのれのパフォーマンスの数々を駆使した時にも、前に腕を組んで一人だけ手をふらなかった(写真)。決して礼を失することなく、しかし「距離をとる判断力」がそこにある。
ここで、昨今亡くなったドイツの政治家3人についても触れておこう。ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー元外相は、私がドイツ滞在を始めたばかりの頃に亡くなった。ゲンシャーはドイツ統一時の外相であり、1974年から1994年までの間に、シュミット政権(社会民主党〔SPD〕)とコール政権(キリスト教民主・社会同盟〔CDU/CSU〕)の異種政党との連立政権で外相をつとめたドイツ外交・政治史上、歴史的一回性の人物である。引退後も、「核兵器のない世界のために」という訴えを有力紙で共同提案している(『毎日新聞』2009年8月6日付夕刊)。
4月17日昼12時から、ボンの旧連邦議会議事堂で、ゲンシャー元外相の国葬が行われた。散歩がてら近くまでいこうと思ったが、警備態勢が厳重で接近不可能と考え、家でテレビの中継をみた。拙宅のバルコニーからみえる近隣の小学校には半旗が掲げられていた。12時から第2放送(ZDF)で中継をすべてみたが、その前の週に、ムッフェンドルフという、歩いて30分のところの教会コンサートで聴いたカンマーオーケストラ(Klassische Philharmonie Bonn)と指揮者(Heribert Beissel)が議場上段でヘンデルやモーツァルト、エルガーの曲を演奏した(写真)。ヨアヒム・ガウク大統領、クラウス・キンケル元外相、ジェームズ・ベーカー元米国務長官、旧東の市民運動の元代表(神学者)が挨拶した。1977年のソマリア・モガジシオ空港事件の時の外務大臣(これは大統領の挨拶のなかで言及)、1989年の「壁」崩壊時とドイツ統一時の外務大臣(東の市民運動代表は、市民がデモで「ゲンシャー、ゲンシャー」と叫んだことを紹介)など、戦後ドイツ外交・政治史の各場面で重要な役割を果たした政治家だった。
ゲンシャーは私の住むところから車で20分のWachtbergの自宅で亡くなった。ベルリンではなく、ボンの元連邦議会議事堂が国葬の場に選ばれたのも、「ボン民主制」を支えた政治家の故である。彼がまた、自由民主党(FDP)というリベラルな小政党に所属していたことも、二大政党の隙間を埋める役回りを果たせた一因だろう。
ほぼ同じ時期(3月18日)に54歳で亡くなった元FDP党首のギド・ヴェスターヴェレ元外相は地味な政治家だったが、私は唯一、2011年3月のリビア問題の時の対応を評価している。当時、リビアに対する軍事行動について、NATO加盟国のなかで意見が分かれた。英仏が軍事行動に積極的だったのに対して、ドイツは安保理の決議採択にあたって棄権した。ヴェスターヴェレ外相は、棄権によってドイツはヨーロッパで孤立するわけでもなく、これは「正しい決定」だと胸をはった。これに対して、SPDと「緑の党」が批判したのは皮肉だった。
FDPは小さい政党だが、かつては存在感があった。1968年の大連合政権ときの唯一の少数野党で、緊急事態法に反対した。その後はCDU・CSUとSPDとそれぞれ連立をくんだが、「大連立政権」には参加しないのが原則で、現在は野党である。与党時代も、盗聴による市民的自由の侵害に対して辞任をもって抵抗したザビーネ・ロイトホイサー=シュナレンベルガー法相もFDPだった。ここは譲れないという一線に至れば、政治家は職を辞してでも主張を貫く。まさに「政治家の資質」そのものである。
昨年1月31日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領が94歳で亡くなった。1985年5月、「戦後40年」にあたりドイツ連邦議会で行われた演説は、ドイツ史上に残る名演説として記憶されている。演説の「1945年5月8日は、ドイツ人にとり『敗戦の日』ではなく『解放の日』であった」という言葉は有名である。ドイツ大使館のホームページに、メルケル首相談話が掲載されている(2015年1月31日付)。そのなかにこういう言葉がある。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏は、我が国で最も重要かつ最も尊敬された人物の一人でした。氏が何十年にもわたり、高い知性、自然に滲み出る威厳、天賦の演説力をもって私たちの民主主義社会のために貢献し続けてくれたことに、私たちは感謝の念を抱き続けます。…大統領として自ら述べていたように「方向性を与える」ことを目指し、自ら課したこの課題を見事成し遂げました。ヴァイツゼッカー氏は、新たな方向性を指し示すような演説を行ってくれました。これらの演説は、国内外で大きな反響を呼びました。それは、氏の言葉を聴く人が、その背景に実際の体験に裏づけられた価値と清廉潔白な高い人間性を感じたからです。…ベルリン市長も務めたことのあるヴァイツゼッカー氏は、我が国および欧州の分断克服とドイツ再統一の実現に、特別の思いを寄せていました。1990年10月3日の演説では次のように述べています。「私たちは、今日という日を贈物の受け手として経験することとなった。今回については、私たちドイツ人も歴史に好意的な巡り合わせを与えられた」。この演説と、演説を聴いたときの私の高揚感は、決して忘れません。しかしまた、統一条約だけで統一が成功するわけではなく、当時の発言にあるように、統一の成否は「私たち一人ひとりの行動次第であり、私たちが心を開き、互いに助け合うことにかかっている」と認識していました。この言葉は今なお真実であり、今日にいたるまで私を導いてくれています。
旧東出身のメルケル首相の心を熱くさせた、「方向性を与える」という資質はきわめて重要である。「過去の克服」についても、戦後40年の名演説はいまなお、さまざまなところで言及されている。そこでのキーワードは「心に刻む」(erinnern)ことである。11年前の早稲田大学での講演は一生忘れないだろう(直言「「心に刻む」ということ」)。
いずこにおいても、哲学をもつ政治家がいなくなって久しい。それどころか、日本の場合、「虚栄心」と「自己陶酔」(祖父の悲願〔憲法改正〕達成)、距離感の喪失(Distanzlosigkeit)など、政治家の致命的欠陥をパーフェクトに備えた首相とその側近たちによって政治が決まっていく。秋には米国で、冒頭の写真にある大統領候補が当選するという悪夢の連打が待っているのか。
政治家だけでなく、憲法研究者も含めて、変身と転進が始まる可能性もある。これからは、市民にも、「それにもかかわらず!」という覚悟が求められる時代が続く。「政治とは、情熱と判断力〔見通す力〕を同時に用いながら、堅い板に力をこめて、じっくり時間をかけて穴をあけていくことである。もしこの世の中で不可能なことを目指して再三再四食い込もうとしないなら、およそ可能なことも達成されないということは、まったく正しく、かつ歴史上の経験がそれを確認している」(S.66)。
《付記》第24回参議院選挙の結果が出た。投票率54.7%という戦後4番目に低い数字になった。与党と維新を合わせて「改憲勢力が3分の2に到達」という結果をどうみるか。まだ確定的な数字や割合などのデータが出ていないので、今回は詳しくは立ち入らない。ただ、ドイツの第1放送(ARD)tagesschau(7月10日13時51分〔日本時間20時51分〕)が一番早い報道で、「参議院選挙で与党が多数を占めることが確実となった」「日本はこれにより第二次世界大戦後の時代から続く基本法〔憲法〕に別れを告げ、軍にさらに重きを置いていくだろう」と伝えた。選挙当日の『南ドイツ新聞』東京特派員の評論は、「安倍は彼の党を、戦後のどの首相もなし得なかったほどに強制的均質化した(gleichgeschaltet)」という学者のコメントを紹介しつつ、TPPや原発、憲法改正などの論争的なテーマを選挙の争点から外したことを問題にして、「日本の民主主義はしばしば…演出(Inszenierung)である」と結んでいる(Süddeutsche Zeitung vom 9/10.7.2016, S.10)。ここで注目したいのは、ドイツでgleichschaltenという言葉を使えば、与える印象はかなり強烈だということである。Gleichschaltungは、ナチスが国家・社会を均質化しようとした政策や思想を指す。1933年3月の授権法(全権委任法)の1週間後に制定された「ラントとライヒの均質化(Gleichschaltung)に関する暫定法律」とその1週間後の「ラントとライヒの均質化に関する第二法律」によって、ラント(州)の権限は国家や党に移され、最終的に中央集権国家となった。日本の場合、自民党だけではなく、NHKをはじめ、各種メディアもまた「均質化」されていった。選挙報道は抑制させられ、「選挙隠し」ともいえる状況が生まれた。これは「つくられた低投票率」ではないか。