ペギーダの「月曜デモ」――「ベルリンの壁」崩壊から27年(1)
2016年8月22日

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外研究中の最後の取材として、8月1日から1週間近くかけて、ドイツ東部地域をまわった。時間を有効に使うため、ケルン・ボン空港からドレスデン空港まで国内便で行き、レンタカーを使い、陸路ボンの自宅までもどるというコースである。ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツ、ツヴィッカウ、トルガウ(エルベ川)、イェーナ、ヴァイマル、エアフルト、ゴータ、アイゼナッハ…。ドイツ全体では16州あり、うち5つが旧東から編入された「新しい連邦州」(もはや死語?)だが、今回はそのうちの2つ、ザクセン州とテューリンゲン州に限定した。1999-2000年の滞在時は16の州すべてをまわったが、やや駆け足だったという妻の意見を入れて、今回は2つにしぼり、じっくりまわることにしたのだ。といっても、それぞれの都市のテーマや取材目的が違うので、6日ですべてまわるのは不可能に近い。加えて、妻の希望を入れて、ザクセン=アンハルト州のハルツ山地にあるヴェルニゲローデと「ブロッケン現象」で有名なブロッケン山にも行くことにした。そのため当初の計画を変え、ドレスデン、ライプツィヒ、ヴァイマルとヴェルニゲローデの4箇所を6日かけてまわることになった。なお、ブロッケン山の頂上までいったが、ここで偶然見つけた「意外な過去」については、次回書くことにする。

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ドイツ東部地域に旅行をするというと、ドイツ人の知り合いは不思議な顔をする。家主にも話すと、「私たちは一度も行ったことがない。ライプツィヒには行かなければいけないのだけど」と複雑な表情をした。ご主人は文学博士号をもち、奥さんは日本に1カ月行ったことのある芸術家で、先月は北イタリアに長期旅行をしているのに、東ドイツには行ったことがないというのだ。17年前の直言「「壁」がなくなって10年(その1)」には、「我々ドイツ人は世界一の旅行好きだ。モルジブ、フィジー諸島、灼熱のサハラ砂漠、極寒のアラスカであろうと、ドイツ人はすべてを見てきたし、我々に秘境は皆無だ。だが、周り尽くした地球上にただ一つ、西ドイツ人がまだ立ち入らない秘境がある。それが東ドイツだ。彼らにとって、マクデブルク〔ザクセン=アンハルト州の首都〕はスペインのマヨルカ島より遠い」という文章とともに、「東の人で1 度以上西を訪れたことのある人は90%を超え、しばしば訪れる人は61%に達するのに、その逆は19%にすぎない。西の人の半数近く、東の人の1割が、壁崩壊後の10年に一度も旧東西ドイツ国境を超えていない」とある。これを書いてから17年が経過し、まもなく「壁」崩壊から27年。でも、事情はあまり変わっていないようである。

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では、私はなぜドレスデンなのか。1991年のドイツ統一直後と、1999年に訪れた際に見た「瓦礫の山」。1944年2月の英米軍による空襲で破壊された聖母教会(Frauenkirche)」が印象的だったからである(99年は工事現場(immer Baustelle)。2005年に再建されたのを、私はまだ見ていなかった。今回はまず聖母教会を訪れることにした。爆撃で破壊された箇所や部分を活かしながら再建していったので、その全身に戦争の傷跡を帯びている(写真)。ただ、「ペギーダ」発祥の地を訪れることは妻には内緒にしていた。空港に着いてからホテルに荷物を置いて、「月曜日18時30分に聖母教会前に」が私のプランだった。きれいな教会が見られると喜んでいた妻の顔が、現地に着くや引きつった。教会横では、黒服、サングラスの男女のデモ隊が大声で「反人種主義」のシュプレヒコールをあげ、それを警察がブロックしていた。「犯行現場(Tatort)、人種主義」という宣伝車が続く(写真)。人数は100人程度。若い人たちが多い。横断幕は翻訳不能な汚い言葉が書いてあり(写真)、妻はスキンヘッドのネオナチ集会と勘違いして怖がっていた。だが、これは「反ペギーダ」のデモで、さしずめ「ペギーダしばき隊」というところか。

警察官の間をすり抜けて聖母教会前のNeumarktに出ると、18時30分過ぎだったが、1000人ほどの人々が集まっていた。こちらは穏やかな雰囲気で、中・高年の人たちが多い。実はこれが「ペギーダ」なのである。日本を出る当日、それについて、直言「きな臭い見送りと出迎えと、再び――「ドイツからの直言」へ」で触れていた(この時はネット写真を拝借した)。「ペギーダ」(PEGIDA)、すなわち「欧州イスラム化に反対する愛国的ヨーロッパ人」(Patriorische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlands)。2014年10月20日(月)にドレスデンで350人のデモから始まり、4週間後には3200人、さらに4週間後の12月15日には1万5000人にふくらんでいた(Lars Geiges,u.a., Pegida: Die schmutzige Seite der Zivilgesellschaft?, 2015, S.11)。私たちが見た集会は、想像していたよりずっと地味だった。それでも、月曜ごとに集まって、連邦政府の難民政策を厳しく批判し続けているパワーと影響は、反ユーロ、難民排斥を掲げる右翼ポピュリスト政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の高得票につながっている(ザクセン=アンハルト州議会選挙では、初参加で24%を獲得して第2党に躍り出た。来月[9月]4日のメクレンブルク=フォアポンメルン州議会選挙でも躍進が見込まれている)。

私が集会を撮影していると、参加者が笑顔でもっと前の方に来いと手招きしてくれる。ネオナチの連中とは異なり、紳士的な人が多い。横断幕には、「連帯やめろ、ナンセンス。いかさま師とテロリストとイスラム野郎は最終的にドイツから放り出せ」とかなりストレートである。「統合は最終的にイスラム教徒で失敗した」と縦に並べて、頭文字をISLAMと揃えるプラカードもある(写真)。

私が取材した集会ではけっこう女性もいたが、「ペギーダ」のデモに参加する人々を調査した分析を読むと、まず性別では男性が圧倒的で81%に達する。宗教的には、カソリックもプロテスタントも少なく、70.2%が無宗派。一番驚いたのは学歴である。大学卒が36.0%で、大学入学資格をもつ人たちを含めると55.7%の高学歴。3.7%は博士号ないし教授資格すら持っていた。仕事面では、75.5%が正規雇用で、平均収入も低くない(Lars Geiges,u.a., a.a.O., S.66-69)。これはかつての「運動」にはない特徴である。極端なナショナリズム、排外主義、人種主義の塊という評価がもっぱらだったので、これは意外だった。というよりも、難民受入れに前向きだったメルケル政権への風当たりが、私がドイツにきた3月あたりから一気に強まってきたことも反映して、「ペギーダ」の主張が突飛なものとはいえなくなってしまったこともあろう。難民への「ウェルカム政策」は終わったという見方がもっぱらで、それは外国人一般に対する眼が厳しくなってきたことと無関係ではない

「ペギーダ」の集会が月曜ごとに開かれる聖母教会のすぐ横には、「1989年12月19日」の集会と演説のプレートがある。そのタイトルは「私たちは一つの国民だ」(Wir sind ein Volk)。この日、聖母教会前には、ヘルムート・コール西ドイツ首相の演説を聞こうと、数万人の市民が集まった。コールは東ドイツ初訪問の場所としてドレスデンを選んだのだ。この演説は、「ドイツの再統一(Wiedervereinigung)への道における重要な里程標(Meilenstein)」とされた。コールは、「私の目標は、もし歴史の時間が許すならば、わが国民の統一であります」と語った。コールの演説は市民に熱狂的に受け入れられ、「ヘルムート、ヘルムート」「ドイツは一つの祖国」といったシュプレヒコールがこだました。だが、コールを総選挙で大勝させた東部地域の人々は、やがてこの急速な統一の副作用と後遺症に悩まされることになる。「ペギーダ」の主張には、「統一ドイツ」の矛盾が東側からの視点でさまざまに盛り込まれているが、スローガンとしてわかりやすく、一致しやすいのが「イスラム化」の阻止であり、自分たちのアイデンティティの押し出しである。

翌日、旧市街をゆっくり歩いた。聖母教会周辺は再開発され、古都の良さを活かせない、中途半端な観光地に変わっていた。とはいえ、さすが古都ドレスデンである。エルベ川沿いの「ブリュールのテラス」に立つと、重厚な要塞やドレスデン城、ツヴィンガー宮殿などが見える。街中を歩くと、マイセン磁器のタイルに描かれた102メートルにも及ぶ「君主の行列」(Fürstenzug)は壮観だった。英米軍によるドレスデン空襲にもかかわらず、この壁は奇跡的に生き残った。

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ドレスデンからアウトバーンA4・A14でライプツィヒに近づくと、茶色の名所・旧跡プレートに「ライプツィヒ89平和革命」というのがあった。昨年9月にライプツィヒ市が設置したようである。91年に訪れたときは、まさに「壁」を崩壊させる「原点」の場所があり、人がいた。ここは世界最古の市民オケであるライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団が所在しており、私は東京でこのオケを2回聴いていた(12年前は「マタイ受難曲」だった)。

そのライプツィヒ、「平和革命」の現場に勇んで入った。だが、旧市街を一望できるホテル(外資系)に、飛び込みでチェックインしたが、レセプションが傲慢で、駐車場はない、新聞はロビーで読め〔どのホテルでも、要求すれば新聞は無料でくれる〕という。部屋のウェルカムドリンクに何と5.5ユーロ払えというせちがらさにも驚いたが、何よりびっくりしたのはライプツィヒ大学の変貌である。超近代的なガラス張りの建物で、透明のブルーを基調としていて、かつて訪れたときに感じた渋さは微塵もなくなっていた。大学の入口は、ショッピング街のファッション店の間にある(写真)。ショッピング街のなかに経済学部のゼミナール室が入るガラス張りのビルがある。伝統あるこの大学の歴史と現実とのギャップに驚いた。

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アウトバーンにあった「89平和革命」の歴史の現場はどこへ行ったのか。市内各所に「平和革命の場所」(Orte der Friedlichen Revolution)というプレートがあって、1989年秋にこの街から始まった歴史的デモの現場を忘れないように記録してある。ちなみに、12番は1989年10月7日「東ドイツ建国40周年」に市民がこれを認めず、抵抗のデモを行なって機動隊の規制を受けた場所だった(写真)。このプレートは、ショッピング街のブティックなどの間にあって、その前は屋外カフェで、若者たちがコーヒーを飲んでいる。日本人がなぜこんなところの写真を撮っているのかと、不思議そうに見ている。その斜め前の書店に入る。ライプツィヒ「平和革命」の本のコーナーを探したが見つからなかった。1991年にきた時は、書店に特別コーナーがあって、市民運動のパンフレットなども並べられていた。なお、ここライプツィヒにも、ボンの「歴史の家」(Haus der Geschichte)と同じ施設があり、「平和革命」に関する展示や資料をようやく見つけることができた(大半は入手済みだったが)。

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ニコライ教会前に行く。1989年9月4日。ここに1000人が集まり、「平和革命」のきっかけとなった最初のデモが行なわれた。毎週月曜のたびに、5000人、2万人と増えていき、10月9日には15万人が街頭にあふれた。デモは禁止されていたが、たくさんの市民が街頭に出て、「私たちが人民だ」というスローガンを叫んだ。「ドイツ民主共和国」(人民民主主義)がいかに現実の人民とかけ離れたものであるかを端的に表現した、インパクトあふれるスローガンだった。この10月9日のデモは、「通りの力」(Die Macht der Straße)として、100万人の「ベルリン11.4デモ」へとつながっていく。歴史はデモだけで動くわけではない。しかし、人々が毎週月曜日に街頭に出て、「移動の自由」などを求める。その持続的努力とその発展が、「ベルリン11.4」という一回性の大集会への原動力となった。そうしたなかで体制内部にほころびが生まれ、内部矛盾も拡大して、ついに「壁」の崩壊につながっていったのである。ここに歴史のダイナミズムがある。

思えば1年前は、安保法案をめぐる「熱い夏」だった。私は「安保法案に反対する学者の会」の要請で、国会前で「5分間スピーチ」をした。そこにいる若者たちを励ましたい。そんな思いから、「ベルリンの壁」崩壊への道を、ライプツィヒ9.4デモに始まる巨大なうねりのなかで話した。ところが、ネット上では、「ベルリンの壁がデモで崩壊したという水島朝穂は嘘つき」というツイートがあふれ、一時たいへんな数になったようだ。いまも、その時の私の話に触れた人は、相当しつこい攻撃にあっているという。例えば、「ベルリンの壁崩壊と市民デモの関係について触れた、水島朝穂早大教授のコメントを紹介した時も、特定の断片情報を「自分は知っているがお前は知らないのか」と勝ち誇る罵倒が来た。壁の崩壊に至るまでの事実経過という文脈で捉えず「点」しか見ない」等々。

私の「5分間スピーチ」を攻撃してくる人々はみな、同じ言葉をリツイートしていた。ネットに詳しい人に調べてみてもらうと、大元の発信源は、自らを「政治学者」とか「国際政治学者」と名乗る大学院生+αのようで、産経新聞のサイトなどを経由して、ネトウヨに「栄養」を補給している。5分間スピーチの片言隻句に飛びつき、いろいろ批判しているが、そこでやり玉に挙げられている「人民」という言葉を私が使ったのは、「人民民主主義」の「ドイツ民主共和国」を批判するコンテクストにおいてである。まったく低レベルで、論評にすら値しないのだが、こうした言説がネット上にはけっこう滞留している。

さて、この8月13日は「ベルリンの壁」ができて55周年だった。この11月で、「崩壊」から27年。「壁」のことを生活実感として知らない人たちの数が増えている。2年前、水島1年ゼミ(導入演習)の学生たちに、「ベルリンの壁」崩壊から4分の1世紀たったことを、ビデオをみたあとに書いてもらった。その結果、「壁」崩壊はますます遠い世界になっていることがわかった。

ドイツでも、「壁」崩壊以降に生まれた世代(27歳以下)が2242万人を超えた(連邦統計局2014年末現在)。ドイツの全人口(約8177万人)の27%にあたり、当時12歳前後の子どもだった人々を加えれば、人口の42%近くが「壁」崩壊を実感していないことがわかる。戦争体験世代が少なくなったと嘆かれた「戦後27年」は1972年である。「沖縄本土復帰」の年。それくらいの時間が過ぎている。いま、メキシコ国境に「壁」をつくれと叫ぶ人物が合衆国大統領の座を狙っている。ガザ地区とヨルダン川西岸地区は、「ベルリンの壁」崩壊以降につくられた巨大な壁によって隔離されている。難民を阻止するためにハンガリーは、セルビアとの国境に鉄条網の「壁」をつくった。「ベルリンの壁」崩壊で「冷戦」が終わったといわれたが、いま、「冷戦の終結の終わり」を迎え、世界各地に新たな「壁」がつくられはじめている。

「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」(E.H.カー)という言葉の重さと深さ、そして濃さを感じる。次回は、ヴァイマル近郊のブーヘンヴァルト強制収容所(NHK『新・映像の世紀』第3回に出てくる)の「もう一つの過去」と、「ブロッケン山」の頂上の「過去」について書くことにしよう。

(この項続く)

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