連邦憲法裁判所に入る――建物の軽さと存在の重さ
2016年9月5日

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7月1日(金)。ボン大学のギュンター・ディステルラート講師のお誘いで、ゼミの連邦憲法裁判所見学に同行させてもらうことになった。280キロを2時間半で走り、バーデン=ヴュルテンベルク州カールスルーエ(Karlsruhe)に着いた。ベルサイユ宮殿を模したとされる美しい城(Schloss)を軸に、道路網が放射状に伸びる「扇状都市」(Fächerstadt)である。

城のすぐ横に連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)がある。ここに来たのは1979年と99年に続き3度目だが、かつての「直言」の表現を使えば、「誰もが一見して「エッ、これがあの…」というほど、それは質素な建物である」。「ドイツでは議会や政府の所在地とは別の都市に、最高の司法機関を置くのを常としてきた(旧ライヒ裁判所はライプツィヒ)。まさに「権力との象徴的な距離」である(同)。

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8月にライプツィヒに行った際、連邦行政裁判所(Bundesverwaltungsgericht) も訪れた。その日は立ち入りが認められない日だったが、守衛に「2分間だけ」と頼み込んで入れてもらった。旧ライヒ裁判所(Reichsgericht)の建物を使っているだけあって、カールスルーエの憲法裁判所とは比べ物にならないほど重厚感があった(写真)。実は16年前、首都のベルリン移転にともない、連邦憲法裁判所のライプツィヒ移転が検討されたことがある。裁判官たちは10対5(1人欠席)の多数でカールスルーエにとどまることを決定した。その後、ベルリン「動物園駅」近くにあった連邦行政裁判所がライプツィヒに移ることで、建物の上での格差はついてしまった。しかし、今回ここを訪れてみて、建物はなるほど軽い(老朽化・痛みも目立つ)が、その存在の重さはますます増していると思った。

新聞を読んでいると、「ベルリンの決定に対して、カールスルーエがストップをかけた」という見出しに出会うことがある。言うまでもなく、カールスルーエとは連邦憲法裁判所のことだ。2008年12月、ドイツはEU諸国の海賊対処ミッションの一環としてフリゲート艦を派遣したが、これは、集団的自衛権行使として「アフリカの角」に派遣したのとは違う艦だった。その名前が「カールスルーエ」だったのは偶然だろうか。艦橋横には、射撃できる場合が紙に書かれ、セロテープで貼ってあった(写真)。

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さて、連邦憲法裁判所に入るとすぐ、連邦警察(2005年まで連邦国境警備隊)による厳重なセキュリティチェックがある。そこを抜けると、質素な椅子が置かれた待合室のようなところに出る。歴代裁判官の顔写真が貼られている。案内の裁判所職員(女性)がやってきた。1階の会議室に通される。そこでパワーポイントを使った説明が始まった。憲法裁判所の成り立ちから組織、権限、判決が出るまでの手続きなどの説明がコンパクトに行われた。私が興味深かったのは、国家諸機関における憲法裁判所の位置関係を示すイラストである。ドイツの国土の形に、ベルリンの連邦議会や連邦政府、各州の位置に州議会、州政府・・・が書かれ、カールスルーエの位置に連邦憲法裁判所がある。日本で国会、内閣、裁判所と都道府県などを日本地図に書き込むことはまずないだろう(中央諸機関が東京一極集中だから無意味)。

階段をのぼって第2法廷に入る。連邦憲法裁判所には第1と第2の法廷があり、裁判官はそれぞれ8人。アンドレアス・フォスクーレ長官は第2法廷の裁判長を兼ねる(憲法裁判所のHP)。第1法廷の裁判官8人中7人、第2法廷の8人中4人が憲法、行政法、国際公法などの大学教授である。16人中、博士号のない裁判官は、第2法廷の2人(1人は通常裁判所の裁判官出身、もう1人は裁判官の後、ザールラント州元首相)だけである。日本では考えられないアカデミックな裁判所と言えるだろう。

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法廷内で女性職員の説明が30分ほど行われた。この写真は職員がパワポ画面に映し出した実際の審理風景である。終了後、学生たちが職員にいろいろと質問している。今日は第2法廷だけで、第1法廷には立ち入れないというので、許可を得て記念撮影させてもらった

それにしても、この裁判所は建物の外側だけでなく、内部も安普請である。裁判官の椅子も、日本の最高裁や裁判官弾劾裁判所の椅子に比べたらかなり質素である。天井の照明もパイプがむき出し。ドアや壁も薄く、ライプツィヒの連邦行政裁判所と比べれば、田舎の市役所という感じである。この裁判所の「透明性」を象徴するとされているガラス張りも、女性職員によると、実は太陽が入りすぎて夏はかなり暑いのだという。この日も説明を聞いている間、けっこう暑かった。これも実際に法廷を体感してみて初めてわかることである。

だが、この安普請は意図的にそうされている節がある。「西ドイツ」と呼ばれた時代の首都ボンは、50年間、「暫定首都」という建前を維持した。連邦憲法裁判所もいわば「仮設庁舎」の感覚でつくられた。統一後にライプツィヒのあのライヒ裁判所に移る。これが「大義」だった。しかし、カールスルーエでの連邦憲法裁判所の存在と活動は、各方面からポジティヴに評価されることになり、前述したように、2000年にここにとどまることが決まった。立法と行政のトップはベルリンに移ったが、司法のトップはカールスルーエの「仮設庁舎」に残ったわけである。まさに「素晴らしきかな暫定性」は、ここでも言えるだろう。将来、庁舎建て替え問題が起こった時、おそらくガラスを多用したモダーンな造りになるに違いない。

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建物の作りのある種の「軽さ」、質素さ、簡素さは、この裁判所の存在感とその役割の重さとの対比で興味深い。「連邦憲法裁判所は、連邦の他のすべての憲法機関に対して自律的でかつ独立した裁判所である」(連邦憲法裁判所法1条1項)。ドイツ基本法93条を中心に、この裁判所の管轄権が規定されているが、実に多岐にわたる。具体的規範統制はもちろん、事件性を要件としない抽象的規範統制、憲法諸機関内の調整、機関争訟、政党禁止(基本法21条2項)などのほか、最も重要な権限として、憲法異議(Verfassungsbeschwerde)と呼ばれる、個人の直接または間接の基本権侵害に対する救済手段がある。1951年から2015年12月末までの数字で、連邦憲法裁判所に係属した事件220353件のうち、憲法異議は212827件と実に96.58%にのぼる。しかし、実際に異議が認められたのは4872件で、処理された事件の2.3%である(連邦憲法裁判所サイトによる)。

ここで重要なことは、憲法異議が認容されることよりも、その訴えによって憲法上の問題として裁判所の審査の俎上に載り、そのことにより法律や制度などに憲法の光があてられることで、問題の所在が明確にされることである。主観的権利の救済の形をとって、実は法律や制度の問題を明らかにし、改善への動機をつくる。そこに憲法裁判所の審理の「客観法的機能」の意味がある。

ごく最近、憲法異議が認容される可能性はきわめて低いが、話題となっている事件がある。8月31日、市民団体が、大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定(英: Transatlantic Trade and Investment Partnership: TTIP)と、カナダとEUとの間の包括的経済貿易協定(Canada-EU Comprehensive Economic and Trade Agreement:CETA)とが憲法に違反すると主張して、憲法異議を申し立てた。その際、申立人数は12500人に達し、「ドイツ連邦共和国史上最大の市民訴訟(Bürgerklage)」(General-Anzeiger vom 31.8.2016, S.3)となった。この協定は、貿易自由化だけでなく投資や知的所有権などを含む非常に広範にわたる協定で、日本のTPP問題とも共通する論点を含む。しかし、政権がかなり急いで調印にもっていこうとしているため、まずはCETAに対する憲法異議を申し立てたわけである(Süddeutsche Zeitung vom 31.8, S.5)。その根拠は、CETAは連邦議会の承認なしに発効するとされている点である。日本のTPP同様、ISDS条項(投資家対国家の紛争解決条項)への反発も強い。申立人らはこの点についても、連邦議会の同意なしに可能になっていることを問題にする。憲法裁判所の正面に段ボール箱が詰まれ、申立人代表がそれを裁判所の訴状受付の窓口まで、手渡しで運んでいく。これをテレビに撮らせてニュースになった(ARD 9月1日20時のニュース)。憲法異議としての法的主張としてはかなり荒っぽいが、客観法的機能をにらんだパフォーマンスと言えよう。

さて、見学コースも終りに近づき、図書館や専門官たちの執務室を見てまわり、渡り廊下を通って出口に向かう途中、私はそこに展示されている「贈り物」に気づいた。女性職員に、立ち止まって学生たちにこれについて説明するように求めた。私は、90年代東欧における「立憲主義のルネッサンス」と呼ばれる現象の中心には、違憲審査制ないし憲法裁判所への関心の高まりがあったと指摘した(直言「6月17日事件」60周年――立憲主義の定着に向けて(3)」)。その際、カールスルーエの連邦憲法裁判所は重要なモデルとなった。とりわけ基本権侵害の救済手段たる憲法異議の制度は、スイス、スペイン、オーストリアの憲法裁判所で採用されているが、ここ連邦憲法裁判所の制度とその実践は、90年代において、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、アルバニア、ルーマニア、スロベニアなどの東中欧の国々(多くは旧ソ連圏の社会主義国)に継受されていった(『比較法学』41巻3号〔PDFファイル〕参照)。その意味で、カールスルーエは、世界各国の憲法裁判所の設計に大きな影響を与えてきたと言えるだろう。

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左の写真の上段左からマケドニア、コソボ共和国、スロベニア、キルギスタンの憲法裁判所からの贈り物である。下段左がイタリア憲法裁判所、そして右がご存じ、日本国最高裁である。江戸切子のペアひとくちビールセット(写真)。切子グラスはピンからキリだが、これはぱっと見、かなり大衆的な方に属するだろう。

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右の写真は上段左からチリとスペインの憲法裁判所、フランス憲法院、下段はパナマ最高裁である。スイス、アルメニア、ブルガリアの憲法裁判所からのものもある(写真)。モンゴル憲法裁判所からのものはちょっと見にくいが、楽器のようである(写真)。韓国憲法裁判所は、高価な白磁を贈っている(写真)。チェコとポーランドの憲法裁判所からの贈り物もある(写真)が、この2カ国の憲法裁判所は現在危機的状況にある。ポーランドでも憲法裁判所裁判官の人事に政権が介入してコントロールしようとしている。実はこれに関する原稿を書いていたのだが、パソコンがウィルス感染したためそのメモが使えないのでここでは省略させていただく。なお、ハンガリーでは、2011年頃から「立憲主義からの逆走」が起きている。「反立憲主義の憲法」たる2011年憲法はその象徴である(「試練に立つ立憲主義?--2011年ハンガリー憲法の『衝撃』(1)」参照〔PDFファイル〕)。トルコでも、「クーデター未遂事件」をのあと、憲法裁判所の判事を逮捕するなど、エルドアン大統領の独裁政治が続いている(ちなみに、この点で、近所のなじみの店のトルコ人経営者と「論争」になった。彼は国民がエルドアンを支持しているのだから、裁判官やジャーナリストを逮捕してもいいのだと主張した)。どこでも、憲法裁判所というのは、国民に圧倒的支持がある議会や政府の決定でも、憲法に違反すればそれを無効にできるという仕組みであり、ここに立憲主義原理と民主主義原理の「緊張関係」が存在する(Vgl. Marcus Höreth, Verfassungsgerichtsbarkeit in der Bundesrepublik Deutschland, 2014, S.111)。

ひるがえって日本を見てみると、この半年の間に、国と社会のすみずみにまで「安倍カラー」が浸透してしまったかのようだ。また、憲法改正について、何と野党の民進党(私が日本を出る時はまだ「民主党」だった)も前向きで、代表選に立候補した玉木雄一郎氏が、「法案が憲法違反かどうかを独自に判断できる憲法裁判所の創設を訴えた」という(『日本経済新聞』2016年9月4日デジタル)。憲法改正の土俵にのるなら憲法裁判所の議論からということだろうが、「お試し改憲」の枠内で踊ってどうするのか。11年前、衆参両院の憲法調査会では、憲法裁判所の構想も議論されていた。司法消極主義の現実に対する処方箋として、大陸型の憲法裁判所の導入が提言されたことがあるが、これには憲法改正が必要となる。また、最高裁のなかに憲法事件を扱う「憲法部」を設置する提案などがいろいろ議論されていた(衆議院『憲法調査会報告書』2005年4月)。政府・与党側から聞こえてくる憲法裁判所論というのは、個人の権利救済のためというよりも、政府の施策に対する違憲の主張を退けてもらい、合憲性を確実にするということだろう。これは「合憲判断積極主義」とも言うべきもので、安易にこの議論にのってはならない。憲法裁判所や違憲審査制について語る際には、立憲主義と民主主義との緊張関係の問題への自覚が求められる所以である。「憲法の番人」に対する仰天の理解が中枢から臭い立つこの政権では、まっとうな憲法裁判所論は成立しない。仮に憲法裁判所が新設されるなら、前述のドイツと異なり、裁判官の人選は時の内閣に左右され、憲法裁判所の本来の機能が発揮されない可能性が高い。ドイツの制度を日本にも導入しようという安易な議論は慎むべきだろう。

裁判所の見学が終り外に出ると、曇り空が続くボンとは大違いで快晴だった。バスが出発するまで、講師と助手と3人で裁判所周辺を散歩した。かつてきたときも感じたが、この裁判所には柵も塀もない。それどころか、公園との区別がつかず、裁判所横の芝生で日光浴をする若者がいる(仰天の写真をご覧ください)。芝生の真ん中に「監視カメラあり」の小さな立て札が目立たないようあるだけ。日本の最高裁の前で腰を下ろしてしばらく座ってみたら、警備員が飛んでくるだろう。この違いは大きい(木佐茂男氏監修『日独裁判官物語』(1999年)〔YouTube〕)。

《付記》
9月4日のメクレンブルク=フォアポンメルン州議会選挙で、右翼ポピュリスト政党の「ドイツのための選択肢」(AfD)が、初挑戦で一気に20.8%を獲得して、第2党に躍り出た(9月4日ZDFニュース解説)。あおりを受けて、メルケル首相の与党・キリスト教民主同盟(CDU)は得票率19%で前回(2011年)比マイナス4%。第3党に転落した。第1党は社会民主党(SPD)だが、30.5%でマイナス5.1.%。左派党(Linke)は13.2%とこれもマイナス5.2%と目減り最大。緑の党は3.9%減の4.8%で、5%の壁(阻止条項)を超えられずに議席を喪失した。前回、5.9%で、州議会レベルの初議席を得たネオナチのドイツ国民民主党(NPD)は、得票を3%減らして議席を失った。投票率は61.4%で、前回の51.5%を10ポイント近く上回った。「ドイツ連邦共和国設立以来、AfDほど早く、かつ強力に議会に進出した新政党はなかった」(Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 5.9, S.1)と言われるだけに、「AfDショック」の影響は長く尾を引くだろう。有権者130万人の小さな州の選挙の大きな効果。それは難民問題と旧東の構造的問題(失業、貧困、過疎)などすべてに関連している。メルケル首相の出身地で、かつ自身の選挙区がある州での敗北は大きい。何より、外国人が少なく、難民を最も受け入れていない州(16州中14番目、人口比でも少ない)で、「難民排斥」の党が大躍進した。私の住むボン市には3271人(8月22日現在)の難民がいて、生活現場で難民問題を体感しているが、それとは違って、彼らは旧東時代からの構造的な問題(失業、貧困)と「難民排斥」とを直接結びつけ、極右のNPDやAfD支持に向かう。一部の町では極右だけで過半数を超える得票をしている(die tageszeitung vom 6.9, S.1)しかし、この選挙の真の第1党は「棄権者」(Nichtwähler)で、38.6%である。AfDに入れた人の67%が、既成政党に幻滅して支持政党をかえたという分析が上記テレビ解説にあった。左派党(共産党)支持者の極右への転換が最も激しい。勢いにのったAfDのペトリー党首は、「メルケル時代の終りの始まり」を叫ぶ(ARDニュース)。9月18日はベルリン市(州の扱い)の議会選挙である。AfD の躍進が予測されるだけに、日本に帰ってからネットで持続的にチェックしていこう。
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