2016
2016/1/4:「海外派兵リアル」の年――「ドイツからの直言」再び
2016/1/18:「直言」19年、1000回――さまざまな反響
2016/1/25:なぜ、いま緊急事態条項なのか――自民党改憲案の危うさ
2016/2/8:雑談(111)映画「野火」をみる――戦争のリアル
2016/2/15:会計検査院と特定秘密保護法――憲法90条の今日的意義
2016/2/29:「軍」の自己主張――帝国憲法の緊急事態条項と「2.26事件」80周年
2016/3/7:憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて
2016/3/14:子どもの情景――アベノミクス「出生率1.8」と待機児童問題
2016/3/21:勲章は政治的玩具か――「イラク戦犯」に旭日大綬章
2016/3/28:きな臭い見送りと出迎えと、再び――「ドイツからの直言」へ
2016/4/4:17年で変わったこと、変わらないこと――ドイツからの「直言」(1)
2016/4/11:「自由」と「安全」と――ドイツからの「直言」(2)
2016/4/18:難民問題が与えるさまざまな影響――ドイツからの「直言」(3)
2016/4/25:再訪・政府核シェルター――緊急事態法の「現場」へ(その1)
2016/5/2:再訪・政府核シェルター――緊急事態法の「現場」へ(その2)
2016/5/9:外国人管理の現場へ――安倍首相の欧州「首脳外食」を横目に
2016/5/16:25年ぶりのドイツの「軍拡」――第7次基本法改正60周年に
2016/5/23:雑談(112)ドイツの生活(1)トイレ編――トイレの話(その3)
2016/5/30:ドイツ基本法67周年の風景――「自由の敵」のかたち
2016/6/6:過去といかに向き合うか、その「光」と「影」(その1)――アルメニア人集団殺害決議
2016/6/13:過去といかに向き合うか、その「光」と「影」(その2・完)――ヒロシマとヴェルダン
2016/6/20:ベルリン首都決定の25年――ライン川からシュプレー川へ
2016/6/27:「連合」の終わりの始まり?――国民投票の悩ましきAmbivalenz
2016/7/4:「大後悔」の一票にしないために――参議院「国権の再考機関」の選挙
2016/7/11:「政治家の資質」を問う――『職業としての政治』再読
2016/7/18:「戦争に勝者はいない」ということ――ヴェルダンで考える
2016/7/25:スターリングラードの「ヒロシマ通り」――独ソ開戦75周年(1)
2016/8/1:ロシア大平原の戦地「塹壕のマドンナ」の現場 へ――独ソ開戦75周年(2)
2016/8/8:「収容所群島」とグラーク歴史博物館――独ソ開戦75周年(3・完)
2016/8/15:象徴天皇の「務め」とは何か――「生前退位」と憲法尊重擁護義務
2016/8/22:ペギーダの「月曜デモ」――「ベルリンの壁」崩壊から27年(1)
2016/8/29:ドイツで「冤罪事件」に巻き込まれる――車内改札制度の盲点
2016/9/5:連邦憲法裁判所に入る――建物の軽さと存在の重さ
2016/9/12:さようなら、ボン!(その2)――ドイツ基本法の故郷を歩く
2016/9/19:沖縄「高江」から見えるもの――それにもかかわらず(Trotz alledem)
2016/9/26:変わったこと、変わらないこと――「ドイツからの直言」最終回
2016/10/3:2つの「ドイツ統一の日」――欧州の揺らぎのなかで
2016/10/10:憲法97条は条文整理の対象にならない――「アベコベーション」の日本へ
2016/10/17:「駆け付け警護」――ドイツに周回遅れの「戦死のリアル」
2016/10/24:「総理・総統」へ?――権力者が改憲に執着するとき(その3)
2016/10/31:わが歴史グッズの話(38)最高「責任」者とスターリングラードの水筒
2016/11/7:「多選自粛」を反故にする首長たち――安倍色の世界に
2016/11/14:トランプ政権と新しい「壁」の時代――「ベルリンの壁」崩壊27年後の11.9
2016/11/21:ふたつの「駆け付け警護」―――最高責任者の無責任
2016/11/28:権力は人事である――トランプ政権の正体が見えてきた
2016/12/5:「壁」思考の再来――ベルリンから全世界へ?
2016/12/12:カジノ賭博解禁法案の闇と影――この国に国会はないのか
2016/12/19:安倍政権の「媚態外交」、その壮大なる負債