昨年12月に古いVHS(ビデオ)を入手した。「青函防衛を担う本州最北端の精鋭部隊」「陸上自衛隊第5普通科連隊 厳寒の八甲田雪中行軍」というタイトルのもので、全55分。研究室のビデオデッキでみたが、スキーを履き、雪中迷彩服に雪中用カバーをつけたヘルメット姿の隊員が八甲田山系で冬季雪中戦技演習をしている。カセットには付録として、「第5普通科連隊の災害派遣出動の状況」(1958年9月~2008年1月)という資料がついていた。「八甲田山行方不明者捜索」がけっこうある。帝国陸軍の歩兵第5連隊の連隊番号を継承している。その歩兵第5連隊は、日露戦争前の1902年1月、八甲田雪中行軍遭難事件を起こしている(210人中、199人が死亡)。自衛隊の第5普通科連隊の方はいま、八甲田の雪中ではなく、年間平均気温30度、乾季の最高気温が50度にもなる過酷なアフリカの大地にいる。
『軍事研究』という軍事専門誌に「市ヶ谷レーダーサイト」というコーナーがある。「北郷源太郎」の名前で毎号書かれ、防衛省・自衛隊の高級幹部人事が詳しい。そこに南スーダン派遣について、次のような記述がある。
「ほとんどの先進国がPKO、特にPKFからは潮が引くように引き上げつつある状況にも拘らず、なぜ日本だけが(未だに「平和憲法」を掲げる日本だけが! )縁もゆかりもないアフリカの奥地にまで出兵しなければならないのだろうか。しかも暫定の司令官代理は中国人なのである。百歩譲って行きがかり上、現在唯一のPKOを持続させたいのなら、今まで通りの「客分扱い」で十分。このタイミングでなぜ新任務付与なのか?なぜ南スーダンでの「駆け付け警護」なのか?というのが、より根源的な問題なのである。自衛官を死地に追いやり無理やりでも「軍神」を作り上げ、ことあるごとにスタンディングオベーションを行ないたいと推察するのはゲスの勘繰りというものだろうか?11次隊は青森の9師団を中心に編成されている。青森の部隊は陸自の中でも質実剛健ながら純朴で大人しい部隊として知られている。偶然の巡り合わせとはいえ、例えばアグレッシブな九州等の部隊ではなく、命令を順守して先に撃たれることはあったとしても先にトラブルを起こすことは考えられない彼ら青森の部隊に最初の過酷な任務が与えられたというのも、底意があってのことではないかと勘繰らざるを得ない」(『軍事研究』2017年1月号147頁「市ヶ谷レーダーサイト」)
自衛隊にきわめて近いサイドからの安倍政権に向けられた鋭い批判である。青森部隊の気質まで熟知している。安倍政権のなかに、「軍神」を作ろうとする「底意」があるのではないかという指摘も鋭い。私も『毎日新聞』2016年11月10日付「論点」で同じニュアンスのことを語っている(PDFファイル)。
右の「自衛隊殉職隊員追悼式メダル」は2年前に紹介したことがある(直言「安倍「最高指揮官」への懐疑」)。2003年10月のもので、石破茂防衛庁長官(当時)の名前が入っている。「自衛隊ニュース」によれば、この年度は陸2人、海6、空3の計11人が殉職者として顕彰された。この11人の遺族がもらったメダルの1つが、いま手元にある。陸上自衛隊のイラク派遣が始まった年だった。「復興支援」の名目で派遣されたが、現地の状況はかなり危ういものだった。なお、右側の人形は、習志野の第1空挺団の隊員の間で作られたもののようである。空挺団のレンジャー旗や陸曹教育隊に入校する学生隊の旗には髑髏(どくろ)マークが使われている。
「自衛隊員の自殺、殉職等に関する質問主意書」(平成27年5月28日提出・質問第246号) は、平成15(2003)年度から26(2014)年度までの自衛隊員の自殺者数を質問している。これに対する政府答弁書(内閣衆質189第246号・平成27年6月5日) によれば、平成15(2003)年度の自殺者は、陸48人、海17人、空10人である。なお、陸の場合、イラク派遣が本格化した04年64人、05年64人、06年65人と、その前後の年と比べて急増している。しかし、これらの自殺者は、先に紹介したメダルがもらえる「殉職者」にはカウントされていない。
ドイツ滞在中の昨年5月、日本の知人から添付ファイル付のメールが届いた。そこに奇妙な図柄のエンブレムの写真があった。日本刀は「刃」で強靱さを、「鞘」で平和を愛する心を表現しているとの説明である。よく見ると、鞘が不自然に長い。ヨーロッパでしばしば見かけるのは、同じ長さの剣を交差させる構図である。それを模倣したのであろうが、少なくとも柄の分だけ鞘は短いから、「平和を愛する心」を鞘で表現するというのだが、かなり苦しい。
警察予備隊から自衛隊の60年代まで、帽章も車両のマークも旭日章と鳩を組み合わせたものが使われてきた。2016年に作られたエンブレムは、ついに軍刀を前面に押し出すものとなった。「普通の軍隊」への道程である。いずれ鞘の代わりに2本の刀を交差させる図柄に変化していくのだろうか。
軍隊となった場合、戦死者が出たとき、「魂」はどこへ行く(行かされる)のだろうか。南スーダン派遣命令を出した稲田朋美防衛大臣は、昨年12月29日、首相の真珠湾訪問に同行して帰国した翌日に、靖国神社を参拝した。「自分の国を守るためには、血を流す覚悟をしなければならない」(2010年12月1日)と言いながら、「私にも大学生の息子がいますが、赤紙で徴兵されるのは絶対に嫌です」(『女性セブン』2016年5月26日号)という稲田大臣は、海外で殉職した自衛官を靖国神社に合祀したいというのが本音なのだろうか。
稲田大臣が参拝した靖国神社に、1941年4月、ある合祀者遺族が滋賀県からやってきた。戦死したのは陸軍軍曹。臨時大祭に招待されたのはその父親と弟だった。遺族であることの証明書は居住地の村長が出している(写真)。招待状の発行責任者は、靖国神社臨時大祭委員長の永野修身海軍大将(軍令部総長)である。案内状には臨時大祭に参加する段取りが書かれているが、集合時間が複数設定されているなど、いかにたくさんの遺族が九段を目指したかがわかる。
居住地から東京までの乗車券と市内電車優待券も送られている。皇后から「下賜」された絵巻物(写真)も「合祀者遺族セット」に入っている。息子が、あるいは夫が戦死して、おそらくは生まれて初めての上京という人たちもいただろう。そういう人たちのために、手取り足取りの配慮がなされている。
靖国神社は戦争のために死ぬことを正当化し、促進し、(遺族に)納得させるためのイデオロギー的国家装置だった。単なる神社ではなく、それ自体が軍事装置だった。しかし、今日、自衛隊員は靖国神社に合祀されることを求めるだろうか。山口県護国神社への合祀を拒否した遺族の事件(自衛官合祀訴訟)もあり、また、特攻隊員でも靖国への合祀を拒否して死んだ上原良司のような人もいた(直言「靖国神社へは行かないよ―ある特攻隊員の遺書」)。
稲田防衛大臣の靖国参拝は、「駆け込み警護」の任務付与により、「戦後最初の戦死者」が出ることを見越した、合祀への助走(条件整備)ではないと言い切れるか。ドイツでも「戦死」の意味づけに苦労している。O. デペンホイアーは、「我々は何を防衛するのか」という論稿のなかで、アフガンなど各地で「我々は一体何を防衛しているのか。そこで何のために連邦軍兵士は死ぬのか」という問を立て、防衛概念は、国家性の基本属性(国土、国民、主権)と概念上関連していること、アフガンなど国外で戦死した将兵は、「アフガンの復興のために」死ぬのではない。「祖国〔ドイツ〕の平和、法、そして自由のために」死ぬのだと書いている(O. Depenheuer, Was wir verteidigen, in: FAZ, Staat und Recht vom 17.3.2009)。
日本でも遅かれ早かれ同じような問題に直面することになるだろう。このような「靖国グッズ」を復活させてはならない。
《付記》脱稿後、『東京新聞』1月15日付「こちら特報部」欄で、青森駐屯地周辺を取材した記事を読んだ。青森県の有効求人倍率は0.95で、全国平均の1.23を下回ること、完全失業率も沖縄に次ぐワースト2位の4.5%。大学進学率は35%で、高卒の4割が県内に就職先が見つけられない。自衛隊は地元の有力な就職先である。都道府県の自衛官の出身地で最も多いのは北海道で、青森は第4位。だが、人口10万人あたりで計算すると、青森は約795人で断トツの第1位だそうである。青森県立高校教諭は、「所得が低く、大学進学率が低い所ほど、自衛官が多い。つまり、経済的理由で進学できず、働き口がないから自衛隊に入る。・・・事実上の経済的徴兵ではないのか」と語る。