安倍晋三トルクメニスタン大学名誉教授の改憲論と大学論
2017年5月22日

写真1

写真1

5月19日午後、共謀罪法案(組織的犯罪処罰法改正案)が衆議院法務委員会で強行採決された。11年前の共謀罪法案のときの国会審議を私は「国会末期の風景」と評したが、当時はまだこの法案を廃案にすることができた。しかし、現在の法案の不明確さ、曖昧さ、法案としての立て付けの悪さ、さらに「国務大臣としての資質の欠如ぶりは憲政史上、例を見ない」(山尾志桜里議員)とまで言われてしまった所管大臣の不適格性などに鑑みれば、いまの日本の国会は「終末期」に入ったと言わざるを得ない。そのなかで、18日の衆院本会議における山尾志桜里議員(民進党)の野党4会派を代表しての金田勝年法務大臣不信任決議案趣旨説明は、45分間にわたって法案の問題点を浮き彫りにしており、見事な演説だった。この問題は引き続きこの「直言」でも論じていく。

「もう一つの北朝鮮」と呼ばれている国がある。中央アジア南西部の国トルクメニスタンである。国民は胸に大統領の顔を描いたバッジをつけ、随所に大統領の銅像がある。「国境なき記者団」によれば、報道自由度ランキングでは北朝鮮に次いで世界ワースト2位。人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」も、「世界で最も弾圧的な政府の1つである」と評している。「地球儀を俯瞰する外交」を気取る安倍晋三首相は、トランプ、プーチン、エルドアン(トルコ)、ドゥテルテ(フィリピン)など、専制的特質をもつ政治指導者と妙に気が合うのだが、トルクメニスタンのベルディムハメドフ大統領も例外ではない。安倍首相は、2015年10月23日に訪れた際に大統領に歓待され、トルクメニスタン国立総合大学において名誉教授の称号を授与されている。冒頭の写真は、独裁者の写真の前で、同国のアカデミックガウンを着て、同大学長とともに名誉教授称号記をもつ安倍首相である(官邸ホームページより)。

岸田文雄外相が4月末に同国を訪問した際、ベルディムハメドフ大統領を出迎えるため、原産馬の祭典が行われる競馬場の入り口で、他国の外交官らとともに大統領到着の1時間前から整列させられるということがあった。外交関係者を出迎えに使う非礼は、ベルディムハメドフが自らの権威を高めるために仕組んだとされている(『産経新聞』2017年5月4日付)。だが、この独裁者は安倍首相には最大限の「接待」をした。そのなかには、名誉教授称号記の授与も含まれていた。この称号記は、官邸5階の総理執務室か、富ヶ谷の私邸に、額に入れて飾ってあるのだろうか。なお、安倍首相ときわめて親密な関係を続けているトルコの独裁者・エルドアン大統領に名誉博士号を授与した日本の大学もある。「名誉博士」や「記念講演」のなかには、時の政権の意向を忖度したようなものがあるのは、大学人として悲しむべきことである。

写真3

写真4

さて、この間の安倍首相とその政権の暴走ぶりは常軌を逸している。特に驚いたのは、「そもそも」という言葉とその辞書的意味についての答弁書である。共謀罪法案の審議のなかで、安倍首相が「共謀罪」の適用対象について「「そもそも」罪を犯すことを目的とする集団」と答弁したことから、「そもそも」を「元から」という一般的な意味でとらえると、オウム真理教のような団体が対象外になると野党から追及された。首相は「辞書で調べたら「基本的に」という意味もある」と答弁したことから、5月12日に政府は、「そもそも」の意味について、辞書には「(物事の)最初。起こり。どだい。」という記述もあり、「どだい」には「物事の基礎。もとい。基本。」等の記述もあるとする政府答弁書を閣議決定した(内閣衆質193第264号〔PDFファイル〕)。安倍首相が国会答弁での苦し紛れのこじつけを閣議決定でオーソライズしたわけである。なお、新聞の校閲担当記者が30種類以上の辞書を調べてみたが、「そもそも」という言葉に「基本的に」という意味はなかったそうである(『東京新聞』5月13日付)。日本語の使い方や意味についてまで公権力が介入して、無理筋の拡張をはかるところまでこの国はきてしまった。安倍首相は1月24日の参院本会議で、「訂正云々というご指摘はまったく当たりません」の「云々」を「でんでん」と読んで顰蹙をかった(動画)が、これも、「今後は「云々」を「でんでん」と読むものとする」というような閣議決定でフォローすることになるのだろうか。

昨年9月にドイツの在外研究から帰国してすぐに書いた直言「憲法97条は条文整理の対象にならない―「アベコベーション」の日本へ」をここで引用しておきたい。そこでは、「極端な発言で世論をゆさぶり、挑発し、最終的に強権的な支配を強化して立憲主義や法の支配を危うくする政治家とその候補が世界中に増殖している」と指摘して、当時大統領候補だったトランプのほか、専制的政治家(Autokrat)としてトルコのエルドアン大統領やロシアのプーチン大統領らを挙げ、これらの政治家たちと安倍首相が親密な関係にあると述べている。そしてこう続ける。

この首相の政治が始まった時、私は「「アベコベーション」の日本――とりあえず憲法96条?」を出して、「憲法96条先行改正論」を批判した。安倍首相が当時やる気十分で取り組んだのは、立憲主義からすれば「あべこべ」の禁じ手、つまり憲法改正発議の要件を「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」から「過半数の賛成」に引き下げて、憲法改正をやりやすくするという、権力者としてあまり強引で、かつ稚拙な手法だった。さすがに、改憲に親和的な人々からも反発を招いてこれは頓挫した。そもそも「あべこべ」とは、事柄の順序や方向などが通常の状態とは反対であること、またそのさまをいう。私は、安倍首相が押し進める、この真っ逆さまの手法を「アベコベーション」と呼んできた。 憲法改正についての「アベコベーション」は、例えば、今年〔2016年〕2月3日の衆院予算委員会において、稲田朋美自民党政調会長(当時)との質疑に端的にあらわれている。稲田氏が、「憲法9条第2項の文言について、憲法学者のおよそ7割が自衛隊はこの条項に違反ないし違反する可能性があると解釈している。このままにしておくことこそが立憲主義を空洞化させるものだ」と質問すると、安倍首相は、「7割の憲法学者が、自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」と答弁した。憲法がまずあって、その条文に反する状態がその後に生じているわけで、憲法研究者の多数は学問的にそう解釈しているにすぎない。違憲の現実を合憲にするために憲法規範を改正するというのは、まさに「アベコベーション」そのものである。

5月3日の読売インタビュー(+ビデオメッセージ)は、この「アベコベーション」をさらに押し進め、憲法改正発議権をもたない首相が「2020年」という期限を切り、しかも発議権を有する国会議員の頭越しに、誰も考えなかったような9条改正方式を押しつけるものだった。実際、憲法改正を促進する立場の人々にとっても、決してプラスになることのない唐突な問題提起だった。自民党憲法改正推進本部長代行の船田元氏は、「首相の発言は、現場の頭の上を飛び越えてしまったという印象がぬぐえない。9条の1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持)をそのままにして自衛隊の存在を書き込むことは従来、党内では少数意見だった。2項を削除する方向で議論してきたので、首相の提案にちょっと驚いている」と語っている(『毎日新聞』5月16日付インタビュー)。

自民党の改憲案は2項の「戦力不保持」「交戦権否認」を削除して、「国防軍」を置くというものである。しかし、安倍首相は党の方針とは異なり、2項を存続させて、「9条に自衛隊を書き込む」という新たな方式を唐突に提案した。9条3項ないし9条の2を新設する「加憲」方式のつもりだろうが、そのもたらす「効果」について安倍首相には自覚が見られない。「自衛隊」という文言をそのままにしておくことは、2項の「戦力不保持」の規範的影響を受け続けることを意味する。つまり、徴兵制や軍刑法、軍法会議をもつ「普通の軍隊」になるにはハードルが高いのである。これは軍隊化をめざす人々からは不満が出てくるところだろう。だが、実は本当の狙いは、「自衛隊」の明文化により、2項の骨抜き、換骨奪胎を完成させるということだろうか。となれば、これまで9条2項が自衛隊に対して果たしてきた立憲的統制のダイナミズムが崩壊して、「自衛隊」のまま「軍隊」となることを意味する。「憲法条文内のクーデター」と言えようか。安倍流ダブルスピーク(二重語法)の進化はとまらない。

調べ書

ところで、憲法学において自衛隊違憲論が多数を占めてきたのは、純粋に憲法解釈の問題として9条と自衛隊との関係をみたとき、自衛隊は2項の「戦力」に該当して、違憲と解釈せざるを得ないからである。それを「反自衛隊」の政治論だとゆがめて、7割の憲法研究者が違憲とする9条を改正することが「立憲主義」にかなうとする「アベコベーション」を展開したのが安倍首相と稲田総務会長の質疑(2015年2月3日衆院予算委員会)だった。5月3日の安倍インタビュー+ビデオメッセージは、これを正面から押し出してきたわけである。

自衛隊は1954年から半世紀以上にわたり、歴代内閣の憲法解釈で一貫して「合憲」とされてきた。これは自衛のための必要最小限度の実力は憲法に違反しないとする「自衛力合憲論」である。安保法案の審議の頃に安倍政権が重用した「集団的自衛権行使を合憲とする憲法学者たち」は、ほとんどが「自衛戦力合憲論」で、これは憲法学界のみならず、政府解釈とも適合しない圧倒的な少数説だった。近年は憲法研究者のなかでは、政府解釈の「自衛力合憲論」を支持するものも少なくない。集団的自衛権の行使は、自衛のための必要最小限度を超えるから違憲というのは、「自衛力合憲論」の帰結でもあった。だから、集団的自衛権行使を無理やり合憲とした「7.1閣議決定」とそれに基づく安全保障関連法(案)を圧倒的多数の憲法研究者が違憲としたのは当然のことであった(NHK憲法研究者アンケート)。何よりも立憲主義を維持するという共通の前提があったからである。

自衛隊が9条2項の「戦力」にあたるとする違憲説をとり続ける研究者のなかには、政治的には自衛隊賛成でも、学問的良心と知的誠実性から違憲と回答した研究者もいるだろう。集団的自衛権行使の違憲性をめぐる憲法研究者アンケートがもたらした「付随的効果」について、全国憲法研究会代表としての立場から、2年前に次のように述べている

この問題では、むしろ逆に、「違憲」という「圧倒的多数」の側に立つことが、世間的には「政府に逆らう」と見なされる。「違憲」という態度表明が、研究者へのさまざまなプレッシャーを生じ、萎縮や自粛に向かうとすれば、それは学問研究に悪影響を及ぼしていく。いまから80年前の「天皇機関説事件」のあとの大学の状況を思い出す。美濃部達吉東大教授の学説を教科書に書いたり、講義で紹介したりすることすら許されなくなった。「誰が美濃部説を採用しているか」を、文部省は学生の講義ノートまで集めて調査して、全国の大学から「天皇機関説」が一掃されていったのである。国が戦争に向かうとき、大学と憲法研究者への圧力が強まる。歴史は繰り返すではないが、「6月4日事件」(国会で憲法研究者の参考人全員が政府提出法案を違憲とした)が、「平成の天皇機関説事件」につながらないようにしなければならない。これを杞憂だと言えないものを、憲法研究者に対する安倍政権の一連の動きを感じる。

写真6

写真8

5月3日の首相インタビュー+ビデオレターが異様なまでに憲法研究者を敵視することによって、上記の危惧は深まっている。この人の改憲論はまっとうな「論」ではなく、祖父への「思い」と「思い入れ」が、彼特有の「思い込み」に転化し、さらに「思い違い」を加味して「壮大なる勘違い」へと進化・発展したものである。その主張は、「『われわれの手で新しい憲法をつくっていこう』という精神こそが、新しい時代を切り開いていく」とか「溌剌とした気分を醸成していくため」といった「あまりに情緒的である」と私が13年前に批判したところからまったく進歩していない。にもかかわらず、自民党の憲法改正推進本部顧問の古屋圭司選挙対策委員長は、安倍首相が「新憲法2020年施行」を提案したことについて、「総裁がはっきり自分の(憲法改正についての)希望を述べた。われわれ憲法改正推進本部が議論する時期は終わっている。なにを提案するかという時期に来ている」と述べたという(『朝日新聞』)。5月21日付)。自民党内には憲法改正について議論する自由はなくなり、総裁の提案をただ具体化することしか許されなくなったようである。自民党は、「云いたいことは なんでも云える 自由がここに あるんだぜ…」(自民党結党14年記念ソング「話しあいのマーチ」)という組織ではなくなり、三代目が支配する北朝鮮労働党にますます近づいている。

そして今回の安倍首相インタビューでは、上記の唐突な9条改憲論と並んで、「高等教育無償化のための改憲」という奇妙奇天烈 摩訶不思議 奇想天外な主張が展開されている。

安倍晋三トルクメニスタン大学名誉教授はいう。「70年前、憲法が普通教育の無償化を定め、小中学校も9年間の義務教育制度が始まった。我が国が戦後発展していく大きな原動力になった。しかし、70年の時を経て経済も社会も大きく変化した。子どもたちがそれぞれの夢を追いかけるため、高等教育も全ての国民に真に開かれたものとしなければならない。中学を卒業して社会人になる場合、高校を卒業してなる場合、大学を卒業してなる場合。それぞれの平均賃金には相当の差がある。より高い教育を受ける機会をみんなが同じように持てなければならない」と。また、5月9日の参院予算委員会では、高等教育無償化のための改憲が必要な理由として、「世代を超えた貧困の連鎖を断ち切り、家庭の経済事情にかかわらず、子どもたちが夢に向かって頑張ることができる日本でありたい」と述べている。

そもそも自民党は教育無償化に消極的で、民主党政権時代の高校無償化を「バラマキ」だと批判し、安倍政権は2014年4月に所得制限を設けたことは周知の事実である。国際人権A規約13条2項b、cは、中・高等教育は、「無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」と定める。日本は1979年にこれを批准した際に、中・高等教育の無償化を規定した部分は留保していた。民主党政権下の2012年にこの留保を外した。これは評価できることである。要は人権規約の世界スタンダードに即して、国の政策として、給付型奨学金の充実と学費の無償化の方向に舵を切ればよいだけの話である。憲法改正などまったく必要なく、法律の改正や予算措置でできることである。そうした努力をしないどころか、逆に大学に対する硬軟おりまぜた介入を続ける安倍政権に、これ以上教育の現場を荒らさせてはならない。すでに自民党内では「高等教育無償化」は「プログラム規定」でいくなどという声も出ているという(『読売新聞』5月19日付)。改憲のためのダシに使おうとしている意図は明白だろう。

大学教育の現場、学生たちの現状をまったくわかっていない人物が、「よく言うよ」の世界である。大学は大きく変容している。とりわけ2004年の国立大学法人化や法科大学院の発足などによって一気に悪化した。それについては、直言「大学の文化と「世間の目」」で詳しく書いた。とりわけ安倍政権のもと、教授会の権限が大幅に縮小されることで「大学の自治」の根幹がゆらぎ(直言「「学長が最高責任者だ!」―学校教育法改正で変わる大学」)、学問の府である大学を「職業学校」にしてしまう動きも進んでいる(直言「大学を職業教育の場に?!――「傲慢無知」政権の大学政策」)。学生全体の約75%が学ぶ私立大学の経常費はその2分の1まで補助するという国会の附帯決議があるにもかかわらず、国からの補助金は1980年をピークに減少している。

実は2004年には日本育英会が廃止され、「日本学生支援機構」への組織改編が行われた。「育英」の思想は失われ、学生相手の貸金業者として過酷な取り立てが行われている(滞納者の「ブラックリスト化」も)。大内裕和『奨学金が日本を滅ぼす』(朝日新書、2017年)は自らの体験をまじえたリアルな問題提起を含む。それによれば、日本の奨学金は貸与型(=教育ローン)が圧倒的多数を占め、給付型奨学金の比率はOECD(経済協力開発機構)諸国のなかで最低ランクである(最近安倍政権が始めた給付型奨学金は「雀の涙」)。何より日本の大学授業料は私立のみならず、国公立もきわめて高額である。高等教育費に占める私費負担率が高く、雇用情勢の悪化のなかで親の負担も限界に達している。給付型奨学金の充実だけでなく、大学授業料の引き下げとセットで進めることが重要なのである。

冒頭のもう一つの写真は、加計学園・千葉科学大学の卒業式でアカデミックガウンと角帽姿で挨拶する安倍首相である。首相の卒業式挨拶というのは、防衛大学校以外ではほとんど聞いたことがない。この大学の理事長は首相の「腹心の友」である。

トップページへ