8月21日から9月4日まで、ドイツ、オーストリア、ハンガリーを旅した。レンタカーを2週間借りて、2900キロを走った。今回は、「ルビー婚旅行」(Rubinhochzeitsreise)ということで、妻の行きたいところを軸に計画を立てた。隕石のクレーターに街が出来たネルトリンゲン(Nördlingen)、オーストリアのザルツブルク、クリスマスソング「きよしこの夜」礼拝堂(オーベルンドルフ)、ザルツカンマーグートの岩塩坑、木組みの家々が美しいクヴェートリンブルク(Quedlinburg)(旧東ドイツのザクセン・アンハルト州)、そして昨年滞在したボンで友人たちと会う。
18年前、在外研究の最後に、家族に希望の場所を出してもらい、ボンの自宅からベルリンとイタリア各地をまわる8日間の旅(4110キロ)をしたことがある。今回は60代半ばなので、年相応にのんびりまわることにした。とにかく行けるところまで行き、途中で宿をみつける。レンタルのルーター(ネット接続機器)を持参したので、車で移動しながら、ホテルを当日割引で予約した。私は「スマホ化」には批判的だが、こういう活用法は否定しない。スマホはナビの機能もあるので、けっこう便利だった。
フランクフルト空港に8月21日朝6時に到着すると、レンタカー(不本意にもアメ車!)を借りてアウトバーンA3、7を南下。300キロほど走って、午前中にネルトリンゲンに着いた。市内観光の後、近郊の城ホテルに宿泊した。そこから始まるわずか2週間の旅だったが、不思議な偶然の作用で、私の問題関心にヒットするさまざまな場所を訪れることになった。以下、「中欧の旅」を順次アップすることにしたい。北朝鮮の核実験やミサイル問題に便乗した安倍政権の「異次元の圧力」政策の危うさなど、それに関連する「直言」の合間に断続的に掲載していく。連載予定のテーマは下記の通りである。
■ハンガリー国境の「汎ヨーロッパ・ピクニック」の現場へ――中欧の旅(その1)
「ベルリンの壁」崩壊のきっかけをつくったハンガリー国境の街、ショプロン郊外で1989年8月19日に開かれた「汎ヨーロッパ・ピクニック」の現場を訪ね、28年後の「いま」の状況を考える(今回)。
■ドイツ基本法の故郷、ヘレンキームゼー再訪――中欧の旅(その2) 1948年8月10日から23日まで、オーストリア国境に近いバイエルン州のヘレンキームゼー城(Altes Schloßの方)で、ボン基本法の骨格をなす「ヘレンキームゼー草案」を審議・決定する憲法会議が開かれた。その現場で、ドイツ基本法制定過程の重要な会議の69年目を考える。合わせて、9月24日のドイツ総選挙に向けた状況についても触れる。
■ヒトラー山荘とオーストリアのナチ強制収容所――中欧の旅(その3)
ザルツブルクに近いベルヒテスガルテンにヒトラーの山荘(「ケールシュタインハウス」)がある。アルプスの山々を見渡せる絶景に立つヒトラー山荘は3000人の労働者を動員して作られた。また、オーストリアのリンツ郊外にはマウトハウゼン強制収容所がある。今回この二つを初めて訪れた。ヴァンゼー会議から始まるアウシュヴィッツ=ビルケナウなどのユダヤ人絶滅収容所と違い、ここには中国人やトルコ人など世界各国の「囚人」が収容され、強制労働で多くが死亡した。採石場にある186段の「死の階段」の最上段に立って、ナチス強制収容所の「もう一つの機能」について考える。
■再訪・ヴァッカースドルフ――核施設を拒否した村――中欧の旅(その4)
80年代半ば、ここにドイツ初の核再処理施設(WAA)が建設されようとした時、森と故郷を守れと立ち上がったヴァッカースドルフの住民と、放射能は国境を超えるとしてオーストリアなどからかけつけた支援の人々の粘り強い反対運動によって、1989年にこの建設計画が白紙撤回された。実は私は1988年5月にこの村を訪れていた(『信濃毎日新聞』の連載第二回、第三回参照)。今回、不思議な縁でこの村を再訪した。そこで、当時を知る人々と出会う。彼らの紹介で、計画断念後の現場を訪ね、跡地にできた「イノベーション・パーク」(BMWなどの工場団地)と森と湖の美しい自然公園のいまを取材する。核施設の補助金を拒否して、森と故郷を守った人々のたたかいは、日本の基地や原発の問題にもつながる。
■第二次世界大戦後最大の「疎開」:フランクフルト――中欧の旅(その5)
帰国前日(9月2日)、レンタカー返却のためにフランクフルトにやってきて、第二次世界大戦中の不発弾処理(1.8トン爆弾)のため、市民60000人の「疎開」(Evakuierung)が行われているところに迷い込んだ。ナビの故障もあって、迂回路(Umleitung)の黄色い標識を見誤り、同じところを何度もまわって、レンタカー返却まで多くの時間を費やしてしまった。「第二次世界大戦後最大の疎開」の現場を体感することになった。9月2日というのは偶然なのか。地元新聞には、「老人ホームから避難した人たちの多くは、二度目の疎開となった」と書いた。身近で起きた10年ほど前の出来事を思い出した(直言「「63年前の不発弾」の現場へ」)。
■雑談(116)音楽よもや話(23) ザルツブルク音楽祭と、ブルックナー・オルガン再訪――中欧の旅(その6・完)
ザルツブルクで散歩中、偶然、ザルツブルク音楽祭のチケット(キャンセル分)を入手できた。ブルックナー・オルガンのあるザンクト・フローリアンも再訪。ブルックナー・オルガンのコンサートを聴いた。ブルックナーの生家訪問と、今回偶然発見した「交響曲の散歩道」(Symphoniewanderweg)の話も。
長い前ふりはこのくらいにして、本筋に入ろう。「中欧の旅」第1回は、「汎ヨーロッパ・ピクニック」の現場である。「ベルリンの壁」崩壊への道はさまざまな形で開かれていった。すでに1989年6月27日、ハンガリー外相とオーストリア外相が、両国の国境地帯の鉄条網をペンチで切断するシーンが世界に流れていた。「11.9」以前に東ヨーロッパですでに「壁」は崩れ始めていたのである。だが、巨大な一突きとなったのが、8月19日に行われた政治集会、「汎ヨーロッパ・ピクニック」であることは間違いないだろう。それを描いたものとして、NHKスペシャル「ヨーロッパ・ピクニック計画――こうしてベルリンの壁は崩壊した」(1993年)が知られている。これは巧みに計画された、きわめて政治的なプロジェクトだった。
一泊したショプロンは、地味だが、なかなか渋い中世の街だった。ハンガリー領土がオーストリアに食い込む形になっていて、森と湖も多く、「鉄のカーテンが最も薄い場所」とされていた。28年前の8月に開かれた集会には、ハンガリーに避暑にきていた東ドイツ人が多数押しかけ(ハンガリー政府がバスまで出して運んだ)、集会の途中でこれら東ドイツ人が国境検問所のゲートを突破して、オーストリア側に脱出していった。ハンガリー国境警備隊は、遠巻きに見守るだけで、それを止めることは一切しなかった。それがハンガリー政府の方針だったからだ。8月19日だけで600人以上が国境を越えた。これが11月9日の「ベルリンの壁」崩壊の前奏曲となる。
28年後の現場に立つと何とも不思議な感覚におそわれる。冒頭右側の写真は、ハンガリー側からオーストリアの国境検問所を見たものである。この「ピクニック」を説明したプレートによれば、国境のゲートに向かう道は、かつてローマ人、フン人、トルコ人、ロシア人などが行進していったが、1949年から1989年までの40年間だけ、ここは「鉄のカーテン」によって二つの世界に分断されていた。しかし、28年前のこの「ピクニック」によって、東側ブロックのダムの亀裂は、すぐに巨大な体制の崩壊に至ったというわけである。
かつて、オーストリアとハンガリーの国境には両側に検問所があり、国境の鉄柵も存在していたが、いまは象徴的に、一部が再現されているだけで、ハンガリー側の施設は何もない。EU加盟国間の国境にはどこにでもある、国旗とブルーのEUマーク(なかに国名標示)があるだけである。現場となったこの周辺は、「汎ヨーロピアン・ピクニック公園」となっている。事件を説明するプレートなどが並び、「変革」(Umbruch)という文字が見える白いモニュメントが立つ。国境線すれすれに立つモニュメントは、重い鉄の扉が双方に向けて半分ずつ開いて、一人が抜けられるようになっている。私はそこを、「オーストリア共和国」という国名標示が見えるように撮影した。
周辺に観光客の姿はなく、時折、近隣の住民の散歩姿がみられるだけ。国境近くをうろつく「不審なアジア人」は圧倒的に目立った。オーストリアの警察官がこちらに向かってきた。いい機会なので、いろいろと話を聞いてみた。最初、表情は固かったが、こちらの素性と問題意識がわかって、いろいろと話してくれた。シェンゲン協定加盟国間では通常は国境検問がないのに、なぜここにはあるのかと問うと、ハンガリーからオーストリアにイラク系やアフガン系が入ってくるのをチェックしているという。
4分の1世紀前、この検問を突破して、東ドイツ人が西に向かって、黄色いセイタカアワダチソウ(?)が咲き乱れる平原(写真)を駆け抜けていった。
憲法改正を繰り返す専制的右派政権(オルバーン首相)は、移民排斥の方針をとり、クロアチアやセルビアなどとの国境に鉄柵をつくっている。鉄条網は軍用仕様で、鋭い剃刀のようになっている。先週、この設置費用の4億ユーロの支払いをEUに要求したほどである。EUは12万の難民を加盟国で分担する方針をとっているが、ハンガリーは1294人の割り当てに対して一人も受け入れていない(ZDF vom 6.9.2017)。欧州司法裁判所がEUの割り当てを妥当とする判断をして、ハンガリーとスロヴァキアの割り当てを不当とする訴えを退けたにもかかわらず、難民受け入れをする兆しはない(Die Welt vom 7.9)。
このハンガリーの国境地帯で始まった東ドイツ人の西への脱出は、この「ピクニック」を準備し、促進したそれぞれのアクターの意図と想定を超えて、ソ連の崩壊にまで至る世界史的変動をもたらした。「ピクニック」の時点では、誰もそこまでは考えていなかった。そして、また4分の1世紀たって、「壁思考」の再来となったのである。
付記:冒頭左の写真は、オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地、ザルツカンマーグート(Salzkammergut)のグルンドルゼー(湖)で、生まれて初めてモーターボートを操縦したときに撮影したもの。マイナーな湖なので、観光客はほとんどいなかった(ドイツ人の長期滞在者が多い)。