ドイツの総選挙の結果が出た。8年前と同様、「二大政党の退潮」という結果になったものの、その変化は劇的で、実質的には多党制の様相を呈している(定数598に対して709と、かつてない超過議席も生まれた)。大連立政権を組んだキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)は前回(2013年)から大きく議席を減らし、極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が国政に初議席を、しかも一気に94議席(得票率12.6%)を得た(ザクセン州では小選挙区で3議席獲得!)。暫定結果ではあるが、AfDは、CDUから107万票、SPDから50万票、左派党からも43万票をもぎ取り、一気に第3党に躍り出た。ヴァイマル共和政時代の1930年9月の総選挙(ナチ党が一気に18.3%、107議席を獲得)を彷彿とさせる。今年の元旦「直言」で書いた「自由と立憲主義からの逃走」の傾向が、ドイツでも進んだということだろうか。金正恩の暴走を、「寸止めの軍事対立」まで持っていこうとするトランプ・安倍の挑発が劇的展開を見せた先週、「新世界無秩序への予兆」が現実のものになりつつあることを強く感じた。
日本では、この28日から開かれる臨時国会の冒頭で、衆議院が解散される。戦後の憲法政治において、ここまで国会がコケにされたことがあっただろうか。憲法蔑視の安倍政権。この冒頭解散は「暴投解散」としか言いようがない。憲法53条後段に基づき野党が臨時国会召集をしたにもかかわらずここまで引っ張り、あげくは解散によって、「モリ・カケ」問題の質疑の機会を奪い、真相解明にストップをかけた。「隠蔽解散」と言わざるを得ない。解散権は首相の「伝家の宝刀」だという言説がまかり通るが、憲法は誰に解散権があるのかについて、明文の規定を置いていない。2014年解散も「私の解散」「アベノ解散」だった。解散に関する戦後の憲法7条運用は、「解散権の濫用」を超えて、今回、「解散権の私用」の域に達したようだ。ちなみに、ヴァイマル憲法25条のように、おおらかに議会解散権を行使できた仕組みとその「効果」(ヒトラー政権の誕生)にかんがみ、戦後のドイツ基本法は、議会解散に徹底した制約を加えていることを知るべきだろう(信任決議案否決の場合に限定。基本法68条)。
恣意的な解散が行われた2014年総選挙は、有権者の約半分(52.66%)しか投票所に行かない「総・選挙」だった。安倍政権の統治手法である「情報隠し」「争点ぼかし」「論点ずらし」「異論つぶし」「友だち重視」を許してしまうのも、この低投票率である。ちょうど10年前の2007年9月、この新聞号外が出る原因を作ったのは、その年7月の参議院選挙における有権者の投票行動だった。今回の総選挙は、国民の「忘却力」を活用する権力者との勝負である。
さて、「中欧の旅」(その3)である。今回の旅は「ルビー婚旅行」(Rubinhochzeitsreise)だったので、妻の希望したところに行くのが本来の目的だった。ザルツブルクでも音楽と観光に徹するはずだったが、ホテルにチェックインする際、レセプションで「ヒトラー山荘ツアー」のパンフを見つけ、その場で申し込んだ。ベルヒテスガーデン・アルプスの山々の絶景のなかにポツンと存在する、アドルフ・ヒトラーの山荘「ケールシュタインハウス」(Kehlsteinhaus)。1939年に、ヒトラー50歳の誕生日プレゼントとして、海抜1834mのケールシュタイン山頂近くに建てられたものである。1938年から建設が始まり、13カ月で完成した。建設費用は3000万ライヒマルク。3000~3500人の労働者が動員された。山頂までの専用道路が6.5キロも整備され、途中に5つのトンネルがつくられた。秘密保持された労働者用バラックには、20人のフランス人とイタリア人の売春婦がいたという。崩落により5人の労働者が死亡している(山荘売店で購入したVgl.Andrew Frankel, Das Kehlsteinhaus:Von Adolf Hitler bis heute, 1983, S.6-22; Ernst Hanisch, Das Kehlsteinhaus und Adolf Hitler, 2016, S.18-21)。
それだけの費用と犠牲を払ってつくられた山荘だったが、とうのヒトラーは、ムッソリーニとの会見に使ったほか、10回ほどしか利用しなかったという。完成した年の9月に第二次世界大戦が始まり、麓のナチスの施設は爆撃を受けた。ただ、この山荘は小さすぎて爆撃は行われず、1945年5月に米第101空挺師団によって占領された。米軍はここを「イーグルズ・ネスト」(Eagle's Nest)と命名。連合軍最高司令官のアイゼンハワー元帥も訪れ、1960年まで連合軍の施設として使用された。米軍による占領という経緯もあって、今でもアメリカ人好みの観光スポットとなっている。
8月24日朝、ザルツブルク市内からツアーバスに乗った。やはりアメリカ人が多く、東南アジア系が少し。案内人は英語でまくし立てる。ドイツ国境を超えてベルヒテスガーデンに入る。麓のバスターミナルのようなところで、山荘行きの専用バスに乗り換える。山頂までの専用道路は崖などが多く、一般の車の立ち入りは禁止だ。狭い一本道をバスであがり、駐車場に着いた。山の上なのに大型バスが8台は駐停車できるスペースが作られている。断崖絶壁の上に山荘がかすかに見える。その下にはトンネル入口があり、上部に「1938年建設」という文字が刻まれている。トンネルの長さは124メートル。案内人に急かされて奥に向かう。専用エレベーターのホールがある。30人ほどが乗れるけっこう大きなエレベーターだ。案内人が大声で「撮影禁止」というので写真を撮ることはできなかったが、内装は真鍮や鏡などを使った豪華なものである(写真)。これで高さ124メートルの山荘まで45秒であがる。レストラン横の会議室に集合させられた。そこで建物の由来の説明が行われ、すぐに自由時間となった。部屋からのアルプスの景観も美しいが、外に出て、ケールシュタインの山頂をめざしてのぼり、そこから山荘を見ると、冒頭の写真のような絶景である。麓のベルヒテスガーデンの街並みやケーニヒスゼー(湖)とアルプスの山々とのコラボにはため息がでる。NHKスペシャル『新・映像の世紀』第3集「時代は独裁者を求めた」に、ヒトラーと愛人のエヴァ・ブラウンがくつろいでいるカラー映像が出てくるが、それがこの山荘である。
この山荘建設中の1938年3月13日、ナチ・ドイツはオーストリアを併合した。その時の記念ハガキが右の写真である。地図の境界をよく見ると、オーストリアはドイツライヒに入っている。今回、そのオーストリアのアンスフェルデンの作曲家ブルックナーの生家や、ザンクト・フローリアンに行く前に、リンツ郊外にあるマウトハウゼン強制収容所を訪れた。前日に訪れたヒトラー山荘(ケールシュタイン)の美しい風景とはうってかわって、そこにはナチス本来の、殺伐たる光景があった。
ナチスの収容所は欧州全体で1226箇所の主要収容所、1011箇所の付帯施設ないし支所、そして114のユダヤ人絶滅収容所があった。ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ、ドイツのブーヘンヴァルトやザクセンハウゼン、ダッハウは訪れたが、オーストリアの収容所は初めてだった。マウトハウゼン強制収容所。オーストリア併合の5カ月後の1938年8月8日に、最初の囚人たちがダッハウから移送され、この収容所が機能を始めた。
この収容所には、1945年5月3日に米軍により解放されるまで192000人が収容された。アウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなかったが、収容所ランクでは最悪のLagerstufeⅢに位置づけられていた。更生見込みなしの反社会的な予防検束対象のドイツやオーストリアなどの政治犯や知識人、その他ヒトラー体制の敵とされた人々が7%で、93%は民族的、人種的、宗教的な理由や政治的活動を理由にして拘束された、40カ国以上からの人々である。この収容所の付帯施設・支所を含めて、解放までに、少なくとも103000人が命を落したとされている(Hans Marsalek/Kurt Hacker, Das Konzentrationslager Mauthausen, 1995, S.30)。収容所の壁には、ヨーロッパのみならず、中東やアジアの国々の犠牲者(中国人もいた)を追悼するプレートが掲げられている。
この収容所には、アウシュヴィッツほど大規模なものではないがガス室(Gaskammer)もあった。ここで1942年3月から少なくとも3455人が毒ガス、チクロンBによって殺害された。1942年1月20日の「ヴァンゼー会議」によって、ヨーロッパユダヤ人の「最終解決」の方針が決まり、「およそ1100万人」と見積もられるユダヤ人を「東方移送」する計画が実施に移された時期と重なる。なお、死体焼却炉の数メートル先には死体解剖室があって、人体実験も行われていた。焼却炉から出てくる人間の灰は、少し離れた「灰捨て場」に山をなした。いまは半円に緑が植えられていて、説明版を見ないで通りすぎる観光客もいる。
この収容所の特徴は、オーストリア最大の花崗岩採石場があったことだろう。採石場の労働力確保のためにこの収容所は設置されたともいえる。この収容所を象徴するのが「死の階段」(Todesstiege)である。囚人たちは、50キロもある重い花崗岩ブロックを背負って、31メートルの高さの所まで、186段の急な階段をあがらねばならなかった。「1秒の休憩もなしに、1日12時間」それが続けられた。採石場は過酷な労働現場というよりも、それ自体が巨大な処刑場だった。銃や剣やガスを使わず、過酷な労働で死に向かわせる「緩慢なる処刑」である。階段をのぼる途中に足を踏み外せば、背負う花崗岩につぶされて死ぬ。囚人看守(Kapo)は特に残忍で、階段の途中で足をかけたり、笞で打ったりして転げ落ちるように仕向けた。動けなくなれば、死ぬまで殴り続けた。その惨劇の場がこの階段である。
いやがる妻を下に待たせて、186段をのぼってみた。手ぶらの私でも途中で息が切れる。栄養状態の悪い囚人たちが、重い花崗岩ブロックをかついでのぼるのがどんなに大変だったか。のぼり終わったところに、「死の階段」の説明碑がある。改めて階段の下を眺めると、いまは緑におおわれた静かな場所だが、かつてはこの階段は血に染まり、死に切れない囚人たちのうめき声がしたことだろう。いま、そのような恐ろしいことが行われていたことを想像するのは困難である。収容所の主な施設から離れたところにあるので、この階段を見に来る人はほとんどいない。でも、私はマウトハウゼンのみならず、強制収容所一般を象徴する場所だと思った。
ナチスは、アウシュヴィッツのような「絶滅収容所」以外の強制収容所においては、働き続けることによって殺す、つまり「究極の過労死」(過労殺人)あるいは「労働による絶滅」の手法をとった。一般にナチスの強制収容所というとすぐガス室を想起するが、この「過労殺人」の手法もまた、ナチスの残虐な手法と言わねばならない。ナチスだけではない。スターリンの強制収容所政策も同じだった(直言「「収容所群島」とグラーク歴史博物館」参照)。意識的に病気やケガに追い込み、死に持っていく。過酷な労働条件そのものが死の装置だった。マウトハウゼンの186階段は、まさにそうした手法の象徴として記憶されるべきである。
「死の階段」のすぐ横には、「落下傘降下兵〔スカイダイバー〕の壁」(Fallschirmspringerwand)がある。親衛隊(SS)将校が皮肉を込めて付けた呼び名である。50メートルのほとんど垂直の壁の上から、囚人たちを頭から突き落とす。岩にぶつかって死亡するか、雨水がたまった沼で溺死した。この「手っとり早い殺人」は、特に1942年夏に、オランダから移送されたユダヤ人に対して行われた。正確な数はわからない(何百〔viele hundert〕という表示があった)。
ドイツでも、10年前の調査によれば、約4分の1の人が、「ナチ時代にもよい面があった?」と肯定的に答えている。アウトバーン(高速自動車道)建設などがその理由である。麻生太郎副総理兼財務相も8月29日、「政治家は結果が大事なんですよ。いくら動機が正しくても何百万人殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんですよ」とやって物議をかもした。「ヒトラーは、やったことは悪いが動機は正しかった」などと政治家が発言すれば、ドイツでは政治生命が終わる。この麻生という人物は、性懲りもなく、これで3回目のナチス絡みの「失言」をしたことになる。1回目は2008年8月4日に、当時の民主党をナチスに例える発言をした。2回目は2013年7月29日、「憲法はある日気づいたらワイマール憲法は変わって、ナチス憲法に変わったんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」という発言。いずれも、歴史事実としても、歴史認識としても間違っており、「厚顔無知」の世界に浮遊する麻生大臣ならではのものだが、今回の「ナチス失言」は、「ヒトラーの動機は正しい」という認識をはっきり示してしまった点で致命的である。「政治は結果だ」と暴走する安倍政権のなかにあって、首相とともに手続を無視し、結果の中身を問わずに突き進む麻生大臣こそ、ナチスのスピード感あふれる政策にいくばくかの共感をもっていると疑わざるを得ない。彼がヨーロッパに行ってもナチスの収容所などには寄らないだろうが、マウトハウゼンの死の186階段を一気にあがれば、少しは歴史の痛みが理解できるのではないか。ないものねだり、だろうが。
なお、3年前に自転車で欧州をまわった方が、3年前のブログでマウトハウゼン訪問記を書いておられる。私が撮影できなかった「名前の部屋」の写真も掲載されているので参照されたい。