憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)――「9条加憲」と立憲主義
2017年10月16日

ばらく「中欧の旅」の連載解散・総選挙についての話題はお休みして、憲法学や憲法研究者に対して執拗な論難を加えている篠田英朗氏(東京外国語大学教授、国際政治学)について長文の批判を行っておくことにしたい。篠田氏は『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』(風行社、2016年、以下『思想史』という)および『ほんとうの憲法――戦後日本憲法学批判』(ちくま新書、2017年、以下『ほんとうの憲法』という)、さらに自身のブログ「「平和構築」を専門にする国際政治学者」などにおいて、憲法研究者に対する論難を続けているのだが、それは他分野からの憲法学への建設的な批判というものではなく、名指しされた当事者が反論するのもはばかれるような難癖に近いものが目立つ。主要打撃の方向はもっぱら「東大法学部出身の憲法学者たち」「東大法学部出身者たちを頂点とする「法律家共同体」」である。「ふりかかった火の粉は払わねばならない」のだが、私の名前はまったく出てこない。篠田氏とは面識はないが、早大出身、広島大学の勤務経験、平和学(会)という共通点がある。主な業績については以前から読んでおり、私のなかでは平和学や平和構築論の分野における研究者の一人であった。それが、上記2冊の書物やブログ、各種メディアを通じて、主に「東大法学部出身」の憲法研究者に対して、名指しで、執拗で粘着質な論難を始めたのであるから、驚いた次第である。

Ⅰ はじめに――批判を開始するにあたって
「近刊『ほんとうの憲法』をめぐっても、多くの方々が「憲法学者はさすがに完無視とかできないでしょう」と言ってくれる。大変に光栄である。」(篠田氏のブログ「「平和構築」を専門にする国際政治学者」〔以下、単にブログという〕2017年08月07日より)

篠田氏の憲法研究者に対する論難の内容は、その学問的なレヴェルからすれば通常は「完無視」なのであるが、それが一般の方の憲法と憲法研究者、憲法学界に対するイメージダウンにも貢献していると判断して、この「直言」において、篠田氏に対する必要な批判を行うことにしたものである。『ほんとうの憲法』というタイトルで、ひたすら「憲法学者はガラパゴス」というレッテルを貼ることに膨大なエネルギーを費消しているので、こちらも、基本的な概念をめぐってかなり立ち入って批判せざるを得ない。『ほんとうの憲法』を通じて、一般の方々に憲法や憲法学界(学会)、憲法研究者に対する間違った情報や歪んだイメージが伝播することは黙過できない。二つの憲法の学会の代表を経験したことからも、さまざまな大学の出身者によって自由な研究が行われており、「東大法学部出身者たちを頂点とする」といった篠田氏の物言いは篠田氏の頭のなかの妄想でしかない。『ほんとうの憲法』によって憲法学の基本概念や憲法研究者への間違った情報が広まることを防ぐために、網羅的ではないが、いくつかの重要な憲法上の概念や問題にしぼって、篠田氏の論難がいかに根拠のないものであるかを明らかにしていきたい。「本当の憲法」のことを知っていただくための、一憲法研究者のささやかな試みである。そのため、基本文献の引用(欧文を含む)が多くなり、通常の「直言」のような読みやすさへの配慮をあえてしていないので、読者のご了承をいただきたいと思う。なお、引用箇所の下線は、引用者のものである。

「ある噂を小耳にはさんだ。憲法学者の方々が、「東大法学部系の憲法学」という言い方に激憤している、という噂である。結局、篠田は東大法学部に「ルサンチマン」を抱いているだけなのだろう」、と憲法学者が集まって学会でささやいているという。そのうちに篠田さんに対する「ルサンチマン」レッテル貼り運動が始まるから気を付けたほうがいい、と言われた。・・・私の最終学歴は、London School of Economics and Political Science (LSE)のPhD.(国際関係学博士)である。博士号すら持っていない憲法学者の方々にルサンチマンを抱いている、などと言われる立場ではない。恐縮ながら、「ガラパゴス」の世界だけに生き続けようとするのもいい加減にされたらどうか、と申し上げざるを得ない。」(ブログ2017年08月17日)。

篠田氏は「噂」に対して怒っている。だが、医学部を出た医師が「私の最終学歴は医学博士である。私の憲法9条解釈について博士号すら持っていない憲法学者にどうこう言われる立場ではない」というのと同じ次元で、怒りの内容が完全にずれている。憲法研究者への反感のあまり、博士号取得の話に突然飛び、憲法学の「学会」を「博士号すら持っていない憲法学者の方々」の集まりにしてしまうのはいただけない。ここで篠田氏が憲法研究者に貼り付けた「レッテル」をはがしておくと、日本では、伝統的に文系、特に法学や文学では、教授を長くやったあとに、その功労として博士号を出す傾向が長らくあった。近年変わってはきたが、理系に比べれば、まだまだハードルは高い。そのような事情ぐらい、篠田氏が知らないはずがない。この違いを一般の方はあまりご存じないのだから、篠田氏がブログで一方的な主張を書けば、一般の方に誤解が蔓延してしまう。なお、一般論として申し上げれば、学部卒でもノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏を挙げるまでもなく、学問の世界での決め手は、より高い学位を持っているかどうかではなくて、研究に対する一途さと誠実な研究態度である。

ことの始まりは、安倍首相による「7.1閣議決定」という非立憲の暴挙に対して、多くの憲法研究者が批判したことだった。白眉は2015年6月4日の衆議院憲法審査会において、参考人として出席した憲法研究者3人全員が、「7.1閣議決定」に基づく安保関連法案を違憲と断定したことである。メディアは「自民党推薦の参考人まで違憲と言った」として注目した。NHKや朝日新聞などは、憲法研究者にアンケートを行った。結果は明確だった。圧倒的多数が「7.1閣議決定」と安保関連法について違憲だとした。

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この激動の2014年と15年の2年間、私は全国憲法研究会代表を務めた。その間、私自身も、高村正彦自民党副総裁から名指しの批判を受けた(直言「100の学説より一つの最高裁判決だ」)。これは批判というよりも、苦し紛れの悪罵としか言えないものだった。篠田氏のそれは、憲法研究者の受忍限度をこえるもので、隣接学問分野からの生産的な批判ではなく、一方的な論難、むしろ難癖に近いものである。藤田宙靖氏(東北大学名誉教授、元最高裁判事)の学問的な批判とは雲泥の差がある。

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『ほんとうの憲法』はその冒頭から陰謀論めいた「東大法学部系憲法学者」たちへのヒステリックな物言いから始まる。これには既視感がある。1930年代、蓑田胸喜のような、日陰者意識をもつエリートが、教養主義東大憲法学を叩くという戦前の構図である。「前後の脈絡をかまわず、片言隻句をつなぎ合わせてねじ曲げ解釈を加え、こんなけしからんことをいっている、こいつは国体破壊者だと攻撃する」のとよく似た論法である(立花隆『天皇と東大 Ⅲ 特攻と玉砕』(文春文庫、2013年)156頁)。美濃部達吉の天皇機関説事件に始まる大学粛正運動、滝川幸辰、大内兵衛らの追放、津田左右吉の古代史著作発禁事件も蓑田の批判が契機となった。美濃部が弾圧されたあと、全国の憲法学者たちは美濃部を擁護しなかっただけではない。密かに美濃部説を抹消するために著書の絶版・改訂を行っていた(直言「憲法研究者の一分とは(その1)」参照)。美濃部に対する攻撃と弾圧を目撃して、なだれを打って権力に迎合していく。文部省思想局『憲法学説ニ関スル件』(1935年)には、各大学で憲法を担当する教授がリストアップされ、その学説が分類され、天皇機関説をとっているかなどについて詳しく調査されている(写真は東大教授・宮澤俊義のものだが、「学説要旨」の黒塗りの部分は透かしてみると、「憲法ノ改正ニ議会ノ議決ヲ要スルヤ」と問うて、宮澤は「議決ヲ要ス」とある)。教授ポストを失うことにも連動しかねないとなれば、天皇機関説から距離をとることなど、さほどむずかしいことではなかった。「機関」という言葉を講義などで使わないと誓約する私大教授まで出てきたことは、驚くには及ばない。権力が要求していないことまで先回りして忖度し、ご機嫌をとる。こういう人間は、いつの時代にもいるからである。

篠田氏の手法は蓑田の足元にも及ばないが、ネット時代に助けられて、その伝播力という点では蓑田の影の手前くらいにまでは達しているだろう。憲法研究者に対する安倍首相の これまた執拗な言及(「憲法学者の7割が自衛隊を違憲という」、最近では「憲法学者の2割しか合憲といわない」にエスカレート)とも響きあって、憲法研究者の学問研究の自由に対する圧迫的空気の醸成に寄与しているという点でも軽視できない。

さて、これから本格的に篠田氏の難癖に対応していく。ただ、総選挙を来週に控え、重要な国家・社会の動きが目白押しになるなか、ある意味では消耗な、「ふりかかる火の粉」をはらう作業を続けることは私としても不本意である。72000字に及ぶ連載に1カ月をかけるかどうか。一気に公開することも検討中である。とりあえず、連載の仮タイトルを下記に掲げておこう。掲載日が来週以降、連続になるかどうかも未定である。(追記:連載第2回目は10月18日に、その後も一日ごとに順次アップされる予定になった)

連載第1回(今回):「9条加憲」と立憲主義

連載第2回:「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか

連載第3回:憲法前文とその意義

連載第4回(完):憲法9条をめぐって

補遺:立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』にみるデタラメな主張への論駁

Ⅱ 篠田氏の安倍式「9条加憲」擁護論について

さて、篠田氏は国際政治学の研究者であるから、篠田氏が、9条改正について自身の見解を持つことは当然のことである。だが、篠田氏の一文「憲法学者の言うことが全て法律論であるとは限らない」は、篠田氏の専門外である法学の概念を用いて安倍首相の9条に自衛隊を明記する案を擁護する試みといえるが、そこに憲法研究者に対する難癖を含ませているからやっかいである。

周知のように、安倍首相は『読売新聞』5月3日付で、9条1項、2項を存続させて、「9条に自衛隊を書き込む」という新方式を唐突に提案した。この「加憲」発言についてはすでに触れた(直言「安倍首相と渡邉読売の改憲戦術―情報隠し、争点ぼかし、論点ずらしの果てに」)。その問題性についてもすでに論じた(「安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」」)。先週末の新聞 インタビューでも語った(「時代の正体「安倍改憲を問う・「権力者ファースト正せ」『神奈川新聞』10月14日付論説欄)。篠田氏の論稿は、憲法改正の当否という価値対価値のコンクールに到達するまでに、法律論として失格であり、訴訟法でいえば、訴え却下の門前払いに相当し、請求棄却判決にすら到達しえない内容である。安倍式「9条加憲」の掩護射撃としては失敗したと評価せざるを得ない。『ほんとうの憲法』によれば、篠田氏の「9条加憲」案はこれである。

「もし9条3項を創設して自衛隊の合憲性を明確にするのであれば、簡易に次のような規定だけを入れればよい。
「前2項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」」(『ほんとうの憲法』244、245頁)

この案の内容については、連載の最後にさらに検討する。篠田氏の主張の理由部分は次の通りである。

自衛隊の合憲性を明記する9条3項(9条の2が良いという見解もあるようだが、ここでは便宜的に新設の3項と仮に呼んでおく)は、2項に対する但し書きになるはずである。「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。(ブログ2017年06月22日)

端的に間違っているのは篠田氏である。そもそも、『ほんとうの憲法』に示された9条3項の篠田案は「ただし書」規定ではないが、ブログでは9条3項は「2項に対する但し書きであるはずである」と断定し、「但し書き」とすることの理由が述べられていて、両者はまったくかみ合っていない。両者がかみ合っていない理由を推測しても無駄なので、前述のように『ほんとうの憲法』に示された篠田案については連載の最後に指摘することとし、ここでは、ブログに書かれた理由に絞って批判することとする。篠田氏は、自民党の国防軍保持の憲法改正案の条文について、「私は学者なので、つい文言上のことをクドクド言いたくなる。」(ブログ2017年05月11日)というのであるから、こちらも当然、厳密に指摘する。

まず、篠田氏は、自衛隊の合憲性を明記する新3項が2項に対するただし書きになる「はずである」という。理由も書かずに「はずである」と断定するのもどうかと思うが、実際の篠田案は「ただし書」になっていない(篠田氏は「但し書き」というが、法令用語としては「ただし書」が使われるから、以下では「ただし書」という表記を使う。)。

形式面からいえば、ただし書には法令上「ただし」という文言が用いられるため、一見して明らかなように「ただし」という文言を用いていない篠田案はただし書ではない。ただし書の用い方であるが、内閣法制局長官・同参事官らが執筆した『ワークブック法制執務』によれば、ただし書とは、本文の文章に対する例外を規定するための立法技術として用いられるのが通例である(法制執務研究会編『ワークブック法制執務』(ぎょうせい、2007年)187頁)。「本文」の文章に対する例外を規定するのであるから、ただし書は本文に引き続いて用いられるものである。「但し書きになるはずである」という篠田氏の主張に沿って考えてあげれば、9条2項に対するただし書を書きたいのであれば、あえて書けば、「②陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。ただし、・・・」のように2項の本文に引き続いて用いる。「ただし」は、あくまでも、一つの規定の中の本文に対するただし書であるから、本文がないのに使用することはできず、したがって、項の冒頭を「ただし」で始めることはできない。ただし書にしたいのであれば、9条2項に「ただし」と追加するしかない。その意味で、篠田氏が、新3項が「2項に対する但し書き規定になるはずである」というのは、間違っている。

だが、問題なのは、このような形式面よりも、篠田氏がただし書の規範としての実質的な意味を理解していないことである。篠田氏は、新3項が2項に対するただし書きになるはずであると主張する。これは、主張を推測すれば、篠田氏は「特別法は一般法に優先する」と言っていることから、ただし書を設ければ、自衛隊の保持を認める新たな規定が戦力不保持を規定する原則規定である2項に対する例外規定になるといいたいのだろう。2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とする。これは禁止規範である。篠田氏が主張するように、「特別法は一般法に優先する」という意味で自衛隊を認める規定がただし書で書かれる(「②陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。ただし、自衛隊については、この限りでない。」)ということは、ただし書は、自衛隊は9条2項の「戦力」に該当するけれども、保持できるということを意味する。したがって、ただし書で書けば、篠田氏の意図とは真逆に、自衛隊は2項の「戦力」に該当することが明白になる。2項の「戦力」に該当するが、ただし書で「戦力」たる自衛隊の保持が憲法により許容されるのである。篠田氏の言葉を借りれば、「但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当することが、文言上疑いのないものとして確定する」のである。

なお、再度、形式的な問題ではあるが、新3項に自衛隊保持の規定を書きたいのであれば、新3項をただし書で書くことはできないので、こういう場合には、2項との関係をつけるため、「前項の規定にかかわらず」と新3項の冒頭に書き、その後に自衛隊の根拠規定を書く。「③前項の規定にかかわらず、自衛隊を保持することができる」。これならば、新3項の「見た目の恰好」はつく。だが、篠田氏の期待に反して、「前項の規定にかかわらず」と書いても、新3項の意味は、自衛隊は2項の「戦力」に該当するけれども保持できるという意味になる。したがって、「自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する」ことを強く望む篠田氏の希望は、またしても遂げられない。

「「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。」(ブログ2017年06月22日)

これも意味不明の主張である。篠田氏は、特別法優先の意味をご存知なのであろうか。前述の『ワークブック法制執務』によれば、「特別法優先の原理」とは、「形式的効力を等しくする二つの法令が、一般法(ある事項について一般的に規定した法令。次の例でいえば、国有財産法)と特別法(一般法の対象とするある事項と同じ事項について、特定の場合又は特定の人若しくは特定の地域を限って、一般法と異なる内容を定めた法令。次の例でいえば、国有財産特別措置法)の関係にある場合には、特別法が規律の対象としている事項、人又は地域に関する限りにおいては、特別法の規定がまず優先的に適用され、一般法の規定は、それらの対象については、特別法の規定に矛盾しない範囲内で、補充的に適用されるとする原理をいう。」である(前掲『ワークブック法制執務』43頁)。ここで例示されている国有財産特別措置法1条は「この法律は、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第三条第三項に規定する普通財産(以下「普通財産」という。)を公共の利益の増進、民生の安定、産業の振興等に有効適切に寄与させるため、当分の間、その管理及び処分について同法の特例を設けることを目的とする。」と規定する。ある事項について一般法による法律効果を変えたい場合に特別法が制定されるのである。ポイントは、「同じ事項」である。

篠田氏は、従来の政府の立場を変更するコストを防ぐため、「戦力ではない自衛隊」という位置付けを維持したいという立場である。そうであれば、特別法優先の原理を持ち出すのはおかしい。「戦力」と自衛隊は、「同じ事項」ではない。自衛隊は、従来の政府の解釈では、「自衛のための必要最小限度の実力」であり、9条2項の「戦力」にそもそも該当しない。「戦力」と自衛隊は原則と例外という関係にあるかというと、政府解釈によれば、ない。「戦力」と自衛隊は、全く別物であり、両立し得るのである。原則と例外の関係を認めてしまえば、自衛隊は概念的に「戦力」ということになってしまう。これこそ、歴代政府が最も避けたかった解釈である。「戦力」保持が禁止され、同時に、自衛隊の保持が許容されるのが政府解釈である。自衛隊は「戦力」に該当しないとされるのであるから、「戦力」と自衛隊は、別次元の概念であり、そもそも特別法優先の原理が前提とする「同じ事項」ではないので、特別法優先の原理が働く余地がない。篠田氏の論理は破綻している。そして、篠田氏は「但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。」というが、9条2項の「戦力」と自衛隊は別次元の概念であるから、自衛隊を明記したとしても、「自衛のための必要最小限度の実力」である自衛隊は9条2項の「戦力」不保持の規範による制限を受け続ける。つまり、9条2項の「戦力」不保持規定は、憲法に明記された自衛隊が「戦力」に該当しないように、「実力」の範囲内に押し止まるように、自衛隊の軍拡に対して制約をし続けるのである。端的に間違いなのは篠田氏である。

第二次世界大戦の経験を経て獲得し、血肉化してきた戦力不保持という憲法9条の平和主義の有する歴史的価値、政治思想的価値を顧みず、「法学」的な些末な議論で知的な議論をしたふりをして、法学に明るくない一般市民が誤解するように誘導する者に日本の平和と安全保障の行方を委ねるわけにはいかない。篠田氏の9条論については、この連載の終わりの方でまた論ずる予定である。ここから相当長く、文献などの引用も増えるので、一般の読者の方には読みにくい文章となるが、憲法研究者へのふりかかった火の粉をはらうのは徹底的にやりたいのでご了承いただきたい。

Ⅲ 立憲主義をめぐって

ここからが篠田氏が憲法学と憲法研究者への難癖の本論である。

1 「主権者である国民が政府を制限する」のが立憲主義?

「人民と政府の間の関係を規定し、国の根本的な仕組みを定めた「信託」契約を、人民も政府とともに根本原則として順守する。そのような基本的な仕組み(Constitution)の遵守を根本規範と考えるのが、「立憲主義(constitutionalism)」と呼ばれるものである。いたずらに国民が主権者なので、政府は国民に従わなければならない、といった「絶対国民主権」主義を唱える態度は、「信託」契約の重視を軽視する点で「立憲主義的」なものではない。国民主権論の名のもとに、ひたすら政府を制限しなければならないことだけを唱える日本の憲法学における「立憲主義」は、日本国憲法が前文で謳っているような「立憲主義」とは異なる。」(『ほんとうの憲法』28、29頁)


「日本の憲法学者は、「主権者である国民が政府を制限するのが立憲主義だ」と強調する」(『ほんとうの憲法』14頁)

篠田氏の話では、日本の憲法学は、「「立憲主義とは、主権者である国民が政府を制限することだ」というテーゼ」(ブログ2016年10月30日)を唱えているらしい。だが、そのように唱えているという憲法学の文献の引用はないし、聞いたこともない。

かつて刑法学者・平野龍一氏は、刑法のいわゆる旧派と新派の論争において「まず黒く描いておいて、その黒さを批判する」(平野龍一『刑法総論Ⅰ』(有斐閣、1972年)4頁)という弊害があったと指摘した。篠田氏もまた、憲法学をまず黒く描いておいて、その黒さを批判する。「憲法学者がこう言っている」と篠田氏は書いているが、「憲法学者はそんなことを誰も言っていない」という箇所ばかりである。

篠田氏の言う「テーゼ」など、憲法研究者は誰も語っていない。篠田氏は、①立憲主義の定義に「主権者である国民が」という主語を勝手に付け加え、その上で、②言葉の真の意味での立憲主義と、篠田氏の独特の理解による「憲法学者が主張している絶対的な国民主権」と結合させて、③「憲法学者が主張する立憲主義」なる想像上の産物を相手に、論難をしている。何重もの言いがかりの上に論難しているだけである。こういうのを「難癖」というのである。

加えて、篠田氏の立憲主義の定義には、「主権者である国民が」という主語を勝手に付け加える表現が繰り返し登場する。だが、憲法研究者の文献に見られる立憲主義の定義には、政府を制限する直接的な主体という意味で「主権者である国民が」という主語はない。「立憲主義とは、国の統治が憲法に従って行われなければならないという考えをいう」(高橋和之『立憲主義と日本国憲法〔第三版〕』(有斐閣、2013年)19頁)、「国家権力が憲法の制約をうけ、国政が憲法の規定に従って行われる原則を立憲主義(constitutionalism)と呼ぶ」(伊藤正己『憲法〔第三版〕』(弘文堂、1995年)10頁)、「立憲主義というのは、権力の行使を憲法に基づかせようという考えである。」(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ〔第五版〕』(有斐閣、2012年)5頁)、アメリカ憲法学・政治学の研究者らの教科書でも、「近代立憲主義とは〔…〕憲法を制定し、それにしたがって政治を実践しようとする思想である。権力を制限することを目的とする自由主義的思想の一形態である」(早大政経学部の川岸令和ほか『憲法〔第4版〕』(青林書院、2016年)5頁)、「近代立憲主義は、憲法に基づいて政治を行うばかりではなく、市民の有する不可侵・不可譲の権利・自由を守るために、憲法によって国家権力を制限しようとする」(慶大法学部政治学科の大沢秀介『憲法入門〔第三版〕』(成文堂、2003年)6頁)等々。これらの立憲主義の定義のどこにも「主権者である国民が」という要素は述べられていない。権力を制限するのは「憲法」であって「国民」ではないという極めて当たり前の結論である。それに、天皇主権であった明治憲法も「立憲主義」として観念される以上は、立憲主義の定義に「主権者である国民が」という要素が入らないことは当然だろう。話は単純である。安倍政権の安保法制についていえば、安保法制は憲法違反であり、国政が憲法の規定に従って行われていないから立憲主義に反していると憲法研究者は述べているのであって、「主権者である国民」がどうのこうのという篠田氏の話は、完全に的外れである。はっきり言えば、意味不明である。

2 憲法は国民も制限する?
「政府を制限し続けるが、国民は制限されてはならない、などと語るのは、歪な絶対主権の信奉でしかない。」(『ほんとうの憲法』14頁)

篠田氏が批判の対象としている言説について肝心の文献が引用されていない。憲法研究者の誰がこんなことを言っているのか。こんなことを述べる憲法学者は聞いたことがないし、そもそも篠田氏のいう「制限」とは何なのか。憲法が国民の何をどうやって「制限」するのかが書かれておらず、「国民」とは何を意味しているのかも不明確で、雰囲気だけで押し切ろうとしており、「プロの学者」(ブログ2017年06月29日)にしては意味不明である。篠田氏はこのように主張している憲法研究者の文献を挙げるべきである。

「英米圏で発達した「立憲主義」は、国民による政府の制限ではなく、憲法規範による社会構成員全員の制限によって定義される。」(『ほんとうの憲法』15、16頁)

篠田氏は、文献を引用していないから、「立憲主義」を「憲法規範による社会構成員全員の制限」と「定義」した「英米圏」の文献を示すべきである。これでは主張の当否が分からない。

「憲法を制定した人民が、自分たち自身にも制約を課す、なぜなら信じている根本価値規範があるから、そういう考え方が立憲主義のはずです。憲法制定権力さえ覆せない根本的価値規範=個人の尊厳を信じるからこそ、政府も制限するでしょうし、憲法制定者もまた自らを律しなければならないのです。それが「主義」としての立憲主義の神髄です。それが立憲主義の思想であるはずです。」(ブログ2017年01月05日)

要は、篠田氏は、「憲法は国民も縛る」と言いたいのであり、だからこそ、「国民は制限されない」と言っているとされてしまっている憲法学者を論難するのだろう。だが、篠田氏の主張は「まず黒く描いておいて、その黒さを批判する」主張にすぎない。

The Constitution of the United States of America is the supreme law of the United States. Empowered with the sovereign authority of the people by the framers and the consent of the legislatures of the states, it is the source of all government powers, and also provides important limitations on the government that protect the fundamental rights of United States citizens.
The Constitution - The White House

上記のようにアメリカのホワイトハウスのウェブサイトには、憲法は政府を制限するものと記載されている。国民を制限するなど書いていない。まさに、憲法が権力に対する授権規範であり、制限規範であるという日本の憲法学のスタンダードな理解が示されている。

立憲主義の理解としてしばしば引用される見解として、「当時に於ける中世及び近世初期のイギリス国制史の(アメリカ)における最大の権威」とされ、立憲主義に関する研究で世界的に著名なマッケルウェインの次の見解がある。

"constitutionalism has one essential quality: it is a legal limitation on government; it is the antithesis of arbitrary rule; its opposite is despotic government, the government of will instead of law."
Charles Howard McIlwain, Constitutionalism: Ancient and Modern 24 (revised ed., 1947) available at http://www.constitution.org/cmt/mcilw/mcilw.htm.
「立憲主義が一つの本質的性格を有していること・・・、換言すれば、立憲主義とは統治権に対する法的制限であり、恣意的支配のアンチテーゼであり、又専制政治、即ち法による統治ではなく意志による支配が、正に立憲政治とは反対概念であること・・・」(邦訳は、森岡敬一郎訳『立憲主義その成立過程』(慶應通信、1984年)29頁)

マッケルウェインは、立憲主義は「government(政府又は統治権)に対する制約」という見解を示している。国民を制限するとは書いていない。なお、マッケルウェインの邦訳について、「統治権」概念が嫌いな篠田氏のために付言しておくと、Black's Law Dictionaryによれば、「government」には「The sovereign power in a nation or a state.」の意味もある。これを日本語に訳せば、「統治権」というだけの話である。

アメリカ人は「ひたすら政府を制限しなければならないことだけを唱える」。篠田氏の主張と真逆ではないか。なお、篠田氏が憲法は国民も制限するというアメリカの文献をいまさら探し出してきてももう遅い。ここでは、上述したようなスタンダードな見解を紹介することなく、「国民も制限するのが英米圏の立憲主義」であると一方的に断定する篠田氏の姿勢を問題視しているのである。

3 主権者も憲法により制限される?

英米圏で発達した「立憲主義」は、国民による政府の制限ではなく、憲法規範による社会構成員全員の制限によって定義される。むしろ歴史的には、主権者であってもなお、憲法規範によって制限される、という考え方を表現するために、「立憲主義」(constitutionalism)という概念が成立・発展してきた。政治共同体の根本的枠組みを定める規範には、社会構成員全員が従わなければならない。国民が政府を制限しているかどうかが重要なのではない。「法の支配」が貫徹されているかどうかが、立憲主義にとって一番重要なことだ」(『ほんとうの憲法』15、16頁)


主権を制限する根本規範があるという思想こそが、立憲主義の根幹である。「法の支配」の理念に結実するように、根本規範が、あらゆる地上の権力を制限しなければ、立憲主義とは言えない。」(『ほんとうの憲法』65頁)

篠田氏の話では、主権者であっても、憲法によって制限されるらしい。文献の引用がないが。

「英米法思想では、主権者ですらも法の支配に服するという考え方が、一つの伝統である。」(『ほんとうの憲法』186頁)

同様に篠田氏の話では、英米法思想では、主権者ですらも法の支配に服するらしい。文献の引用がないが。

「このような「抵抗の憲法学」における議論では、主権を制限する法の支配の尊重としての立憲主義が語られることは、あまりない。しかし伝統的な英米法思想においては、絶対主権の観念が弱い。それは意識的に維持されている仕組みのためである。主権が相対化され、法の支配の原理が強調される。主権者といえども制限されるという前提の中で、チェック・アンド・バランスの均衡が確保される。」(『ほんとうの憲法』186頁)

篠田氏の話によれば、「伝統的な英米法思想」では、主権者も制限され、チェック・アンド・バランスの均衡が確保されるそうだ。文献の引用はないが。

これらの「英米思想」の引用により結局のところ篠田氏が言いたいことは、「主権者である日本国民も日本国憲法により制限される」ということなのだろう。だが、そもそも、篠田氏は、自らが使用している「主権」概念を定義せずに、憲法学を論難している。法学においては、「主権」が多義的な概念であるため、争点となっている「主権」概念がどの意味の「主権」なのかを共有した上で議論をすることが当然の前提となっている。そうしなければ、共通の理解の基盤を欠き、議論は成り立たないのはいうまでもない。

ここで、「主権」の概念について、憲法学の通説の考え方を示しておく。「主権」は多義的な概念であり、①国家権力そのもの(統治権)、②国家権力の最高独立性、③国政についての最高の決定権(国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威)という三つの異なる意味に分けられる。法学部1年生の知識である。

講学上の概念 内容 憲法の規定
国家権力そのもの(統治権) 立法・行政・司法に分けられる国家権力を総称した概念 「国会は国権の最高機関」(41条)
国家権力の最高独立性 国家権力が対外的に他のいかなる権力主体からも意思形成において制限されず独立であり、対内的には他のいかなる権力主体にも優越して最高であること。 「自国の主権を維持し」(前文3項)
国政についての最高の決定権 国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威 「ここに主権が国民に存することを宣言し」(前文1項) 「主権の存する日本国民の 総意」(1 条)

だが、篠田氏は、多義的な「主権」の概念について理解をしておらず、イギリスとアメリカで用いられている「主権」という言葉について、それぞれ異なる意味で用いられているにもかかわらず、全て一緒くたにして日本の「国民主権」と対比している。

4 イギリスの「国会主権」と法の支配

「主権者ですらも法の支配に服するという考え方」の説明として、篠田氏は次の説明から始める。

イギリス法では主権者とは国王のことであるが、議会の中でしか活動できず、議会では庶民院と貴族院の均衡が図られている。さらにコモン・ローによって国王権力を制限する役割が司法権に期待される。18世紀イギリス憲法の権威ウィリアム・ブラックストンは、権利の不可侵性と複雑な混合王政の主権こそが、イギリス憲法の栄光の源泉と誇った。」(『ほんとうの憲法』187頁)

今一つ不正確な表現であるが、篠田氏は、イギリスの「sovereignty of parliament」(「国会主権」)のことを言いたいのだろう。「国会主権」については、英米法学者・憲法学者(のち最高裁判事)の伊藤正己氏によれば、次のとおりである。

「イギリス憲法の通説的地位を占めるともいえる、ダイシーの国会主権論」「国会主権(Sovereignty of Parliament)とは、国会、詳しくは『国会における国王』、具体的には、国王、貴族院、庶民院の共同意思が、法的な主権をもつことを意味する」
*伊藤正己『イギリス法研究』(東京大学出版会、1978年)141頁。

国会主権は、国王、貴族院、庶民院の共同意思が、法的な主権をもつことを意味する。

法的には国会に対して無制約の立法権が与えられている・・・」
*伊藤正己『イギリス法研究』(東京大学出版会、1978年)149、150頁

その国会主権は、無制約であるとされている。主権者・国会の有する立法権が絶対的であることは、ブラックストンが述べている。

「ブラックストン(Blackstone)があげられる。その「コンメンタリイズ」から引用をしてみよう。彼によれば「のちの国会の権能を傷つけるような国会制定法は拘束力がない。・・・立法部は真に主権的権力なのであるから、それはつねに平等であり、つねに絶対的権威をもっている。それは地上にそれに優位するものを認めない。もし以前の立法部の命令が現在の国家を拘束しうるとすれば、以前の立法部が優越するものとならざるをえない」とされ、のちの国会を拘束しえないことが明らかにされている。そしてさらにつづいて、「サー・エドワード・コーク〔原文ママ。正しくはクック〕(Sir Edward Coke)もいっているように、国会の権能と管轄権は、きわめて超越的であり、かつ絶対的なものであるから、事項に関しても人に関しても、それが何らかの限界に服することはありえない。・・・国会こそは、あらゆる政府においてどこかにおかれねばならない絶対的、専断的権力がわが王国の憲法によって委ねられている場所である・・・。」と詳しく国会主権の内容を説明しており、ブラックストンの理解はのちのダイシー理論と共通のものであることが知られよう。」
*伊藤正己『イギリス法研究』(東京大学出版会、1978年)151頁

このブラックストンの「コンメンタリイズ」は篠田氏も読んでいるはずである。

「18世紀イギリス憲法の最重要注釈書であるWilliam Blackstone『Commentaries on the Laws of England』とともに、LSEの国際関係学部の博士課程学生だった私に、ある種の衝撃を与え、博士論文の構想を固めてくれたものだった。」(ブログ2017年02月06日)。

篠田氏の主張では、下記のように、法的な主権者である「国会における国王」=国会主権ですらも法の支配・コモン・ローに服することになる。だが、本当なのか。伊藤正己氏の著作と見比べてみよう。

「英米法思想では、主権者ですらも法の支配に服するという考え方が、一つの伝統である。」(『ほんとうの憲法』186頁)
「〔国会主権の原則は〕「国会における国王」King in Parliamentの作る国会制定法は、イギリス法体系の最頂点にあり、それは、「男を女にし女を男にする以外のことは、すべてのことができる」ものとする原則である。従つて、イギリスには国会制定法に優越する法は存在せず、またこれを審査して無効とする機関はみいだしえない。かくて、コモン・ローは、もはや最高の地位を占めるものではなくて、いかに古い慣習にもとづき、長い間の判例の累積をもつて確立したコモン・ローの原則も、国会制定法の前には譲歩せざるをえなくなつたのであつた。」
*伊藤正己『法の支配』(有斐閣、1954年)30、31頁

国会主権は絶対・無制約であるから、コモン・ローも国会制定法の前には譲歩せざるをえないのである。では、法の支配はどうか。

「一七世紀の革命によって成立をみた「国会主権」の原理は、法論理的には、イギリスにおける立法作用の無制約性を確立し、ここに、たとえ不当な立法がなされても、その効力を争うことはできなくなった。その意味で、イギリスにおいては、「法の支配」は、「国会主権」に譲歩したともいえるし、むしろ正確には、支配すべき「通常の法」のなかに、国会の作った法律は、その内容のいかんをとわず、当然に包含されるものといえるであろう。このような体制のもとでは、立法作用に対する関係において、「法の支配」の原理がうきあがってこないことは、当然といえるであろう。」
*伊藤正己『イギリス法研究』(東京大学出版会、1978年)262、263頁

結論的に、「国会主権」の原理は、法論理的には、イギリスにおける立法作用の無制約性を確立し、その意味で、「法の支配」は、「国会主権」に譲歩したともいえると評価されている。伊藤氏の見解は、篠田氏の主張と違う。

さらに重要なことは、イギリスでは、国民主権が法的に否定されていることである。

イギリス憲法における主権の主体をどこに求めるべきであるか。わたくしは、これをやはり「国会における国王」に求めるべきであると考える。その意味では、常識的な結論ながら、通説どおり国会主権を維持できると思う。・・・このことは、われわれに二つのことを注目させる。一つは、国民の憲法上の主権を否認していることであり、そのことは、イギリス憲法が、民主主義的原理からなお批判の余地あることを示している。イギリス憲法は、中世的基盤のうえに築かれ、なおその要素を多分に残すのであり、近代革命も、イギリス的やり方に従い、それを一掃しなかったのである。・・・第二は、イギリス憲法上の主権をこのように理解できるとすれば、なお法的な国家権力と密接に結びついたものであることである。国民主権がもはやその結びつきを喪失したのと比較するならば、これもまた一つの注目に値する点であろう。」
*伊藤正己『イギリス法研究』(東京大学出版会、1978年)147、148頁

以上のイギリスの「国会主権」に関する理解をもとに、「主権者であってもなお、憲法規範によって制限される」とか、「英米法思想では、主権者ですらも法の支配に服するという考え方が、一つの伝統である。」という篠田氏の主張を検討する。

イギリスでは、法的な「主権者」は、「国会における国王」=国会主権であり、国会主権は絶対・無制約と考えられてきた。「主権者といえども制限される」と言っても、イギリスではその主権者は「国会における国王」であり、無制約・絶対的であるから、篠田氏のいうように「制限される」ことはない。法の支配は、国会主権に「譲歩した」のである。他方で、イギリスでは、国民主権は法的に否定されている。したがって、イギリスで「主権者といえども制限される」といっても、国民は、法的な主権者ではないから、そもそも「制限」の対象から外れている。

篠田氏は、国民主権が認められている日本国憲法においても、「主権者といえども制限される」べきだとして、主権者である国民も制限されるべきであると主張している。しかし、同じ「主権者」といっても、イギリスと日本ではその中身が全然違うのである。イギリスの国民は、日本国民と同じ意味において「主権者」ではない。篠田氏は「主権」の意義を混同しており、論難は的外れである。

5 アメリカの「分割主権」?

篠田氏は、「伝統的な合衆国憲法の解釈とは、たとえば「分割主権(divided sovereignty)」論によって象徴される」(ブログ2017年02月06日)として、ストーリー判事の見解を紹介している。

「1833年に、おそらくは当時の憲法学で最大の権威を持った書を残した合衆国最高裁判所判事ストーリーは、合衆国の主権が、ヨーロッパで観念されている伝統的な意味での主権と異なっていることを説明した。主権とは「最広義においては、至高・絶対・制御不可能の権力」である。しかしながらそのような権力は合衆国には存在しない。あるいは制限され、洗練された意味でのみ存在する。ストーリーによれば、「国家(the state)―それによってわれわれは国家を構成する人民を意味するのだが―は、その主権権力を様々な機能に分割するかもしれない。そして各々は、制限的意味において、各々に限定された権力に関する限り、主権者であり、その他の場合には従属的である。

合衆国憲法が1788年に発効した直後、新たに設立された合衆国最高裁判所は、次々に州と連合の双方に主権を認める判例を出しており、ストーリーは、それを体系的に注釈したのであった。たとえば1792年の事件において、最高裁判所は次のように述べた。「合衆国は、放棄された政府の全ての権力に関する限り、主権者である。連合の各国(州)は、保持された全ての権力に関する限り、主権者である」。」(『ほんとうの憲法』191、192頁)。


「各国(州)の残余的主権は、いかなる公的機能にも委ねられていないならば、各国(州)の人民に存する。」(Joseph Story, Commentaries on the Constitution of the United States [Boston: Little, Brown, and Company, 1891], first published in 1833, p. 152.)(ブログ2017年02月06日)

この主張から、篠田氏は「分割主権」論として、アメリカにおける、連邦及び州が二重に主権を有するという「二重主権論」(dual sovereignty)と、残余の「主権」は人民にあるとする考え方を述べていると考えられる。そして、篠田氏は、この理解を前提に、日本の憲法学者の立憲主義理解を批判する。

9条解釈から立憲主義それ自体の定義に至るまで、すべて「国民が主権者である」という「憲法制定権力」者絶対説といっていいテーゼを振りかざすことによってしか日本国憲法解釈を行うことがない日本の数多くの憲法学者にとってみれば、ストーリーらアメリカ人による分割主権論や、19世紀イギリスのブラックストンらによる「絶対主権論の例外」としてのイギリス混合政体による主権共有論は、全くの異端であり、ほとんど「反知性主義」的なものであるかもしれない。だが、それらこそが、アングロ・サクソンの世界の正統な立憲主義である。・・・合衆国憲法においては、立憲主義とは、自己制約であり、チェック・アンド・バランスのことである。 (ブログ2017年02月06日)

篠田氏に言われるまでもなく、ストーリーもブラックストンも異端でもなく「反知性主義」でもない。何の根拠をもってそういう「レッテル貼り」をするのか。篠田氏は、アメリカ合衆国憲法の議論として、「分割主権」論を持ち出し、アメリカでは主権権力をさまざまな機能に分割し、チェック・アンド・バランスにより自己制約をしているのに、日本の憲法学は、「国民主権」を「絶対的」とし、「主権」に制約を認めないものであり、「正統な立憲主義」ではないと主張している。しかし、篠田氏は、「主権」を全く定義していない上に、「主権」概念を混同している。同じ「主権」という名称を用いているが、篠田氏のいう「分割主権」にいう「主権」と日本国憲法の「国民主権」にいう「主権」の意味は異なる。それにもかかわらず、両者を同次元で論じ、日本の憲法学を論難している。

日本国憲法の「国民主権」にいう「主権」は、「③国政についての最高の決定権(国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威)」の意味である。 篠田氏のいう「分割主権」の「主権」についてであるが、連邦と州が有する「主権」以外の残余の「主権」は人民にあるという局面については人民主権論であろうが、連邦及び州が二重に主権を有するという「二重主権論」(dual sovereignty)の局面については、「主権」の意義は、①国家権力そのもの(統治権)か、②国家権力の最高独立性かのどちらかである。この点について、青柳卓弥氏の見解をみてみよう。

「そもそも「主権」概念の最高独立性ということを前提とするならば、一国家内において二個以上の主権主体が併存しながら、他の主権主体の最高独立性を保障するといった相互性を確保することは、元来、論理矛盾に陥ってしまうはずである。よって、国家主権・州主権二分論なるものは、国家(=連邦政府)と州との権限配分の相互性を内容とするものに過ず、法的に主権の主体を規定する理解としてみなすことは困難と言わざるを得ないものである。」

「〔アメリカの歴史における〕各時期の主権論をめぐる議論の妥当性を考察した結果、抽出され得る共通点は、いずれの主権論(国家主権・州主権二分論、州主権論、国家(=連邦政府)主権論)にせよ、「主権」概念の最高独立性を満すものではなく、その意味では法律学上の主権論としては通用するものとは言い難いということである。つまり、これらの「主権論」の法的内実は、そもそも連邦政府と州との権限配分を如何に規定するかというものであり、この点をめぐって既述の如き、「統一国家」派と「連邦国家」派との政治的対立が展開されてきたのである。そして、両派の「権限配分」論争が、政治的対立の渦中で「主権論」をめぐる対立として主張されてきたのではないかと考えられる。

それでは、このような「権限配分」論争の「主権論」への置換えは、如何なる理由に基づくものであろうか。・・・第二に考えられることは、「主権」概念の多義性に基づく混乱が生じたのではないかという点である。すなわち、歴史的に「主権」概念は統治権として用いられてきた経緯から、統治権の下位概念であるはずの権限を、「主権」と同一視してしまう結果になったのではないかと考えられる

いずれにせよ、州権論争に関わる各々の「主権論」は、法的に主権論と呼び得るものではなく、法的な「権限配分」をめぐる論争と言うのが正確である。」

*青柳卓弥「アメリカ合衆国における主権論争をめぐる一考察」『法学政治学論究』第19号(1993年)359、360、361頁

このことから、少なくとも、「二重主権」を「国家権力の最高独立性」として考えることはできないだろう。「歴史的に「主権」概念は統治権として用いられてきた経緯から、統治権の下位概念であるはずの権限を、「主権」と同一視してしまう結果になったのではないか」とする青柳氏の指摘から、「二重主権」にいう「主権」の意味は、「国家権力そのもの(統治権)」の議論と考えることができよう。憲法学者の宮澤俊義氏も、アメリカ合衆国憲法の中央政府と州との間の「統治権」の分配の問題だとしている。

「すでに連邦である以上、そこでは中央政府と各州との間に統治権が分配せられねばならぬ。憲法は合衆国の権限に属するものは憲法に列記された事項のみに限り、その他は州又は人民に留保されるという原則を採用した。これは憲法増補第一〇条に於て明らかに規定されたところであるが、その主義は最初からみとめられていたのである。」
*宮澤俊義「硬性憲法の変遷」『憲法の原理』(岩波書店、1967年)73頁

以上により、日本国憲法における「国民主権」の「主権」は「③国政についての最高の決定権(国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威)」の意味で用いられている一方で、篠田氏のいう「分割主権」の「主権」は、人民主権の局面と「二重主権」の局面が想定されており、「二重主権」については「①国家権力そのもの(統治権)」の意味で用いられており、両者は「主権」の意味するところが異なっているから、アメリカの「自己制約的」な「分割主権」論を根拠に、日本国憲法の「国民主権」論を批判する篠田氏の主張は、全く別次元の議論を同じ平面で論じており、的外れということになる。そして、篠田氏は、英米法では「主権者も制限される」のに日本では「国民主権」が制限されていないとして論難するが、アメリカの「二重主権」における「主権」は統治権の意味であるから、アメリカでは「主権」=統治権が制限されるのに、日本では「国民主権」が制限されないのはおかしいというのは、「主権」の概念を混同しており、これまた的外れである。

6 「国際社会」における「国際立憲主義」?
「〔日本の憲法学者が〕国際的に標準とは言えない「立憲主義」の定義を持つ」(『ほんとうの憲法』15頁)

「制憲権力=人民と通常権力=政府のどちらか一方が真の主権者ということではなく、複数の最高権力を機能で分けた上で、意識的に調和させ、作り出したのがロック以来の政治思想史上の「立憲主義」の伝統だ。それこそがイギリス立憲主義の「混合王政」やアメリカ立憲主義の「分割主権」などへと発展した思潮だ。今日の国際社会で「国際的な立憲主義」などが語られるときに理解の基盤とされるのは、このアングロ・サクソン流の立憲主義である。ところが日本の憲法学は、ロックの政治思想に基づいた主権=GHQ案から、密かにロックの潮流のアングロ・サクソンの立憲主義を取り除き、「国民主権」論の観点から曲解してきた。さらには政府が「国権」なる謎の権利を行使するかのような憲法典まで作り上げてしまった。」(『ほんとうの憲法』64、65頁)

篠田氏は、「国際的に標準」といえる「立憲主義」すなわち、今日の国際社会で語られる「国際的な立憲主義」が存在し、日本の憲法学の立憲主義の理解は、それとは異なっていることを主張している。では、「今日の国際社会で語られる国際立憲主義」は、実在するのか。まずは、篠田氏のいう「今日の国際社会で語られる「国際的な立憲主義」」の存在から検証する。『ほんとうの憲法』で「国際的な立憲主義」の関連文献として引用されているのは、篠田氏の単著Re-examining Sovereignty: From Classical Theory to the Global Age (London: Macmillan, 2000) と『「国家主権」という思想』の2文献のみである。「国際的な立憲主義」は、「今日の国際社会で語られている」わりには、篠田氏の書いた本しか引用されていないのはなぜかという疑問がよぎる。

以下では、発表年の順に篠田氏の著作を引用する。まずは、2000年発表のRe-examining Sovereignty: From Classical Theory to the Global Ageからの引用である。

"I shall characterise this tendency as a type of 'international constitutionalism'.."(23頁)
", which I call 'a new international constitutionalism',."(23頁)
"what I call international constitutionalism,"(67頁)
"I shall call this phenomenon 'new international constitutionalism'."(131頁)
"what I call international constitutionalism."(152頁)

どれもこれも、篠田氏が「私が国際立憲主義と呼ぶ」や「私が新しい国際立憲主義と呼ぶ」というフレーズばかりである。この文献からは、「国際立憲主義」や「新しい国際立憲主義」は、篠田氏が提唱している概念にすぎないことが分かる。

「国際社会が進化した社会になるためには、できるだけ国内社会に類似するべきだ、という発想が自明視され、国内社会と比べて国際社会に欠落しているものを補おうとする動きが強くなったのであった。筆者はかつてこの動きを、一つの「国際立憲主義(international constitutionalism)」と呼んだ(Shinoda,2000,Chapter 4)。あるいはそれは、「近代という時代に特有の国際立憲主義」と言い換えても良いものかもしれない。」(109頁)。


「このように介入主義の論理と国家主権の理論を、矛盾なく整合性のとれた形で説明するものが、国際社会全体を貫く立憲秩序の存在を前提とする「新しい国際立憲主義」と呼ぶべきものなのである。」(117頁)

(篠田英朗「国境を超える立憲主義の可能性」(『岩波講座憲法5』(岩波書店、2007年)所収))

この2007年発表の論文でも、「国際立憲主義」や「新しい国際立憲主義」は篠田氏が創作した概念であることが明記されている。

「国際連盟設立にともなう議論において、英米の知識人の多くは、平和のために国家主権絶対論を克服しなければならないと考えた。もっとも彼らは、主権の廃止を唱えたわけではない。新しい国際社会の法秩序のなかで国家主権を規則づけ、制限しようとしたのである。本章は、そうした英米主導の試みを、国際関係に立憲主義をもたらそうとしたものであったという意味で、「国際立憲主義」と呼ぶ。」(『「国家主権」という思想』139頁)


本書が新しい国際立憲主義と呼ぶものが現れてくる。」(『「国家主権」という思想』261頁)


「国際社会をひとつの独自の社会とみなし、国内社会とは異なった方法を用いながらも国内社会と同じように価値規範を適用し、国際的な法の支配の契機を形成しようとする態度が、本書が新しい国際立憲主義と呼ぶものである。」(『「国家主権」という思想』262頁)


「二○世紀後半の主権概念の形式化と、国際社会全体の秩序への関心の増大は、本書が「新しい国際立憲主義」と呼ぶものを生み出した。」(『「国家主権」という思想』273頁)

これらは2012年発表の『「国家主権」という思想』(勁草書房、2012年)からの引用である。「呼ぶ」という言葉が多用されている。2000年の英語文献の出版以降12年も経ているのに、同書には篠田説が「今日の国際社会」で引用されていることを示す記述はない。「今日の国際社会で「国際的な立憲主義」などが語られるとき」とは大きく出たが、単に自著が英語で出版されているというだけではないのか。英語で出版されているので「今日の国際社会」というのは、嘘ではないが、誇張である。篠田氏の単著Re-examining Sovereigntyの元となったと思われる、篠田氏がイギリスで国際関係学博士を取得した学位論文Conflicting Notions of National and Constitutional Sovereignty in the Discourses of Political Theory and International Relations: A Genealogical Perspective (available at http://etheses.lse.ac.uk/2481/1/U615430.pdfの33頁注67には、"The phrase, 'international constitutionalism', was employed by Carl J. Friedrich. He refers to the Covenant of the League of Nations, the Charter of the United Nations and the Universal Declaration of Human Rights of 1948, although he points out the limits of the implementation of them. See ibid., p. 31."とある。上述の篠田氏の著作物で、「国際立憲主義」という「文字」を使用している者として引用されているものは、Carl J. Friedrichだけのようである。

だが、誤解しないでほしいのは、「国際立憲主義・international constitutionalism」という概念が存在しないということではない。英語圏等ではこの概念について一定の議論がある。ここで問題視しているのは、篠田氏が自説をあたかも世界のスタンダードであるかのように語っていることである。例えば、イギリスの国際法学者で立憲主義を専門の一つとするAoife O'Donoghue氏の2013年の論文「国際立憲主義と国家」(Aoife O'Donoghue, International Constitutionalism and the State, 11 International Journal of Constitutional Law 1021 (2012) (available at https://academic.oup.com/icon/article/11/4/1021/698729/International-constitutionalism-and-the-state))には、篠田氏の論文はどこにも引用されていない。そして、Aoife O'Donoghue氏は、"there are competing views of what international constitutionalism entails."という見解を示している。篠田氏は「国際立憲主義」の内容を一切の留保なく断言しているが、この論文では、さまざまな見解があると書いてある。少なくとも、「今日の国際社会」で「国際的な立憲主義」が語られていると篠田氏が断定する以上は、篠田説がある程度は「今日の国際社会」で受容されていなければ、誇張と言わざるをえないのではないか。

次回は、憲法の教科書でも「総論」の冒頭近くで論ずる問題、「国家の三要素」という、本当に基本的なテーマについて、『ほんとうの憲法』による難癖を批判することにしたい。

《この項続く》

連載第1回(今回):「9条加憲」と立憲主義

連載第2回:「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか

連載第3回:憲法前文とその意義

連載第4回(完):憲法9条をめぐって

補遺:立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』にみるデタラメな主張への論駁

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