今回は篠田英朗氏の9条理解について取り上げる。この連載の第1回は、安倍首相の9条「加憲」を擁護する篠田氏の議論を批判したが、今回は憲法9条そのものについての篠田氏の理解のいい加減さを徹底批判するとともに、篠田氏がその著『集団的自衛権の思想史』において、私のホームページ(「直言」)の記述を注記もなしに用いた疑いについても明らかにする。
Ⅵ 憲法9条の意義1 憲法9条の画期的な性格
「芦部信喜『憲法』の記述にしたがえば、・・・憲法9条は「一切の戦争と武力の行使および武力による威嚇を放棄し」、「戦力の不保持を宣言し」、「国の交戦権を否認した」点で、「比類ない徹底した戦争否定の態度を打ち出している」。本当にそうだろうか。」(『ほんとうの憲法』147頁)
だが、「表情からにじみ出る人格の深さを持ち合わせており、私のような者に、同じ学者という職業を持っていることに喜びを感じさせてくれるような、素晴らしい方」「人格的にも優れた卓越した研究者」(ブログ2017年1月12日)と篠田氏が絶賛する国際法学者の藤田久一氏は、篠田氏とは真逆の見解を示しており、藤田氏が憲法学者の故・深瀬忠一氏を引用していることからも分かるように、藤田氏の見解は憲法学における一般的な理解である。
「九条の文言の解釈争いは延々と続いてきたが、九条の戦争(武力による威嚇または武力行使)放棄、戦力の不保持、および交戦権の否認の趣旨は、連盟規約、不戦条約、さらに国連憲章へと引き継がれ展開してきた戦争違法化と軍縮の系譜の線上にあることは明らかであり、かつ、戦力不保持や交戦権否認までも明示した点で戦争禁止の思想を一層進めたものである(8)。」
(8)深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』(岩波書店、1987年)参照。
*藤田久一「国際化と憲法」ジュリスト1192号(2001年)53頁
また、藤田氏は、次のように、テロ・反テロ戦争の様相を帯びる21世紀の国際社会における9条の意義を強調する。
「テロ・反テロ戦争の様相を帯びる21世紀の国際社会においては、戦争放棄条項を含む平和憲法こそ、国民主権の下で民主主義の実現と人権の尊重と保障――裏返すと、違憲・違法の戦争行為を行いまたは命じた戦争犯罪人の刑事処罰制度――を支えるためにも必要なものとみるべきだろう。」
*藤田久一「国際法と憲法の調和――イラクへの自衛隊派遣問題から9条を考える」ジュリスト1260号(2004年)161頁
これに対し、篠田氏の9条の評価は低く、憲法学を次のように論難する。
「憲法学では、日本国憲法こそが世界最先端の理想主義の灯であり、国際法は前時代的な権力政治の領域だとみなすのである」(『ほんとうの憲法』145頁)
「あたかも国際社会は主権国家が「無差別的に」戦争をしている場所であるかのように仮定し、憲法9条こそが汚れた国際政治を否定する理想の灯であるかのような「物語」を拡散させてきた。」(『ほんとうの憲法』146頁)
篠田氏は、「日本国憲法こそが世界最先端の理想主義の灯」ということを否定する。だが、国際法学者のリチャード・フォーク米プリンストン大学名誉教授は、篠田氏とは異なる見解を示す。リチャード・フォーク氏については、「直言」で言及したことがある。「篠田氏は、「著名な国際法学者であるリチャード・フォークら」(篠田氏の論文「国境を超える立憲主義の可能性」102頁)」の「グローバルな立憲主義」の考え方を紹介し、次のように評価する。
「国際社会全体を扱うことに慣れている国際法学者たちが、「グローバルな立憲主義」の概念を、フォークらの唱える方向性で捉えることは、むしろ自然なことであろう」(『岩波講座憲法5』所収論文「国境を超える立憲主義の可能性」102頁)
フォーク氏は、2016年12月25日、安倍首相がハワイの真珠湾に訪問するのを前に、映画監督オリバー・ストーン氏ら53名で「真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状」を発表した。その一節にこうある。
「首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。」
「公開質問状(全文)」ハフィントンポスト日本版2016年12月25日
フォーク氏は、安倍政権による集団的自衛権行使を可能にする憲法解釈の変更に批判的であることが看取される。このことがさらにはっきりするのは、フォーク氏本人のホームページのJeopardizing Japanese ‘Abnormality’: Rejoining the War Systemと題する論稿である。次の文章は、安保法制と憲法9条について語った箇所である。
This raises the deepest and most meaningful question: Was Japanese ‘abnormality’ a good or bad thing for the people of Japan and of the world? As someone with a commitment to peace and justice I long ago found the Article 9 approach taken by Japan inspirational, pointing the way toward making the international law of the UN Charter come to life, an example that could beneficially be followed by others, including in my wildest fantasies, by the United States itself. It is also encouraging that the Japanese public appears to agree with the positive contributions of Article 9, opinion polls indicating that a clear majority of the Japanese people oppose the new national security legislation and its implicit endorsement of collective self-defense.① As is often the case, society is more peace-oriented than the elected leadership, and when party politics endows those in control of the government a capacity to defy the values and opinions of the citizenry, a crisis for democracy becomes embedded in what is put forward as a revision of security policy in light of changed circumstances.
The last question contained in such reflections is whether changed regional and international circumstances justify abandoning Article 9 and the peace mentality associated with it. Although Prime Minister Abe promises to carry forward Japan postwar tradition of ‘peace and prosperity’ this effort to normalize Japan is a deliberate policy rupture, especially when tied so indiscreetly to a more active geopolitical partnership with the United States. From my perspective, Japanese abnormality remains a most precious reality, a beacon pointing toward the kind of ‘new realism’ that the 21st century urgently requires.②
篠田氏自身が「著名な国際法学者」と認めるフォーク氏は、下線部②で、「日本が普通の国ではないことは、大変貴重な現実であり、21世紀において喫緊に求められる「新たな現実主義」を示す灯(beacon)である」という。「著名な国際法学者」は、9条が「理想の灯」であることを否定する篠田氏の主張とはずいぶん異なる評価をしている。
さらに、篠田氏は、憲法学に対し、次のように論難を繰り広げる。
憲法学について、「「世界の国々は日本の平和主義の原則を見習うべきだ」、といった独善的な思想」(『ほんとうの憲法』31頁)
「〔憲法学は〕もし憲法9条と国際社会の間に乖離が見られる場合には、国際社会に憲法9条を見習わせることによって、協調を目指していくべきだといった主張をすることが珍しくない。しかしそれは憲法学者のロマン主義的な9条解釈による後付けの工作物であ〔る〕」(『ほんとうの憲法』32頁)
「国際社会を変革する主導的理念を実現したのが日本国憲法だ、などという理解が空想に過ぎない」(『ほんとうの憲法』33頁)
「憲法9条の価値とは、斬新で画期的な理念によって国際法を主導することにあるのではない。」(『ほんとうの憲法』60頁)
フォーク氏は、自らのブログの下線部①で、「憲法9条のアプローチは、国連憲章が息を吹き返す(come to life)途を示しており、そのほかの国も、また、私の最高に突飛な空想ではあるが、アメリカもこれに続き得る手本なのだ。」という。これまた篠田氏の主張と異なるではないか。
「自分の政治的立場を補強する時だけつまみ食いし、しかし気が向かないときは隠ぺいしたりするような態度は、よくない。」(ブログ2017年08月20日)
篠田氏はこう言うのであるが、国際法学者の藤田氏やフォーク氏の見解を前にしても、篠田氏は自らが「つまみ食い」「隠ぺい」をしていないというのだろうか。
「集団安全保障及び個別的・集団的自衛権を否定する日本の憲法学の態度は、世界最先端の議論ではない」(『ほんとうの憲法』146頁)
篠田氏はこのように言うが、そもそも、「世界最先端の議論」とは何か。「集団的自衛権の否定」が憲法で集団的自衛権行使を認めないという趣旨であれば、それは日本だけではない。
「集団的自衛権は義務ではなくして権利であります。権利をどのように行使をするのか、これは各国の事情に委ねられます。我が国以外にも、例えばスイス、オーストリア、この永世中立国においては集団的自衛権の行使、これは考えられません。また、現実を見ましても、コスタリカという国は軍隊を持っておりません。集団的自衛権の行使は考えられません。各国に集団的自衛権はひとしく認められていますが、その中でどういった形で行使をするのか、これは各国の法律ですとか様々な事情によって限定される、これは当然のことであると思います。義務ではなくして権利であるからして、これは当然のことであると考えます。」(189-参-我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会平成27年09月14日岸田外務大臣答弁)。
篠田氏の言葉を使えば、スイス、オーストリア、コスタリカは、「世界最先端の議論」をしていない「ガラパゴス」なのだろう。
篠田氏のいう「集団的自衛権の否定」が国際法上の評価として集団的自衛権を否定的にとらえるという意味であればどうか。「表情からにじみ出る人格の深さを持ち合わせており、私のような者に、同じ学者という職業を持っていることに喜びを感じさせてくれるような、素晴らしい方」「人格的にも優れた卓越した研究者」(ブログ2017年1月12日)と篠田氏が称賛する国際法学者の藤田氏は、次の見解を示す。
「かかる戦争放棄条項を取り去るような改憲の動きは、単に戦争権(交戦権)、集団的自衛権を認め、軍備の増強を促すだけでなく、それと引き換えに、民主主義体制やその下の人権保障を掘り崩す結果をもたらすことになろう。」
*藤田久一「国際法と憲法の調和-イラクへの自衛隊派遣問題から9条を考える」ジュリスト1260号(2004年)161頁
藤田氏は、集団的自衛権について否定的である。篠田氏によれば、集団的自衛権に関する藤田氏の見解は、「世界最先端の議論」ではないということになる。
2 憲法9条の解釈方法憲法9条1項は、「「正義と秩序を基調とする国際平和」を達成することを目的にしているのであれば、国際法秩序を最大限に尊重したうえで、自国の政策がその目的に貢献するように配慮するのが、当然である。9条1項は、国連憲章の論理構成に従って、解釈しなければならない。」(『ほんとうの憲法』239頁)
篠田氏が称賛する国際法学者の藤田氏は、この篠田氏の主張とはまったく逆方向の見解を示している。
「主権独立国の憲法(国内法)と主権国家の併存する国際社会に妥当する国際法とは、独立した別々の法体系であるとみなすのが一般である。もっとも、日本国憲法の解釈によれば、日本の国内レベルにおいては、憲法は国際法(条約と慣習法)に優位する。国際法とくに条約を憲法(国内法)秩序のどこに位置づけるかおよびその効力は憲法の規定によるのであり、逆に、憲法の外から条約によって押し被せるわけにはいかない。国際法上の国家の権利をその国の憲法が規定しないことは可能であり、その場合国家によるかかる権利行使が違憲とみなされることもあろう。この脈絡では、国際環境の変化を理由にして憲法9条を個別的および集団的自衛権を認める国際法(国連憲章51条)に合わせて解釈したり(意味の変遷)、またそのために改憲しなければならないとするのは本末転倒の感を否めない。」
*藤田久一「平和主義と国際貢献-国際法からみた9条改正論議」ジュリスト1289号(2005年)89頁
藤田氏の見解は極めて真っ当であり、篠田氏の主張は、本末転倒の典型例である。
「2015年安保法制をめぐっては、多くの国際政治学者や国際法学者が合憲と考えた。その一方で、多数の憲法学者が違憲論を展開した・・・」(『ほんとうの憲法』11頁)
それは、合憲と考える「多くの国際政治学者や国際法学者」の解釈が間違っているだけのことである。そもそも、憲法学を専門としない国際法学者による憲法解釈について、国際法学者の藤田氏は、次の見解を示す。
山内 たしかに、湾岸戦争というのは、安保理の一応の授権のもとに多国籍軍があのようなかたちの軍事行動をとったわけですが、あれ自体が国際紛争であることは間違いないですね。
*「イラク戦争、改憲論の中で憲法九条を生かす道をさぐる」法律時報76巻7号(2004年)16頁
藤田 もちろん。
山内 ところが、一部の国際法学者等は、「そのような場合の自衛隊の参加というのは、これは九条の一項が禁止したところの国際紛争解決のための武力行使とは違うのだから、それは憲法上、九条によって違憲とされていないのだ」という議論をしています。
藤田 ですから、憲法解釈の問題で、それを憲法学者が言うのだったらわかるけれども、国際法学者がそういう議論をするのはおかしい。
このような藤田氏のような緊張感や慎重さが篠田氏や安保法制を合憲とする国際政治学者・国際法学者には欠けているのではないか。
3 「国際協調主義」憲法前文にはこうある。「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」。篠田氏は、これについて、次のように主張する。
「日本国憲法で強調されている「国際協調主義」が、憲法学においては、これまで軽視され、無視されてきた」(『ほんとうの憲法』17頁)
「政治イデオロギーにかかわらず、事実を見つめ、「国際協調主義」の要請を引き受けて、憲法を解釈すべきではないだろうか。」(18頁)
憲法前文には「国際協調主義」という文言はなく、前述の前文をとらえて、講学上「国際協調主義」と呼ばれている。ここでは、「例外的に英米法の思想をもって日本国憲法を論じた学者」(189頁)として篠田氏が評価する英米法学者・憲法学者である伊藤正己氏の見解を示す。
「冷戦終結後の国際情勢は、平和主義の理想をめざす方向にすすんでいるとはいえ、地域的な紛争が続発し、これを抑止して秩序を回復するため国連などの国際組織の活動が求められる事例が増大しているが、この活動のために必要な限度で武力の行使の求められることもありうる。平和主義とともに国際協調主義が憲法の基本とされているから、平和維持の目的での国際協力に背を向けることは適当でなく、国力の充実した国として積極的な態度をとるべきであろう。しかし、この場合に、武力の行使以外の手段による協力をおしむべきではないとしても、武力、とくに自衛のための組織である自衛隊が部隊として参加を求められるとき、九条にかかわる問題を生ずる。この問題は、日本の防衛と異なり、九条制定のとき予想されていなかったものである。のちにみるような九条の解釈からみて、国際協調という目的であっても、自衛のための戦力である自衛隊が国際紛争処理のために武力を行使することは、自衛の範囲をこえる活動であるから、武力の行使の予想される状況のもとで海外に自衛隊を派遣して平和維持活動に参加することは、憲法の認めるところではないというほかはないであろう①。政治的規範の性格を有する条文について柔軟な解釈が許されるとしても、武力による介入を前提とせずに、きびしく限定された範囲でいわゆるPKO活動に参加すること(「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(平成四法七九号)参照)はともかく、これをこえる活動までも合憲とする解釈は、憲法の規範性を没却するおそれが大きい②。したがって、国際協調の目的で、武力の行使の予想される国際的平和維持活動に自衛隊が参加することが必要であると国民が認知するときになれば、憲法の平和主義の原理に背反しないような基準を示して(たとえば国際的意思の合致によって設けられた国連軍への協力に限定するなど)、それを許容することを定める憲法改正を考えねばならないこととなろう③。」
(伊藤正己『憲法〔第3版〕』(弘文堂、1995年)167頁)
下線部①について、篠田氏は、憲法9条は国連憲章の確認規定にすぎないと考え、国連憲章に根拠を有する武力行使であれば全て合憲と考えるのであるから、伊藤氏の見解と異なる。下線部②について、伊藤氏は、政治的規範の性格を有する9条について柔軟な解釈が許されるという立場に立つのであるが、その立場に立ったとしても、国際協調の目的で行う武力行使は憲法上認めらないとし、下線部③では、必要ならば憲法改正をせよという見解を示す。これに対して、篠田氏は、憲法9条は国連憲章の確認規定にすぎないとして、9条固有の法律効果を認めないので、国連憲章にさえ合致していればあらゆる武力行使は合憲と考えるので、この点の憲法改正は理論上不要となる。この点でも、伊藤氏の見解と明らかに異なる。
「英米法の思想をもって日本国憲法を論じた」伊藤氏の見解は、いずれも篠田氏の主張とは距離がある。同じ「英米法の思想」を持ちながら、篠田氏自ら「最高裁判事も務めて実務にも影響を与え、英米法的な法の支配の理念から日本国憲法を読み解く作業も広く行った」(189頁)と評価する元最高裁判事の伊藤氏の解釈は間違いで、法学者ではない篠田氏が正しいということか。ちなみに、この伊藤正己『憲法』は、『ほんとうの憲法』のどこにも引用されていない。
篠田氏は、憲法前文の国際協調主義をつまみ食い的に使って、憲法研究者の見解とはまったく逆の結論を導いている。結局、篠田氏の議論は、国際協調主義(前文・憲法98条)を悪用して、日本の対外的な軍事機能を一気に拡大することを憲法の平和主義の名のもとに正当化しようとするものである。「国際社会」がいいと言えば「地獄までも行く」という発想も乱暴だが、憲法9条の存在を無視した篠田氏の「国際協調主義」は、まさしく「国際強調主義」で、しかもその「国際社会」がアメリカ一国に限りなく傾いているとすれば同様に問題だろう。
4 憲法9条は「宣言的条項」篠田氏は、9条を国連憲章の確認規定と考えている。この認識も問題である。
「憲法9条1項の戦争放棄は、国連憲章2条4項で定められた武力行使の一般的禁止を確認するための条項であると言える。特に現代国際法に付け加えるものを持っているわけではない。憲法9条2項の戦力不保持は、自衛のための実力の保持を留保した条項であるとすれば、国際法から見て特に新規な内容を持つものとは言えない。自衛のための実力以上の戦力なるものを保持していると宣言している国は、ほとんど存在しないはずだ。」(『ほんとうの憲法』149頁)篠田氏が9条を国連憲章の確認規定と考える理由から検討するが、どうやら、9条が「日本国民は」を主語にしていることが理由のようである。しかし、これも意味不明である。
「9条だけが、「日本国民」を主語にしている。日本国憲法に、他にそのような条項はない。
これは何を意味するか。9条が、前文と同じように、憲法制定者たる日本国民が直接的に憲法典の目的を宣言した精神的文章であることを意味している、と考えるべきだろう。内閣憲法調査会会長を務めた高柳賢三が、9条を「政治的マニフェスト」条項と描写したのは、そのためだ。明らかに9条は、細かな規則を定めるというよりも、憲法が目指す目的を宣言する機能を持った条項である。」(『ほんとうの憲法』236、237頁)
9条1項に「日本国民は」という主語があるという事実と、「憲法が目指す目的を明らかにするための宣言を行っているのが、9条である」という結論が全くつながっておらず、理由は「明らかに」程度で、意味不明である。なお、高柳氏の政治的マニフェスト説では、9条の主語が「日本国民」であるという理由は登場しない。篠田氏の特異な主張である。
5 憲法9条1項の解釈(1) 憲法9条1項の法的効果
篠田氏は、憲法9条1項は、国連憲章の確認規定と考え、憲章51条に基づく個別的・集団的自衛権と7章に基づく集団安全保障としての武力行使は、9条1項によって禁止されていないと主張する。
「戦争放棄条項は、つまり9条1項は、1928年不戦条約の焼き直しである。現代国際法に即して言えば、国連憲章2条4項を、国内法でも裏書きしているのか〔ママ〕、9条1項だと考えるべきだ。侵略国家とみなされた日本が、国際法を遵守して平和国家に生まれ変わることを宣言し、国際法規定を国内憲法にも取り込んで、その遵守を明確にした規定だと考えることもできる。
したがって、「目的」審査を入れれば、憲章2条4項が予定している例外、51条の(個別的・集団的)自衛権と7章の集団安全保障は、9条1項によって禁止されていない、と考えるのが当然である。これは消極的に禁止されていない、と言うべき事柄ではなく、むしろ禁止されるべきではない、と言うべき事柄だろう。なぜなら現代世界の国際法は、憲章2条4項を、二つの例外と組み合わせて運用することが、最も理にかなった秩序維持の方法だという理解をとっているからだ。・・・
「正義と秩序を基調とする国際平和」を達成することを目的にしているのであれば、国際法秩序を最大限に尊重したうえで、自国の政策がその目的に貢献するように配慮するのが、当然である。9条1項は、国連憲章の論理構成に従って、解釈しなければならない。」(『ほんとうの憲法』238、239頁)。
その効果は、次のとおりである。
「だが憲法9条は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言しているのであり、それは国連憲章2条4項と基本的に同一の内容である。国連憲章で合法的とされる集団安全保障と自衛権は、「国際紛争を解決する手段」としての「戦争」又は「武力の行使」に該当しないと考えるのが妥当だ。」(『ほんとうの憲法』42頁)。
憲法9条が国連憲章2条4項と「基本的に同一の内容である」とする根拠が全く書かれていない。「妥当だ」とする根拠もない。そのような認識であるから、次のように断定する。
「もし自衛隊が武力行使をする機会があったとして、それが国連憲章51条に該当する自衛権の発動であるか、国連安全保障理事会決議の裏付けを持つ要請にしたがった行為であるならば、9条1項違反となることはありえない、ということである。」(『ほんとうの憲法』239頁)
「表情からにじみ出る人格の深さを持ち合わせており、私のような者に、同じ学者という職業を持っていることに喜びを感じさせてくれるような、素晴らしい方」「人格的にも優れた卓越した研究者」(ブログ2017年1月12日)と篠田氏が称賛する国際法学者の藤田氏は、この類の国際法学者の「解釈」態度について、次のように批判する。
「国際環境の変化を理由にしても憲法9条を個別的および集団的自衛権を認める国際法(国連憲章51条)に合わせて解釈したり(意味の変遷)、またそのために改憲しなければならないとするのは本末転倒の感を否めない。」
*藤田久一「平和主義と国際貢献-国際法からみた9条改正論議」ジュリスト1289号(2005年)89頁
藤田氏の見解は憲法学の見地からも極めて真っ当であり、かつ、「9条1項は、国連憲章の論理構成に従って、解釈しなければならない」という篠田氏の主張とは正反対である。
篠田氏は憲法9条を全て国連憲章の規定で全て塗りつぶしてしまうが、憲法学者の芦部氏は、国際法学者の高野氏の学説を引用しながら、国連憲章の文言と憲法9条1項の文言の意味の違いについて注意を喚起する。
「国連憲章の禁止する「武力の行使」が憲法九条一項の禁止する「武力の行使」と必ずしも意味を同じくしない点に、注意しなければならない。憲章は、形式的意味の「戦争と対置してそれと区別される『武力の行使』を禁止しているのではな」く、「武力の行使が戦争として行われようと否とを問わず、それを禁止したのである(1)」、と解されるからである。」
(1) 高野雄一「憲法第九条-国際法的にみた戦争放棄条項」日本国憲法体系128頁
*芦部信喜『憲法学Ⅰ』(有斐閣、1992年)256頁
篠田氏は、憲法学者が国際法学を無視しているかのように主張するが、言いがかりである。
(2) 集団的自衛権行使、集団安全保障としての武力行使の合憲性「前文で表明されている目的にしたがって9条を読むならば、国際法で合法とされる(個別的・集団的)自衛権と集団安全保障を、9条1項があえて違憲とするはずはないことがわかってくる。」(『ほんとうの憲法』39頁)
「もし自衛隊が武力行使をする機会があったとして、それが国連憲章51条に該当する自衛権の発動であるか、国連安全保障理事会決議の裏付けを持つ要請にしたがった行為であるならば、9条1項違反となることはありえない、ということである。」(239頁)
篠田氏は、「フルスペックの集団的自衛権」や安保理決議に基づく武力行使まで合憲という。安倍政権でもさすがにここまでは言っていない。安倍政権は、国際法上の集団的自衛権の行使を部分的に認めたが、国際法上の「フルスペックの集団的自衛権」の行使は違憲としており、ましてや安保理決議に基づく武力行使までは認めていない。
集団的自衛権の行使が国連安保理に報告された例は、次の通りである。
「集団的自衛権の行使が国連安保理に報告された例として、(a)ソ連がハンガリーに派兵(1956年報告)、(b)米国がレバノンに派兵(1958年報告)、(c)英国がヨルダンに派兵(1958 年報告)、(d)英国が南アラビア連邦を支援(1964年報告)、(e)米国、オーストラリア及びニュージーランドが南ヴェトナムを支援(1965年報告)、(f)ソ連がチェコスロヴァキアに派兵(1968年報告)、(g)ソ連がアフガニスタンに派兵(1980年報告)、(h)キューバがアンゴラを支援(1983年報告)、(i)リビアがチャドに派兵(1981年報告)、フランス及び米 国がチャドを支援(1983年報告)、フランスがチャドを支援(1986年報告)、(j)米国がホンジュラスを支援(1988年報告)、(k)米国及び英国がペルシャ湾地域を支援(1990年報告)、(l)ロシアがタジキスタンを支援(1993年報告) 、(m)ジンバブエ、アンゴラ及びナミビアがコンゴ民主共和国を支援(1998年報告) 、(n)英国、フランス、オーストラリア等が米国を支援(2001年報告)、(o)米国等がイラクを支援、シリアで軍事行動(2014年報告)がある。」
*下中菜都子・樋山千冬「集団的自衛権の援用事例」レファレンス65巻3号(2015年)2頁
篠田氏によれば、このような事態が起きたときに自衛隊が武力行使をしても、いずれも、憲法を改正しなくても、現行憲法の解釈として合憲である。
186-衆-外務委員会-15号 平成26年(2014年)5月14日○上村政府参考人(外務省中東アフリカ局長) お答え申し上げます。
まず、二〇〇一年の九月十一日以降の、例のテロ攻撃を受けて行われました不朽の自由作戦であります。この米英等の活動は、国連憲章第五十一条の個別的あるいは集団的自衛権を行使するものとして開始されたものと考えております。・・・
さて、もう一つ、一九九一年の湾岸戦争のことでございますが、これに対しては、いわゆる一九九一年一月の湾岸戦争、それから二〇〇三年三月の米英等による対イラク武力行使、これは、国際の平和と安全を回復するために国連憲章第七章のもとで採択されました武力の行使を容認する安保理決議に基づく措置であると考えております。以上です。
このように日本政府は、2001年以降の米英等のアフガニスタンでの対テロ戦争は、国連憲章51条の個別的あるいは集団的自衛権の行使であるとしており、このような類型の武力行使を自衛隊が行ったとしても、篠田氏の「憲法解釈」では、合憲である。
また、日本政府は、1991年の湾岸戦争、2003年の米英等による対イラク武力行使は、国連憲章7章のもとで採択された武力行使を容認する安保理決議に基づく措置であるとしているから、湾岸戦争、イラク戦争への自衛隊の参戦も、篠田氏の「憲法解釈」によれば、いずれも、憲法を改正しなくても、現行憲法の解釈として合憲である。
189-衆-我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会平成27年7月3日○安倍内閣総理大臣 御指摘のとおり、武力行使を目的として、かつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加することは、これは政策判断ではなく、憲法上許されないと解しております。・・・
安倍首相も違憲だとする湾岸戦争やイラク戦争での戦争への参加すら、篠田氏によれば、合憲ということになる。安倍首相の集団的自衛権行使容認がかわいらしく見えてくるほど、篠田氏の「解釈」は常軌を逸している。
(3) 水島朝穂の「直言」と『集団的自衛権の思想史』の酷似箇所篠田氏が『集団的自衛権の思想史』執筆に当たり、拙著『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(岩波書店、2015年)やこの「直言」を読まれていたかどうかは不明である。ただ、2016年の篠田氏の『集団的自衛権の思想史』には、2015年の『ライブ講義』や「直言」等の引用が全くない一方で、木村草太氏の集団的自衛権と個別的自衛権の「重なり合い」の主張について批判した、2015年6月2日「緊急直言 集団的自衛権行使の条文化――徹底分析!「平和安全法制整備法案」(その2)」と酷似した内容がある。
現在、個別と集団が「重なり合う」という図を示して自説を展開している首都大学准教授の木村草太氏。しかし、12年前の2003年7月8日に民主党の伊藤英成衆議院議員が、「個別的自衛権と集団的自衛権は重複する部分があるか」について政府に質問主意書(「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書」〔PDFファイル〕)を提出し、同様の図を用いて政府を問いただしていたのである①。右上の画像は質問主意書の問題の部分である。
この質問主意書に対する政府の答弁はこうである(「平成15年7月15日答弁119号 衆議院議員伊藤英成君提出 内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書」②〔PDFファイル〕)。
二の1・・・について
国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
政府は、個別的自衛権と集団的自衛権とは、「自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものである」と答弁し③、重複する部分がある概念であることを前提とする質問の二の1のウについては回答しなかった。当然のことであるが、質問の二の1のイについて、両者は重複しないと考えているから、質問の二の1のウを回答する必要がなかったわけである④。
このように、個別的自衛権の行使と集団的自衛権の行使は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであり、ある武力行使が個別的自衛権行使に当たるか集団的自衛権行使に当たるかは、二者択一の関係にあり、ある武力行使が個別的自衛権行使でも集団的自衛権行使でもあることはあり得ない。ということが、12年前の政府答弁書によってすでに確認されていたのである。ゆえに、「7.1閣議決定」は、憲法違反である集団的自衛権を容認したものであることは明らかだろう。だが、木村氏はなぜかそこをぼかし、「重なり合っている」という特殊な自説を主張することによって、閣議決定の違憲性に対する、事実上、過小評価となる楽観論を広め、本来、端的に「閣議決定は違憲である」と正すべきところ、これを弱め、曖昧にする「効果」を発揮したのである⑤。
この直言と酷似する箇所を下線で表示するとこうだ。
「たとえば、個別的自衛権と集団的自衛権が重なる部分があり、その部分において、集団的自衛権の違憲性が優越せず、個別的自衛権の合憲性が優越する、という理論をとってみても、それ自体として新しい理論であり、議論の余地があったはずだ。少なくともそのような見解を、過去に日本政府が示した経緯はない⑤。二〇〇三年七月八日に民主党の伊藤英成・衆議院議員は、小泉内閣に対して提出した「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書において、個別的自衛権と集団的自衛権は重なるのか、重なる場合にはどちらが優越するのか、という質問を行っていた①。これに対して同年七月一五日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」②は、個別的自衛権と集団的自衛権の「両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別される」と返答していた③。そのためこの答弁書においては、両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった④。」
*『集団的自衛権の思想史』20、21頁
特に酷似しているのは、下線部④である。平成15年7月15日答弁119号の政府答弁書を引用しながら、木村氏の「重なり合い」を批判したのは、この「直言」が初めてであった。政府答弁書を見つけること自体は誰でもできるので、そのことは問わないとしても、特に下線部④は、私が関係方面に取材して得た情報に基づいて書いたもので、この「直言」が本邦初の指摘である。篠田氏は、酷似した指摘をしているにもかかわらず、この「直言」の引用はしていない。
「・・・根拠となる文献類は提示されない。・・・根拠となる文献等の指示はなく、・・・。」(『ほんとうの憲法』205、206頁)
文献の引用に厳しいはずの篠田氏がどうしたことか。剽窃ということはないと思うので、読んでいなかったのだろうが、そうすると、文献調査が不十分な書物について、読売・吉野作造賞が授与されたということか。
6 憲法9条2項前段「陸海空軍その他の戦力」の解釈(1) 「war potential」ではない陸海空軍
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という9条2項について、篠田氏は次のようにいう。
「禁止されている「陸海空軍」とは、「war potential」としての「戦力」に該当するものである。逆の言い方をすれば、「war potential」ではない陸海空軍は、必ずしも禁止されない」(『ほんとうの憲法』240頁)
篠田氏の法令の読み方は不可である。法令では「その他の」の読み方のルールがある。内閣法制局関係者が執筆した『ワークブック法制執務』の記述はこうだ。
「「その他の」は、例二に示すように、「その他の」の前にある字句が「その他の」の後にある、より内容の広い意味を有する字句の例示として、その一部を成している場合に用いられる。」(法制執務研究会編『ワークブック法制執務』(ぎょうせい、2007年)709、710頁)
*この「例二」には、行政手続等における情報通信の技術の利用に関する法律第二条が掲げられており、「紙その他の有体物」という例が挙がっている。
「紙」は、より内容の広い意味を有する「有体物」の例示として、その一部を成しているから、「その他の」が用いられていることになる。
だが、篠田氏の主張によれば、「有体物」ではない「紙」を観念しうるということになるが、そんなものは世の中に存在しない。
憲法の規定では、例えば、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」(14条2項)では、「華族」は「貴族」の例示である。ところが、氏の論法でいえば、「貴族」ではない華族が認められることになるが、概念上、「貴族」ではない華族は存在しえない。同様の論理で、「戦力」ではない「陸海空軍」は存在しえない。篠田氏の論法に従うと、支離滅裂な命題になることが容易に理解されると思う。
(2) 「戦力」と軍隊「常に国際法に合致する形でのみ武力行使を行い、決して国権の発動としての戦争を行うことがない組織としての自衛隊は、9条2項が言う「戦力」(war potential)には該当せず、合憲である。」(『ほんとうの憲法』241頁)
篠田氏は、自衛隊のことだけを言っているが、「常に国際法に合致する形でのみ武力行使を行い、決して国権の発動としての戦争を行うことがない組織」であれば合憲であるから、アメリカ軍のような軍事力を持つことも合憲となる。常軌を逸した「解釈」である。
5 憲法9条2項後段「交戦権」の解釈(1) 「交戦権」概念が現代国際法に存在しないこと
憲法9条2項の「国の交戦権は、これを認めない」の規定について、篠田氏は、「交戦権」という文言に着目する。そして、次の結論を導く。
「「交戦権」という現代国際法で存在しない概念を否認しても、確かに、・・・法的効果は生まれない。9条は宣明的条文なのである。」(『ほんとうの憲法』231頁)
現代の国際法では「交戦権」という概念は存在しないから、存在しないものを否定している法的には無意味な規定であるとする。
「「交戦権」という概念は、19世紀までの古い国際法では、用法がありえた。たとえば交戦状態にある主権国家は、中立国の船舶であっても、戦争の必要性に基づいて臨検を行う権利がある、といった議論の中で、「交戦権」は語られていたのである。アメリカ合衆国は伝統的に「交戦権」に否定的な政策をとる国であった。しかも集団安全保障の国際制度を推進し、「中立国」制度を形がい化させ、「交戦国の権利」も無意味化させた国である。現代国際法に、そのような権利はない。万が一、強制的な措置をとりたいのであれば、憲章51条の自衛権の論理にそって、必要性と均衡性を証明することが必要になる。あるいは国連安全保障理事会が発した憲章7章の権限を付与する決議にもとづいていることを証明することが必要になる。つまり国家の権利としての「交戦権」ではなく、自衛権か集団安全保障の論理にそって、具体的な行為の合法性を審査する必要がある。したがって9条2項の交戦権否認を遵守するということは、古い国際法の「国家の基本権」のような論理を振りかざして国際平和を脅かすことをせず、現代国際法の遵守を徹底する、ということである。むしろ日本の憲法学に残るドイツ国法学の概念構成を放棄し、国際法を遵守する、ということである。このことをわざわざ明文化して憲法に入れ込んでいるのは、宣言的条項としての9条の性格に由来するものである。」(『ほんとうの憲法』243頁)
たしかに、現在の国際法では一般に、「交戦権」という用語は用いられていないし、憲法学でも交戦権の意味は必ずしも明らかではないことを認めている。そのため、憲法学や政府解釈では、「交戦権」の意味についてどのように解すべきかについて、込み入った議論が展開されてきた。以下、これまでの研究成果を確認する。
(2) 「rights of belligerency」のマッカーサー起源説「交戦権」の英訳語である「right of belligerency」という表現は、国際法上の概念として確立しているものではない。
「憲法第9条でいう交戦権の英訳語は“ right of belligerency"であるが、この表現についても若干の議論がある。“right of belligerency"という表現は、国際法上の概念として確立しているものではなく、交戦者の権利については“belligerent right" や “right of belligerent" という表現が用いられるとの指摘がある)。 もっとも、“belligerent right"や“right of belligerent"は、「国家が交戦者として有する権利」のうち、交戦国が中立国に対して行使できる 権利を指す際に使用されることが多い。なお、憲法制定後の文献であるが、“right of belligerency"という表現を用いたものがある。」
*松山健二「憲法第9条の交戦権否認規定と国際法上の交戦権」レファレンス62巻11号(2012年)33頁
では、なぜ「right of belligerency」という語が用いられたのか。「交戦権」(rights of belligerency)規定については、一般に、マッカーサー起源説が唱えられている。まずは、篠田氏の認識である。
「日本国憲法9条2項で否認されている「交戦権」とは、イギリスやドイツによる中立国・アメリカの船舶への攻撃の正当化などを想起させる概念である。古くから、アメリカ合衆国は、これを否認している。アメリカの観点からすれば、「交戦権」とは、「非交戦国」に対する先制攻撃も正当化する「古い国際法」の廃れた理論である。アメリカ合衆国は、一貫してこれを否認している。エリート軍人であったマッカーサー元帥は、こうした歴史に誰よりも精通していて、憲法9条2項を起草したはずだ。」(ブログ2017年05月24日)
これまた篠田氏お得意の、実証的な証拠を挙げないで、「はずだ」という結論を下す典型例である。「交戦権」概念のマッカーサー起源説について、さらに篠田氏はこう述べる。
「日本国憲法9条2項には、マッカーサー草案のメモの文言が残って「交戦権(rights of belligerency)」否認の規定が残った。マッカーサーの意図は、日本が再び国際法を破って侵略行動に出ないように、日本に国際法遵守を求めることであっただろう。それが国際法で廃止された古い「交戦権」復活をあえて明示的に禁止する憲法9条2項であった。」(ブログ2017年03月12日)
ここも、「だろう」と篠田氏がマッカーサーの意図を勝手に推測している。なぜこうも実証的証拠を挙げずに、結論を下してしまうのか。政治学者ならば、実証的な証拠を挙げたらどうか。
「交戦権」という文言については、憲法調査会憲法制定の経過に関する小委員会第十七回議事録6頁(憲法調査会編集・大蔵省印刷局印刷発行『憲法制定の経過に関する小委員会第17回議事録』(昭和34年))に、次の記述がある。
村上委員 ・・・前回に引き続いて海外調査の結果につきまして、御報告をお聞きすることにいたしたいと思います。・・・ ・・・
(6) rights of belligerencyということばの由来およびこの語は特に国際法上どのような意味に用いようとしたのであるか。
・・・高田委員 ・・・(6)は、よくわかりません。ハッシイ、ロウエルのいうところを聞けば、マ元帥一流の特異の用語であるといつていて、特にどういう意味であるかということは、自分たちも別に論議もしなかつたと言つております。・・・
「rights of belligerency」は、「マッカーサー元帥一流の特異の用語」であり、GHQでは意味については別に論議もしなかったとされている。それなのに、篠田氏はなぜ「はずだ」とか「だろう」と根拠も付さずに自信満々に独自の推測を述べることができるのだろうか。この証言から、篠田氏の結論までには、非常に深い溝がある。篠田氏は実証的な資料を挙げて現在までの学問的な到達点と自らの主張とを架橋しようともせず、強引な飛躍をし、一方的に勝手な推測をするだけである。
(3) 「交戦権」の訳語の松本大臣起源説GHQ案の「rights of belligerency」を「國ノ交戦権」という日本語にした事情については、次のとおり、松本国務大臣の執筆であることが分かっている。
「総司令部案で「交戦状態の(諸)権利」(rights of belligerency)とあったのを「國ノ交戦権」とした事情について、佐藤達夫氏は、のちに、憲法調査会の憲法制定の経過に関する小委員会の第二六回会議において、「これは松本国務大臣の執筆であるが、その理由は聞いていなかったように思う。ただ松本国務大臣は、交戦者の権利と戦争する権利とをどの程度に深く認識していたかはわからない。『戦争する権利』とのみこんでいたとおもわれる節もあったような気がする」と述べている。」
*宮崎繁樹「交戦権について」法律論叢61巻4=5号(1989年)44頁
篠田氏は、例によって、松本大臣の執筆であることに全く触れていない。
以上のことから、「rights of belligerency」も「交戦権」も、その内容は当初から必ずしも明らかではなかったのであり、その後、憲法学において、「交戦権」の解釈について込み入った議論がなされるようになったのは、不可避だったのだろう。篠田氏はこのような制定過程における議論に全く触れず、自らの主張を支える理由は、「はずだ」「だろう」だけで済ませている。
(4) 憲法9条2項の交戦権否認の法的意義篠田氏がマッカーサーの意図を勝手に推測した結果、出てきた「解釈」がこれである。そして、このような「解釈」について、次のように断言する。「押さえておかなければならないのは、「交戦権」は否認するまでもなく、現代国際法には存在していない概念だ、ということだ。もちろん国内法体系にも存在していない。存在していないものを否認しているのが、9条2項である。なぜそのような不思議な条項があるのかと言えば、現代国際法で禁止されている概念を振りかざして戦争行為を行い、国際平和を乱すことをしない、と宣言しているのが、9条だからである。」(『ほんとうの憲法』242、243頁)
「このことをわざわざ明文化して憲法に入れ込んでいるのは、宣言的条項としての9条の性格に由来するものである。」(244頁)
「国際法で否定された「交戦権」を、あらためて日本国憲法も否定した。何も複雑なことはない。極めて明快な話だ。」(ブログ2017年1月12日)
「交戦権」概念の誕生には、上述のような複雑な事情があるにもかかわらず、篠田氏は、「極めて明快な」結論を下す。この人には、悩みがない。次の国際法学者の高野氏の悩みを深刻に受け止めるべきである。
「憲法九条は「戦争」といい「交戦権」といい、国際法上の概念を用いている。もっとも、戦争や交戦権は、国際法でも、そう簡単明瞭な観念ではない。憲法九条がそれらを一定の国際法的意義で用いているかどうかはもとよりはっきりしない。しかし、それらは国際法上の概念と無関係に用いられているのでもない。そのことは確かであろう。」
*高野雄一「憲法第九条-国際法的にみた戦争放棄条項」宮沢俊義先生還暦記念『日本国憲法体系 第二巻総論Ⅱ』(有斐閣、1965年)109頁
「交戦権」の文言となった沿革をたどれば、篠田氏のように何らの悩みもなく、「極めて明快な」結論を出すのは、何も考えていないに等しい。篠田氏に求められることは、これまでの政府解釈や学問的蓄積を逐一論駁した上で、自身の新たな「法解釈」を述べられることだろう。そのような地道な検証作業を飛ばして、「極めて明快な」結論を下せばよいというものではない。
(5) 交戦権の否認に抵触しない行為「自衛隊が、国際法に従って合法に活動し、武力行使も行う場合、「交戦権」は行使しない。なぜならまずもって国際法がそのような権利を認めていないからであり、次に、憲法もあらためて交戦権が存在していないことを、しつこく繰り返して、確認しているからである。つまり自衛隊が、国際法にしたがって行動する限り、9条2項の交戦権否認条項に抵触することはありえない。」(『ほんとうの憲法』244頁)
言い切った。「フルスペックの集団的自衛権行使」も、安保理決議に基づく武力行使も、合憲という篠田氏からすれば、当然の結論だろう。
「国際人道法を適用すると交戦権を行使したことになる、国連も日本国憲法九条二項の「国の交戦権」を行使している、といった話は、国際法体系を無視しているという意味で、暴論です。しかしそれだけではありません。国際人道法の発展に尽力に努力してきた無数の人々の努力、国際人道法を日本にも浸透させようとした藤田先生のような偉大な先人のご努力も踏みにじるようなものだという意味で、暴論です。」(ブログ2017年1月12日)
だが、「表情からにじみ出る人格の深さを持ち合わせており、私のような者に、同じ学者という職業を持っていることに喜びを感じさせてくれるような、素晴らしい方」「人格的にも優れた卓越した研究者」(ブログ2017年1月12日)と篠田氏が称賛する国際法学者の藤田氏はいう。
「かかる戦争放棄条項を取り去るような改憲の動きは、単に戦争権(交戦権)、集団的自衛権を認め、軍備の増強を促すだけでなく、それと引き換えに、民主主義体制やその下の人権保障を掘り崩す結果をもたらすことになろう。日本の外交政策も、軍事行動を本務とする自衛隊の派遣という選択肢をとるより、諸国が戦争放棄と軍縮の憲法をつくるように働きかけることこそ、ひいては日本の独立と安全の維持にも必要かつ有効な方法ではなかろうか。」
*藤田久一「国際法と憲法の調和-イラクへの自衛隊派遣問題から9条を考える」ジュリスト1260号(2004年)161頁
自己の正当化を図るためなら、亡くなられて反論の機会を奪われている学者でさえ錦の御旗にたて、しかも、藤田氏の見解を曲解しているという篠田氏の態度は、研究者として倫理的に問題ではないか。憲法学をここまで侮辱するというのは、論法として非常に悪質であり、常軌を逸している。
6 憲法9条改正について「9条は宣明的条文なのである。」(『ほんとうの憲法』231頁)
篠田氏は、9条は国連憲章と全く同じことが書いてあるのだから、あってもなくても同じである、という主張を唱える。したがって、篠田氏の主張によれば、9条を削除しても、法律上は何ら変化が生じないことになる。
「9条の内容は、国際法を遵守することで確保できることが確定しました。よって削除してもかまわないと考えています。」日経ビジネス「私の憲法改正論」(2017年9月13日)
9条が国連憲章の確認規定であるという常軌を逸した主張の結論であるから、当然常軌を逸している。篠田氏の自称「憲法解釈」に憲法研究者が見向きもしないのは、自称「平和構築の専門家」による無責任な発言に篠田氏が見向きもしないであろうことと同じである。
自衛隊を憲法に明記する安倍首相の改憲案について、「妥当な改憲案」という篠田氏の改憲案がこれである。
「もし9条3項を創設して自衛隊の合憲性を明確にするのであれば、簡易に次のような規定だけを入れればよい。
「前2項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」」(『ほんとうの憲法』244、245頁)
この手の改憲案に対しては、すでに「安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」―明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける」において批判したので、そちらを参照されたい。
だが、篠田案で特異な点は、篠田案が自衛隊の合憲性を「明確にする」規定では断じてない、ということである。篠田案は、氏の常軌を逸した9条解釈を前提にしたものであるから、現在の政府解釈により認められている自衛隊による武力行使の範囲をはるかに逸脱しており、米軍クラスの軍隊すら保持できる内容である。これで自衛隊員から死者がでないという方がおかしい。
ポイントは、「9条の目的にそった軍隊」を禁止しないとしている点である。篠田氏のいう「9条の目的」は、次の通りである。
「9条が目指す目的とは、前文で説明されているとおりのものだからだ。一言でいえば、国際法秩序の遵守を通じた、平和である。」(『ほんとうの憲法』237頁)
「憲法9条の目的は、「正義と秩序を基調とする国際平和」だが、それはGHQ起草の前文と結びついている。前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意が表明されている。つまり日本国民は、「平和を愛する諸国民の正義(justice)と信義に信頼」をして、自らの安全と生存を保持することを決め、9条を定めた。・・・合衆国憲法が確立する「正義」を、日本国憲法が「信頼」する、という論理構成が、そこに厳然と存在している。これは何ら特異な解釈ではないはずだ。・・・いったい誰が、アメリカの「正義」を「信頼」することなくして、日本が自国の安全を確保できる、と夢想できただろうか。・・・実際に日本はその後70年間、アメリカ合衆国の「正義」を信頼して、自国の安全を確保してきた。これは今や解釈の問題ですらない。世代を超えて継承されてきた一つの現実である。・・・アメリカ合衆国こそが日本に信頼されるべき「諸国の正義」を代表する国だと考えていたことは、自明だと思っている。あとは日本人が、それを「信頼」するかどうかである。・・・今日のほとんどの日本人の間では、日米同盟体制の運用の方法をめぐる議論はありえても、同盟を「信頼」すべきか否かの議論はないように思う。「正義への信頼」こそが、日本国憲法の命である。・・・9条を「目的」に沿って解釈し、前文で謳われている仕組みに沿って理解するべきだ。そうすれば、日本国憲法が70年にわたる日本の安全保障体制の現実を説明するテキストであることを、思い知ることになる。・・・前文で謳われている「正義」への「信頼」を取り除くのは、おそらく日米同盟を日本の国家政策の基軸から取り除く抜本的な改変のときだけだ。」(ブログ2017年05月17日)
これを読めば、篠田氏は9条の目的は前文で説明されている「国際法秩序の遵守を通じた、平和」といっているが、その実は「アメリカの正義」が濃厚に読み込まれている「国際法秩序」である。篠田案は、実質的には、「国連憲章又はアメリカの正義に沿った軍隊を禁止しない」ということである。これは、他国と同様の軍隊を持てると言っていることに等しい。9条は国連憲章の確認規定という篠田氏の主張からすれば、当然の結論である。
なお、篠田氏は「広島には思い入れがある」(ブログ2017年08月07日)そうであるが、篠田氏は、自衛隊の合憲性を明確にする改憲を主張しており、次の政府解釈によれば、自衛のための核兵器の保有も合憲であるから、自衛のための核兵器の保有も可能と解するのでなければ筋が通らない。
第71回国会 参議院予算委員会 昭和48年(1973年)3月20日○吉國一郎内閣法制局長官 お答え申し上げます。
憲法第九条では、始終政府では解釈を申し上げておりますが、自衛のため必要最小限度の範囲内の実力を持つことは禁止されておらない。そこから、わが国民の生存と安全を守るために、自衛のための正当な目的の限度内のものであれば憲法上持つことができるということになっております。攻撃的か防御的かということは判定は確かにむずかしいと思いますけれども、理論上の問題といたしまして、自衛のための正当な目的の限度内の核兵器というものがありとするならば、この点につきましては、従来、岸内閣時代におきましても、たとえば当時の、私のもとのもとの前任者でございます林修三氏が答弁をいたしておりまして、将来科学技術の進歩によって、非常に小型な核兵器であるとか性能が非常に弱いような核兵器というものがもし開発されるとするならば、そのようなものは防御的な核兵器と呼ばれるのではないか、そういうものについては憲法上持つことは禁止されておらないということを申し述べております。現段階におきましては、これはたとえば核地雷というものが開発されておるそうでございます。私は技術的な見解については十分な知識を持っておりませんけれども、核地雷というものは、これは防御に専用されるものであるということは専門家によって言われております。そういうようなものにつきましては、憲法上その保有が禁止されておるものではないということでございます。
特に、篠田氏の9条解釈は、「国連憲章の確認規定」でしかないのだから、国連憲章は核兵器保有を禁止していない以上、核兵器保有も認めるとしなければ、筋が通らないだろう。
なお、自衛隊を明記する改憲案の問題点はここにある。政府解釈は自衛のための核兵器を合憲とするが、「安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」―明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける」で述べたように、核兵器はどうみても「戦力」に該当する。しかし、「自衛力」が明記されれば、自衛のための核兵器の保有が憲法上許容されることになる。自衛力の明記をしなければ、9条2項の「戦力」不保持規定を根拠に、自衛のための核兵器も保有できるとする政府解釈はおかしいと批判できるのに、自衛力を明記してしまったら、もはや自衛のための核兵器を保有できるとする政府解釈を批判する法的な根拠を失ってしまうことになる。自衛隊の明記は、核兵器の保有を禁止する憲法上の根拠が失われることでもある。自衛隊の明記は「現状維持だから安心」ではない。維持されるというまさにその「現状」に危険な内容が含まれているのである。
第165回国会 衆議院総務委員会 平成18年(2006年)11月28日○安倍内閣総理大臣 憲法上の解釈について言えば、従来からの政府の見解どおりでありまして、純法理的な問題として申し上げれば、我が国が自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法第九条によっても禁止されているわけではなく、たとえ核兵器であっても、仮にそのような限度にとどまるものがあるとすれば、それを保有することは必ずしも憲法の禁止するところではないと、政府として従来から解釈として申し上げてきているとおりであります。
一方、先ほど申し上げましたように、政策論として非核三原則を堅持するということを私は既に総理として申し上げております。そしてまた、法律によって、原子力基本法、また条約上においても禁じられているということは明確であるということは申し上げておきたいと思います。
安倍首相も、自衛のための核兵器の保有は合憲であるとし、「政策論として」非核三原則を堅持すると答弁している。政策論であるから、政策を変えれば、自衛のための核兵器の保有は憲法上可能なわけである。集団的自衛権の行使を禁止する憲法解釈を平然と変更した安倍首相である。非核三原則という「政策論」を変更しないという保証は全くない。自衛力を明記する改憲を許せば、核兵器の保有を禁止する最後の法的な砦である9条2項の戦力不保持規定は葬り去られてしまうことになる。くどいようだがこのことを意識していただければと思う。
篠田氏は、「前文で表明されている目的にしたがって9条を読むならば、国際法で合法とされる(個別的・集団的)自衛権と集団安全保障を、9条1項があえて違憲とするはずはないことがわかってくる。」(39頁)と主張するので、篠田氏の改憲案でも、「国際法で合法とされる(個別的・集団的)自衛権と集団安全保障」を認めるものと考えられる。
そうなったときの帰結は、集団的自衛権行使と集団安全保障としての武力行使の箇所で述べた通りである。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争への自衛隊の参戦もできる。
このような改憲案を認めてよいのだろうか。「表情からにじみ出る人格の深さを持ち合わせており、私のような者に、同じ学者という職業を持っていることに喜びを感じさせてくれるような、素晴らしい方」「人格的にも優れた卓越した研究者」(ブログ2017年1月12日)と篠田氏が称賛する国際法学者の藤田氏は、次の見解を示す。
「かかる戦争放棄条項を取り去るような改憲の動きは、単に戦争権(交戦権)、集団的自衛権を認め、軍備の増強を促すだけでなく、それと引き換えに、民主主義体制やその下の人権保障を掘り崩す結果をもたらすことになろう。日本の外交政策も、軍事行動を本務とする自衛隊の派遣という選択肢をとるより、諸国が戦争放棄と軍縮の憲法をつくるように働きかけることこそ、ひいては日本の独立と安全の維持にも必要かつ有効な方法ではなかろうか。」
*藤田久一「国際法と憲法の調和-イラクへの自衛隊派遣問題から9条を考える」ジュリスト1260号(2004年)161頁
この藤田氏の問いかけに、篠田氏はまったく逆の結論を提示しているのである。
Ⅶ 連載を終わるにあたって以上で、ひとまず篠田英朗氏による憲法学および憲法研究者への難癖に対する応答を終える。ここまでで連載初回で想定した字数をはるかに超え、80000字(200字詰め原稿箋で400枚)になった。論点を絞りに絞った4回連載でこの量である。本当はまだまだ常軌を逸した主張はあるのだが、これ以上は付き合いきれない。正直いって、『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』を読むのは難行だった。「意に反しない苦役」だった。同業者も同じ思いだろう。憲法学固有の概念や憲法をめぐる問題について、それぞれの憲法研究者が独自のタームでそれを表現するような場合でも、その片言隻句に飛びついてかみついてくる。本人の理解は怪しく、概念の定義も曖昧なまま突っ込んでくる。こういう荒れた言葉の速射には、怒りや反発よりも、むしろ「あきれてものが言えない」というのが我々の心象風景に近い。東北大学・清宮四郎門下の樋口陽一氏を「東大法学部系」の学者にカウントする荒っぽさから始まり、「抵抗の憲法学」や「ウグイスの卵」、あるいは「法律家共同体」などの言葉に飛びついて、自分勝手で乱暴な言葉を書きつらねる。「憲法学者は反米主義者」、あるいは「ガラパゴス憲法学」、「法律家共同体の芸人」等々、思いつく限りの悪罵を投げつけてくる。どんなに質の低い批判、ピント外れの批判、難癖の類でも、反復継続してネット空間に発信されれば、中身も読まずにリツイートされて、憲法、憲法学、憲法研究者に対するネガティヴな空気が醸成されていく。どんな嘘、デマでも、それがネット空間に定着すれば、影響力をもつ。まさに「イメージ操作」である。
通常、こういう場合の最も適切な方法は、「完無視」である。美濃部達吉も、蓑田胸喜の狂気のような悪口雑言に対してまともに反論することは控えているうちに、やがて世間の空気はかわり、身の危険さえ心配する段階になってしまった。その美濃部の思いは、連載第2回で紹介した「一身上の弁明」ににじみ出ている。しかも、いまの日本の首相は、安倍晋三という「フェイスブック宰相」である。「ネット世論」を意識する政治を行う安倍首相の場合、篠田氏の登場(カミングアウト?)は大いに歓迎するところだろう。いずれ、『ほんとうの憲法』を、「極めて合理的な説明だ。おそらく少なくない政治学者が感じてきたであろう、違和感がすっきりと表現されている。」と評価する三浦瑠麗氏と同様に、「首相と飯食う人々」の仲間入りをするのだろうか。権力に迎合する「学者公害」のわかりやすい症例と言えよう。
篠田氏の場合、いざとなったら、「自分は憲法の専門家ではない」という「安全地帯」に逃げ込むことができる。こういうのを卑怯というが、バックには、「発行部数だけは日本一」の新聞社がいる。丸の内1丁目1番地の高級ホテルで、「学者には申し訳ない華やかな会」を開催してもらい、本人も素直に舞い上がっているから、安倍政権が今後改憲を進めていくなかで、憲法学や憲法研究者に対する「鉄砲玉」として、しばらくは重宝がられるのだろう。
しかし、ここまでである。私が沈黙を破って、篠田氏の難癖に対して徹底した批判を加えたので、彼の少なくとも「憲法論」についての使用価値はかなり落ちたのではないか。私は篠田氏と「論争」する気はない。なぜなら、学問内在的な批判ではなく、相手の学位取得の有無や、出身高校まで細かくあげつらって相手を貶める人物とは、学問的な論争は成立しないからである。これにて、篠田英朗批判は打ち止めとする。
連載第1回:「9条加憲」と立憲主義
連載第2回:「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか
連載第3回:憲法前文とその意義
連載第4回(今回):憲法9条をめぐって