半年ぶりの「わが歴史グッズの話」である。前回は、「共謀罪」に関連して特高警察についての資料を紹介した。今回は象徴天皇制を象徴するグッズを紹介しよう。
3人の「東宮」(皇太子)の結婚についての新聞(号外)が研究室の奥に眠っていた。右側の写真は、1959年の朝日新聞創刊80周年のときに配布された「皇太子殿下 御成婚慶祝」のなかにあった、大正天皇が皇太子(東宮)の時の結婚を知らせる『東京朝日新聞』1900(明治33)年5月11日付である。5月10日に「東宮御婚礼」の儀式が行われたことが書かれている。また右側には、同時に配布された、昭和天皇の皇太子時代の婚礼を知らせる『東京朝日新聞』1924(大正13)年1月26日付の写真も挙げている。この大正と昭和の二人の皇太子の婚礼に際しての紙面は古色蒼然たる内容である。これと比べて、現・明仁天皇の皇太子時代の結婚の扱いはかなり異なっていた。
冒頭左側の新聞紙面は、皇太子の結婚が決まったときの『朝日新聞』1958年11月27日付の号外「皇太子妃決まる」である。この日午前に開催された皇室会議の議長は岸信介首相で、議題は「皇太子殿下と正田美智子さんの婚約について」だった。号外の縦見出しには「初めて民間から」「壁を破った「人間皇太子」」とある。「「この問題だけは私の意志を尊重してほしい」という積極的なお気持ちが・・・いくえもの壁を貫き、今日の実を結ばせた。いままでの皇室にありがちな、くだいて食べやすくしたものを口まで運んでもらう「スプーン・フィーディング」の生活におぼれていたら、あるいは人形のように、ご自分の意志さえ表明できなかったに違いない」。ここから「ミッチーブーム」が始まる。
これは皇太子結婚の際の記念絵皿である。かなり普及したようで、私の研究室の奥にもあった。同時に、記念切手も発売された。拡大してみると、1959年4月20日の宮内庁郵便局消印がついた形で販売されていた。絵皿や切手がどのくらい売れたのか確かな数字は不明だが、「ミッチーブーム」は一つの社会現象になった。これを「大衆天皇制」というキーワードで分析したのが松下圭一の「大衆天皇制論」(『中央公論』1959年4月号)である。日本国憲法の象徴天皇制が、高度経済成長と「大衆社会」状況のなかで新たな機能を開始した点に着目したわけである(松下圭一『戦後政治の歴史と思想』(ちくま学芸文庫、1994年)参照)。その際、メディアの役割が決定的だった。大正天皇と昭和天皇が結婚した際の新聞報道は本当に限られたものだったが、明仁天皇の皇太子時代のときは、スターへのあこがれと熱狂にも似た「究極のミーハー」ともいえる機能を果たしていく。写真のなかにある『週刊朝日』2009年4月17日号は、「ミッチーブーム」から始まる半世紀が描写されている。「メディア天皇制」という切り口から見ていけば、1993年1月6日に発表された徳仁皇太子と小和田雅子さんの結婚とその報道はまさにそうだった。結婚の儀の平均視聴率は30.6%(NHK中継)に達し、さらに結婚祝賀パレードには約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録したという。まさに「メディア天皇制」ともいうべき現象となっていく(天野恵一『メディアとしての天皇制』(インパクト出版会、1997年)参照)。
そうしたなかで注目されたのが、「世襲」(憲法2条)に関わる事項である。私人においては最も私事性が強く、およそ声高に、ことさらに語られる問題ではない妊娠・出産が、皇室においては新聞の一面トップ、号外まで出る事態となる。これは当事者には大変なプレッシャーとなる。しかし、憲法がその地位を「世襲」と定めたことにより、皇室における妊娠・出産は天皇の地位の継承をめぐる公的な性格をもつ。
大日本帝国憲法2条が「皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を継承す」となっていたのに対して、日本国憲法は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としか書いていない。日本国憲法では、男子か女子かは憲法事項ではない。また、大日本帝国憲法のもとでは、憲法-法律-命令という「国務法」体系と、皇室典範-皇室法令という「宮務法」体系という二元主義が存在したが、日本国憲法下の皇室典範は、国会の単純過半数で議決できる法律となった。したがって、皇位継承の原因、資格、順位などについてはすべて皇室典範の改正で対応できるのである。天皇の生前退位も、女性天皇についても同様である。安倍首相が天皇の意向を無視して、今回限りの特別法にこだわったのも、皇室典範の改正でやれば、女性宮家の創設(女性天皇への道)につながるという「危惧」があったからだろう。
画面左側に二つの写真がある。そのうち右にあるポートレート写真は、日本国憲法が公布されたときの記念の写真である。タイトルを見ていただきたい。「発布」となっている。大日本帝国憲法は「発布」であり、「憲法発布勅語」も出されているので、その感覚で日本国憲法も「発布」とされたのかもしれない。つくった人の明治憲法的感覚がここに示されている。他方、憲法施行の日、1947年5月3日はおりからの雨のなか、皇居前広場の記念式典では、昭和天皇は左手にこうもり傘をさして民衆の前に立った。左側にある新聞の写真はその時の様子を伝えた時のものである(『時事新報』1947年5月4日付)。「群衆のなかからバンザイの声があがり、天皇は、ソフト帽をとって民衆に応えた。「帰路、御料車は人々にもまれ、バンザイの波は車が群衆の視界から消えるまで、何度も繰り返された。翌日の毎日新聞紙面。「それは『象徴』天皇の文字にふさわしい光景だった」と記者は描写している。」とある。
とはいえ、1988年秋から翌年にかけて、昭和天皇の「死」を待つ長い過程は、「自粛」という形での社会的停滞を生んだことは記憶に新しい。右の写真は1989年1月7日、昭和天皇が死去した時の号外である。いまも鮮明に覚えているが、新札幌の大型量販店に車で肉などを買いにいってもどると、自宅の電話の留守録に、北海道新聞記者からコメントを求めるメッセージが入っていた。「崩御」という言葉は日本国憲法下ではふさわしくないと、沖縄の地元紙2紙はこれを使わず「ご逝去」とした。北海道の『苫小牧民報』も「ご逝去」としたが理由は不明である。これらの号外は、当時勤務していた札幌学院大学の水島ゼミの学生諸君が、札幌大通り公園などをまわって入手してきてくれたものである。『苫小牧民報』は新聞社に電話して送ってもらった。この問題についての私のコメントは、8日付の『北海道新聞』に掲載されている。
象徴天皇制をどう評価するか。私自身、この30年近くの間、さまざまに思考してきた。30代で出した『ザ・象徴天皇制』(日本評論社、1989年)の記述と、昨年出した『18歳からはじめる憲法(第2版)』(法律文化社、2016年)との間では、微妙な違いが読み取れるだろう。これは、前回の直言「天皇退位めぐる法と政治―安倍流権力私物化はどこまでも」でも指摘したように、「昭和天皇は20年間、大日本帝国憲法下の「大元帥陛下」だったわけだが、現天皇はその30年あまりの在位は100%日本国憲法の下での象徴天皇ということになる。つまり、いまの天皇のもとで「純粋象徴天皇制」が完成したとみることもできる」という認識がある。2019年には、「純粋象徴天皇制」の初の代替わりが行われることになる。
上記の「直言」でも指摘したように、新天皇の即位をめぐる儀式について、「現天皇は素なものを望んでいるというが、それは単に費用的なものだけでなく、自らがかかわった昭和天皇からの代替わりのときとは違った形、すなわち、純粋象徴天皇制らしい形を考えているのではないか。安倍首相(背後にいる日本会議など)は限りなく戦前型の天皇を求めているので、そこでも現天皇が描く「天皇像」とは距離が出てくる」という問題が今後、具体的に浮上してくるだろう。その際、昨年8月の生前退位についての意向表明の際、天皇が「象徴」という言葉を繰り返し使い、日本国憲法のもとでの象徴天皇を「守り続ける責任」ということを述べたことは重要である(直言「象徴天皇の「務め」とは何か―「生前退位」と憲法尊重擁護義務」)。「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」も強調したが、それを不安定にしているのが、安倍首相の自民党「改憲草案」が予定する「天皇元首化」の方向である。これは美智子皇后の危惧することでもある。
アーミテージ元国務副長官やラムズフェルド元国防長官への勲章授与も、安倍内閣の「助言と承認」(憲法3条)による恣意的な政治利用のあらわれである。権力私物化的傾きが著しい安倍首相とそのご一党(自民党とは区別される)の場合、今後とも天皇・皇室の政治利用の可能性は否定できない。天皇は「日本国の象徴」であると同時に、「日本国民統合の象徴」(憲法1条)である。47都道府県の「統合の象徴」でもあるわけで、沖縄県が「屈辱の日」として抗議する日を「主権回復の日」と称して、そこに天皇・皇后を列席させた愚行も安倍首相の「傲慢無知」の罪深さの一つである。
まだ研究室には天皇関係のグッズがたくさんあるが、東日本大震災のときに研究室の本が崩落して以来、資料の整理がめちゃめちゃになってしまいまだ十分整理できていないので、またいつか資料の山の奥から見つかったら、「その2」として紹介したいと思う。