先週、2月5日は、ドイツのメディアが注目した日付だった。10315日。「28年と2カ月と26日」、あるいは「28年と88日」という言い方もある。1961年8月13日(日)から1989年11月9日(木)までの「壁」存続期間が、この2月5日で、「壁」崩壊後の期間とちょうど同じになったという。よほど数字にこだわりのある人でない限り、なかなか気づかないだろう。私がこれに注目したのは、「「壁」の28年と「壁崩壊」の28年」について、ドイツの新聞各紙が特集を組んだからである。例えば、Frankfruter Allgemeine紙は5日付で、「直ちに、遅滞なく!」というタイトルの長文の論説を掲載した。歴史を動かした「午後6時53分の失言」。そのG.シャボフスキー(旧東独党(SED)政治局員)の記者会見時のメモの写真がそこにある。記者の質問に動揺して乱れる文字が印象的だ。また、Frankfurter Rundschau紙4日付には、冒頭左の写真が掲げられ、「ベルリンの壁は、それを建設した人々が考えたほど長くはもたなかった。」として、「万里の長城」以来の「壁」をつくる側の論理について触れながら、「壁」崩壊の日に大統領に当選したトランプが、エルサレムの「嘆きの壁」の前に立つ絵(パレスチナ自治区のベツレヘムの壁にある)を掲げている。
「直言」では、節目、節目で「壁」とその崩壊について書いてきた。例えば20周年の時に。25周年には今どきの学生の考えについても述べた。安保法案をめぐる国会前集会での私の5分間スピーチをとらえて、「デモでベルリンの壁が崩れたという水島は嘘つき」という私への論難が「フェイク新聞社」のサイト(iRONNA)に掲載され、ネトウヨのなかに拡散したことがあるが、それに反論する意味を込めて「壁」崩壊について論じたこともある。トランプ政権の誕生による「壁」思考の再来についても述べたが、これは『朝日新聞』の特集記事にアイデアを提供することになった。
「壁」崩壊後の期間が「壁」が存在した期間と同じになったいま、28年間、自明のように語られてきた「ボーダーレス化」や「グローバル化(グローバリゼーション)」という言葉の陳腐化は著しい。一国主義(アメリカ・ファースト)、孤立主義、軍事優先主義、核抑止から「核用意」への転換が生じている。「宗教的・民族的同質性、文化的「無比性」、過去の実際上あるいは想像上の屈辱に報復するという欲求に根ざしたハイパー・ナショナリズム」に依拠した権威主義的指導者が増大している(Die Welt vom 16.12.2014)。エルドアン・トルコ大統領、プーチン・ロシア大統領、そして安倍首相である。3年前にこの保守系紙が掲げたのは3人だったが(冒頭右側の写真参照)、ここにトランプが加わった。ハンガリー、チェコ、ポーランドの指導者もこの系列に属し、オーストリアも最近これに加わり、「壁」崩壊から28年あまりで、ヨーロッパの東半分はこのような権威主義的政権によって統治されるに至った(「東欧諸国に寄せる「ファシズム」の波―EUを分断する「新たな鉄のカーテン」」『選択』2018年2月号28-29頁)。その統治の特徴は「ハイパー・ナショナリズム」、立憲主義の敵視(権力強化のための憲法改正と司法への介入)、メディア操縦、教育への介入である。 日本の場合、安倍政権が6年目に突入した。この政権は欧州やトルコの政権の権威主義的政権の特徴をすべて具備している。何度も指摘しているが、安倍流統治には5つの手法がある。すなわち「情報隠し」、「争点ぼかし」、「論点ずらし」、「異論つぶし」、そして「友だち重視」である。
「情報隠し」は、歴代政権に例を見ない執拗で徹底したもので、隠していることが明白にわかっても堂々と居直る姿勢が特徴的である。特定秘密保護法という「究極兵器」を保持するとともに、立憲主義敵視、国会軽視・無視は過去のどの政権にもない危険水域に入っている。教育への介入の執拗さも特筆される。「争点ぼかし」と「論点ずらし」を組み合わせて、「モリ・カケ・ヤマ・アサ・スパ」の五大危機を巧みに乗り切り、低投票率を維持して国政選挙を制覇し続けている。
安倍政権はメディア操縦に成功し、「フェイク政治」を普遍化させている。第二次政権が発足してまもなく、直言「SF政治(催眠政治)にご用心――アベノミクス」とTPP」をアップした。そこでは、高齢者などに羽毛布団や高額商品を売りつける「SF商法」(催眠商法)から類推した「SF政治」という言葉で安倍政権を特徴づけたが、その際、次のように指摘した。「催眠術の手法は政治の世界にも浸透している。「SF政治」(催眠政治)である。時には甘言を弄し、時には脅迫的言辞を伴い、表に裏に、陰に日向に、人々に特定の政策を刷り込んでいく。なぜ、人々の生活にとって有益なのか。それが問題解決にとって有効なのかといった検討は脇に追いやられる。とりわけ「バスに乗り遅れるな」は、「SF政治」(催眠政治)の常套句である。それを無批判に垂れ流すメディアの責任は重い。」と。「アベノミクス」は、この「SF政治」(催眠政治)の典型といえるだろう。
いま、この5つの手法を憲法改正に応用している。安倍首相は憲法改正について問われれば、ある時は「国会でお決めになることです」といって逃げ、ある時は自らの改憲論を前面に押し出し、「いよいよ実現する時を迎えている」と前のめりになる。憲法をめぐる論理も法理も投げ捨てて、ただ自らの手で憲法を変えたという実績だけを狙うかのごとくである。改憲が自己目的化されているとしか思えない。昨年5月に「9条加憲」を提唱してから、国会答弁では「9条を改正しても自衛隊について何も変わらない」と言い続けている。議員任期の延長についての憲法改正の議論も「フェイク改憲」である(直言「議員任期延長に憲法改正は必要ない」)。安倍首相の「無知の無知」の突破力はすさまじい。
この5つの安倍流統治手法が全面的に展開されたのが、2月4日投開票された名護市長選挙だった。米軍普天間飛行場移設計画を事実上容認する前市議の渡具知(とぐち)武豊氏が、この計画に一貫して反対を続ける現職の稲嶺進氏を破って初当選した。20389票対16931票で、3458票の大差だった(投票率76.9%)。前回の2014年はほぼ同じような投票率(76.7%)で、現職の稲嶺氏が19839票、対立候補は15684票で、4155票差だった。この逆転はどのようにして生まれたのか。
基地移設をめぐって二つに割れた前回の選挙戦を教訓として、自民党は基地移設を争点としないという狡猾な戦術をとったため、公明党が自主投票から推薦にまわることができた。名護市における公明党票は2000票程度とされ、昨年10月の衆議院選挙(比例区)では過去最高の5700票を得たという(『東京新聞』1月5日付)。表面的にみれば、この公明党支持層の移動が大差の原因とみることもできよう。だが、沖縄テレビ放送(OTV)の出口調査によると、年齢別の投票行動がはっきりと出ている。60代以上は圧倒的に稲嶺支持(戦争体験世代は7割前後)であるのに対して、50代以下は渡具知支持が6割前後だった。18歳選挙権で10代は63%と世代別で最高となった。これは公明党が支持にまわったというだけでは説明がつかない。
今回の選挙戦で自民党は徹底した「争点ぼかし」と「論点ずらし」の戦術をとったが、それを示す例として、自民党が作成した「応援メモ」という内部文書が重要である。応援に入る国会議員などへの指示書とされ、その最後には大きな文字で、〈NGワード…辺野古移設(辺野古の『へ』の字も言わない)〉とある。〈オール沖縄側は辺野古移設を争点に掲げているが、同じ土俵に決して乗らない!〉〈普天間基地所属の米軍機の事故・トラブルが続く中でも、『だから一刻も早い辺野古移設』などとは言うべきではない〉等々。見事なまでの「争点ぼかし」である。渡具知候補は辺野古移設の賛否を明らかにせず、公開討論もすべて拒否したという。自民党幹部や小泉進次郎議員なども、基地問題については一切語らず、もっぱら子育て支援などの生活問題に焦点を絞った。三原じゅん子議員に至っては、名護市のゴミ袋の値段の高さを批判したという。市指定ゴミ袋は45リットル入りが10枚で540円と確かに高いが、ゴミ処理費の一部を袋代に上乗せしたという事情もあるようだが、そんなことおかまいなしで、自民党議員たちは稲嶺市政を攻撃した。政府は在日米軍再編交付金を稲嶺市政には交付せず、選挙後すぐに、菅義偉官房長官は30億円を名護市に交付すると表明した(『毎日新聞』2月8日付)。兵糧攻めをしておいて、自分たちの候補が勝てば一気に金をばらまく。何ともさもしい政治手法であるが、10代、20代、働き盛りの人々は雇用や生活のために渡具知候補に投票した。「争点ぼかし」と「論点ずらし」が見事に成功したわけである。
これまで一貫して沖縄に対する安倍流統治は「力の政治」が中心だった。7年前の沖縄防衛局長の差別発言(沖縄を女性に例えた)もひどかったが、安倍首相の勘違いがこうじて、「主権回復の日」の行事を天皇まで巻き込んで行い、沖縄の猛反発を招いたことは記憶に新しい。オスプレイ沖縄配備の背後にある思想と、沖縄に対する米軍の植民地意識。沖縄に関する歴史グッズから見えてくるのは、沖縄に対する構造的差別と「永遠の暫定性」の思想である。
直言「辺野古移設はあり得ない(2)」でも書いたように、県内のどの世論調査でも普天間基地の閉鎖・撤去を求める声は8割に達しており、辺野古移設賛成は10%にすぎない。名護市民に基地の移設を問えば、圧倒的多数が反対と答える。では市長選挙でなぜ基地反対派は負けたのか。その秘密は20年前の名護市住民投票と名護市長選挙にある。
1997年12月、辺野古移設を正面から問うた名護市住民投票で、市民の過半数が基地移設に反対を表明した。だが、その直後の市長選挙では基地反対派の候補が負け、助役の岸本健男氏が当選した。
20年前、名護市民は明確に基地「ノー」の意思表示を行った。基地についてはもう意思は表明したとして、市長選挙で名護市民は政府とのパイプを主張した岸本建男氏を市長に選んだ。岸本氏は、選挙の半年後に、水島ゼミ1、2期生が市役所で取材すると、「私は基地賛成派ではない」などの本音をストレートに語った。今回の渡具知氏もまた、基地の是非については、市民に正面からは問うていない。市民もまた、基地移設賛成だけで渡具知氏を選んだ人はそう多くはないだろう。若い世代の多くはあくまでも雇用、子育て環境などを判断基準にしたと思われる。だから、政府が、名護市民は基地賛成の市長を選んだとするのは違う。基地については、あえて争点にしないで選挙に勝利したのである。したがって、渡具知氏は市長になっても、基地問題について市民から移設促進の委任を受けたわけではないことに注意が必要だろう。実際、渡具知氏も基地の問題、「辺野古のへの字」も語っていない。
20年前の11月の沖縄県知事選挙で、大田昌秀知事が稲嶺恵一氏に敗れた。私はすぐに直言「稲嶺沖縄県知事の3年前の言葉」を出して、稲嶺知事を政府側にべったりさせてはならず、常に県民とともにあるという立場を貫けるようにすべきだと語ったことがある。名護市長選挙で当選した渡具知氏は基地に賛成とも反対とも表明していない。今後、当然に基地推進派にならないように、20年前の稲嶺知事への対応を教訓とすべきだろう。名護市長選挙で基地移設の是非は争点とはされず、名護市の民意が基地賛成に変わったわけではないのである。